第25話 もう譲らない。君と人生を共に歩みたい

「すまなかった。君を沢山傷付けてしまった」


貧民街の自室で私は右膝を突く片膝立ちになり、左手を胸に当てて謝罪する。

前世の土下座に相当する貴族の最大級の謝罪方法だ。


「お立ち下さいませ。

謝罪は結構ですわ。

わたくしのためにして下さったことですもの」


雲一つない春の空のような笑顔だった。

あれだけのことをした私を、一点のわだかまりもなく赦してくれるのか。

本当にこの人の優しさは、広くて深い海のようだ。

私では到底釣り合わない最高の女性だ。


「失礼します、ジーノリウス様。

お優しいお嬢様は何も仰いませんので、私が代わりに申し上げます。

今日という今日は!

申し上げずにはいられません!」


そう言ったのは、アナの後ろからずいっと出てきたブリジットさんだ。

怒りでわなわなと震えている。


正座の風習は貴族にはないと思っていたが、セブンズワース家にはあるそうだ。

お説教を聞くときの家門独自の伝統的姿勢らしい。

床に正座させられた私は、ブリジットさんからお説教を受ける。

アナは慌ててブリジットさんを止めようとしたが、そのアナを私が止めた。



長いお説教が終わって今後の話し合いとなり、私はアナと一緒に帰ることが決まった。

今後の方針も決まったので私は風呂に行くことにした。

その日はまだ体を清めていなかったのだ。


出掛けようとすると、どこの風呂に行くのかと聞かれたので、用心棒をしている夜の店の風呂をいつも借りているのでそこだと答えた。

まだ夜の店が賑わうには早いので、この時間なら空きの風呂はたくさんあるはずだ。


だが、アナには涙目で止められ、目を三角にしたブリジットさんからは

「お嬢様がいらっしゃるのに風俗店に行かれるなんて! 非常識です!」

と説教をされ、仕方なく断念した。

誤解されているようなので、そういうことは今まで一度もないし、風俗店に行くのも客として行くのではないとアナには説明した。


それから、夜の店で親しくなった女性はいないのかとアナから尋ねられた。

もちろんいないと答えた。

親しくなったとは言っても、犯罪に巻き込まれた可哀想な人の世話をしたり、突然腕がしびれる病気になって料理が出来なくなった女性に料理を作って上げたりしたくらいだ。

特殊な理由でやむを得ず一緒にいる時間が長くなった女性はいても、好意を持って私に近付いてきた女性はいない。

私はそれを説明し、安心してほしいと訴えた。

だがアナは安心してくれなかった。

説明するほど逆にますます不安そうな顔をする。


「や、やっぱり、行かないで下さいませ。あ、危なすぎますわ」


いには涙目でそんなことを言い出す。

仕方ないので風呂は諦めた。


ちなみに夜の店だが、一階は酒を飲む店で、そこで女性を見事口説き落とせたなら二階で情を交わすことが出来るシステムだ。

二階はいくつもの部屋があり、各部屋には風呂が設置されている。

店の関係者は掃除と湯の補充さえ自分でするなら使い放題だ

高級店のため設備は結構豪華で、あの店の風呂には重宝していた。


飲食店と夜の店は、セブンズワースの隠密が事後処理をしてくれることになった。

この国では多くの貴族が商売をしているし、私だって商会を経営していた。

貴族が商売をすること自体には何の問題もない。

だが貴族が平民に使われる立場になるということは大問題であり、隠蔽が必要だった。


身分社会では、どの身分の者も分相応の振る舞いを強制される。

平民が貴族に指図することが許されないのと同様に、平民の命令に唯々諾々と貴族が従うことも許されない。

禁を犯したなら、平民なら無礼討ちされ、貴族なら社交界では非難の嵐で仕事に大きな支障が出る。


貴族が商会で従業員として働きたいなら、自分と同等以上の爵位の貴族が経営する商会を探してそこで働くしかない。

身分制度のために窮屈な思いをしているのは平民だけではない。

貴族もまた身分に縛られ不便を強いられる。


隠密は「商家の主が家出息子を回収しに来た」というストーリーで誤魔化すらしい。

そのための準備は既にしてあり、恰幅の良い商会主役の隠密や護衛役の厳つい隠密なども、実在する商家の紋章まで持ってアナと一緒に来ているという。

私も知っている商会だったが、セブンズワース家の裏工作用の商会らしい。


「さすがセブンズワースの隠密だな」と私が褒めたら、隠密たちは皆苦い顔をしていた。

どうやら私関連の任務は失敗続きらしい。

王都で私に撒かれたという隠密は、悔しそうに自分の失敗談を話した。


ああ。

思い出した。

確か、バルバリエ家を出てからずっと尾行されていたから隠密系魔法で姿を隠したのだったな。

使った魔法は、前世ではバードウォッチングのときなどに使われる山ボーイ・山ガール御用達の隠形魔法だ。

軍事魔法ではなくレクレーション魔法だから、見破り方を知っていれば見破るのも簡単だ。

だが、魔法文化が極端に遅れているこの世界の人には、まず見つけられないだろう。


私の部屋は、ワンルーム程度の広さしかないためアナたちが泊まることなど無理だ。

そもそも貧民街の集合住宅に貴族令嬢が泊まること自体に無理がある。

宿泊場所をどうするのか聞いたら、街の最高級宿屋を押さえてあるという。


私も誘われたが、おそらく一番安い部屋の一泊料金でさえ私の月収より高いため断った。

前世では庶民だった私はすんなりと貧民街に馴染んでしまい、金銭感覚もすっかり貧民街の住人のものになってしまっていた。

だから、高すぎる宿屋に泊まるのは抵抗があったのだ。


だがアナは、この部屋は危険過ぎるから私一人には出来ないので、どうしても来てほしいと言い出した。

これでも夜の店で用心棒もしているから強盗が入っても問題ないと言ったのだが、夜の店で用心棒をしているからこそ危ないのだとアナは譲らなかった。

私が対処した酔客等が「お礼参り」をすると思っているのだろう。


慣れれば危ないことはないのだが、アナは公爵令嬢だ。

アナから見たら夜の店で用心棒をすることや貧民街の集合住宅は危険に見えるのだろう。

アナを安心させるため、宿屋に泊まることにした。


その日の用心棒の仕事は「家出息子を急遽連れ去る詫びとして、今日は商家の護衛が代役で用心棒を務める」という設定で店側に話すことになった。


結局、夜の店はもちろん飲食店にさえ私は近付くことを禁止され、別れの挨拶もしないまま立ち去ることになった。

実際、商家の家出息子という設定に疑念を持たれ突っ込んだ質問をされたら、付け焼き刃の私ではボロを出してしまう危険もあった。

私は彼らとはこのまま会わないのが最も安全という言い分には説得力がある。 

根掘り葉掘り家出息子の設定に突っ込みを入れるほど私に執着する者はいないと思うが、アナや隠密衆はまた違う考えのようだ。

挨拶もせず去るのは非礼ではあるが、バルバリエ家やセブンズワース家の名誉を考えたら仕方ない。




移動の馬車の中では、アナはべったりと私にくっついていた。

以前なら公爵令嬢らしく節度を持ち、馬車の中では私の向かいの席に座っていた。

しかし何か思うところがあったらしく、馬車の中ではかなり距離を詰めて私の隣に座り、私の手を握って来た。

あまりの可愛さに「「アナ! なんて可愛いのだ!」と叫んでしまったらアナが泣き出して焦った。


「すごく、すごく嬉しいですわ。

容姿が変わっても、わたくしを可愛いとおっしゃって下さるなんて」


笑顔のままアナはほろりと涙をこぼす。

顔からこぶが無くなって、容姿が私の好みから外れたのではないかと心配していたらしい。


「容姿など関係ない。

アナ、君が可愛いのだ」


私がそう言うと、アナはますます涙を溢れさせる。


「ずっと夢見ていましたの。

可愛いって、ジーノ様がお褒め下さる日がまた来ることを、ずっと夢見ていましたの」


ぼろ泣きしながらもアナは笑顔でそう言った。


その後もアナはずっと手を握ってくれた。

甘えるアナがとっっっても可愛くて、私は「可愛い」を連発し、何度も抱き締めかけたりキスしかけたりした。

だが、その度に同乗するブリジットさんに止められた。

半年ぶりに再会したのだが、相変わらず私には遠慮がなかった。


ブリジットさんのアナへの忠誠心は本物だと思う。

手を繋いだまま私の肩に頭を預けて幸せそうな顔で眠るアナを見て、ブリジットさんは真っ赤になった目に何度もハンカチを当てていた。



◆◆◆◆◆



途中の街でバルバリエ家から早馬で私の服や装飾品などが届けられた。

バルバリエの義父上ちちうえから手紙も一緒だ。

バルバリエ家は後回しでいいから、まずはセブンズワース家に赴いて釈明をするようにと手紙には書かれていた。


だから私は今、バルバリエ家の貴族服を着てセブンズワース家にいる。

王都に着いてから真っ先にここに来た。

応接室には、公爵夫妻が待っていた。


アナはこの場にはいない。

慣れない長旅で疲れた様子だったので、大事を取って休んで貰った。


「久しぶりね。ジーノさん」


「ジーノさん」という呼び方を聞いて感動してしまう。

もう私とアナの婚約は解消されている。

本来なら「ジーノリウスさん」と呼ぶべきなのだ。

それでもこの人は、家族に対する呼び名で私を呼んでくれる。

私も「義母上」と呼ぶことにする。


私は右膝を突く片足立ちになり左手を胸に当てて頭を垂れる。


「申し訳ありませんでした」


この姿勢での謝罪は、前世の土下座に相当する最大級の謝罪だ。


「ようやく帰って来たか。この馬鹿者が」


「あなた、違うでしょう?

まず他に言うべきことがあるのではなくて?」


不満そうに言った公爵に義母上ははうえがにっこりと笑う。

公爵は気不味そうな顔だ。


「先ずは立って、ソファに座って。一緒にお茶を飲みましょう?」


義母上に促されて私はソファに座る。

この家で家族が集まるときは、いつもこうやって義母上が仕切っていた。

こういうのも久しぶりだ。

何だか嬉しくなってしまう。


「ああ。なんだ。その……すまなかった」


「なぜ公爵が私に謝罪されるのですか?」


「あら。アナから何も聞いていないの?」


「ええ。

詳しくは聞いていません。

勘当が取り消された理由やセブンズワース家が私との再婚約を望む理由などについては、公爵や義母上から聞こうと思っていたので。

会わなかったこの半年のことでお互い話すことは他に沢山ありました。

話題にも困りません」


王都への道中、ケイト嬢が私を経営者に戻したがっているとアナから聞いた。

商会の持分の六割を返すから、私に会頭に戻ってもらいたいとのことだ。

ケイト嬢の商会の持分は四割だけ、地位も副会頭でいいという。

経営に関する雑務なら副会頭として自分がなんでもやるから、経営方針と商品開発は私に任せたいのだそうだ。


自分一人で商会を経営するより、前世の知識を利用した経営を私にさせた方が利は大きいと判断したのだろう。

地位より儲けを選ぶとは、ケイト嬢らしい判断だ。


そこまではアナから聞き出せた。

だが、ケイト嬢の提案を私が前向きに考えていると知ると、アナはなぜか不機嫌になってしまったのだ。

商会経営の話から突然ケイト嬢の胸の大きさの話になり

「ジーノ様も、ケイト様のようにお胸の大きな女性がお好きなのでしょう?」

と言い出しアナは頬を膨らませるのだ。


アナだって平均より大きいし、人よりずっと美しい曲線の胸なのだから問題ないと思う。

だが、なぜか劣等感を抱えているようだった。


ケイト嬢の話になるとアナは毎回機嫌が悪くなった。

このため、ケイト嬢が絡みそうな話はセブンズワース家で聞くことにした。

そのことを説明する。


「まったく。仕方のない子ね」


義母上ははうえはクスクスと笑う。


「それじゃあ、わたくしから説明するわね。

ジーノさんが婚約破棄して失踪したのは、アナの容姿が治ったらアナを王妃にって、この人が言ったからよね?

その目的は、第一王子殿下もしくは王太子殿下とアナの婚約のため、ということで良いのね?」


「はい。そうです」


「この人はそう言ったけど、それは全部忘れてほしいの。

セブンズワース家としては、アナが治った今でもアナにはジーノさんと結婚してほしいと思っているの」


「……私を選ぶ利がないように思えますが」


第一王子殿下と王太子殿下、セブンズワース家の後ろ盾を得た方が次の王になる。

この家からしてみれば、どちらを選んでも選んだ方が次の王だ。

そしてアナは一人娘だ。

長男がその次の王になり、次男以降の誰かが次のセブンズワース公爵だ。

次代の公爵が王の実弟なら、この家の栄華は次代も続く。

公爵や義母上がその利益を捨てるとは思えない。


「ふふ。

ジーノさんは自分の価値がまるで分かっていないのね。

化粧水よ」


「化粧水、ですか?」


「そう。

塗るだけで十歳以上若返る化粧水で、使うのを止めると元に戻ってしまう。

しかも出回って随分経つのに未だに誰も真似が出来ていない。

このことには凄く価値があるの。

王家が王女殿下とあなたの婚約を考えるくらいにね」


「えっ!?

王女殿下との婚約ですか?」


嫌な汗が背中に流れる。

婚約は王家からの要請だ。

王家を凌駕するほどの力を持つセブンズワース家ならともかく、平均的な侯爵家であるバルバリエ家では断りきれない。


「安心して。

それも立ち消えたわ。

ケイトさんのおかげね。

ジーノさんがアナのために貴族位さえ捨てたと知って、強引に婚姻を結ばせたら喜ぶどころか恨まれるって王太后殿下おかあさま国王陛下おにいさまも思ったのよ。

婚姻で味方に引き入れるつもりなのに、敵対してしまっては何の意味もないでしょう?

獅子身中の虫になってしまうくらいなら、王家には入れない方が得策だと判断したのよ」


良かった。

ほっと胸を撫で下ろす。


「というわけで、セブンズワース家としては王の外戚となるよりもジーノさんを後継に置くことが政略的にも上策と判断したの。

もちろんそれ以外にも、アナがジーノさんとの結婚を望んでいるということも大きいわ。

王子殿下とジーノさん、セブンズワースの利益がそれほど変わらないか王家との婚姻の方が少し上というだけなら、わたくしたちはアナを幸せにしてくれるあなたを選ぶわ」


元々はゴーレム製作のための資金集めで売り始めた化粧水だが、思わぬ効果を発揮してくれた。

安全性を考えて、化粧水に付与した魔法は、治験を通った魔法式をそのまま使った。

なので、魔法式には解析ガードも付いてしまっている。

現代の魔道士どころか前世の人たちだって、化粧水に付与された魔法の解析は不可能だろう。

解析出来るのは、前世の専門家たちだけだ。


女性は「自分の肌に合った化粧品」という言葉が大好きだ。

このため市販の化粧水の成分や魔法式を分析し、それに手を加えて自分好みの化粧水を自作するということが一時期流行った。

素人でも簡単に化粧品を作れるよう、後は混ぜ合わせるだけという段階にまで材料を加工してネット販売する業者も多く出現した。


これに困ったのが魔法薬師会だ。

消費者が自身で魔法付与なんか始めたら仕事が無くなり大損害だ。

化粧品の多くは医薬部外品なので、消費者自身が魔法を付与しても何も問題はない。

そこで魔法薬師会は与党に圧力を掛け、化粧品関連商品の付与魔法には必ず解析ガードを付与しなくてはならないという規制を作らせ、消費者による自作を阻止したのだ。


「それから、アナのことね。

使用人から報告があったんだけど、少し情緒不安定みたいなの」


「情緒不安定、ですか?」


「どうやら婚約破棄が心の傷になっているみたいなの。

これからカウンセリングを受けさせるから、しばらくすれば落ち着くと思うわ。

だから、しばらく我慢して貰えないかしら?」


普通の貴族女性なら、婚約したら結婚までは一本道だ。

荒波に浮かぶ小舟のような下級貴族なら政局次第で相手が変わることも多いが、爵位が上がるほど小さな政局変動では動じなくなり婚約相手が変わることは少なくなる。

大貴族にもなれば相手が変わることはほとんどない。

アナにとって婚約破棄は大きな衝撃だっただろう。


アナが傷付くことは覚悟していた。

しかし、こうやって実際に傷があることを知らされると、全く覚悟が出来ていないことを思い知らされる。

罪悪感で胸が苦しい。

アナのためを想ってしたことなのだが、本当に正しかったのだろうか……

今更考えても仕方ないが、それでも考えてしまう。


そして、罪悪感を感じる自分と同時に歓喜している自分もいることにも気付く。

傷付いたアナを私自身の手で癒やして上げられることを、私は幸運に思っていた。


貧民街にいた頃、婚約破棄されて傷付いたアナを癒す新たな婚約者を想像することが何度もあった。

男を見詰めるアナの眼差しに次第に信頼の色が入り混じっていく場面を想像しては、全身が焼かれるような嫉妬に苦しんだ。

相手の男を思い浮かべたときに跋扈ばっこする感情は、もはや嫉妬ではなかった。

憎悪や怨念と呼ばれる類のものだった。

ドス黒い感情で歪んで行く自分をひしひしと感じた。

人を殺す選択をすることが自然だと感じる人間に、いずれは成ってしまうようにも思えた。


自分で傷付けた女性を自分で癒せることに喜ぶなんて、およそ健全な思考ではない。

もしかしたら怨毒に変異した嫉妬に歪められ、既に私は正常ではないのかもしれない。


だがそれでも、自分の手でアナを癒せるというのは、どうしようもなく嬉しい。

この権利は、絶対に手放したくはない。


「我慢することなど一切ありません。

私自身の手でアナを癒やして上げられるなら無上の喜びです」


「そう言ってくれて嬉しいわ。

アナの症状なんだけどね。

あなたの周りに女性の影がチラつくと急に落ち着かなくなるみたいなの。

ブリジットが煽った面もあるけど、それを加味しても様子がおかしかったそうよ」


「では、女性の影がチラついても気にならなくなるくらい、私がアナをドロドロに甘やかせます」


「そんなことはしなくて良い!

カウンセリングで何とかなる!」


私の言葉を公爵が真っ赤になって否定する。


その症状には心当たりがある。

風呂を借りるために私が夜の店に行こうとしたとき、アナは涙目でそれを止めた。

商会経営者に戻ることを言ったとき、アナはケイト嬢のことを殊更気にしていた。

あれは、アナの心の傷だったのだ。

そうとは気付かず申し訳ないことをした。


ケイト嬢から打診のあった商会経営者に戻る話は無しだ。

アナに負担は掛けられない。

全てアナの望み通りにしよう。


「あら。

それは駄目よ。

商会の持分の過半数をジーノさんが持っていて、少しの労力で商会を更に大きくすることが出来たら当家にとっても大きな利益になるわ」


「しかし、私がケイト嬢に近付くことになればアナは不安に思います」


「諦めなさい。

あなたが王都に来てからも商会は大きくなって、今や国内有数の大商会ですもの。

いくらアナのためでも逃す利益が大きすぎるわ。

当家の後継者なんだから、アナのことばっかりでは駄目よ。

家門にはこの家のために尽くしてくれる人がたくさんいるわ。

その人たちのことも考えてね。

家門の頂点に立つって、そういうことよ。

アナは大丈夫よ。そのためのカウンセリングなんだから」


反論出来なかった。完膚無きまでの正論だった。



◆◆◆◆◆



アナとの婚約が調った。

前回の婚約式はセブンズワース家の教会で執り行われた。

それで婚約破棄となったので、縁起が良くないことから外部の教会を借り切って執り行うことにした。


セブンズワース公爵家とバルバリエ侯爵家という上級貴族同士の婚約式だ。

貸し切りにするのは、当然王都の大聖堂である。

婚約式の会場となる大聖堂は、幅、奥行き、高さ全て百五十メルトは余裕でありそうな巨大建造物だ。

アドルニー子爵家の面々も参加したが、巨大で荘厳な大聖堂が貸し切りと聞いてビビりまくっていた。

てっきり大聖堂の部屋の一室でやるのだと思っていたらしい。


婚約式の立会人は、教皇猊下だった。

化粧水で莫大な利益を上げているセブンズワース家は、教会勢力を支配下に置くために莫大な寄附をしているとのことだ。

教会からしてみればセブンズワース家は上得意客だ。

だから急な貸し切り要請にも快く応じ、立会人も気を遣って教皇猊下が出て来たのだろう。


セブンズワース側親族には、王太后殿下と国王陛下がいた。

王太后殿下も国王陛下も、昔から義母上ははうえより子育ての悩みの相談を受けていたので二人ともアナを気に掛けていた。

孫と姪ということもあって二人はそれなりにアナを可愛がっていたのだが、ここに来て義母上ははうえによく似た美しい女性になったので可愛さも爆発したらしい。

二人ともデレデレな顔でアナと話していた。


コンサート会場にしたら軽く一万人は入りそうな大聖堂が貸し切りで、教皇猊下、国王陛下、王太后殿下もご参加とあって、アドルニー子爵家の面々は顔色が青を通り越して土気色になっていた。


前回は特に感慨もなかった婚約式だが、一度婚約者としての地位を失ってみるとその重みを感じてしまう。

失ってしまった大切なものがようやく取り戻せる。

前回は浮かれ気分でサインした誓約書だが、今回はサインするとき胸から熱いものが込み上げて来て目頭が熱くなった。

それはアナも同じだったようで、ハンカチで目を押さえながらサインしていた。


「アナ。

前回の婚約で私は身を引いたが、今回はもう譲らない。

人生を君と共に歩みたい。

この私の我儘を、何があっても貫き通させてもらう」


「ええ。ええ。

是非そうして下さいませ。

わたくしも、もう二度と離しませんわ」


誓約書にサインした時点で感慨深いものがあり、お互い目に涙を溜めていた。

それがこのやり取りで、私もアナもこらえきれずポロポロと涙をこぼし始めた。


そのままアナを抱き寄せ、唇を重ねる。

アナも抵抗はせず、それどころか私を抱き締め返し、私が唇を落とす前には目を瞑った。


「な、な、何をしとるかああああ!!」


「あら。まあ」


公爵が怒鳴り声を上げて私をアナから引き剥がし、義母上ははうえは面白そうに驚いた顔をする。


「若いとは、素晴らしいことだのう」


「ええ。本当に」


国王陛下と教皇猊下はそう語り合う。


婚約式は、婚前の式典であり純潔性を神に示すという意味合いもある。

このため、式典の最中での婚約者同士の身体的接触は禁止だ。

大聖堂という荘厳な場所で国王陛下や王太后陛下もご列席の中、教会の権威の体現者たる教皇猊下の前で口付けを交わすという禁を私が犯したため、アドルニー家の面々はショックの余り次々に卒倒した。

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