第5話 侯爵令息へ (アナスタシア視点)
お父様よりお叱りを受けて二人での庭園散策は中止となり、また両家両親を交えての歓談となりました。
先程からジーノリウス様からのプロポーズの場面が何度も脳裏に蘇ります。
その度に恥ずかしくなってしまい、わたくしは赤くなっているであろう顔を隠すために下を向きます。
本当に、こんな素敵な方とわたくしは婚約するのでしょうか。
今日の縁談も絶対に駄目になると思っていましたのに……。
この眉目秀麗で才気煥発な方からプロポーズされたなんて……信じられません。
ソファに座っていましたが、ふわふわと体が浮いているようで現実感がありません。
はしたないとは分かっていても、つい目線はジーノリウス様に向いてしまいます。
その端正なお顔を拝見する度に、これほどお美しい方がわたくしとの結婚を望まれたということが信じられず、やはり夢ではないのかと思ってしまいます。
(っ!)
ジーノリウス様と目が合ってしまい、わたくしは恥ずかしくて目を逸らしてしまいました。
男性を見詰めるなんて、淑女としてはしたない行為です。
もちろん、ジーノリウス様にはしたない女だなんて思われたくありません。
でも、どうしてもジーノリウス様を意識してしまい、目が勝手にそちらを向いてしまいます。
(っ!!)
またちらりとジーノリウス様に目を向けてしまったら、なぜかジーノリウス様は優しげな笑顔でわたくしをご覧になっていました。
あまり笑われない冷涼な印象の方に突然笑顔を向けられ、わたくしの心臓は跳ね上がりました。
な、なぜわたくしを笑顔でご覧になっていらっしゃるのでしょうか。
あの笑顔には、どんな意味があったのでしょう。
動揺しているのが自分でも分かります。
それにしても、心臓に悪い笑顔ですわね。
まるで真冬の泉のような清涼な美しさの方が、あのように甘やかに笑われるなんて。
素敵過ぎてドキドキが収まりませんわ。
わたくし、先程からジーノリウス様のことしか考えていませんわね。
そういえば、恋をするとその方のことで頭がいっぱいになるとご本で読んだことがあります。
まさか、これは恋なのでしょうか!?
わ、わたくしが男性に恋するなんて、そんなことがあるのでしょうか?
やがてもう帰らなくてはならない時間となりました。
ジーノリウス様のお姿をちらりと拝見するだけで何かが胸いっぱいに広がって来て、とても良い気分になれました。
ですが、これからしばらくはジーノリウス様にお会い出来なくなると思うと気持ちが沈んでしまいます。
なぜ、わたくしはジーノリウス様のお顔を拝見出来ないだけで気落ちするのでしょう。
これはやはり恋なのでしょうか。
まさか、出会ったその日に恋するなどありえるのでしょうか。
確かにお美しくお優しい方だとは思いますが。
「手紙を書きます」
ジーノリウス様が表情の無いお顔でそう
その途端、先程までの鬱々とした気分は消し飛び、踊り出したくなるような気分になります。
「わ、わたくしも……」
なぜジーノリウス様とお話することがこんなに恥ずかしいのでしょう。
先程までは普通にお話が出来ていたはずです。
ですが、今はなぜか恥ずかしくてお顔を拝見してお話しすることが出来ません。
プロポーズされてから、わたくしがわたくしではないようです。
恥ずかしくて声も次第に小さくなってしまいます。
「ふふ。
ジーノリウスさん。娘をよろしくお願いしますね」
「はい。こちらこそ末永くよろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします」
赤くなった顔を隠すために
ですが、ジーノリウス様はお母様に
うう。
恥ずかしいですわ。
どうしてもっと淑女らしい優雅な対応が出来ないのかしら。
ジーノリウス様には、こんなところ見られたくなかったですわ。
◆◆◆◆◆
「アナ。素敵な方だったわね?」
お母様はそう仰います。
何も答えられませんでした。
プロポーズされたところを見られた記憶が蘇ります。
お耳が熱いです。
きっとお耳まで赤くなっているのでしょう。
何もお答え出来ず
「しかし、いかに有能でもアナを幸せにしてくれない奴にセブンズワースの爵位を譲ることは出来んぞ。
書類にサインして正式な婚約を決めてしまったのは勇み足ではないのか?
もう少し時間を掛けて、本当にアナのことを考えてくれる男なのか見極めた方が良かったように思えるが」
お父様が不満を口にされます。
どうやらわたくしがジーノリウス様のことで頭がいっぱいになっている間に、お母様がお父様の意見を押し切って正式な婚約をお決めになってしまわれたようです。
「それは大丈夫よ。
あのプロポーズを見たでしょう?
アナの幸せを考えるあの言葉は、本心からの願いだと言い切れるわ。
もう何年も貴族として腹の探り合いをしているんですもの。
あなただってそれは分かるでしょう?」
「それは分かる。
だから書類にサインしたんだが……」
やはりプロポーズのやり取りを、皆様はしっかりとお聞きになっていたようです。
穴があったら入りたいです……。
◆◆◆◆◆
それからジーノリウス様との文通が始まりました。
ジーノリウス様からのお手紙ですが、幅広い知識と深い見識、論理的な思考に驚かされました。
さすが十歳から商会を経営されているだけありますわね。
英明さが文章からも見て取れます。
そしてそのお手紙は、ジーノリウス様の誠実なお人柄が滲み出ているようでした。
何より驚かされたのは、その包容力です。
本当に同年代の方なんでしょうか。
ずっと年上の方に甘やかされているような、そんな感覚を何度も覚えました。
お手紙を読む度にジーノリウス様に心惹かれて行くのが自分でも分かります。
わたくしはジーノリウス様からのお手紙を読むのが楽しみになりました。
お手紙を頂いたらすぐに読み、暇を見つけては何度も読み返していました。
読み返す度に胸に温かなものが広がっていき、気分が晴れやかになります。
やはりこれは恋なのかもしれません。
すぐにでも次のお手紙が読みたかったのでわたくしは最速の速達で送ったのですが、ジーノリウス様も最速の速達で返信して下さいました。
何度最速の速達で送っても、毎回最速の速達でお返事が返ってきます。
もしかしてジーノリウス様もわたくしのお手紙を心待ちにして下さっているのでしょうか。
もし、ジーノリウス様がわたくしと同じお気持ちなら、何と幸せなことでしょう。
ああ。間違いありませんわね。
これは恋なのでしょう。
それにしても、たった一度お会いして、その後はお手紙のやり取りをしただけですのに恋してしまうなんて。
恋愛小説の主人公は簡単に恋に落ちたりしませんのに、わたくしは何とお安い女なのでしょう。
こんなにお手軽な女だったとは、自分でも存じませんでした。
まあ、それも仕方ないのかもしれませんわね。
醜いわたくしにここまで近付いて来て下さった男性なんて、今まで誰一人いらっしゃいませんでしたもの。
ジーノリウス様は、
◆◆◆◆◆
「改めましてご挨拶申し上げます。
バルバリエ家が二男、ジーノリウスと申します。
どうか末永くよろしくお願いします」
そう仰ってジーノリウス様は丁寧な礼を
初めてジーノリウス様とお会いしてから二ヶ月が経ちます。
今は婚約式の最中で当家の教会に関係者の皆様がお集まりになられています。
先程、神父様立ち会いの下での書類への署名も終わり、これで晴れてジーノリウス様がわたくしの正式な婚約者となりました。
久々に拝見したジーノリウス様ですが、服もバルバリエ家令息に相応しい上等なものへと変わり、初めてお会いしたときよりもずっと格好良く見えます。
スラリと背が高く清涼な美しさのジーノリウス様には、黒を基調とした礼装がよくお似合いです。
荘厳な造りの教会の中、お顔に表情を浮かべず涼やかに立つジーノリウス様にステンドグラスを通した陽の光が差すその様は、まるで一枚の絵画のような美しさでした。
気が付くと、そのお姿に見惚れてしまっていました。
周囲の女性がジーノリウス様を『
この氷の彫刻のように冷たく澄んだ美貌の方がわたくしの婚約者だなんて、何だか夢みたいです。
婚約式は関係者が挨拶をして書類に署名するだけなので二十分ほどで終わりました。
これからジーノリウス様はお召し替えをして、今日からお父様のお仕事をお手伝いしつつ公爵家の運営を学ばれます。
今日からジーノリウス様が毎日当家にいらっしゃるのです。
「仕事も大事ですけれど、アナのこともお願いね?」
お母様がジーノリウス様にそう言われます。
「もちろんです。
誠心誠意、大切にさせて頂きます」
そのお言葉を聞いて、またわたくしの心臓が跳ね上がります。
こんな素敵な方に大切にして頂けるなんて。
夢のようです。
ここ二ヶ月でわたくしの周囲の状況が目まぐるしく変わり、心がまだ付いて行けていません。
ジーノリウス様が正式に婚約者となったことに実感が持てませんし、ジーノリウス様から素敵なお言葉を頂く度にこれは現実なのかと考えてしまいます。
「今日は午後にお茶の席を用意したの。
仕事は程々にしてアナの相手をお願いね」
本来なら婚約者であるわたくしがお誘いしなくてはならないのですが、お母様が助けて下さり、わたくしの代わりにジーノリウス様をお茶会に誘って下さいました。
助かりました。
実は、まだ自分からお茶にお誘いする勇気がなかったのです。
「光栄です。
アナスタシア様とのお茶会、楽しみにしております」
ジーノリウス様はそう
動くお姿も優雅で恰好良いです。
この二ヶ月は所作とマナーを中心に学ばれたとお手紙にありましたが、本当に見違えるように優雅な所作になられました。
◆◆◆◆◆
午後になり、ジーノリウス様とのお茶会になりました。
今、ジーノリウス様はわたくしの目の前に座られています。
「あ、あの。ジーノリウス様。
お願いがあります」
わたくしは、ジーノリウス様にお願いの話を切り出しました。
『いいこと? アナ。
今日の目標は、ジーノリウスさんに敬語を止めさせることよ?
今日からもう正式な婚約者なんだから、敬語で話すのはおかしいでしょう?
立場が上のあなたが許可しないとジーノリウスさんはいつまでも敬語を使わなくてはならないの。
頑張って敬語なしでお話し出来るようになりなさい』
お茶会の前、お母様にそう言い付けられました。
今日、わたくしはジーノリウス様と婚約者としての会話が出来るようにならなくてはなりません。
そのためのお願いです。
「何でしょうか?
何でも
まるでわたくしを包み込むような包容力のある声でジーノリウス様が
「あの、もう婚約者なのですから、敬語を使わずにお話しして頂けませんか?
わたくしには様も付けないで頂きたいのです」
意を決してわたくしはジーノリウス様に申し上げました。
「ああ。そんなことですか。
分かった。
これからは敬語を使わず話すことにしよう」
「ありがとうございます」
急に敬語を止められたジーノリウス様の言葉をお聞きして、この方が本当に今日からわたくしの婚約者なんだと実感しました。
何だか恥ずかしくなり、下を向いてしまいます。
「私からもお願いがあるんだが、いいかな?」
「は、はい。何でも
男性から敬語無しの言葉で話しかけられるなんて、慣れていないので緊張してしまいます。
声が震えてしまいそうでした。
「私のことは『ジーノ』と呼んでもらえないか?」
え゛!?
い、いきなり愛称呼びですの!?
貴族令嬢が家族以外の男性を愛称呼びすることは普通ありません。
家族以外の異性を愛称で呼ぶのは、婚約者や恋人など親密な関係にある男性だけです。
つまり、愛称で呼ぶということはかなり親密な関係であることを自ら示すことであり、
それはつまり、あ、愛の告白なのです……
「さあ。私のことをジーノと呼んでくれ」
戸惑うわたくしにジーノリウス様が追い打ちを掛けて来られます。
もう逃げられません。
「ジ、ジーノ様」
ああ。
わたくしは生まれて初めて、男性に対して自ら好意を示してしまいましたわ。
お顔が熱いです。
恥ずかしいですわ。
とてもジーノリウス様のお顔を正視していられません。
お顔を下に向け目を
目を
ええええっ!!?
先程まではわたくしの向かいに座られていたジーノリウス様が今はわたくしのすぐ横に座られ、わたくしの左手を両手で握りしめていらしたのです。
「ありがとう。とても嬉しいよ。
君のことをアナと呼んでも?」
そう
きゃああああ!!
近い! 近いですわ!
そんな至近距離でその眩しい笑顔を向けないで下さいませ!
なぜわたくしの手を握られているんですの!?
心臓が早鐘のように鳴り、一瞬で頭が沸騰してパニックになりました。
「…………は……はい……」
まともな思考など出来るはずもなく、混乱のままにお返事をしてしまいます。
「ああ。アナ。私のアナ。
これからよろしく頼む」
私のアナ?
そ、それは、もしかして、恋人が恋人に対して使う愛情の籠もった言葉ではないでしょうか。
そんなことを言われるのは、恋愛小説の主人公だけではなかったのでしょうか。
まさか、わたくしが男性からそのように言われるなんて……
頭に熱が集まりすぎてくらくらします。
もう限界です。
心臓が破裂しそうです。
どうにかなってしまいそうです。
混乱しているのに、落ち着く暇もなく更なる混乱が巻き起こります。
「お嬢様。お茶が冷めてしまいましたのでお取替えします」
ブリジットがそう声を掛けてくれたので、ジーノリウス様はわたくしの隣から離れ、元の席に座り直されました。
ブリジットが水を差してくれたので、何とか気を失わずにすみました。
危なかったですわ。
婚約者とのお茶会とは、こんなにも正気を保つことが難しいものなのですね。
◆◆◆◆◆
(ジーノ様)
その日の夜、わたくしはベッドに入ってから心の中でジーノ様をお呼びしてみました。
恥ずかしさと嬉しさで、思わず一人ベッドの上を転げ回ってしまいました。
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