第54話 二年仲春 雷声を発す 2


 数日後の午後、昊尚の執務室に藍公付きの事務官が声をかけて入って来た。


「藍公にご用があると訪ねておいでの方がいらっしゃると、皇城から連絡がきてますが……」

「誰?」

「それが、郭文陽とおっしゃるそうですが……。どうされますか」


 名前を聞いて、昊尚は思わず立ち上がった。


「すぐにこちらに通してくれ」


 執務室には、喜招堂の明遠が昊尚の執務室に来ていた。明遠は、昊尚が藍公となって以来、喜招堂を任せている人物だ。


「じゃあ、すまないが、先程の段取りで頼む」


 昊尚が明遠へ指示をすると、明遠は黙礼をして下がって行った。



 事務官に案内されて、昊尚を訪ねて来た人物が執務室に入ると、昊尚は事務官を別の用事に出した。

 扉が閉まり事務官が遠ざかったのを確認すると、昊尚が跪いて言った。


「陛下、ご無沙汰をしております」


 昊尚を訪ねて来たのは、峯紅国王の芳慧喬であった。


「驚きました……」


 昊尚が頭を上げる。旅装束に身を包んだ慧喬は三人を供に連れていた。

 慧喬は時々身分を隠してふらっと内密に出かけることがある。大国の王でありながらだ。

 大雅に話は聞いていたが、昊尚が実際に目の当たりにするのは初めてだ。側近達を気の毒に思いながら聞く。


「陛下がそのように気軽にお出かけになって大丈夫なのですか? しかも供が少ないようにお見受けしますが……」

「大事ない。大体、お前に言われたくない」


 先日の昊尚が一人で玄海に行こうとしたことを皮肉っているようだ。


「私とはお立場が違います。万が一陛下に何かあったら」

「余が一人いなくなって倒れるような国造りはしておらぬわ」


 不機嫌に言う。


「大雅を置いて来たから支障なかろう。あれにもそろそろ自覚して一人立ちしてもらわねばな」


 大雅が昊尚に付き合って突然玄海に行くことにした時に、慧喬は怒らないから大丈夫だと大雅は言っていたが、そうでもなかったのではないか、と昊尚はちらりと考える。あの時、玄海で大雅を命の危険に晒してしまったことを思うと、今更ながら肝が冷える。

 しかしそんな慧喬に従っているのはたったの三人。


「お久しぶりですね」


 穏やかな笑顔で静かに言うのは、昊尚とも面識がある郭文陽という慧喬の側仕えだ。慧喬がお忍びで出かける時は必ず付き従う。旅の一行は、大店おおだなの主人の文陽が供を連れて旅をしているというていだそうだ。そして体格の良い男。この男は、紅国の禁軍一番の手練れだという。

 それからもう一人。恐ろしく美しい顔をした若者。


「月季、久しぶりだな」


 昊尚が若者に向かって言う。男の成りをしているが、実は慧喬の末の公主ひめだ。年齢は理淑よりも一つ上になる。

 月季という薔薇しょうびの花の名を持つ公主ひめは、昊尚を睨むと、ふい、と横を向いた。


「彰高が顔を出さなくなったからじゃないの」


 昊尚は月季のことをまだ九つの少女だった頃から知っている。月季は兄の大雅と行動を共にすることが多かった昊尚には、何故かいつも憎まれ口をきいていた。今でも昊尚のことを彰高の名で呼び捨てにする。

 名前のとおり華やかで目を奪われるほどに美しい公主であるが、母親であり国王である慧喬を崇拝しており、普段からその警護のため付き従っている。

 相変わらずの仏頂面に苦笑いで返すと、慧喬に向き直った。


「今日はどうしてまたお忍びでいらっしゃったのですか?」


 慧喬が突然僅かな供だけを連れて出かけるのは、実際に自分の目で見ないとわからないことが多々あるからだ、と大雅が言っていた。今回も何か気になることがあったのだろう。


「朱国に行って来た」


 昊尚の睫毛がわずかに動く。

 それに気づいた慧喬が、片眉を上げる。


「お前は何を聞いておる?」

「……それは、当国のあるじに会っていただいてからお答えしてよろしいですか?」


 昊尚は話を進める前に、紅国の主を壮哲に引き合わせることを選んだ。


「非公式にな」

「無論です。まさか泣く子も黙る紅国王がふらりといらっしゃっていると知れたら、大騒動になります」

「相変わらずお前は可愛くないな」

「お褒めいただき恐縮です」


 昊尚は笑うと、事務官を呼んだ。



 昊尚は慧喬の一行を内廷の客間に案内した。正式な会見ではないからだ。

 そこには既に壮哲と英賢、それに縹公も待っていた。他は佑崔以外は人払いがされている。

 慧喬の顔を見ると、壮哲が立ち上がって拱手する。続いて英賢、縹公が跪こうとすると、慧喬が手をひらひらと振ってそれを止めた。


「此度はそのような挨拶はいらぬ」


 それを受けて壮哲が、では、とにこりと笑う。


「初めてお目にかかります。蒼国第十一代王の秦壮哲です」


 媚びる様子もなく、普通に年長の者に接する態度で壮哲が挨拶をする。旅姿の慧喬が鋭い目つきで蒼国の主を見る。


「紅国の芳慧喬だ」

「お立ち寄りくださり、ありがとうございます」


 慧喬の眼差しにも臆することなく壮哲が和かに言うと、慧喬が目を細める。

 どうやら蒼国の主として壮哲は慧喬の眼鏡に適ったようだな、と昊尚が内心で思う。

 各々簡単に挨拶を終えると、卓につく。


「突然立ち寄ったのは他でもない」


 慧喬が上座に案内される。流石にいつもの峻厳な空気を薄めてはいるが、普段と違う質素な胡服を着ていても漏れ出す威厳は他を圧倒する。

 昊尚はそれを横目で見つつ、お忍びで出歩く時はこの威厳をどう隠しているのか、と不思議に思いながら持って来させた茶器で茶を入れはじめる。

 昊尚が商人として紅国に出入りしていた時、慧喬が茶を好むことを知って、珍しい茶などを仕入れてはよく献上した。最初の時に昊尚が自ら茶を入れて出すと、いたく気に入ったようで、それ以降慧喬はよく昊尚に茶を入れさせた。

 今回も、人払いしてあることもあったので、昊尚が茶を入れることにする。


「知らせてやろうと思ってな」


 腰を下ろしながら慧喬が淡々と言う。


「恐らく武恵が皇太子を降ろされる」



 朱国には三人の皇子がいる。

 皇太子だけは現王妃の澄季の実子ではなく、先の妃の子である。

 朱国王には澄季の前に李静佳という正妃がいた。大変仲睦まじかったのだが、長らく嗣子ができずにいた。漸く男児を産むと静佳妃は体調を崩し、皇太子がまだ幼い頃に亡くなっている。その後、朱国王が澄季を是非にと正妃に迎えると、澄季は皇子を二人生んだ。そのうちの一人が、范雲起だ。

 皇太子の范武恵は、亡くなった先の王妃に良く似た、誠実な人柄との評だ。朱国王も、澄季を寵愛しながらも、皇太子をげ替えようとすることはなかった。

 それなのに、ここへ来て一体何があったのか。


「武恵が澄季に毒を盛ろうとしたらしい、という話だ」


 馬鹿馬鹿しい、と言外ににじませて慧喬が言う。


「そのような愚かなことをする者ではないのはわかろうに」

「それで、廃太子ということに?」


 壮哲が聞く。


「そうなりそうだ」

「澄季殿下はご無事なのですか?」

「あれが毒殺されるような女か」


 鼻で笑う。


「それに、どうも近頃、徳資殿の様子がおかしいようだ」


 徳資とは、現朱国王のことだ。


「おかしいとはどういったことでしょうか」


 嫌な予感を覚えて、茶を出しながらつい昊尚が聞く。


「そもそも朱国のあの状況を放っておくような御仁ではなかったはずだ」


 慧喬が不快を顔に出す。

 農耕神の后稷の加護を持つ朱国は、良質な土が生み出す農作物に支えられる農業国だ。しかし近年、天候の不良などにより、不作が続いている。ところが、それに対する国としての対応策もなく、農家からは今まで通りの税を徴収。また、これまで全て自国でまかなっていた国内用の食糧すら不足してきているという。


「元は穏やかな、臣の話をよく聞く王だったのだがな。以前とは人が変わったようになってしまって、今は一部の家臣としか話さなくなったようだ」

「……まさか、呪禁師が出入りしているのでしょうか」

「呪禁師とは言っていなかったが、雲起が連れてきた者がはべっているらしい。どうやらここから逃したあれのようだぞ」


 聞いていた英賢が唇を噛む。


「……面目もございません」


 慧喬は英賢に視線を送ると、労わるでもなく淡々と言葉を繋ぐ。


「過ぎたことは言っても詮無い。それに、引き込んだのは雲起だ。雲起と澄季を野放しにしておる徳資殿の自業自得よの」


 冷んやりとした言い方で切り捨てた。


「しかし、ことは朱国だけに止まるまい。先回のこともある。蒼国に火の粉がかかる可能性もあるゆえ、用心するが良いぞ」

「ご忠告感謝いたします」


 慧喬の思わぬ気遣いに壮哲が礼を言う。


「うむ」


 頷くと昊尚自らが入れた茶を慧喬が一口飲む。眉を顰めながら、相変わらず美味いな、と褒める。

 美味いのならば美味そうな顔をすればいいのに、と昊尚は内心呟く。


「それで、そちらでは何を聞いている」


 朱国の情報を渡した代わりをよこせということだろう。

 昊尚は壮哲が頷くのを確認する。


「朱国で蒼国への反発を煽っているようです。蒼国が朱国の労働力を安く買い叩いていると」

「ああ、それは余もあちらで聞いた。蒼国は酷い国らしいぞ」


 それを聞いて壮哲が苦笑する。


「それで、ある筋からの情報では、その正当な対価として朱国で商売をしている店の財産を没収するつもりのようです」

「喜招堂もか」

「はい。むしろ、喜招堂を中心に、です。喜招堂の金銀や宝石などの装飾品の没収が主な目的だと思われます。朱国の労働力を使って採掘した宝石類を取り返す、という言い分なのでしょう。他にもいくつか朱国に店を出しているところがありますが、それほど規模は大きくありません」


 喜招堂は生活必需品から宝飾品や機械まで扱う商店だが、特に朱国の店では宝石を主に扱っている。後宮からの買い上げが群を抜いて多いからだ。

 先程、昊尚が喜招堂の明遠を呼んでいたのは、朱国からの措置への対応を指示するためだ。


「対価にと言っても、それは王家に召し上げられるだけで民には回ることはないと思われますが」

「ふむ。朱国は何か言って来たのか」

「いえ、まだ。しかし時間の問題かと」


 そうか、と慧喬が呟き、続けて言った。


「しかし、そんな状態で四十周年祝賀とはな。徳資殿は頭まで目出度くなったのかの」


 慧喬の言い方が辛辣さを増した。

 朱国の徳資王は今年で在位四十周年を迎える。それに伴い、近々徳資王の在位四十年を記念した祝賀の儀が行われる。隣接国にはその招待状が送られている。

 啓康王の事件以降、朱国とは距離をとっていたが、蒼国にもそれは届いていた。


「紅国からは大雅殿が行かれるそうですね」


 昊尚が言うと、慧喬が、白々しい、と鼻で笑った。


「示し合わせたのだろうが」


 慧喬の言うとおり、昊尚は大雅が行くことを聞いて、雲起を牽制するつもりで蒼国からは自分が出席することを申し出ていた。


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