第53話 二年仲春 雷声を発す 1
外廷の壮哲の執務室には、太常寺卿と右羽林将軍が訪れていた。
右羽林将軍の葛洸良は、呂氏が解任された後に将軍に着任した。元は県の副官である県丞をしていたが、壮哲に直々に呼び戻されての異例の抜擢だ。
「蒼泰山の頂の玉皇大帝の宮を少し下ったあたりで、頭と腹、腕を喰いちぎられた死体が発見されました。宮の清めを行うために訪れた太常寺の職員が見つけました」
がっしりと鍛えられた身体から出される、低く響く深い声で洸良が報告をした。戦の場ではさぞや士気を鼓舞するに違いない声だ。
蒼泰山のある北青県の治安については禁軍の管轄ではないが、蒼泰山が王直轄であるので、羽林軍の将軍が直接確認を行なったのだ。
「頭を喰いちぎられていたとは尋常ではないな。身元もわからないということか」
「左様です」
壮哲の問いに洸良が短く答える。
「ただ、付近の郷でいなくなった者もおらず、身なりからも郷の人間ではないだろうと思われます」
「何に襲われたかわかったのか?」
「いえ。ただ、噛み傷からは、口の大きな牙のある獣だということがわかります。また、掻き傷があり、これも深さからも鋭く長い爪を持っていることが推測されます」
「その条件に該当する獣は?」
「……虎、が最も近い、と思われます」
「……虎である、と断言しない理由は?」
「まず、通常の虎にしては、咬み傷が大きいということ。そして、死体は木の上に引っかかっていました。宮へ向かう職員が木の上から血が滴っているのに気づいて発覚したのです。通常虎に襲われて木の上に死体が残ることはないと思われます」
ふむ、と壮哲が思案する。
「襲われた後に自力で登ったということは……ないな」
「はい」
「噛まれて振り回されて木の上に飛んだということは?」
「それも考えたのですが、状況からそれはないかと」
「というと?」
「死体の上方の木が折れていました。……まるで、上から落ちて引っかかったかのような状況でした」
「空から落とした、ということか」
「そのように見えました」
その異様な光景を想像し、壮哲が眉を顰めた。
「また、蒼泰山では虎の目撃情報はここ十年以上ありません」
洸良が報告を付け足す。
「突然現れて人を襲って空から投げ捨てた獣……と言っていいのか……がいるというこか」
壮哲がちらりと昊尚を見た。
「……恐らく陛下のお考え通りかと」
昊尚が壮哲に頷き、洸良の横に立つ大常寺卿に向かって言った。
「玉皇大帝の宮に侵入者があったとのことだが?」
「はい。扉がこじ開けられていました。……ただ、特に盗られたものはないと思われます」
太常寺卿は、蒼泰山の頂に建つ宮と中腹にある寛雅殿の管理を任されている部署の長官だ。
「宮に無理やり入ろうとしたとはあの辺の者ではなさそうだな」
蒼泰山の頂に建つ宮へは、いつでも誰でも立ち入ることができるわけではない。玉皇大帝が、その必要があると判断した時のみ、宮の扉が開く。
通常、扉は固く閉じており、鍵もかかっていないのに開けることができない。
無理やり扉をこじ開けて招かれざる者が中に入ることができたとしても、鎮座しているはずの玉皇大帝の玉座はそこにはない。がらんとした空間に一幅の掛け軸があるだけだという。
何が目的で忍び込んだのか。
「その侵入者は捕らえたのか」
「いえ……申し訳ありません。気づいたのは押し入られた後で、犯人を確保していません」
壮哲が昊尚に目線を移すと頷いて返す。
「四十年程前の励王の御代に同様の事件がありました。状況から見て、今回もその時と同様、
窮奇とは、翼を持つ虎のような妖獣である。
諡号を励王とする女王が蒼国を治めていた時代に、宮に押し入った不届き者が虎のような獣に噛み殺された。それを偶然にも蒼泰山の麓の郷の者が目撃していた。目撃した者によると、その獣は通常の虎よりも大きく、翼を持っていたということだった。
それ以前にも、宮に押し入ったと思われる者が蒼泰山の山中で獣に腹などを喰いちぎられているのを発見された例がある。
窮奇がどこから現れたのか物議を醸したが、押し入られた宮にあった掛け軸に、蒼泰山の山中で咆哮する窮奇が描かれていたことから、窮奇は掛け軸から抜け出してきたとされた。掛け軸の中の窮奇が玉皇大帝の宮を警護しているというわけだ。
今回も、襲ったのが窮奇であるとすれば、蒼泰山の木の上で見つかった首と腹などを喰いちぎられた者が、宮に侵入した犯人なのであろうと推測できる。
何が目的で宮に忍び込んだのだろうか。
旅の姿をしていたことからも、他国の者なのだろう。
不可解な事件は真相が解らないまま棚上げとなった。
*
「色々と起こるな……」
壮哲が執務机の椅子の背にもたれながら伸びをする。
「こう座ってばかりだと体がなまる」
元々武人である壮哲は、一日中机に座っているのは向いていないと自分で思っていた。少し佑崔と手合わせでも、と思って腰を浮かせると、先ほど出て行った昊尚が再び入ってきた。
少し残念そうな顔をしたのだろう、昊尚が苦笑する。
「後にしてもいいですよ」
「いや、すまん。聞く」
凝った右肩を回しながら壮哲が椅子に戻る。
「では、できるだけ簡潔に」
そう言って昊尚が報告書を差し出した。
蒼国では金や銀、青石などの鉱石の採掘場がいくつかある。
古利の父親の楊仁仲がいた甘婁郷も鉱山に近く、採掘に携わる者が多くいた。その郷では肺を患う者が多い。仁仲が阿片を濫用した背景にはこういった状況も関係している。
また、古利が牢に入れられている時に忍び込んだ朱国からの鉱山への出稼ぎ労働者も、肺を悪くしていた。
となると、鉱山と肺の疾患に関係がないとは考え難い。
そこで、壮哲は昊尚にその調査を命じていた。
「結論から申し上げますと、鉱山での作業時に発生する粉塵が肺を悪くする原因ではないかと思われます」
昊尚が調査報告書を示した。
「国内の鉱山の各採掘場を調査しました。肺を患っている人数と、程度、それから現場の環境をそれぞれ比較したところ、甘婁郷の近くの現場が最も環境、通気性が悪いようでした。各現場の通気性が悪くなるにつれて、肺を患う者の数も増えています。なお、現場の責任者が粉塵を嫌って、散水をこまめに行なっていた現場がありました。そこは他と比較しても肺を患う者が少なくなっています。それぞれの詳しい状況はその報告書に目を通してください」
壮哲は受け取った報告書をめくり、各現場を比較したものを確認した。
「文始先生に意見を聞いたところ、鉱山で肺の病が多いのは、その粉塵が原因となっている可能性が高い、というこちらの推測に同意してくれました」
昊尚は、師でもある医薬に詳しい仙人の文始先生にも予め意見を求めていた。
「わかった。では、早急に患者の発生が少ない現場の環境の整備状況をまとめたものを、他の現場でも同じ措置を取るように指示してくれ。細かい規則の整備については後追いでいい。取り急ぎ頼む」
壮哲は昊尚に指示する。
「あと、定期的に体の状態を確認できるように、現場近くですぐに医師にかかることができるよう整備を」
「承知しました。できるだけ早く整備できるよういたします」
昊尚は医師の確保には少し時間がかかるだろう、との見解を示して部屋を後にした。
**
範玲は中書省へ向かう途中、中庭に植えられている
昊尚に気持ちをぶつけて、これでもかというほど泣いた夜から数日。
半ば無理やり言わせたのではなかったか、と思わないこともないが、範玲は昊尚がくれた言葉を時折思い出しては頬を染める、ということを日に何回か繰り返していた。
しかし、あの日以降、状況が変わったということはない。相変わらず昊尚は忙しく、顔を合わせない日の方が多い。
それでも、昊尚が自分のことをずっと好きだったと言ってくれたことで、範玲の胸の中には、ほんのり明かりが灯っている。
季節は春ということもあるだろうが、頬を撫でる風は優しく、ほころぶ花はこんなに美しかっただろうかと、浮かれている自分に気付き、気恥ずかしさを覚えたりもする。
これが話に聞く恋というものか、と思うにつけ、一年前の自分からは想像もつかない状況が不思議だった。
範玲はぼんやりと黄色い可憐な花を見つめていたが、はっと我に返る。
いけないいけない。いつまでも花に見とれているわけにはいかない。
範玲が足を踏み出すと、前方に見覚えのある姿を見つけた。
昊尚と英賢だった。
二人も範玲に気づいたようで、英賢が片手を上げて待ってくれている。
範玲は急ぎ足で二人の元へ向かった。
少し息を切らせて昊尚を見上げた範玲に、昊尚が一瞬黙る。
英賢は眩しそうに範玲に微笑んで声をかけた。
「珍しいね。こんなところで会うの」
「ちょっとお遣いです」
手にしている中書省へ運ぶ書類を捧げ持つ。
「相変わらずお二人ともお忙しいのですか」
「ああ。いろいろ起こるからね」
昊尚が苦笑する。
「そうなんですね。……っと、……あんまりゆっくりしててはいけなかった。じゃあ、また」
範玲は名残惜しそうに挨拶をすると、小走りで去って行った。
その華奢な背中を二人が見送る。
「……何か、我が妹ながら、一段と麗しくなったよね」
英賢が視線だけを昊尚に移して言う。
昊尚は、はあ、まあ、などと曖昧に相槌を打つ。
「範玲は元が素直だから、君のことを好きだと自覚したら、隠しておけない感じだね。全部漏れて出てる。それがまた、何と言うか……」
英賢の顔を見るより前に昊尚を見つけて嬉しそうに頬を染める可憐な範玲を思い出して、ちょっと妬けるね、と英賢がぼそりと言う。
「まだ少し、その好意は思い込みじゃないかと思っています」
昊尚の言葉に英賢が吹き出す。
「その頑なさには逆に感心するよ。でも、じゃあ、範玲のあの好意だだ漏れの攻撃に、君がどれだけ持ちこたえられるか
少し意地悪に笑う。溺愛する妹を昊尚に取られて面白くないのだろう。
「君のその自分を常に律しようとする姿勢は凄く好きだよ。けれど、時と場合によるよね」
揶揄するように英賢が更に言う。
何か一言、言わないではいられない様子だ。
「何ですか。英賢殿は範玲殿に手を出して欲しいんですか?」
言いたいように言われた昊尚が反撃を試みた。が、英賢の顔を見て後悔する。
「ん? 何て?」
笑顔を向けているが目は全く笑っていない。優しげな整った顔立ちなだけに一層凄みを増す。
「いえ。何でもありません」
昊尚がさっさと降参する。
「まあ、君のことだから、範玲を大事にしてくれると信じているよ」
英賢が昊尚の肩を叩いた。
いつもより力が強かったのは気のせいではないな、と昊尚は肩をさすった。
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