時すでに遅し

「水無月」

 女性の割に低く、重みのある声が降ってきて、水無月は身を固くした。

「こんにちは、伊月先生」

 読みかけの本に視線をやって、水無月は伊月との会話を切り上げたいという意思を鮮明に示した。それに気づくほどには察しがいいくせに、伊月はそれを無視して、水無月の隣に腰かけた。

 水無月の強張った声と迷惑そうな素振りに、伊月は悲しそうな目をして、水無月を見た。

「随分と、嫌われたものだな」

「……そうわかっているなら、話しかけないでほしいのですが。先生も、時間外労働は嫌いでしょう?」

 水無月は、隠し持った武器を、人を殺せる能力を、この女に向けてしまいたくなる衝動を、抑えるのに必死だった。理性が、今はいけないと言うのだから。水無月のそれは、今まで、限りなく正しかったのだ。無視する理由はない。

 ヴァイオレットの瞳が、水無月を見下ろす。

「昼ごはんはまだか、それとも、今日も忘れたのか?」

 水無月の抵抗もむなしく、伊月は水無月を追及した。これは、家庭環境に探りを入れられているのだろう。昼食を忘れたのか、そもそも用意してもらえないのか、買うお金すらも渡されていないのかという言外の問いが、水無月にも見えた。

 この言い方だと、昼食を持ってきていない日が他にもあることを知っているのだろう。

 これをかわすのは至難の業だと、水無月は直感した。マニュアルに沿って質問しているのではない。自分なりに、何らかの疑念を持って、水無月悠の現状を知りたがっている。

 まして、聡明な伊月だ。

「……夏バテですよ。暑いと食欲なくなるから、朝もあんまり食べられなくて」

 札幌の暑さの本領発揮は、夏休み中だ。だからこそ、夏休み前に夏バテ防止メニューなんかが書かれた保健だよりが配られるのだ。

 伊月が去年の水無月の様子を知らなければ、この嘘が見破られることはない。夏休み中に親戚一同を殺し終えれば、水無月が仕組んだことと知れなくても、水無月は元の中学へは戻らない可能性が高いのだから。

 そもそも、目的を達してしまいさえすれば、嘘と知れても大したことではない。虐待に怯えて本当のことを言えなかったのだと大半の大人が都合よく解釈するだろう。伊月はその大半の大人に含まれない可能性は高いが、それでも伊月一人の疑念くらい黙殺される確信があった。

「そうか」

 伊月が水無月の言葉を信じていないことは、火を見るよりも明らかだった。だが、伊月がこれ以上水無月に介入しようがないこともまた、事実だ。

 このやり取りに、勝者はない。


 伊月が去った後の図書館で、水無月は静かに苛立ちを募らせた。

 なぜ今なんだ。

 ただ一人虐げられていたときには、誰も、何も、助けてくれなかったというのに。

 もう、その手は必要ない。目的のためには、邪魔なだけだ。

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