第3話
「貴方に名前をつけないとね」と桐原言った。
「名前、ですか。名前ならあるけど」
「この世界で実名なんて使えば、どうなるかわかる?みんな仮名を使うの。源氏名とも言うけれど、貴方は男だからね。まぁ、どちらでも良いけど」
桐原は僕の顔をじっと見る。
「意外に幼くて、それでいて美形。そうね。『源氏名』って言うぐらいだから、『
「『光』です、か」
「そう。かの有名な色男、光源氏その名よ。良いんじゃないかしら。私はぴったりだと思うけど」桐原は満足そうにしている。
僕はよくわからない中で、桐原の言葉に乗せられながら、あれよあれよと話は進んでいく。
「とりあえず、明日お昼の12時にここにきて。それまでの最初の客を用意しておくから。服装とか、そう言うのは全部こちらがやるからさ」
そう言って桐原は財布から二万円を取り出し、僕のポケットの無造作に入れた。
「これがお金。あんたが今日私に買われたでしょ?その対価。今日はこんなもんだけど、明日からはもっとお金が入るよ。これがこの世界さ。やることやればお金が入る。でも、その全ては他言無用。これがルール。これが守られる限り、私と貴方、そう、光は無事だし、何も怖いことは起きない。ただ、光みたいな小さい子が何万円も持ち歩いていると変だからさ、そこだけ使い方を注意しなさい。とりあえず、色で三千円も渡しておくから、今日はそれでご飯でも買って帰ってゆっくりしなさい」
桐原はそう言って僕をビルから追い出そうとする。僕は、また、この怖い道を通って家に帰らなきゃいけないのか、そう思うと少し怖くなった。
「なんだ、家に帰らないの?それとも家がない?」桐原は僕に聞いてきた。
「家は、あります。お父さんとお母さんが残していった家が。でも、何もないし、これから帰るのが怖いんです」
僕は素直に答えた。
桐原は、頭を抱え、「どうするかなぁ」と呟いた後、
「いいや、今日はここに泊まりな。私がご飯を買ってくる。でもさ、それは今日だけだよ。明日はちゃんと自分の家で寝なさい。私だって家があるし、そっちで寝たいからね」
そう言って、桐原はビルを出ていった。
改めて、事務所の周りを見渡す。小さな一室に必要最低限のものだけが詰め込まれたような部屋の構造は、桐原が行っている仕事の違法性を感じざるを得ない。でも、僕にとっては、なんだか「生きる」第一歩のような気がして、少しだけワクワクしているところもあった。
カップ麺を二つ買ってきた桐原は、すぐさまお湯を沸かして、作り出す。僕は黙ってソファに座っていた。
幾分かの沈黙の後、桐原は呟いた。
「貴方が、どのような家庭環境の中で育ったのか、それとも捨てられたのかは知らないし、興味すら湧かない。だから、話す必要もない。この世界にはね、過去は不必要なんだよ。あるのは現在だけ。実はね、未来なんて存在しないんだ。私たちが勝手に『そうあるだろう』と考えて夢想しているだけのものなんだ。今を生きる私たちにあるのは、カップ麺を作って、食べようとしている女と少年がいるこの一室の空間だけ。そこに私たちは「生きて」いる。過去なんて、未来なんてどうでも良いんだ。今「生きる」こと、それだけが私たちを私たちたらしめている。そう考えるとさ、少しだけ、荷が軽くなるんだ。私に泣きつく女の子たちにはこんな話をするんだ。光には少し難しいこともしれないけどね」
確かに僕には少し難しかった。でも、桐原が僕を励まそうとしていることはわかった。初めての経験だった。誰かが僕に向かって声をかける。それが僕のためだけに向けられていること、それが僕は本当に嬉しかった。
出来上がったカップ麺を二人で啜る。ズズズと言う音だけが小さな部屋に響いた。化学調味料の味がなんだか今日だけは暖かな味に感じた。
食べ終わると、桐原は毛布を出して僕にかけてくれた。
「明日から仕事だよ。今日はゆっくり寝なさい」
そう言って、桐原は反対側のソファに座る。
「おやすみなさい」
そんな声が聞こえた。久しぶりの「おやすみなさい」だった。
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