第6話 アナの発熱
ある日、私がいつものように公爵邸を訪れると、アナの出迎えがなかった。
アナはどうしたのかと公爵に尋ねると、熱を出して寝込んでいると教えられた。
アナはよく熱を出すらしい。
おそらく全身に
アナの病気は、症例もほとんど無い奇病だ。
治す手立てはもちろん無く、それどころか正式な病名さえまだ付けられていない。
至って健康なアドルニー家の実姉が風邪で熱を出したなら、私もそれほど心配はしない。
しかし病名さえ無い奇病を患うアナが熱を出したとなると、私は心配でいられなくなった。
よく熱を出すらしいが、私がこの家に通うようになってからは初めての発熱だ。
冷静でいろ、と言われても無理に決まっている。
アナが熱を出したことを知って気もそぞろで、公爵の補佐の仕事が全く手に付かなくなった。
それを執務室に来た
ちなみに正式に婚約した後、公爵夫人からは
一方公爵からは、正式に結婚するまでは
執務補佐の仕事を終えアナの寝室に行くと、アナは眠っていた。
繊細な彫刻が施された天蓋付きの豪奢なベッドの横に置かれた椅子に腰掛け、彼女の世話をする役を使用人から引き継ぐ。
看病と経過観察のため天蓋から下がるカーテンは開けられていた。
アナの寝顔がよく見えた。
赤い顔をして静かに眠るアナを見ると不安が込み上げ、心が掻き乱される。
普段は元気なので病人という意識を持てなかったが、こうして見ると彼女が病気を患っているということを思い知らされる。
三時間ほどアナの額に乗せた布巾の交換を続けていると、アナが目を覚ました。
「アナ!」
「……ジーノ様」
私が声を掛けると、側に座る私を見てアナは私に気付く。
「気分はどうだ?
何か不調はないか?」
「そんなにご心配なさらなくても、いつものことですから。
大したことではありませんわ」
そう言ってアナは、私を安心させるように微笑む。
「喉が渇いただろう?
冷たい果実水でも飲むか?」
アナが頷いたので、私は仰向けに寝るアナの肩の下に右腕を差し込んでアナの上体を起こす。
「ジ、ジ、ジーノ様!?」
アナは驚いた様子を見せるが、まずは水分を摂らせる方が先だ。
アナは熱が出て水分を失っている。
脱水症状は、ときには死ぬこともある恐ろしい症状なのだ。
「飲めるか?」
そう言って私は右腕でアナの体を支えつつ、左手に持ったコップを差し出す。
だがアナは、私と目が合った途端に目を逸らして下を向いてしまい、コップを取ろうとしない。
結んでいない髪が垂れ下がり、顔がよく見えない。
「さあ、お嬢様。
クッションを入れましたので、こちらに
いつの間にか使用人が直ぐ側に来ていて、アナの背中側にクッションを置いて凭れ掛かれるように準備していた。
その言葉を聞いたアナは奪い取るようにしてコップを手に取り、飛び出すように私の腕から抜け出てクッションに
あ……
突き放すようなアナの態度にショックを受けて固まってしまう。
「……その……お腹は空いていないか?
昼は食べていないと聞いているが」
何とか気を持ち直して再起動し、アナに尋ねる。
「少し……」
そうアナは答える。
ちらりと使用人を見ると、一礼して部屋を出て行く。
食事を用意するのだろう。
まだ正式に入婿になっていないので、本来ならこの家の使用人に指示する権限は私にはない。
だが、この家の使用人は私を家人同様に扱ってくれる。
「ジーノ様は、いつからそちらにいらしたのですか?」
顔の赤いアナが、上目遣いで私に尋ねる。
両手でコップを持っていて、小動物みたいで可愛い。
いつもは髪を複雑に編んでいるが、今日は髪を下ろしている。
こんな自然体のアナもいい。
「三時間ほど前からだな」
「三時間ですか!?
それは退屈されたでしょう」
アナは目を丸くする。
驚く仕草も可愛らしい。
「退屈ということはなかったな。
アナの寝顔を眺めていられたし、それに心配で落ち着かなくて退屈どころではなかったからな」
アナの無防備な寝顔は実に可愛かった。
何時間見続けても全く飽きない自信がある。
「……寝顔」
寝顔を見られたことが恥ずかしかったのか、アナはそう呟くとまた顔を赤くして
照れ屋のアナは本当に可愛い。
その後お喋りをしながら熱を測ったりした。
熱は下がったし、話をしてみても元気そうだし、私は一安心した。
そんなことをしているうちに使用人が病人食を持って来た。
何種類かの穀物をグズグズになるまで煮たオカーユと呼ばれる消化の良い料理だ。
「さあ。あーんするのだ」
使用人からオカーユの皿とスプーンを受け取った私は、オカーユを掬ってスプーンをアナに差し出して言う。
「あーん?」
私の言葉が理解出来ないようで、アナが私に尋ねる。
「そうだ。
私が食べさせるから口を開けるのだ」
そう言って私はずいっとスプーンを更に差し出す。
「あ、あの?」
アナは戸惑いを見せる。
しばらくの逡巡の後、真っ赤になりつつもオカーユを口に入れた。
首筋まで真っ赤にして咀嚼するアナを見て、思わず顔が綻んでしまう。
「ジーノ様?」
ニコニコと笑顔でアナを見詰める私を疑問に思ったのか、アナが声を掛けてくる。
「ん?
ああいや、可愛いなあと思って、つい見惚れてしまったのだ」
「か、かわっ!?
わ、わたくしがですか?」
「他に誰がいる?
私の目が今
更に真っ赤になるアナ。
ああ。可愛い!
抱き締めてしまいたい!
心の中でそう思ったつもりだったけど、感極まるあまり口から心の声がそのまま出てしまった。
アナは更に赤くなる。
直後、背後から使用人の猛烈な咳払いが聞こえた。
危なかった。
婚約者といえども、ベッドの上で妻ではない女性を抱き締めたら大問題だ。
この使用人だが、普段は私たちが気にならないよう私たちの死角に立つことが多い。
しかしこの日だけはあえて私の真正面に立ち、厳しい目を私に向けていた。
使用人女性の目線に耐えつつも、私はアナにオカーユを食べさせた。
照れながらも食べてくれるアナを見て癒やされつつ、アナと楽しくお喋りをする。
幸せって、こういう時間を言うのだろうな。
◆◆◆◆◆
バルバリエ家に帰ってから私は自室で一人考える。
熱を出したアナを見て、改めてアナが病気であることを思い知らされた。
今までは病気という実感が無く、少し容姿が人と違う人程度にしか考えていなかった。
何の病気なのだろう。
この世界の医療は相当遅れているが、動脈瘤や脂肪腫等なら症例も無く原因さえ掴めない「奇病」ということはないだろう。
私はふと前世で聞いた病気を思い出した。
『極度魔力過剰症』
確かそんな名前だったはずだ。
『魔導王』の称号が得られるほどの膨大な魔力を持つ人が罹患する病気で、すぐに死ぬことはないが全身に
『魔導王』となった女性のドキュメンタリードラマで見たことがある。
この世界の魔法文化は極端に遅れている。
魔力絡みの病である極度魔力過剰症なら、原因不明というのも十分にあり得る。
極度魔力過剰症は前世でも奇病だった。
それはそうだ。
『魔導王』の称号を得られるほど膨大な魔力を持つ人は、およそ十億人に一人の割合でしか生まれない。
その
前世では治療法が確立されていたが、詳しい治療法までは知らない。
私が治癒魔法師だったら即座に病名も分かっただろうし、私自身で即座に治すことだって出来ただろう。
だけど私は、前世ではゴーレムエンジニアだった。
残念ながら医療分野は畑違いだ。
うーん。
とりあえずアナが極度魔力過剰症なのか調べるのが先か。
極度魔力過剰症ではないなら、その治療法について考察する意味が無い。
まずはアナの魔力保有量を調べてみようか。
『魔導王』になるような人しか罹患しない病気なのだから、もしアナの病気が極度魔力過剰症ならアナの魔力保有量も『魔導王』レベルのはずだ。
もしアナの魔力保有量がそれに満たないなら極度魔力過剰症の線が消える。
調べる価値はある。
この世界は、前世の世界と比べて大きく文明が遅れている。
まだ個人の魔力保有量を測定する方法は、発明されていない。
いや、公開されていないだけかもしれない。
というのも、この世界の魔法使いたちは自身の魔法技術を門外不出にしてしまって、誰も一般公開しようとしないからだ。
前世では、画期的な魔法技術を開発した者には世界的権威のある賞が与えられ、特許を取れば莫大な財が得られた。
だから皆、競って最新魔法技術を公開していた。
前世とはエラい違いである。
まあ、公開されていなくても私なら測定出来る。
魔力保有量と魔法属性を測定するリトマール魔力試験紙なら、高校の魔法化学の実験で作ったことがある。
魔力保有量を正確に測定しそれを数値で表示する検査用精密機器を作るのは大変だが、そこまで正確なものは必要ない。
魔力保有量が『魔導王』レベルかどうか分かればいいだけだから、試験紙の色の変化で概ねの魔力保有量が分かれば十分だ。
よし。商会を通じて材料を集めるか。
私は明日以降の予定を決めて眠りに就いた。
リトマール魔力試験紙を作るのに必要な材料は、そこまで入手困難なものではない。
入手しやすいからこそ、高校での実験の定番だったのだ。
だから材料はすぐに集まった。
研究所は、商会経由では手配せず自分で不動産屋を巡って探した。
研究所は私個人が私的に使う予定なので、購入費用や機材などは全て私持ちだ。
色々探られることも考えて、街の名義貸し人に頼んで研究所の所有名義を貸してもらった。
商人になってから、不動産などの所有名義を貸してくれる商売があることを私は知った。
今回使ったのは、その名義貸し人だ。
名義貸し人に私は直接会わず、商会従業員の家族にかなりの金を握らせて仲介してもらった。
魔法関係のことに手を出すとき、私は慎重に慎重を重ねることにしている。
そうやって手に入れた研究所で、私はリトマール魔力試験紙を作ってみた。
大して難しいものではないので製作は難なく成功した。
◆◆◆◆◆
「この紙を口に含めばいいんですの?」
「ああ。頼む」
私は新商品のテスターという名目でアナの魔力保有量を測らせてもらうことにした。
「あら? 真っ黒になってしまいましたわ」
口から出した試験紙を見てアナはそう言う。
「おおおお。やっぱりか!
凄い! 凄いぞアナ!」
興奮のあまり立ち上がって叫んでしまった。
当たり前だけど、アナはなぜ私が興奮するのか意味が分からずきょとんとした顔をしている。
リトマール魔力試験紙は、魔力保有量が多いほど濃い色が出る。
そして表れる色は、その人の魔力の属性を示す色となる。
ただし、この試験紙では測れない人が
『魔導王』とその卵だ。
膨大過ぎる魔力量のため属性色が分からなくなるほど色が濃く出てしまい、試験紙が真っ黒になってしまうのだ。
これでアナは、十億人に一人しか生まれない『魔導王』の卵だと確定した。
もしこれが前世なら、報道記者がアナの元に殺到して明日の新聞の一面はアナの記事になるだろう。
テレビでも速報テロップが流れ、報道特番だって組まれるはずだ。
『魔導王』の称号保有者は、一人で一国の軍隊と渡り合えて、一人で大陸全土を火の海に変えることだって出来る超越存在だ。
その程度の扱いは当然される。
ここは魔法が恐ろしく遅れた世界だ。
もし私が前世の知識を使ってアナに魔法を教えたら、アナは間違いなく魔法使いの頂点に立つだろう。
だけど、私にはまだアナに魔法を教えるつもりはなかった。
『魔導王』は世界最強の兵器だ。
文明の遅れたこの世界なら『魔導王』一人いれば、大陸全土を版図とする空前の大帝国だって築き上げることが出来るだろう。
もしアナが魔法使いとして生きるなら、権力者たちがその圧倒的戦力を放置するはずなどなく、アナは兵器として生きることを強制されることになるだろう。
実際『魔導王』となった人には、英雄として華々しい人生を送った人も多いが、それと同じくらい悲劇の人生を歩んだ人も多い。
心優しいアナが「戦略級兵器」としての人生を強制されたら、悲劇となることは間違いない。
どれほど
兵器として生きれば、アナの心はズタズタに傷付いてしまう。
だからまだ、彼女に魔法は教えない。
もし教えるなら、絶対に他人に知られないように入念な準備をしてからだ。
教えるタイミングは今じゃない。
アナの病気で一番可能性が高いのは、やはり極度魔力過剰症だろう。
とはいえ、前世の私は入社から定年までずっとゴーレムエンジニアだった。
ゴーレムなら設計から製造ライン立ち上げまで何でもいけるが、医療用医薬品の製造や治癒魔法はさっぱりだ。
何でも治す万能薬や一つの魔法で全病気に対応可能な治癒魔法なんてものは、前世でも存在しなかった。
症状に合った薬、症状に合った治癒魔法はどうしても必要になる。
たとえ診断が確定しても、それに対応する治療方法を私は知らない。
知らないなら調べるしかない。
だが、調べるには危険な場所に足を踏み入れなくてはならない。
となると、まずは身を守るためのゴーレム作りからか。
高性能なゴーレムを作るには金が必要だから、その前に資金集めだな。
道のりの遠さに少し嫌気が差した。
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