思考を巡らせる

 水無月の現実は、依然として地獄だった。父親の不在時には水無月の食事はなく、母親からの暴言暴力の嵐が不規則に発生する。父親がいれば食事は用意されるが、その夜は父親に蹂躙される可能性が高い。

 常に心身のどこかしらに不調があった。

 ただでさえ、アルビノゆえに色素の少ない身体は日焼けに弱い。そして、水無月は目も悪かった。

 水無月の瞳を彩る青を、父親は美しいと褒めては興奮し、母親はそれを気味が悪いと罵った。父親はその美しい瞳を隠すことを許さなかったし、母親はおぞましいと断じた瞳の保護に一銭たりとも払いたくないのだった。

 結果として、水無月の瞳は、春の眩しさによるダメージから守られない。無防備なまま、陽光にさらされるのだ。

 その日は父親がいたので、暴力を受けることなく朝食にありつくことができ、水無月は朝が弱いながらも少しは頭の回る状態で家を出た。


 だからこそ、登校中に思考できた。

 あの電車内で、自分は何をしたか。

 水無月悠の世界に、神も仏もない。

 もしも、そういうものがあって、人を救う機構としてあるのなら、水無月悠を救済対象に設定していないにしろ、完全に人を救いきれないにしろ、機能不全の産業廃棄物だ。

 助けてくれる誰かも存在しえないことを、水無月は身をもって知っている。

 今まで出会ったどの教師も、水無月の成績を褒め、水無月が母親に疎まれているどころか、憎まれているであろうことからは都合よく目を逸らした。両親も、教師も、誰もかれも不完全な人間だ。

 よって。

 誰かによる救済であるはずはない。

 だとすれば、水無月自身だ。

 あのとき何をしたか。思い出すのも悪寒がする話だが、ここに鉱脈があると水無月の思考は探り当てていた。

 水無月悠への虐待が中学三年になるまで見逃されてきた原因の一つに、水無月悠が家庭で十分な学習環境を用意されていないとは思えないほどに、群を抜いて頭脳明晰であることが挙げられる。塾通いや家庭教師の授業などを課せられた同級生達より、嵐から避難しながら宿題をこなす時間を確保するのがやっとの水無月の方が高得点を取る。それも一つの現実だった。

 そんなわけで、周囲の誰も信用できない水無月が唯一信じられるものは、己の思考だった。

 たった一つの羅針盤が、水無月の命をかろうじて繋ぎとめていた。


 思い出してみれば、経緯は単純だ。

 水無月は地下鉄車内で男に痴漢された。

 当然憎悪を抱いた。殺意も同時に。

 そして、車内の鏡で、男と目が合った。

 そこから、男の様子に変化があった、気がする。

 自信はない。

 そして、次の駅で男は生涯を終えた。

 触られていたこと、もしくは鏡の中で目が合ったこと、またはその両方が、男に水無月の願った通りの行動をさせた原因なのだろうか。

 一例だけでは、あまりにサンプルが少なすぎる。

 今その現象への結論を出すのは時期尚早だ。もっとサンプルが必要だ。

 他人に思った通りの行動をさせるための条件を確定できれば、水無月悠の地獄は終わり、未来が拓けるかもしれない。

 荒唐無稽な妄想かもしれない。けれど、その妄想以外には、水無月の現実のどこにも、希望は存在しないのだ。

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