第82話 二年孟夏 苦菜秀でる 1



 鮮やかな緑色の葉が、陽の光を浴びて揺れる。その眩しさに目を細めながら早朝の新しい空気を吸い込み、夏範玲は史館の建物を見上げた。


 随分久しぶりに感じる。十日以上休んでしまった。


 吸い込んだ息を一息に吐くと、ふと目の端に赤い花が咲いているのが映った。

 建物の脇の木香茨もっこうばらは、もう花の時期はすぎているはずだ。でも、一番端の立木が一重の赤い花をつけている。

 ここにあるのは全て木香茨だと思っていたけど違ったのか、と確かめるために足を向けたところに声がかかった。


「おはようございます、範玲殿」


 いつも史館に一番早く出勤する杜正宗だった。

 今日は久しぶりの出勤ということで、範玲が普段より早く来たため同じくらいの時間になったようだ。


「おはようございます」


 いつもの当たり前の挨拶を返せるのが嬉しく、自然と笑顔になる。


「もう大丈夫なのですか?」

「はい。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」


 範玲が頭を下げると、正宗はいつもと変わらない静かな笑みを浮かべて首を振った。

 範玲は送ってくれた子常に、じゃあ、と手を振ると、正宗とともに史館へ入った。

 執務室は、相変わらず書類と本で雑然としていた。その変わらなさに日常へ戻ったという実感が湧く。素っ気なく迎えてくれる部屋が嬉しくてたまらない。

 範玲の机には、書類や本が積まれていた。


「すみません。仕事が山積みですね。君山殿が、それは範玲殿が帰ってきたらやるから、って急ぎのもの以外は他の者にやらせてくれなかったんです」


 正宗が机の上の山を見て、ふふ、と笑い、続けた。


「嫌がらせじゃないですよ。願掛けのつもりだったのでしょう。君山殿も貴女が戻るのを首を長くして待ってたんですよ」


 君山の思っていなかったその心遣いに、範玲の碧色の瞳がじわりと湿っぽくなる。

 朱国の皇子である范雲起により拉致され、もう蒼国へは戻ってこられないかもしれないとも思った。だからこそ、自分の望む場所に居られるということは、実は当たり前のことではないということを身にしみて感じている。それ故、範玲は自分を受け入れてくれる全ての人に感謝した。

 席に着くと、範玲は溜まった書類の整理をはじめた。

 それすらも、ただただ楽しい。鼻歌が出てしまいそう、と範玲が思っていたところに、入口の戸が開いた。


「範玲様」


 戸口で範玲の名を呼んだのは、尚食の女官の陶珠李だった。


「申し訳ありませんでした」


 範玲の姿を確認するなり、青い顔をして頭を下げる珠李に、範玲が驚く。


「え? どうして?」


 手にしていた書類を机に置くと、まだ入口付近にいる珠李の元へ急ぎ、折った腰の前でぎゅっと握りしめられた手を取る。


「……私が迂闊に捕まらなければ……」


 頑なに頭を下げたまま声を震わせる珠李に範玲は慌てた。範玲が朱国に連れ去られたことに対して、珠李が責任を感じているのだ。


「待って、珠李殿には何の落ち度もないじゃないですか。むしろ、謝らなくてはいけないのは私の方です。私のせいで珠李殿が危険な目にあったんだし……」


 雲起が範玲をおびき出すために、珠李を捕らえて囮にしようとしたのだ。どう考えても珠李は被害者だ。


「お願いだから頭を上げて」


 ようやく顔を上げかけた珠李が、自分の手を取っている範玲の手を見て再び泣きそうになる。

 範玲の手は包帯が巻かれていた。朱国で範玲が無茶をしたために負った怪我のためだ。

 珠李の視線の先に自分の手があるのに気づき、範玲が慌てて早口になる。


「この手は私が無茶をしたからであって、私が悪いんです。それにもう大丈夫です。文始先生がとても良く効くお薬をくださったので。包帯は念のためにしているだけだから」


 ほら、と少し包帯が邪魔になるが手の指を動かして見せ、本当にもう大丈夫だということを示す。

 珠李が涙目の顔を上げると、範玲と目が合う。その碧色の瞳が曇ることなく相変わらず美しいのを確認すると、珠李はようやく安心したように息を吐いた。


「……範玲様、ご無事で本当に良かった……」


 心から案じてくれていた珠李に、範玲の胸がじんわりと熱くなる。


「珠李殿こそ、髪を切られたのでしょう? 酷いことを。許せない」


 珠李を連れ去ったことを知らせる文と一緒に、珠李の髪が一房送られてきた。それを思い出し範玲が身震いをする。


「結ってしまえばわからないので」


 憤る範玲を宥めるように言うと、珠李が少し悪戯っぽく笑った。


「それに、私の髪を切った奴は暴れて思い切り蹴飛ばしてやりました」


 珠李はけろりとしているが、範玲は、良くぞ無事で、とひやりする。


「あれ? 珠李殿?」


 そこへ周順貴と珠李の兄の陶志敬がやって来た。入口に立っている後ろ姿で珠李と気づいたようだ。


「珠李、早く出てったと思ったら、ここにいたのか。おっ、範玲殿! もう平気ですか?」


 珠李の陰から顔を覗かせた範玲を見つけて志敬が声をかけた。

 入口を塞いでいたことに気づいた珠李と範玲が部屋の中へと入り、志敬たちに道をあけながら範玲が言う。


「はい。もう大丈夫です。長らくお休みをして申し訳ありませんでした」


 ぺこ、と頭を下げる範玲に、二人は、良かった良かった、と笑顔を見せた。相変わらずのゆったりとした雰囲気が範玲の心を和ませる。


「珠李、お前、自分の職場に戻らなくていいのか。そろそろ時間だぞ」


 志敬の言葉に、珠李はもう一度範玲の無事に感謝する言葉を述べ、部屋を後にした。




**




 その頃、王の執務室では、昊尚の報告を聞き壮哲が眉間に皺を寄せていた。


「怪我人は?」

「二名、折れた木材が倒れて軽傷を負いました。重傷者や死亡した者はおりません」


 昊尚の答えに壮哲が、そうか、と被害が少なかったことに安堵する。


 蒼国は来年、建国二百周年を迎える。その記念事業として、建国の三氏を祀る宗廟を蒼泰山に新たに建設することになっている。前王の周啓康から引き継いだ事業だ。

 現在宗廟の建設が進められているのだが、その現場で建物に使用する木材が設置途中で折れるという事故が起こったのだ。


「しかし、そんなに簡単に折れるものなのか?」

「通常はそう簡単に折れたりしません」

「じゃあ何故だ」


 壮哲の問いに昊尚が書類に目を落としながら答える。


「まだ調査中なので詳細はわかりませんが、木材自体に原因がありそうです」


 昊尚が注意深く続けた。


「折れたのは翠国から買い付けたものでした」


 壮哲が眉間に拳を当てて、むう、と唸る。


 翠国は正式名称を橦翠国といい、桐氏が王を務める国だ。国土の多くを森林に覆われ、その恵みを受けて栄えている。蒼国とは国境を接してはいないが、古くからそこそこ親交がある。

 この度の宗廟の建設のために、木材の一部が翠国から買い付けられた。今回折れたものがそのうちの一本だったという。


「翠国からは、最上級のものを用意したと聞いているぞ」

「はい。私もそう聞いております。今回の翠国からの木材は、記念事業に使用するということもあり、特別に選木の段階から三司の柳副使が直々に担当してくれたはずです」


 昊尚が補足を入れた。


 三司というのは、翠国の財政を担当する部署で国政の中枢の一翼を担っている。その長官である計相の下に、副官である副使が三名いる。そのうちの一人である柳氏は、翠国の収入の多くを引き受ける林野に関することを統括している。通常、副使が実際に木材を扱う現場に出ることはないので、今回それ程配慮してくれているということなのだが。


「その柳氏の仕事に不備があったということなのか?」

「……副使は木材に大変詳しいですよ。それに、適当な仕事をするような人物ではないはずです」

「知っているのか」

「はい。喜招堂が翠国から木材の仕入れを始める際に、何度か会ったことがあります。まだ若いのですが有能と見受けられました。皇太子にも信頼されているようで、先日の朱国の在位四十周年祝賀の時にも、随行していました」


 昊尚が思い出す限り、喜招堂にいい加減な対応をされた覚えはない。


「そうか。しかし、事故が起こってしまったのは事実だ。原因の究明を急いでくれ。何らか人為的な原因があるのならば尚更だ」


 壮哲が溜息をつく。


「蒼国側の人間が関わっているかの調査は碧公に任せるといい」


 壮哲が昊尚に指示した。

 

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