光射す

 “これ”がいわゆる痴漢であると水無月はずっと前から知っていた。儚げで顔立ちも美しい水無月に無遠慮に性的な視線を向け、蹂躙するような輩は、水無月の人生において、一人きりではなかった。実の父親をはじめとして、数多くの男に蹂躙され、母親に無視され、虐げられてきた。

 虐げる手から、水無月を守るものは、何もなかった。むしろ、水無月を痛めつけるものに、世界は望んで水無月を差し出した。

 地獄とは地上のことだと言ったのは、誰だったか。本当にその通りだ。

 アルビノゆえの儚げで美しい容姿に、その色彩の淡さとそのなかで輝くブルーサファイアの瞳に、魅了されるのだと言い、父親は常日頃から息子に欲を吐き出すのだった。

 “それ”に比べれば、電車での痴漢はましなのかもしれない。悪いことに変わりはないのにどちらがましかを考える時点で、水無月も感覚が麻痺している。


 水無月の尻に触れたその手は、やがて、前へと伸びてくる。死ねばいい、その手をへし折ってやる、と何度だって思うのに、水無月は抗することができなかった。そうしたところで、誰も水無月を庇ってくれもしないからだ。

 お前が誘ったんだろう。汚い子どもだ。穢れている。

 母の言葉が脳裏で反響する。助けなど、ない。ヒーローなんていないのだ。

 いっそ痴漢を殺して、少年院にでも入れられてしまえば、この地獄は終わるのかもしれないが、少年院はまた別の地獄なのは周知の事実だ。

 結局、水無月悠にできることは、誰かが助けてくれやしないかと期待することさえ諦め、終わるのを待つのみだった。

 吐き気がする。喉が焼ける。胃液がせり上がってきているのだろう。

 後ろで、男が息をしているのがわかる。荒い呼吸に、水無月は、絶望を深める。何駅だろう。この男が降りるまで、あと何駅耐えればいいのだろう。

 そのとき、水無月はただ鏡を見た。男と視線があった。にちゃあと効果音がしそうなほど、気持ち悪い笑みを浮かべた男に、ありったけの憎悪をもって、死ねと念じた。念じただけで、傷の一つもつきやしない。残念なことだ。

 何でもいい、今ここに、証拠を残さず人を殺せる武器が欲しいと、水無月は願った。

 ブルーサファイアの瞳が妖しく輝いたことを、水無月自身も、自覚しなかった。ましてや、水無月を蹂躙していた男はなおのこと、気づいていない。

 だが、男の動きには、明確な変化があった。水無月を蹂躙していた手を離し、次の駅で、何事もなかったかのように、電車を降りていった。


 解放された、と安堵した水無月が目にしたのは、ホームを突っ切り、反対方向の電車に飛びこむ、先ほどの男の姿。目の悪い水無月でもわかる、飛び散る血と肉に、騒然となるホーム。それでも、水無月の乗った電車は動いていく。

 電車の白い車体に赤が映えて綺麗だった。情報を処理しきれない頭で、水無月が最初に思ったのはそんなことだった。

 やがて、頭が常の冷静さを取り戻した。

 あの男が、自分を蹂躙したものの一つが、死んだのだと思うと、水無月は爽快だった。幸せと呼べるものを感じた記憶はないのだが、もしかしたら、これをそう呼ぶのかもしれない。

 喉を焼いていた胃液もいつの間にか消え、傷の絶えない身体の痛みすら和らいでいくようだった。


 駅を出て、別の地獄へ帰る。ただ冷遇されるだけの場所に、冷遇されに行く。

 殺されるために育てられる家畜のようだと内心で呟くやさぐれた感情はあるものの、少しばかりの光は射していた。

 いつもは傷を痛ませるだけの冬の冷たさを残す風が、心地よく感じられた。


 翌日のニュースであの男の死を確認し、水無月はひそかに口角を上げた。

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