「グラウンドの中の君」

「ごめん…マリちゃん…」

 稲妻に照らされた弟はびちょびちょで、床に滴る液体には、赤が混じっていた。

「…やっちゃった」

 薄暗がりの中でそう呟いた彼がどんな表情をしていたのか、私は見ていない。


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「おはよう、真理太」


 窓から光が射し込む。

 顔をしかめながら、体を起こすと、母が笑っていた。

「早くしないと、遅刻するわよ」


「…ありがと、ママ」

 私は、朝の支度に時間がかかる。他の男の子よりも…。


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 朝食はいつもと同じ、トーストとハムエッグ。母は紅茶で、私と父はコーヒーだ。

 そこに、サラダがついたり、果物がついたりするけど、大体同じ。きっと我が家のルーティンみたいなものなんだと思う。

“規則正しい生活が大切”って、お医者様も言っていた。確かに、もうここ数年は二人とも、あの時のように取り乱すことは無くなった。ただ…。

 三人で使うには少し大きい机のサイズに、私は少し胸が苦しくなる。いや、……。

 小さく息を吐いて、母に微笑む。

「コーヒー、おかわりもらって良い?」

 さらしをきつく締めすぎたかもしれない。


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「(…せーのっ)ひろきくーん!」


 グラウンドの方から黄色い歓声が聴こえてきた。

 歓声を集めている松里弘樹は、サッカー部のエースだ。そして、

「おはよっ!藤本!」

 …私達の幼馴染みだ。

 親しげに肩を組む彼の骨張った手に、ドキッとしたのを気づかれないように、笑みを返す。

「…よっ!調子よさそうじゃん!

 モテモテのエースさん!」

「何言ってんだよー!モテモテはお前だろ?

 学園の☆王☆子☆様☆」

 周囲の女の子達が、ニコニコと言葉を交わす私達に意味深な視線を送りながら、嬉しそうにコソコソ話している。それを頭の片隅で聴く私の心は真っ暗な穴のようだった。


 …私、藤本真理は、藤本真理太として、男性として生活を送っている。

 あの日、男であることを切り捨てた双子の弟のために。いや、そのことに傷つき、心を壊した両親のために。


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 弟の優太はトランスジェンダーだった。身体と心の性別が合ってないというヤツだ。優太の場合、男の身体で、心は女の子だった。

 小さいときは、何も問題がなかった。むしろ、私は、女の子である優太を弟というより、親友のように思っていた。

 しかし、成長につれ、優太の歯車は少しずつズレていく。

 小学校に入ると、男女で友だちが分かれるようになった。それでも、彼は私と同じように女の子達と遊んだ。多少男の子からは冷たい視線を向けられていたが、女の子達は“優しい男の子”として受け入れた。


 高学年になる頃、彼の身体は第二次性徴期を迎えた。

 日に日に逞しくなっていく自分の身体を見て、浴室で泣いているのを何度か目にしたのを覚えている。

 あの時、何かしていれば、今とは違う未来があったのではないかと少し思う。でも、私だって、自分の身体のことで精一杯だったんだ。


 そして、彼の感情はあの嵐の日に決壊した。


 詳しいことは聞いてない。

 ただ男の子達と大喧嘩した後、自分の局部を切り落としたらしい。

 救急車の中で、優太の話を聞いた両親は半狂乱に陥った。性器を自切したという衝撃的な事件に加えて、自分の息子がトランスジェンダーだということも、そこで初めて知ったのだ。

 保守的、もとい前時代的な考え方だった二人には、余程ショックだったのだろう。精神病棟に入院することになった。


 私はひとりになった。


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 二人を刺激しないために、優太は離れて暮らす祖父母の元に預けられることになった。

 病院から戻ってきた両親はしばらく人形のような生活を送っていた。食べて、起きて、寝るだけ。

 日中はぼんやり椅子に座っている。

 私のことなんて、見向きもしない。今思えば、優太にそっくりな私を見て、ショックを起こさないための防御反応だったのかもしれない。

 でも、私は寂しくて、寂しくて…。


 ヤケクソになって、男装をしてみた。優太の姿を見て、もう一度入院してしまえばいいと思って…。


 しかし、二人の反応は予想と違っていた。

 私を優太だと勘違いしたのだ。二人の中で、娘の私は体調を崩して、田舎で療養中らしい。ショックだった。結局、自分達の都合の行きことばかり…。

 でも、無視されるよりかは、ずっとマシだった。ただ、ひとつの抵抗として、私は優太じゃなくて、真理太になった…。


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 この学校で私が女だってことは、一部の先生しか知らない。

「松里!トンボかけんのサボンじゃねぇーよ!」

「ちぇっ!バレたか!!

 じゃあ、また教室で!」

 この無邪気な笑顔を向けてくる幼馴染みも、もちろん…。


 初恋の彼と中学で再会したとき、私は心が踊った。

 もしかしたら、私のことを覚えているかもしれない。彼にだけは本当のことを言っても…。

「懐かしー!あれ?

 藤本って、双子のお姉ちゃんいなかった?」


 私を女だと気づくワケなんてなかった。

 当然だ。私が彼を好きだっただけなんだから。


******************************

 教室に着くと、席についているクラスメートはまばらだった。うちのクラスは運動部が多いので、朝練がある人も多いのだ。

 ふと、窓の外へ目をやると、彼が愉しげに騒ぎながら、まだトンボをかけていた。

 どうしようもなく大きな穴が空いてしまったときも、こうやって彼らが埋めるのだろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、今日も私はグラウンドを眺める。

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