第7話 アナの発熱 (アナスタシア視点)

またわたくしは熱を出してしまいました。

ジーノ様が当家に通われるようになってからは初めての発熱です。

毎朝玄関ホールでジーノ様をお出迎えし、執務室までご一緒することを楽しみにしていたのですが、高熱のため出迎えを使用人たちに止められてしまいました。

仕方なくわたくしは、今日はしっかりと寝て早めに治すことにしました。

明日こそジーノ様をお出迎えしたいですもの。


どなたかが、わたくしの額に載せられている水を含んだ布を交換して下さるのを感じ、それでわたくしは目が醒めました。


「アナ!」


そうお声を掛けて下さったのはジーノ様に見えました。


「気分はどうだ?

何か不調はないか?」


ジーノ様はそうおっしゃり、心配そうにわたくしを見詰めておられました。

夢の続きでも見ているようにジーノ様のお顔を眺めていましたが、ジーノ様の視線の熱を感じると急速に目が醒めて来ました。


「そんなにご心配なさらなくても、いつものことですから。

大したことではありませんわ」


不安そうにわたくしを見るジーノ様を安心させるために、そうお伝えして笑顔を作ります。


「喉が渇いただろう?

冷たい果実水でも飲むか?」


そうジーノ様はおっしゃると、わたくしの背中に腕を差し込まれわたくしを起こされました。


「ジ、ジ、ジーノ様!?」


きゃあああああ

これは、やっぱり夢の続きなんでしょうか!?

今、わたくしはジーノ様に肩を抱かれています。

わたくしの肩をお抱きになるジーノ様の腕からジーノ様の温もりが伝わってきます。

ジーノ様のお顔がすぐ近くにありますが、ここでジーノ様のお顔を間近で拝見したら、わたくし気絶してしまうかもしれません。

とてもそちらに目を向けられません

まだベッドの上で着替えてもいないというのに……


え?


そうでしたわ!!

今はベッドの上なのです!!

婚前の男女がベッドの上で触れ合うなんて、あってはなりませんわ!!

ど、ど、ど、どうしましょう!?


「飲めるか?」


ジーノ様はコップを差し出して下さいましたが、今はそれどころではありません。


「さあ、お嬢様。

クッションを入れましたので、こちらにもたれ掛かられて下さい」


ブリジットが背凭せもたれを用意してくれたので、わたくしは慌ててジーノ様から離れました。

胸は破裂しそうなほどドキドキしています。


先ほどわたくしは、淑女にあるまじき破廉恥な想像をしてしまいましたが、ジーノ様には気付かれずにすんだのでしょうか。

人の心の中など分かるはずはないと分かっております。

ですが、ジーノ様に肩を抱かれていると触れ合う部分から私の心が漏れてしまう気がして、気が気ではなかったのです。

もし気付かれてしまったなら……もはや淑女として毒杯をあおる他ありません。


ブリジットが顔を拭いてくれる中、落ち着くために果実水を口にします。


ジーノ様の腕の温もりと、男性らしい力強い腕の感触が何度も思い出されますが、懸命にその回想をわたくしは打ち消します。

そのまま妄想に浸っていたら気絶してしまいそうでした。

恥ずかしくてジーノ様のお顔をまともに見られません。


「……その……お腹空いてないか?

昼は食べていないと聞いているが」


ジーノ様がお話を振って下さったので、何とか妄想を止めることが出来ました。


「少し……」


緊張で声が出なかったらどうしようと心配でしたが、何とかそう答えられました。


深呼吸をしつつ果実水を飲んで、わたくしは何とか落ち着きを取り戻しました。

それでもまだ胸はドキドキしていますが。


「ジーノ様は、いつからそちらにいらしたのですか?」


雰囲気を変えるため、わたくしはジーノ様にそうお尋ねしました。


「三時間ほど前からだな」


「三時間ですか!?

それは退屈されたでしょう」


驚きです。

使用人でもないのに三時間もわたくしの側にいらしたなんて。

本などもお持ちでないようですし、何か申し訳ない気分になります。

きっと退屈されたことでしょう。


「退屈ということはなかったな。

アナの寝顔を眺めていられたし、それに心配で落ち着かなくて退屈どころではなかったからな」


「……寝顔」


ですか……

まさかジーノ様は、三時間もわたくしの寝顔をご覧になっていらしたのでしょうか。

化粧もしていない、整えてさえいない顔をそんなにずっと……


ああ。

ジーノ様がいらっしゃるなら、せめて化粧をしてから寝付くべきでした。

よだれなどは大丈夫だったのでしょうか。

色々と気になってしまいますが、それをジーノ様ご本人にお聞きする勇気なんてありません。

先ほどとはまた別の種類の恥ずかしさが猛烈な勢いで込み上げてきます……


その後、ジーノ様が今日あったことなどをお話しして下さいました。

最初は気もそぞろでしたが、いつの間にかジーノ様とのお話に夢中になり楽しい時間を過ごせました。



「さあ。あーんするのだ」


使用人から手渡されたお皿を持たれてオカーユをスプーンで掬い取られ、ジーノ様はそうおっしゃいます。


「あーん?」


聞き慣れない言葉なので理解出来ませんでした。


「そうだ。

私が食べさせるから口を開けるのだ」


ジーノ様はそうおっしゃり、スプーンをわたくしの口元に差し出されました。


「あ、あの?」


つい戸惑いの言葉を口にしてしまいます。

まさか、ジーノ様手ずから、わたくしのお口にまでお料理を運んで下さるおつもりなんでしょうか。

使用人だってここまでしません。

そこまでして下さるジーノ様からわたくしへの想いを感じてしまい、お顔が熱を持ってしまいます。


いつまでもお待たせするわけにはいかないので、わたくしは意を決してジーノ様が差し出されたスプーンを口に入れます。

優雅に食べられているでしょうか。

ジーノ様にじっと見詰められながらお食事を頂くのは、かなり恥ずかしいです。


ちらりとジーノ様に目を向けると、ジーノ様は優しげな笑みを浮かべていらっしゃいます。

まさか、わたくしの頂き方に問題があったのでしょうか。

口の開け方をもう少し小さくした方が良かったのでしょうか。


それにしても絵になる笑顔ですわね。

拝見しているだけで心臓の鼓動が速くなります。


「ジーノ様?」


真意の分からない笑顔を向けられ続けることに耐えかね、お尋ねしてしまいました。


「ん?

ああいや、可愛いなあと思って、つい見惚れてしまったのだ」


「か、かわっ!?

わ、わたくしがですか?」


何をおっしゃっているのでしょう。

この醜女のどこが可愛いのでしょう。

わたくしをご覧になって可愛いなどとおっしゃった男性は、今まで一人もいらっしゃいません。

唯一可愛いとおっしゃって下さったのはお父様ですが、あれは父親としての感情以外の何者でもありませんから除外します。

何かの間違いではないでしょうか。


「他に誰がいる?

私の目が今映しているのはアナだけだ」


間違い、ではないのですね。


ジーノ様は、もしかしてわたくしを可愛いとお思い下さっているのかしら?

「そんな馬鹿な」と思いつつも「もしかしたら」という思いが捨て切れません。

ジーノ様の目も、嘘や冗談をおっしゃっているものではありません。


でも、もしジーノ様がわたくしを可愛いと思って下さるのなら……


「ああ。可愛い!

抱き締めてしまいたい!」


ええええ!!?

何をおっしゃっているのでしょう?

今わたくしはベッドの上なのですよ?


ベッド上でジーノ様に抱き締められる自分を想像してしまい、叫び声を上げたくなるほど恥ずかしくなってしまいます。


いけません!

こんな妄想はいけませんわ!

破廉恥過ぎます!


ブリジットがわざとらしいほど激しい咳払いをしてくれたので、ジーノ様は落ち着かれたようでした。

ですが私の方はしばらく落ち着かず、平静を装うのに必死でした。

気を抜くと先ほどのジーノ様の情熱的なお言葉が脳裏に蘇り、どうして良いのか分からないほど動揺してしまいます。


それにしても「可愛い」ですか。

男性からそのようなお言葉を頂いたのは初めてなので、こんな気持ちになったのも初めてです。

恋する方から可愛いとお褒め頂けるのは、こんなにも嬉しいものなのですね。

心が弾んでしまいます。


顔中こぶだらけの醜い女です。

わたくしの姿が人の目にまれば、目にされた方を不快にさえさせてしまいます。

ですから今まで、なるべく目立たないような服装や髪型を心掛けて来ました。


ですが、ジーノ様がわたくしを可愛いとおっしゃって下さるのなら……

勇気を出して少しだけお洒落をしてみようかしら。


おそらくジーノ様にとっては何気無い一言だったのでしょう。

ですが、わたくしにとってはこの上ない勇気を貰えた大きな言葉でした。



◆◆◆◆◆



今日はお稽古事が長引き、少し遅くなってしまいました。

お帰りになる際、ジーノ様はいつもわたくしとお喋りをして下さいます。

本日ジーノ様は少し早めにお仕事を終えられたようですが、わたくしのお稽古事が長引いてジーノ様をお待たせしてしまいました。

ジーノ様は既に応接室でお待ちだと、使用人より聞いています。

急がなくてはなりませんわ。


応接室に行くと、ジーノ様はソファに座りお休みでいらっしゃいました。

大分、お疲れなのでしょう。

バルバリエ家では上級貴族教育を、当家では公爵家運営を学ばれ、更にご自身で商会まで経営していらっしゃるのです。

使用人に毛布を持って来させ、わたくしがそれをジーノ様にお掛けします。


お茶を飲みつつジーノ様がお目覚めになるのをお待ちします。

ジーノ様は、ソファにもたれ掛かられ、腕組みをされてお休みでいらっしゃいます。

そのご様子をお茶を飲みながら、ゆっくりと拝見します。


普段は恥ずかしくてじっと見詰めるなんて出来ませんが、今なら平気です。

まじまじとジーノ様のお姿を拝見します。


思わぬ幸運ですわ!

こんなにゆっくりとジーノ様を拝見出来るなんて。


足もすらりと長くて、お体も均整の取れた素晴らしいプロポーションですわ。

肩幅もお広いですわね。

男性らしくて素敵ですわ。

スタイルの良いジーノ様には、仕立ての良い黒の貴族服がよくお似合いです。


それにしても小さくてお美しいお顔ですわ。

ジーノ様とはテーブルを挟んだ向かい側に座っていたのですが、少し距離が遠いですわ。

もっとお近くで拝見したいです。


……少しくらいなら、平気ですわよね?


勇気を出してわたくしはジーノ様と同じソファに座り、ジーノ様のお顔を覗き込みます。


あら。

随分とまつ毛が長いのですわね。

切れ長の目は閉じていてもお美しいです。

鼻筋も通っていて素敵ですわね。

唇は大きくも小さくもなく、程良いバランスでお顔によく合っていますわ。

色も形も良い唇からは、色気を感じますわね。

お肌も白くきめ細かく、羨ましい限りですわ。


流石は『黒氷花こくひょうかの君』ですわね。

全体としても完璧なまでのバランスですわ。


お口を少し開けられていて、なんてお可愛らしいのでしょう。

普段はお父様とも対等にお話しをされて大変大人びていらっしゃるのに、無防備な寝顔は歳相応に見えますわ。


ああ。

良いものを拝見してしまいましたわ。


そうしてわたくしはジーノ様を拝見し続けました。



「ん? ああ。アナか。

すまん。寝てしまった」


(っ!!!)


突然ジーノ様がお目覚めになり、わたくしと目が合ってしまいました。


ど、ど、ど、どうしましょう。

ジーノ様と同じソファに座ってしまっていますわ。

他の方がいらっしゃるならともかく、この部屋ではわたくしとジーノ様だけです。

使用人もいますが、彼らはソファを使いません。

ソファを使う人が二人だけなのに、男性と同じソファに座るのは貴族令嬢としてはしたないことです。

どうやって誤魔化しましょう。


「ああ。毛布を掛け直してくれたのか。

ありがとう」


「え? ……あ……いえ」


微笑みを浮かべながら優雅に元の席に戻りますが、内心では冷や汗をかいています。

ジーノ様は毛布を掛け直したと誤解して下さいましたが、騙しているようで心苦しいですわね。


「いつからこの部屋で私が目覚めるのを待っていたんだ?」


「三時半頃からですわね」


「そんなに待たせてしまったのか。

すまない。

起こしてくれればよかったのに」


え?


ふと部屋にある水時計を見ます。

ガラス管の中の青い液体が示す時刻は五時半でした。


なんということでしょう。

どうやらわたくしは、二時間もジーノ様の寝顔を拝見し続けてしまったようです。

そんなに長い時間ジーノ様のお隣に座っていたら、ジーノ様だって目を覚まされますわね。



「すまない。

退屈だっただろう?

この埋め合わせは必ずしよう」


「そんな。お気になさらなくても大丈夫ですわ」


退屈など全くしていなかったのですから。

ジーノ様のお姿は、二時間拝見し続けても全く飽きませんもの。

それどころか、こうしてゆっくりと拝見出来て大変充実した有意義な時間でしたわ。


「そうだ。

お詫びに今度、二人で湖を散策しに行かないか?

以前、君はボートに乗りたいと言っていただろう?

君を乗せるためのボートを持って行こう。

今日のお詫びに私がボートを漕ごう」


「まあ。嬉しいですわ。

ボートの話を覚えていて下さったのですね」


ほんのちょっとしたお話だというのに、ジーノ様は覚えていて下さいました。

それが嬉しくて、胸に温かいものがいっぱいに広がっていきました。

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