第84話 二年孟夏 苦菜秀でる 3



 夕刻、左羽林軍の詰所にいた理淑に呼び出しがあった。面会に来た者が外で待っているという。


「誰だろ」


 外へ出て見まわしてみるが、誰もいない。辺りを少し探しても気配もない。首を傾げながら中へ戻ろうとした時、不意に空気に緊張が混じった。立ち止まり、振り向きざまに腰の剣を抜いて頭上に構えると同時に、剣を持つ手を衝撃が襲った。金属と金属のぶつかる音が響く。


 突然の襲撃に、理淑の神経が逆立つ。


 が、構えた剣の向こうに見えた不意打ちを仕掛けた犯人を認め、理淑が笑顔になる。


「誰かと思ったら、月季殿!」

「久しぶりね」


 剣を離して構えを解きながら月季がほんの少し笑う。

 そこへ、剣の交わる音を聞いた兵士達が、何事かと飛び出して来た。先輩兵士が剣を抜いている理淑と月季を見て、腰に下げた剣に手をかけた。


「大丈夫! お友達!」


 理淑が慌てて言うと、兵士は剣の柄から手を離し、改めて月季を見た。

 目立たない鉄紺色の胡服に、髪は麻の紐で一つにまとめただけの上、化粧気もほとんど無い。にもかかわらず目を引くその美しさに目を見張る。


「これは。紅国の公主ひめ様」


 月季の顔を見知っているようで慌てて拱手をする。


「騒がせて申し訳なかったわ」


 月季が剣を仕舞いながら言う。理淑も剣を腰に収める。


「本日は、どういったご用向きでいらっしゃったのでしょうか」


 困惑する兵士からのその問いに、月季は目を逸らして、ちょっとね、と言葉を濁す。


「陛下か大雅殿のお供ですか?」


 また誰かがお忍びで来たのかと、理淑がこそりと聞くと、月季は気まずい顔になる。


「……いいえ。私一人」


 らしくない歯切れの悪さに理淑が月季を見つめる。いつもの勝気な光は、琥珀のような美しい瞳に少し足りない気がした。

 理淑は様子を窺っている禁軍兵士達に振り向く。


「すみません。月季殿をご案内して来ます」


 そう言うと月季に向き直り、行きましょう、と促した。


「何かご用事があったんですか?」


 案内すると言ってみたが、特に行く先も決めないままぶらぶらと歩き出す。月季は理淑の問いにも、ええ、まあ、と曖昧に答えた後、とってつけたように言う。


「休暇をもらって来たの」


 理淑は目をしばたたかせたあと、それ以上は聞かずに嬉しそうに言った。


「じゃあ、ゆっくりしていけるんですね」


 理淑の笑顔に月季の強張っていた頬が緩む。そして眉を下げて一つ息を吐いた。


「貴女のそういうところ、好きよ」


 その小さな呟きには気づかず、浮き浮きとした理淑が月季の手を取る。


「昊尚殿は知ってるんですか?」


 理淑が聞くと、再び月季の目が泳ぐ。


「言ってないわ」

「じゃあ、顔を見せに行きましょう」


 そう言うと理淑は、月季をぐいぐいと引っ張って歩いた。



 昊尚の執務室の前で理淑が名前を告げると、許可の返事があった。「失礼します」と声を掛けながら戸を開けると、昊尚は執務机にもたれている壮哲と話をしているところだった。


「あ、陛下。お話し中でしたか。申し訳ありません」


 理淑が入り口で姿勢を正して立ち止まる。


「いや。構わん。もう終わった」


 壮哲がもたれていた机から体を起こす。


「月季じゃないか」


 理淑の後ろに月季を見つけると、驚いたように昊尚が立ち上がった。それを月季が気まずそうな顔で見返す。


「どうした? 大雅から何か言付かってでも来たのか?」

「お休みをもらって遊びに来てくれたんだって」


 理淑が代わりに答えながら、月季を前に押し出して中に進む。


「何だ、珍しいな。じゃあ、ゆっくりしていけばいい。あまり相手はしてやれないけどな」


 昊尚が笑うと、月季が顔をしかめる。


「別に彰高に相手をしてもらおうと思って来たわけじゃないわ」


 月季は相変わらず昊尚のことを、喜招堂のあるじとしての名前で呼ぶ。


「……もしかして、一人で来たのか?」


 月季が供を連れていないのに気づき、昊尚が厳しい顔をすると、月季がしれっとして横を向く。


「そのうち追いつくんじゃないの?」

「撒いて来たのか」


 呆れて溜息をつきながら、「仮にも紅国の公主ひめだろうが」と小言を始めた。


「まあまあ、昊尚。もうすぐ来るんだろう。取り敢えず無事だったからいいじゃないか」


 壮哲がそっぽを向く月季に苦笑しながら取りなす。

 そこへ扉の外から声がかかった。範玲が史館の用事で訪ねてきたようだ。


「姉上だ」


 理淑が壮哲に許可を得て扉を開けると、目の前に現れた理淑を見て範玲が目を丸くする。そして、室内をちらりと見て躊躇いがちに理淑に聞いた。


「ごめん……。何か取り込み中だった?」


 昊尚の執務室の中が思いの外賑わっていたことに躊躇し、入りあぐねる。


「大丈夫だ。どうした?」


 昊尚が範玲に声をかけると、理淑が「入って入って」と範玲の手を引く。


「順貴殿から、これを預かってきました」


 手に持っていた書類を範玲が差し出す。

 書類を手渡すと、範玲は「失礼しました」と月季に会釈し、早々に退出しようとした。


「そう言えば、初対面か」


 昊尚が範玲の態度で思い当たる。


 朱国で月季と対面をしたのは範玲の身代わりをしていた理淑だった。月季も、あの時の範玲が実は理淑であったことは、後に聞いて知っていた。先日の朱国での騒動の際も、昊尚が範玲を直ぐに蒼国へ帰したため会うことはなかった。だから、二人が顔をあわせるのはこれが初めてということになる。


「範玲殿、これは紅国の公主の月季。大雅の妹だ。休暇で来たそうだ」


 範玲を呼び止めて昊尚が月季を紹介した。月季が強張った顔で会釈をする。


「芳月季です」


 範玲は、「あ」と声をあげると、ふわりと花がほころぶように微笑んで、嬉しそうに言った。


「お初にお目にかかります。理淑の姉の夏範玲です。よくしていただいていると理淑から聞いています。お会いできて嬉しいです」


 範玲に屈託のない好意を向けられて、月季が毒気を抜かれる。


「……理淑殿と似てますね」


 月季が言うと、範玲は「そうですか?」と少し首を傾げて照れたように微笑んだ。

 月季はその可憐な姿に眩しそうに目を細める。

 首を傾げた範玲の耳で亀甲形の青い耳飾りが揺れた。


 あれは。


 その耳飾りの出所を、月季は知っていた。


「今日はこれからどうするんだ?」


 昊尚が月季に聞く。


「……決めてない」

「何だ。じゃあ、うちの屋敷に連絡しておく」


 昊尚が言うと、理淑が抗議の声を上げた。


「え? うちに来てもらおうと思ったのに!」

「しかし、突然のことだ。迷惑だろう」

「大丈夫大丈夫。ね、姉上」

「ええ。もちろん」


 三人が月季の滞在先についてあれやこれやと話し始めた。自分のことを話しているそのやりとりを月季は黙って見ている。


「理淑に随分懐かれてるな」


 壮哲が笑いながら月季に声をかけた。しかし、それに気づかないようで月季はぼんやりと立っている。


「どうした?」 


 再び声をかけたが、月季からは返事がない。

 月季の視線の先を追うと、そこには昊尚がいた。その昊尚は範玲に笑いかけている。


 そういえば。


 壮哲は、佑崔が前朱国王の在位四十周年での出来事を報告した際に、余談ですが念のため、と言って付け加えた話を思い出した。


 "月季は昊尚に好意を持っているらしい"


 精彩を欠いた顔で立ち尽くす月季に視線を戻す。その琥珀色の瞳は今にも泣きだしそうに見えた。

 壮哲は頭を掻くと一つ息を吐き、月季の背中を、ばしっと叩いた。


「痛っ!」


 ぼんやりしていた月季が思わず声を上げ、壮哲を睨む。


「何するのよ!」

「どうだ。手合わせでもするか」


 壮哲から返ってきた言葉に、月季は一瞬ぽかんとした後、苦いものを食べたような顔になって目を逸らした。そして、ちら、と壮哲を窺うと、ついと顎を上げ居丈高に言った。


「いいわよ。元禁軍将軍のお手並みを見せてもらおうじゃないの」


 琥珀のような瞳に気の強そうな光が戻ったのを見て、壮哲が笑う。


「ああ。存分に」


 そのやりとりに、月季の滞在先をめぐって話し合いをしていた理淑が振り向く。


「壮哲様! 私も!」


 理淑が慌てて手を挙げた。


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