第26話 アナの名は世界に広まり、歴史に刻まれる

それからは穏やかで楽しい日々が続いた。

セブンズワース邸で出迎えや見送りをしてくれるアナと話し、時間を見つけてはアナとお茶をする。

何気ない何時もの日常だが、一度その日常を失った私は、それがどれほど貴重なものなのかを知っている。

アナとの貴重なひとときを噛み締めるように、私はアナを慈しんだ。



義母上ははうえから、演劇のチケットを貰った。

聞けば私の汚名返上策だと言う。

私はそのチケットを見せてアナを観劇へと誘った。


「まあ。市井での観劇は初めてですわね。楽しみですわ」


大輪の花が咲くような笑顔でアナは誘いを受けてくれた。


アナはその容姿のために、これまで人のいる場所にあまり出たがらなかった。

市井の劇場に行くのもこれが初めてだ。

それでも観劇の経験は田舎育ちの私よりもずっと豊富だ。

セブンズワース公爵家ともなれば、歌劇や演劇、オペラ、オーケストラといったものは劇場に足を運んで鑑賞するものではない。

劇団や楽団を呼び寄せて自宅の専用ホールで鑑賞するものなのだ。


「ジーノ様」


玄関ホールで待っていたアナは、訪れた私を見つけるとぱあっと輝くように笑う。

今日のアナは市井に下りるということで商家の娘風のシンプルなワンピースドレスだ。


やはりアナは可愛い。

何を着ても可愛いな。

普段のドレスとは違ってくるぶしから先が見えているのを見て、思わずドキッとしてしまう。


この世界の貴族女性は、足を見せることはない。

ドレスで足先まで隠すのが普通だ。

機能性を重視した服を好む平民女性は丈の短いスカートを履くが、それでもふくらはぎを見せることはない。

思わず目がそちらに向いてしまう。


前世で見たミニスカートをこの世界で履いたら、若い女性からは悲鳴を上げられ、母親は子供の目を手で覆って有害人物を子供から隠し、衛兵によって捕縛されるだろう。


「あ、あまり見ないで下さいませ」


くるぶしをじっと見られているのが恥ずかしいのか、アナは真っ赤になってそう言う。


可愛い。

凄く可愛い。


アナの可愛らしさにてられほんわかした気分になるが、凄まじい形相のブリジットさんを見て正気に返る。

不作法だった。

紳士として女性の足を見続けてはならない。


「ああ。すまない。

あまりにも魅力的だったから目が離せなかったのだ」


魅力的なのは自分のくるぶしだと分かったようだ。

アナは余計に赤くなってしまう。


羞恥心は、普段隠している部分を見せることで感じるものだと言う。

胸を服で隠す習慣がある国の女性は人前で胸を晒すことを恥ずかしく思うが、裸同然の格好で暮らす国の女性は見られても恥ずかしく思わないそうだ。

普段は隠すくるぶしを凝視されるのは、前世で言えば水着姿を凝視されるような感覚なのだろう。

申し訳ないことをした。


観劇より前、私とアナは街の散策をした。

私もアナも王都の街には詳しくないので、お勧めデートスポットとしてバルバリエの義兄上あにうえから聞いておいた雑貨屋や宝石店など、いくつかの店舗を巡ってみた。


上級貴族の場合、街の路面店に入ったことがない人もかなり多い。

彼らが買い物をするときは、店に行くのではなく店を呼び寄せるからだ。

アクセサリーなども店にある物から自分に合ったものを選ぶのではなく、自分に合ったものを店に作らせるのが上級貴族の買い方だ。

アナもまた出不精の公爵令嬢らしく路面店が新鮮だったようで、大層可愛らしくはしゃいでいた。


多くの露店が並ぶ王都西市場を歩いているとき、前方を歩く平民女性が恋人と想われる男性の腕にしがみつくように掴まって歩いているのが見えた。


「私もアナとああなりたいものだ」


気を抜いていた私は、つい思ったことを口にしてしまった。

それを聞いたアナは驚いた顔をして、それからうつむいてしまった。


「よ……よろしいですわよ」


うつむいたまま顔を真っ赤にしてアナは私の腕にしがみついた。


貴族女性が異性の体に触れるのは、通常手のひらだけだ。

エスコートを受けるときも手のひらを男性の腕に乗せるだけだし、馬車の乗り降りなどでも男性が差し伸べた手に自分の手のひらを乗せるだけだ。

この世界のダンスは前世の社交ダンスほど密着しないので、ダンスのときだって触れるのは手のひらだけだ。


腕を絡ませ、手のひら以外を接触させるということを普通はしない。

この世界の価値観で見るなら、アナはかなり大胆なことをしている。

アナが自分のためにそこまでしてくれることが嬉しくて、私は一気に天にも上ったような気持ちになった。


お互い恥ずかしいために会話もなく、ただアナが私の腕に自分の腕を絡ませて並んで歩くだけだった。

だが、アナの柔らかさと体温を腕から感じ、アナが確かに隣にいることを実感しながら歩くその気持ちは、幸せという言葉以外に表現が思い付かなかった。


川沿いのレストランで食事をして、時間になったので劇場へと向かった。

市井の劇場に入ったのもアナは初めてで、固定された座席と人の多さを見て興奮していた。


セブンズワース家の劇場では、家人が観たい位置にゆったり座れる椅子や家族並んで座れるソファなどを使用人がセットしてくれる。

このため固定の座席は置かれていない。

親しい貴族と一緒に見ることもよくあるが基本的に鑑賞するのは家族だけだ。

私からすれば、広い劇場に豪華な席が三つだけで、席の近くには飲み物やおつまみが並ぶテーブルが置かれているという方が不自然に思える。

この辺は育ちの差というものだろう。


この劇場には貴族向けの個室観覧席もあるが、今日は敢えて普通の固定座席に座った。

もっとも、護衛や侍従が私たちを取り囲むように座るので、周りに座るのは見知った顔ばかりであった。


劇のタイトルは『ゴブリン令嬢』だ。

もちろん主人公はアナがモデルだ。



◆◆◆◆◆



舞台は主人公の女性であるアナシイの学園時代から始まった。

こぶだらけの覆面を被った少女は、その容姿を理由にいじめられる。

そんなときにいつも助けてくれる男の子がいた。

その少年の名はジノヴァだ。


ただ一人いつも自分の味方をしてくれ、ときどき二人だけで遊んでくれるジノヴァにアナシイは恋をする。

だがアナシイは自分の気持ちをジノヴァに告げるつもりはなかった。


ジノヴァは、美少年であり少女たちからの人気も高い。

対してアナシイは『ゴブリン令嬢』と言われる醜い少女だ。

自分では到底釣り合わないと、アナシイは諦めていた。


やがてアナシイに父親が縁談を持って来る。

だが縁談はなかなか纏まらない。

アナシイを見るなり見合い相手はアナシイを罵り、縁談を断ってしまうのだ。


そんな中、アナシイに縁談を申し込んで来た者がいた。

ジノヴァだ。

アナシイは歓喜した。

だが父親はジノヴァとの縁談を認めなかった。

家格が釣り合わないためだ。


「アナシイと結婚したいなら儂が納得する持参金を持って来い」


アナシイの父親はジノヴァにそう言う。

ジノヴァはアナシイに、必ず持参金を持って来るから待っていてほしいと言って立ち去る。


ジノヴァは商会を設立し寸暇を惜しんで働き多額の金を得た。

そして、それを持参金としてアナシイの父親に婚約を申し込んだ。

父親は渋々アナシイとジノヴァの婚約を認めた。


婚約してからも、アナシイは『ゴブリン令嬢』と罵られていじめられていた。

そんなとき、ジノヴァはアナシイの病気を治す薬の製法が未発掘の遺跡ダンジョンにあるとの噂を聞いた。


ジノヴァは商会の仕事でしばらく留守にするとアナシイに告げ、一人未発掘の遺跡ダンジョンに挑む。

傷だらけになりながらも、ついにジノヴァは薬の製法を手に入れる。

怪我だらけで帰ったジノヴァを見て心配するアナシイ。


「ごめん。転んじゃった」


ジノヴァはそう言って誤魔化した。


それからジノヴァは薬の材料集めに奔走する。

ときにはオークと戦い、ときにはオーガと戦い、傷だらけになりながらも材料を集めるジノヴァ。

そして薬を作ることに成功する。


薬を持ってアナシイの家に行くが、アナシイの父が独り言を言っているのを聞く。


「惜しい。

アナシイが病気じゃなければ王子との縁談をまとめられたのに」


「どういうことですか?」


立ち聞きしてしまったジノヴァは、アナシイの父親に尋ねる。


「言葉通りだ。

もう少しで縁談をまとめられそうだったのに、病気が理由で断られた」


「じゃあアナシイの病気が治ったら?」


「もちろんお前との婚約は破棄して王子と婚約させるに決まってる。

王子とお前じゃ身分が違う。

アナシイだって王族になった方が幸せに決まってる。

死ぬまで贅沢出来て、みんなが頭を下げるんだぞ?

アナシイの幸せを考えれば当然だ。

愛なんて、やがて冷める不確かなものだ。

長い目で見れば王族の方がいい。


そうだ。

そのときはおまえから婚約破棄してくれんか?

お前の浮気でお前からの婚約破棄なら、アナシイの名誉は傷が付かない。

アナシイの幸せを考えれば当然出来るな?」


アナシイの父親の言葉にショックを受けるジノヴァ。


「アナシイの幸せか……」


舞台で一人立つジノヴァはそう呟く。



場面は変わりアナシイとジノヴァの二人が舞台に立つ


「ねえアナシイ。

王子様をどう思う?」


アナシイと二人だけの舞台でジノヴァはアナシイに尋ねる。


「え? 素敵な方だと思うわ」


「じゃあ、王子様からプロポーズされたら?」


「それはもちろん、光栄だと思うわ」


「……そうか」


そう言ってジノヴァは舞台から消える。


「王子様を悪く言うと不敬になっちゃうからああ言ったけど、まずかったかな?

本当は王子様との結婚なんて嫌だよ。

私が好きなのはジノヴァだもん」


舞台で一人立つアナシイはそう独り言を言う。



「アナシイ、君との婚約を破棄する。

そして新たにこのケイを婚約者とすることを宣言する」


皆がパーティの装いをしている中、ジノヴァがそう言う。


「もう私のこと好きじゃないのね?

仕方ないよ。

私『ゴブリン令嬢』だし。

おめでとう。お幸せにね」


祝福はしつつも耐え切れず泣いて帰るアナシイ。

家に帰るとジノヴァからの贈り物でゴブリン病の治療薬が届けられていた。

それを飲むとたちまち病気が治る。

女優は醜い覆面を外し、美しい顔を見せる。


美しい女性へと変わったアナシイを多くの男性が褒め称えるが、アナシイは喜べない。


「私が好きなのはジノヴァなんだよ。

ジノヴァ、会いたいよ」


多くの男性から取り囲むように跪かれながら、そう嘆くアナシイ。


「そうだ。

治療薬のお礼を言いに行こう。

ジノヴァを一目でも見られたら、しばらくは頑張れるから」


治療薬のお礼を言うためにジノヴァの商会を訪ねるアナシイ。

そこでケイから、婚約破棄は狂言であり、ケイはジノヴァの商会経営権を対価にそれに協力しただけだと教えられる。


アナシイの父親は王子様との縁談をまとめてきた。

王子様とアナシイの見合いが始まる。



「これは美しい人だ。

君のような人を妻に出来るとは、私は幸せだ」


王子がそう言う。


「王子様、私あなたとは結婚出来ません。

好きな人がいるんです」


そう言ってアナシイは見合いの席を飛び出す。


街を彷徨さまようアナシイ。

浮浪者になり路上で座り込んでいるジノヴァを見つけ、アナシイは抱き着く。


「アナシイ?

駄目だよこんなことしちゃ。

君は王子と結婚して幸せになるんだ」


アナシイを拒むジノヴァとジノヴァに復縁を迫るアナシイ。

しばらく言い合いは続く。


「アナシイとは絶対に結婚しないよ!

こんな浮浪者と結婚するなんて間違ってる!」


怒鳴られたアナシイは、決意を決めたような顔になる。


「結婚して下さい」


跪いてジノヴァにプロポーズをするアナシイ。


「そこまでするなら……分かったよ。

一生大切にするよ」


二人でアナシイの父親の元へと向かう。


「アナシイ。なんて馬鹿なことをしたんだ。

そんな男との結婚は認めんぞ」


憤慨するアナシイの父親


「認めて貰えないなら、私は家を出ます。

家名を捨ててジノヴァと共に生きます」


「愛など十年も続かない。

儂はお前を思って言っているんだ」


「いいえ。この愛は一生続きます。

さようならお父様」


「待て!

……分かった。結婚を認めよう」


ジノヴァとアナシイは抱き合ってキスをしたところで幕が下りる。



◆◆◆◆◆



割れんばかりの拍手が鳴り響いた。

私とアナは涙が止まらず席を立てなかった。


喫茶店に入って劇の感想を言い合った。

私はアナシイに、アナはジノヴァに感情移入して泣いてしまったことが分かった。


「それにしても、なぜあんなタイトルを選んだのだ?」


劇の演目は『ゴブリン令嬢』だ。

言うまでもなくアナを侮辱する言葉だ。

セブンズワース家の支援で劇を制作しておきながら、なぜその家の令嬢を侮辱する言葉をタイトルに選ぶのだろうか。

アナにとっても名誉は大事なものであるはずだ。


「わたくしが許可したからですわ」


「なぜ許可したのだ?」


「印象的なタイトルの方がより人気になるだろうって、劇作家の方が仰いましたの」


確かにインパクトは凄い。

この国では、芸術の枠内でなら貴族への批判も許される。

だがそれでも、露骨な侮辱は避けるものだ。

特に、実話を銘打った劇だ。

そのタイトルで堂々と筆頭公爵家の令嬢を侮辱するのは相当な度胸だ。

それだけでも相当な話題になるはずだ。


「しかし、アナの名誉はどうなる?」


「気にしていませんわ。ジーノ様の名誉回復に繋がるなら、わたくし何でもしますわ!」


ぐっと拳を握りしめてアナは穏やかに笑う。

切なくなるほど優しい笑顔だった。


耐えられなかった。

到底抑えきれないほどアナを愛おしく想ってしまった。


衝動的にアナを抱き締め、額にキスをする。


「少し目を離しただけで!

いい加減になさいませ!」


少し離れたところで護衛と打ち合わせをしていたブリジットさんは、慌てて戻って来て私を引き剥がす。

人前でそんなことをしてアナの醜聞になったらどうするのか、としこたま怒られた。


周囲の人たちが向ける好奇の目線でアナは真っ赤になってしまう。

私たちは逃げるように店を後にする。


「その、すまない。

君の笑顔を見たら、耐え切れなかったのだ」


「……い、いえ」


そうは言うがアナは耳まで赤く、目はうるうるしている。

この国には、手の甲にキスをする習慣はあっても人前で顔にキスをする習慣はない。

貴族はもちろん、平民だってそんなことはしない。

アナは相当恥ずかしかったと思う。

申し訳ない。



◆◆◆◆◆



セブンズワース家は『ゴブリン令嬢』の演目を興行する劇団に補助金を出している。

補助金の額は多額であり、たとえ無観客でも儲けが出るほどだ。

このため国内だけではなく国外でも『ゴブリン令嬢』は挙って興行され、この演目は大流行を見せた。

投下した資金は恐ろしいほどの額になるだろうが、セブンズワース家にとっては端金なのだろう。


これまでこの国では、プロポーズは男性が女性にするものであり、女性が男性にプロポーズすることなどなかった。

しかし『ゴブリン令嬢』の影響から、女性が男性にプロポーズするようになった。

これは『ゴブリン令嬢』が実話を元にしたもので、モデルがアナであることを公表していることが大きい。

女性が男性にプロポーズしたという前例があり、しかもその女性は公爵令嬢だ。

その身分の高さから「はしたない」と批判することも出来ず、平民の間では女性からのプロポーズが社会現象となるほど流行し、そのまま定着した。


プロポーズをする女性が現れたのは、平民だけではない。

政略結婚が主流の貴族社会であるが、少数ながらも自ら社交界で結婚相手を探す貴族もいる。

そういう貴族の女性たちの中には、平民と同じく男性にプロポーズする女性も現れ、それが社交界で大いに話題となった。


影響はそれだけには留まらなかった。

これまで貴族令嬢は、たとえ意に沿わない相手であっても家が決めた相手と結婚することが令嬢のあるべき姿だとされていた。

そういう常識の中『ゴブリン令嬢』の主人公は、家の決めた縁談を台無しにして、勘当覚悟でその愛を貫き、女性からプロポーズをしてまで愛を勝ち取った。

その意思の強さと、常識を覆すことを恐れない生き方は、貴族令嬢に多大な影響を与え、『ゴブリン令嬢』の主人公、つまりアナに憧れる令嬢も多く現れた。


そういったアナに憧れる多くの女性たちから、アナはお茶会の誘いを受けるようになった。

劇のイメージから覇気を放つ凛とした女性を想像する人も多かったが、実際のアナはほんわかしていて義母上ははうえ譲りの優し気で儚げな美貌だ。

彼女たちは皆そのギャップにやられ、アナの崇拝者となった。


アナと二人で夜会に出席すると多くの貴族女性に囲まれ、アナと私は質問攻めを受けるようになった。

『ゴブリン令嬢』の話が概ね事実だと分かると「素敵ですわ」「ロマンチックですわ」「羨ましいほどの恋ですわ」と女性たちは大興奮だった。


もちろん保守的な女性などは、そういった革新的な女性を見て顔を顰める者もいた。

だが、そういった女性は若年層には少なく、中高年層に多かった。

しかし彼女たちは、公の場では皆口を噤んだ。

中高年層は、セブンズワース家の若返り化粧水を愛用している人が多い。

セブンズワース家の令嬢を批判して化粧水の供給を止められたら死活問題だからだ。


バルバリエ家の義妹二人もまた『ゴブリン令嬢』から多大な影響を受けた。

「さすがですわ。お義兄様にいさま。わたくし感動しました」と観劇を終えた義妹たちから涙目で褒められ、アナを交えてのお茶会をねだられた。

バルバリエ家にアナを招いてお茶会を開いたところ、義妹はもとより義妹の友人たちまでキラッキラに目を輝かせてアナの話に聞き入っていた。


こうしてセブンズワース家による私の汚名返上策は大成功し、卒業パーティで私が起こした騒動を悪く言う者はいなくなった。

それどころか私の評価は爆上がりとなり、特に若い女性から敬意を示されることが増えた。


ただ、露骨に否定的な態度を見せる者が皆無というわけではない。

私が卒業パーティで婚約破棄したパーティの前年、王太子殿下もまた卒業パーティで婚約破棄している。

似たようなことをしているのに、私は婚約破棄して評価を大きく上げ、王太子殿下は評価を大きく落としている。


それが気に入らなかったらしく、王太子殿下は私たちが挨拶したときから不機嫌さを隠さなかった。


「お前がアナスタシア嬢の婚約者か」


「はい」


不満気に尋ねる王太子殿下に対して私は余分なことは言わず端的に答える。


「貧乏子爵家の嫡男でもない男がセブンズワース家の令嬢と婚約したそうだな。

不釣り合いだとは思わないのか?」


ああ。なるほど。

アナを側妃に娶るために私が邪魔なのだろう。


「望外の幸運と考えております」


不釣り合いだとは答えない。

「では婚約解消しろ」という言葉が続くからだ。


「結婚は身分差を考えるべきだ。

そう思わないか?」


ニヤニヤと笑いながら王太子殿下が質問を続ける。

他のことなら大人しくやり込められてやらないでもないが、アナを狙うなら話は別だ。

徹底抗戦を決意する。


「おや。殿下はついにマリオット嬢との結婚を諦められたのですか?

これは存じませんでした」


「何だと?」


私の質問に王太子殿下が気色ばむ。


「おや、違うのですか?

結婚は身分差を考えるべきだと、殿下は先程そうおっしゃいましたので。

てっきり王族と男爵家という大きな身分差を考えて、マリオット嬢とのご結婚を諦められたのかと思いました」


自分が身分差のある結婚を目指しておきながら、他人の身分差のある結婚を否定するのはダブルスタンダードもいいところだ。

殿下がダブルスタンダードを気にしなかったのは、反撃されることを考えていなかったからだろう。

それも理解は出来る。

相手は王族だ。

普通なら反撃せずに嵐が過ぎるのを待つ。


「マリオット嬢も気落ちしないで下さい。

きっとまた、良い出会いがあると思います」


王太子殿下の隣にいる男爵令嬢に話し掛ける。

相手の身分により使うべき敬称は変わる。

一律に「様」の敬称を使うことが許される女性とは違い、男性は使い分けのルールが少し複雑だ。


男性貴族が未婚女性に対して使う一般的な敬称なら「マリオット嬢」だ。

これが王族と婚約関係にある未婚女性になると「マリオット様」に変わる。

私は今「マリオット嬢」と呼んだ。

王太子殿下の婚約者として認めない、という意味だ。


「ディー様。私怖いです」


マリオット嬢が怯えた顔で王太子殿下に抱き着く。

王太子殿下は、慌ててマリオット嬢を気遣う。

ディー様というのは、ディートフリート王太子殿下の愛称だろう。

婚約者でもない男性を公の場で愛称呼びとは、図太い女性だ。


何より、スキンシップが激しすぎる。

胸を押し付けるように殿下の腕にしがみついている。

男女の身体的な接触で許されるのは、自分の手のひらを相手の手のひらに触れさせることだけだ。

社交界の場では、夫婦でさえそうしている。


ときどき私は理性を失ってアナを抱き締めてしまっているが、実はとんでもないマナー違反だったりする。


「貴様、王家の婚姻事情に口を挟むとは!

不敬であるぞ!」


怒気を帯びた声で怒鳴る王太子殿下。

声が大きいので周囲の視線がこちらに集まる。


「失礼しました」


「ふん。

アナスタシア嬢との婚約を辞退しろ。

そうすれば許してやろう。

なに、心配はいらない。

アナスタシア嬢なら私が側妃に召し上げてやろう」


私が謝罪したので王太子殿下はその弱みに付け込み、ここぞとばかりに要求を突き付ける。


「お断りします」


「何だと!?

貴様、王家の命を聞き入れないというのか!?」


「王命ではありませんので」


「貴様!

自分が何を言っているのか分かっているのか!?

たかが子爵家の分際で、王家に逆らうのか!?」


「婚約辞退のご命令は、王家の総意ではありませんでしょう?

王家の意向でもないのに、なぜ王家に逆らうことになるのでしょう?」


「王太子の命であるぞ!

それでも逆らうのか!?」


「もう一度申し上げます。

アナとの婚約を辞退するつもりはありません」


陛下が同調されるならともかく、王太子殿下だけの意向に従う必要はない。

もっとも、たとえ王命でも従うつもりはない。

もう二度とアナを離さない。


「貴様!!」


「何事ですか?」


王太子殿下の声が大きいので、すっかり周囲の視線が集まってしまっていた。

これまで談笑していた人たちも会話を止め、皆がこちらを見ていた。

事態を収拾するためだろうが、王妃殿下がこちらに来てそう尋ねる。


「これは母上。

そこのアナスタシア嬢を私が側妃に召し上げてやると言っているのに、この者は無礼にもそれを断ったのです。

今からこの無礼者を処断するところです」


周りが静まり返って皆が注目しているときに大声で言ってしまった。

王妃殿下は顔を青褪めさせる。


宗教の関係でこの国は一夫一妻制だ。

側妃が認められるのは王や王太子に子が生まれない非常事態のみで、最初から側妃前提で結婚することは宗教の否定に繋がる。

王太子殿下は王太子妃さえ娶っていない。

側妃を娶る計画があったとしても、教会勢力との対立を避けるために現段階では計画を秘匿する必要があった。


今暴露してしまえば、教会に近い立場の貴族は反発を強めることになる。

セブンズワース家だって、教会勢力との無用な対立を避けるべく公式に抗議し、セブンズワース家は王太子殿下の計画とは無関係であることを示さなくてはならなくなる。

王太子殿下は、第一王子殿下との継承権争いの最中だ。

ここでセブンズワース家から抗議され、国内最大の権勢を誇る大貴族との関係悪化を周囲に印象付けてしまえば、おそらくは致命傷だ。


青褪めているのは王妃殿下だけではない。

私もだ。


私は敢えて「マリオット嬢」と呼び、その後の会話でも敢えて殿下の怒りを買う言葉を選んだ。

怒らせたのは狙い通りだが、ここまでの結果を引き出したかったのではない。

せいぜい殿下が怒鳴り声を上げ、私の胸倉でも掴んでくれたら十分だったのだ。

まさか、この場で側妃計画を大声で言うほど分別のない人だとは思わなかった。


「アナスタシアさん、ジーノリウスさん。

騒がせてしまってごめんなさいね。

ディートフリートは疲れているようです」


王妃殿下はそう言うと、王太子殿下を下がらせるよう衛兵に命じた。


「母上!?」


母親が味方してくれないことに王太子殿下は驚く。

衛兵に両腕を掴まれ王太子殿下は退場して行った。


「本当にごめんなさい。

謝罪の席は、また改めて設けるわ」


真っ青な顔でそう言うと、王妃殿下は去って行った。


本当なら泣き叫びたいだろうに、そんな様子は一切見せなかった。

立派な人だ。


◆◆◆◆◆


案の定、公爵はセブンズワース家として正式に王家に抗議した。

王妃殿下は、わざわざセブンズワース家にまで足を運び、公式な抗議の取り止めを要請し頭を下げた。

しかし、公爵は聞き入れなかった。

現在、セブンズワース家は教会派勢力の取り込みを行っている最中だ。

ここで抗議しないとセブンズワース家の損失が大き過ぎるのだ。


教会と教会派貴族もまた、宗教的戒律の尊重を公式に王家に求めた。


教会や教会派貴族には大した影響力はないが、セブンズワース家からの抗議は致命的だった。

王太子と第一王子の継承権争いには静観を決め込んでいたセブンズワース家だが、公式に王太子殿下に抗議したことにより周囲は王太子殿下と距離を置いたと思ってしまったのだ。


セブンズワース家と対立してしまっては、王太子殿下に王位継承の目はない。

そう考えた王太子殿下派の貴族は一斉に王太子殿下の元を離れ、第四王子殿下を押す派閥を作った。

支持層をまとめて失った王太子殿下は、その立場を維持出来なくなり廃太子となった。

王太子の座は空席となり、ディートフリート王太子殿下はディートフリート第三王子殿下へと変わった。


私は王妃殿下を哀れに思った。

我が子である第三王子殿下を王太子に就けその地位を維持するため、王妃殿下はずっと孤軍奮闘してきた。

王妃殿下は実利を重んじる人で、必要なら下級貴族にだって頭を下げる方だと言われている。

だがそれは、我が子の地位を守るために下級貴族にも頭を下げざるを得なかったのだと、私は思っている。


権力欲の強い人だと言われているが、そうは思わない。

たった一人で王太子殿下派閥を築き、今まで派閥をまとめ続けて来たのだ。

それほど有能な人が、王太子を担ぐことが泥舟であることに気付かないはずがない。

現に、王太子殿下がリラード公爵令嬢に婚約破棄を突き付け、誰の目から見ても王太子派の敗北が決定的となってもまだ息子を支えようとしていた。

もし権力を保ちたいだけなら、早めに他の有能な王子の後見に回っていただろう。

彼女にあるのは、権力欲ではなく息子への愛なのだと私は思う。


我が子のために必死に努力しても肝心の我が子が足を引っ張り続け、それどころか第三王子殿下は母親を非難さえしている。

本当に報われない。


第三王子が口を滑らせてアナを側妃にする計画を暴露してしまったとき、王妃殿下は顔色が悪かった。

あれは、あの時点でこの展開を読んでいて、そして挽回の手がないことも分かってしまったからだろう。

彼女はとても優秀な人なのだ。


「王族としての誇りがない、権力欲が強いと批判される方も多い王妃殿下に同情されるなんて、さすがジーノ様ですわ。

包容力のあるものの見方をされるのですね」


アナにその話をしたら、うっとりした目でそう言われた。

バルバリエ家の義妹二人に懐かれ、頻繁にお茶会をするようになって以降、アナは義妹たちと似てきたように思う。



◆◆◆◆◆



私は伯爵位を賜った。

今の私は、ジーノリウス・バルバリエではなくジーノリウス・シモン・バルバリエだ。

バルバリエ家の家人でありながら、別にシモン伯爵の伯爵位も持っているとこんな名前になる。


伯爵位を賜ったのは、アナの治療薬と一緒に送った論文が高く評価されたからだ。

書いた論文はアナの極度魔力過剰症の発病原理とその治療法だが、単純にそれだけ書いてもこの世界の人は理解出来ない。

その論文を理解する上で必要となる魔法概念や理論なども書き加え、魔法が大きく遅れたこの世界の人も理解出来るように書いた。

その結果、いくつもの新概念や新理論を提唱したことになり医療魔法界に激震が走ったらしい。


この世界の人は、極度魔力過剰症などの『魔力性疾患』すら知らなかったのだ。

そこにいきなり魔力性疾患の一種である極度魔力過剰症の発病原理を解明し、更に治療法まで確立させてしまったのだ。

畑違いではあるが、これでも前世では博士号を持っていた。

新理論の構築は仮説提唱だけでも大変なのは知っているから、魔道士たちが驚くのも分かる。


新理論等の命名は、通常第一発見者が自分の名を付けるが、私は全てアナの名に因んだものにした。

例えばレム・ル・アナスタシア分布、アナスタシア・サ・ウン反応、リヨン・アナスタシア法などだ。

学術語でレム・ル・アナスタシアは『愛するアナスタシア』、アナスタシア・サ・ウンは『アナスタシアよ、健やかなれ』、リヨン・アナスタシアは『輝けるアナスタシア』という意味だ。


学術語は学園の授業でも習うので、アナも公爵夫妻もその意味は理解出来る。

公爵は満足そうな顔で

「いいな。なかなかセンスのある命名だ」

といい、義母上ははうえ

「まあ。随分ロマンチックな命名ね」

とクスクス笑いながら言った。


「そ、それでは、ジーノ様のお名前が歴史に残らないではありませんか?」


両親の前で新学術用語を披露されたのが恥ずかしいのか、真っ赤になりながらアナはそう言った。


「私の名前は残らなくても、私の想いは永遠に残る。

治癒魔法に携わる者は皆、私のアナへの想いを学ぶことになるのだ。

問題ないだろう?」


私は笑いながらそう答えた。

教科書にも載ることになったのが相当恥ずかしかったのか、赤い顔が更に赤くなっていた。

なんて可愛らしいのだ。


爵位と一緒に領地も貰った。

元王太子殿下が婚約破棄したとき、その側近も婚約破棄に加担した。

その処罰として側近の家は一部領地が王家により没収となり、その領地が私に下賜されたのだ。

それほど豊かではない、いや貧困地域と言っていい領地だ。

こんな領地が懲罰のための「没収地」にされたのだから、王妃殿下は相当頑張ったのだろう。

持っているだけで赤字を垂れ流す領地な上、王家直轄領としては飛び地になっているので管理しにくい場所でもあった。

このため、かなり広い土地なのだが気前よく下賜してくれた。


普通に管理するなら、領地からの収入よりも領民の生活維持に使う費用の方が高い土地だ。

私としては土地の管理に費用を掛けざるを得なくなる。

この土地が私に下賜されたのは、おそらくセブンズワース家を抑えに来たのだろう。

公爵や義母上ははうえではなく私を標的としたのは、標的にしやすいからだと思う。


いずれセブンズワース家に入るとはいえ、まだ私はバルバリエ家の人間だ。

セブンズワース家を頂点とする派閥からしてみれば、まだセブンズワース家の人間ではない私は庇いにくい。

庇いにくい立場にいながらも、私はいずれセブンズワース家に入ることが決まっている。

まだセブンズワース家に入っていない今のうちに私に負債を背負わせれば、それは将来セブンズワース家の負債となる。


私にこの土地を下賜するよう仕向けたのは、第三王子殿下と王太子殿下派閥だった貴族たちだ。

彼らは私に負債を押し付け、私の足を引っ張ったと思っているのだろう。

しかしいずれ彼らは地団駄を踏むことになるだろう。


領地の改革案はもう既にある。

広大で痩せた土地だが、七色鉱石が採掘出来る場所があるのだ。

現在、七色鉱石は少し変わった綺麗な鉱物程度にしか認識されていない。

このため、地元特産の安価なアクセサリーに使われる程度だが、この七色鉱石はミスリルの原料なのだ。


全く以って勿体ない使い方だ。

ミスリルは、ゴーレム素材として一級品であり、武器や防具の素材にしても高品質なものが作れる。

前世はゴーレムエンジニアだった。

各種ミスリル合金の配合比率、それぞれの適した用途などもばっちり分かる。

治療薬開発に比べたら赤子の手をひねるようなものだ。

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