冷えていく心

「エアコンが効き過ぎているようなところでは熱いものを飲むのがいいが、それにしてもここは効き過ぎだな」

 そう言いつつも、伊月はカーディガンなどは羽織らない。鍛え上げた筋肉があれば、エアコンの直撃など大したことでもないのだろう。水無月もそこそこ鍛えてはいるが、伊月曰く、「素質がある方ではない」ので、その域には達しない。

 地下にあるこの部屋には、八月真っただ中の、暑さを増してくるような蝉の声などはしない。

 水無月は、処刑を待つ罪人のごとく、緊張して、紅茶に手をつけるどころではなかった。

 伊月のきらめくヴァイオレットの瞳が、怖い。近況を聞いた後に、八年前の出来事が持ち出されるのは明確だった。そうでなくても、水無月は伊月とそりが合わない。明確に、人として合わない。伊月を前にして、ガタガタと震えていた時期もあったほどだ。今は、そこまでではないが、恐怖と警戒が消えることはない。もちろん、嫌悪感も。

 伊月が水無月の紅茶の横にいくつか角砂糖を置いた皿を差し出した。

「甘い方が好きだっただろう」

「そう、ですね。ありがとうございます」

 水無月は緊張を解かずに、五つほどある角砂糖を全部カップの中に入れた。飲まないわけにもいかない空気を察して、口をつける。

 紅茶は温かいが、心はひたすらに冷えていく。水無月は、伊月の前では無力な子どもなのだ。成人しても、それは変わらない。

「それで、最近はちゃんと眠れているのか」

「睡眠薬を処方されているので、それなりに」

 精神科や心療内科でされそうな質問だとは思う。実際、伊月は監視者の提携先の精神科に水無月を診せようとしたこともあるが、当時の水無月が拒否し、「そんなことをしたら相手を殺す」とまで宣言したために、伊月が折衷案として水無月にこの面談を義務づけた。

 伊月は能力者ではないが、能力に耐性がある。水無月の能力に対しても抵抗が可能だ。伊月は水無月のことを警戒しているが、排除するわけにもいかないから、こうして接触を続けているのだろう。水無月は伊月のそんなところも、嫌いだった。基本的に利害で動くが、あるべき理想をもっていて、そのために妥協しない伊月という人間は、非常に、やりにくいのだ。

「大学に入ってから顕著だが、おまえは本当に夜型だな、悠」

 水無月の心拍などのデータは常に監視者のシステムに送られている。職員であると同時に監視対象であるからだ。

「一限がきついですね」

 朝が弱くて、機嫌が悪く、朝に同期と衝突することもあった高校時代を思い返し、水無月は大学生になれてよかったと心から思っていた。

 渋い顔で、伊月が切り出した。

「いつも通り、近況と今後の話、といきたいんだがな。おまえもそろそろ後輩の指導をするべきだろうということになっている」

 表情こそ変えなかったものの、水無月は気が重くなった。監視者においては、先輩が後輩を指導するメンター制度というものがある。伊月が今水無月にしているように、後輩の指導をし、ケアをし、精神的に不安定になりがちな能力者が悲しい最期を迎えないように考案されている。メンター制度自体は元からあったが、それらを強化したのは、伊月の世代らしい。

 何をどう取り繕っても、無駄だ。水無月は身に染みてそのことを知っている。

「俺に、できるとお思いですか」

「いや、思っていない。私は、まだ早いとおまえが成人したばかりの頃から言い続けている。それからそろそろ二年。私の力では抑えるのが難しくなってきた」

 はあっとため息をついて、伊月は自身の髪に触れる。

「悠もやりたがらないだろうし、何よりろくなことにならん。だけど、いずれやらねばならない。能力者なんて深刻な人材不足だからな。そうでなければ、私はここにいない」

 非能力者でありながら、能力者と渡り合う戦闘力の持ち主でさえ、ままならないことがあるのか。水無月は少しばかり目を見開いた。伊月には見えていないだろうが。

「でも、俺には、無理です」

 水無月は伊月が嘘を見抜くのを知っていた。能力と呼べるほどのものではないが、伊月の前で水無月は嘘をつけない。

「会ったばかりの頃よりは取り繕うのが上手くなったが、おまえのそれは紛い物だからな。紛い物にできないことというのも、世の中には――」

 伊月が苦い顔をして話しているのを遮るように、ドアを叩く音がした。

「直ちゃん! 直ちゃん開けて!」

 甲高い声に、水無月は身を固くする。普段穏やかで温和な振りをしていても、子どもは苦手なのだ。きっと、あの子だ。肩につくかつかないかのところで、ブロンドが揺れる、外国の血が入っているらしい、性別不詳の子ども。

 固まった水無月を放置して、伊月は立ち上がり、ドアを開けて目の前の子どもとその付き添いだったらしい少年を招き入れた。

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