第37話 元年季冬 鷙鳥厲疾す 2


 執務室を訪ねたが、英賢は居なかった。

 範玲はしばらく待っていたが、帰ってこない。ならば、と昊尚の執務室を覗いてみたが、昊尚もいなかった。昊尚の執務室には、藍公付きの職員がいて、英賢も昊尚も会議中だと教えてくれた。

 再び英賢の執務室に戻り、取りあえず士信と待つことにするが、陽も落ちて暗くなってきてしまった。

 まだかとじりじりしていると、外が何やら騒がしい。


「ちょっと聞いてきます」


 士信が様子を見に部屋を出て行ったが、間も無く慌てて戻ってきた。


「荀氏の屋敷から火が出たそうです」


 俄かには信じ難かった。


 これは偶然なのか?


 範玲は、英賢の机の上にあった紙を拝借し、荀氏の屋敷で聞いたことを急いで書き付けた。

 再び昊尚の執務室へ向かうと、藍公付きの職員に封をしたそれを、急ぎで英賢か昊尚へ渡して欲しいと頼んだ。


「照礼殿の屋敷に行ってみる」


 範玲が言うと、士信が驚いて立ちはだかる。


「いけません。範玲様が行っても危ないだけです」


 尤もだ。

 だけど、あんな不穏当な会話のすぐ後に起きた火事だ。偶発的な火事以上に嫌な感じしかしない。


「お願い。せめて照礼殿が無事かどうかだけでも」


 士信を説き伏せて荀氏の屋敷へと足を向けた。





 体力不足かつあまり運動の得意ではない範玲が、火事を見ようとする人達、火事から逃れようとする人達にぶつからないように気をつけて進むのは思いの外手間取った。

 ようやく荀氏の屋敷に着いた頃には、火の勢いが益々強くなっていた。おまけに士信とははぐれてしまっていた。

 屋敷には都城内の治安維持を司る金吾衛が来ており、消火作業を行なっていた。火はまだ燃えているが、屋敷の表門からは、使用人達が無事だった家財を運び出している。


「荀氏や照礼殿はどちらに?」


 煤だらけになりながら螺鈿細工の衣装箱や箪笥などを運ぶ使用人達に声をかけると、彼らはきょとんとして立ち止まった。


「え? いらっしゃいませんか? 家財を運び出すように言われたので、てっきり旦那様達はお逃げになっていると……」

「姿を見ていないの?」


 範玲が重ねて聞くと、使用人達に動揺が広がった。


 これはまずいのかな。

 どうしよう。

 逃げ遅れていたら……。まだ中にいるとしたら……。


 範玲は迷った挙句、人混みから離れ、物陰に隠れて亀甲形の耳飾りを外した。何か情報が得られるかもしれない。

 耳飾りを片方外した途端に、物凄い音の波が暴力的に押し寄せてきた。人の怒鳴る声、炎の広がる音、木の裂ける音、物のぶつかる音、混沌と渦巻いていく音に飲み込まれて一気に気分が悪くなる。


 だめだ。音が多すぎる。


 外した耳飾りを元に戻そうとした、その時。

 微かに照礼の声が聞こえた。

 いつも遠慮なくまっすぐに届いてくるその声が、消えそうになりながら助けを求めていた。


 どこ?


 頭が割れそうな痛みと吐気を堪えながら声の出所を探る。

 様々な音に邪魔されながら、奥へと意識を向ける。


 あの辺りだ。

 おそらく、正房おもやの東側からだ。


 急いで耳飾りをつけ直そうとする。しかし、手が震えて言うことを聞かない。


 ああ、駄目だ。

 気持ち悪すぎて真っ直ぐ立っていられない。


 そう思った時、範玲を呼ぶ声がした。

 その声の主は、体が傾き前屈みになってきた範玲を抱きとめ、その手の中にある耳飾りを取り上げると、素早くつけ直してくれた。


「何やってる」


 範玲の頭の上から怒った声が降って来た。


「……こうしょう、どの」


 怖い顔をして昊尚が範玲を支えてくれている。範玲は怒られているにも拘らず、昊尚の顔を見てほっとする。


 ああ違う。安心している場合じゃない。取り敢えず伝えなくちゃ。


 範玲は吐き気をこらえて声を絞り出す。


「なかに、しょうれいどの、が、まだいる」


 範玲の言葉に昊尚が片眉を上げた。


「何処かわかるか?」

「おもや、の、ひがしの、へや、だとおもう」


 昊尚は消火に当たっていた金吾衛の者を呼び、まだ中に照礼が取り残されていることを伝えた。金吾衛の者たちは慌てて救助に向かう。

 それを見届けると、昊尚は怖い顔のままで範玲に視線を移した。だが、青い顔の範玲を覗き込むと、上がっていた眉を下げて溜息をついた。


「……大丈夫か」

「……きもちわるい……」

「無茶するからだ」


 昊尚の手が範玲の頬を不意に撫でた。

 頬についた煤を払ってくれているようだが、手が優しい。心地良くてなすがままに任せる。

 しかも、昊尚だから触れても心の中が流れてこなくて静かなままだ。

 頭痛と吐き気も治まり、心地良さが優ってきた。

 そこで、範玲ははたと我に返った。


「す、すみません。もう大丈夫です」


 範玲は昊尚の腕の中から抜け出した。

 こんな状況、前もあったな、と昊尚の触れた頬が熱くなるのを感じながら立ち上がると、ちょうど士信が慌ててやってきた。範玲の無事を確認すると、士信が膝から崩れ落ちた。はぐれてしまった範玲を探して駆けずり回っていたようだ。範玲は心配を掛けたことを士信に謝る。

 そこへ照礼を救助に行った金吾衛の者達が戻ってきた。

 照礼を背負っている。更に衣服が焼け焦げた荀氏、そしてもう一人男性が運び出されてきた

 ぐったりしてはいるが無事そうな照礼を確認し、範玲は安堵の溜息を漏らした。





 荀氏の屋敷の火事は、その日の夜半にようやく鎮まった。出火の原因はわかっていない。

 焼け跡からは焼け焦げた遺体が見つかった。特に火の勢いが強かった正房おもや西側の部屋にその遺体はあった。顔の部分の損傷が酷く、個人の判別は難しいと思われた。

 ただ、その左の掌には刃物による深い傷跡がかろうじて確認できた。

 長古利は脱獄を企てた際に、手を覆っていた厚い革の手袋を刃物で無理やり切り取って、左手に深い傷を作っていた。

 背格好が脱獄した長古利と似通ったものであったことと、そしてその傷跡から、遺体は古利のものではないかとの推測がなされた。

 何故荀氏の屋敷から古利の遺体が出てきたのかということについて確認をしようにも、火事の最中さなかに救助された荀氏は、身体に加えて煙を吸い込んだことで喉に熱傷を負っており、話すことができない状態だ。

 比較的軽傷の照礼は、火事にあったことに酷く動揺しており、気がついたらあの部屋にいて、火に囲まれていたと泣くばかりで要領を得ない。

 荀氏や照礼と一緒に救出された人物は、荀氏の長男、照礼の兄だった。勤めには出ておらず、ずっと屋敷で官吏登用の試験勉強をして過ごす毎日を送っていた。

 この日、急に眠くなったことは覚えていたが、気がついたら煙と炎の中、兵士に抱えられていたという。屋敷に誰がいたかについては、特に関心もなく、誰かが訪ねてくることがあっても、気にも留めていなかった。

 しかし、使用人達の話によると、壮哲の即位後の祝賀の儀の夜に、屋敷に誰かが来たようだと言う。それが誰なのかは聞かされなかったが、それ以後、正房おもや西側の部屋に食事を運ぶよう指示されていた。食事を運ぶ以外には決して近づかないようにきつく言われていたが、時折訪れる役人風の男がその部屋に入って行くのを見かけていた。

 役人風の男、というのは、範玲が聞いた会話から、大理寺の馬広然という者だと判明した。

 馬広然はまだ大理寺に勤めて日が浅かった。壮哲の即位に伴い、新体制に移行する際に採用された臨時職員の一人だ。

 その時の採用担当が、吏部侍郎の荀氏であった。正規の職員の試験とは異なり、ある程度担当の裁量が認められている。それを利用し、広然を大理寺に配したというところだろう。確認すると、採用の際に提出されていた広然の履歴は、全くの別人のものであった。

 これらの状況から、荀氏と広然が、共に古利の脱獄に関わっていたと考えるのが自然である。広然が大理寺で段取りをつけて古利を脱獄させ、荀氏が屋敷で匿っていたというところだろう。

 主導したのは範玲の聞いた会話から広然だと推測された。

 広然は荀氏にまだ次の指示を出していなかった。そんな中で荀氏の屋敷が火事に見舞われた。

 そして、古利は焼死した。

 果たして本当に古利は死亡したのだろうか。

 なお、馬広然は、やはりと言おうか、行方不明となっている。

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