第36話 元年季冬 鷙鳥厲疾す 1
史館での勤務時間が終わると、範玲は長い溜息をついた。
「どうしたんですか」
溜息に気付いた志敬が範玲に声をかける。
「ちょっと、気の重い用事があって」
この後、照礼を訪ねる約束をしていることが範玲の気分を沈ませている。
行きたくないな……。
範玲は暫く固まっていた。
しかし意を決すると、珠李との待ち合わせをしているという志敬に挨拶をして、迎えに来た士信と荀氏の屋敷へと向かった。
理由は聞いていないが、英賢から、送り迎えは士信以外の者で、と言われていた。が、今回は事情を知っていてどんな状況でも頼りになる士信に同行を頼んだ。
荀氏の屋敷に着き、
「範玲様! いらっしゃいませ」
勢いよく近づき、範玲の手を取ろうとするので、前回と同じく士信が照礼を阻む。それに面食らったように立ち止まる照礼に範玲が声をかける。
「ごめんなさい。私、人に触れられるのが苦手なの。気にしないで」
そう言うと、照礼は腑に落ちない顔をしたが、取り敢えずは手を伸ばしてこようとしなくなった。
そして照礼が気を取り直して、範玲を屋敷に
「どうぞ、お入りになってください。美味しいお菓子もご用意してありますのよ」
「ありがとうございます。でも、申し訳ないのだけど、直ぐにお
取り敢えず約束を果たすためだけに来たのだ。実を言えば今すぐ帰りたい。
そんな範玲の気持ちを汲み取る様子もなく、照礼は範玲を客間に案内した。
照礼は範玲と士信にお茶を入れると、ひたすら英賢の話をした。
うっとりとしながら、姿形を褒め、声を褒め、優しさを褒め、妹想いな点を褒め、やたらと褒め続け、どれほど自分が英賢のことを想っているかを語り続けた。
身内を褒めてもらえるのはありがたいが、それを自分に聞かせて兄への橋渡しを期待しているのだろうか、と思うと範玲には荷が重く感じられた。士信はというと、出された茶には手もつけず、表情を消してただ時が過ぎるのを待っているようだった。
「……あの、そろそろ失礼しますね……」
一通り照礼が話をして一息ついた頃にすかさず範玲が言うと、照礼はまだまだ話し足りないようで引き止めてきた。しかし、理淑が心配して迎えに来るかもしれない、と言うと、慌てて承諾した。
理淑の名前を出したら大人しくなるとは、あの時理淑は一体どんな追い返し方をしたのだろうか。無表情だった士信も笑いたいのを堪えているようだ。
では、と立ち上がろうとすると、照礼が
「範玲様、最後に私の演奏を聞いていってくださいね」
と、唐突に二胡を奏で始めた。
あまりのことに範玲は完全に気持ちが置いてけぼりになっていたが、始まった照礼の二胡の演奏は、予想に反して素晴らしかった。始まりの一音で、立ち上がろうと浮かせた腰を、無意識に下ろさせる程に。
優しく深い人の声に似た音色が、表情豊かに曲を紡ぐ。聞いていると泣きたくなるような懐かしい気持ちにさせられた。普段の照礼からはまるで想像できない、奥深く情趣溢れる演奏だった。
曲が終わると、範玲は思わず熱心に拍手をしていた。
「素晴らしいです」
心から出た範玲の言葉に、照礼ははにかんで頭を下げた。
「以前、英賢様も褒めてくださいました」
先日もそんなことを言っていた。
成程、これはお世辞でもなく、素晴らしいと言いたくなる。
ほおっ、と範玲が感心していると、部屋の外から声が掛かった。
「照礼、お客様かい?」
二胡と拍手の音を聞きつけたのだろう。
「父上」
照礼は、ぱっと顔に喜色を浮かべて立ち上がると、良家の娘らしからぬ勢いでいきなり扉を開けた。
扉の向こうには荀氏と、もう一人いた。が、その人物は直ぐに隠れて見えなくなった。
一瞬のことだったが、それが先日も荀氏の屋敷に来ていた、大理寺の職員だったのに範玲は気付いた。
突然開いた扉に荀氏は慌てた様子だ。
「範玲様が遊びに来てくださったの。英賢様のご令妹様よ」
英賢と自分は繋がりがあるということを示したいかのように照礼が言う。
「……碧公の……」
荀氏が狼狽の色を見せた。
照礼は我が意を得たように満足げだが、範玲には照礼が期待した意図とは別の意味で荀氏が慌てたように見えた。
一応挨拶をすると、荀氏が来訪の意図を尋ねるので、照礼に誘われた旨を答える。
荀氏にはあまり歓迎されていない空気を感じる。
「範玲様、そろそろ……」
士信がいい頃合いに言ってくれたので、範玲は立ち上がり、暇を告げる。
一応の目的を達成したのか、照礼は今度は引き留めなかった。
範玲は部屋から出ると、辺りを窺い見たが、先程いた大理寺の職員の姿はなかった。
「
範玲がそう言ってみると、荀氏は一瞬の間の後に首を振った。
「いいえ。誰もおりませんよ」
そして愛想を貼り付けた顔を作った。
*
「範玲様、何をされるのですか」
辺りが薄暗くなって来ている中、荀氏の屋敷の門を出ると、急いで壁沿いに曲がり、立ち止まった範玲に士信が尋ねる。
「この辺りでいいかしら……。ちょっと行儀が悪いのは見逃してね」
士信に目配せすると、範玲は大きく深呼吸して、亀甲形の耳飾りを外した。
それを見て士信は更には問うのを止め、音を出さないように気を配った。
耳飾りを外すと、息を潜めていた色んなものが一気に動き出したような感覚がした。新しい耳飾りになってからは、外した時のその感覚の差が更に大きい。
範玲は押し寄せて来る音の大波に呑まれないように、意識を集中させた。要らない音を受け入れないように、音の波をかき分けて、目指すはこの壁の向こう。先程までいた客間のあたりで良いだろうか。
一つずつ音を選別して辿り、先程聞いた荀氏の声を探す。
--……大丈夫なのか。
声を潜めているのか、聞き取りにくい。不機嫌な声だ。先程の声の調子とは全く異なる荀氏の声。
--そっちこそ、自分の娘に勝手をさせるな。
荀氏とは違う声が言う。こちらも不機嫌だ。
やはりあの時の大理寺の職員だ。
範玲がいきなり押しかけた時も愛想は決して良くなかったが、今は明らかに声に棘がある。
--……どうするんだ。あの娘、何か嗅ぎ回ってるんじゃないか?
荀氏の声に不安が混じる。
--あんな世間知らずの小娘に何ができる。今日も偶々あんたの娘が呼んだから来ただけだろう、何も心配することはない。
そう言って鼻で笑う。
--この後どうするんだ。ちゃんと教えてくれ。
--もう暫くこのまま待機だ。
--いつまで……
と言ったところで、突然扉が開いた音がした。
--父上、わかったでしょう? まだ英賢様とのこと、諦めなくていいのよ。
照礼が突然二人の話に割り込んで来たようだった。
--……まだそんなことを言っているのか。お前にはもっと良い縁があると言っただろう。
荀氏の声は一転、苛立ちが表れる。
--そちらの方との方が英賢様より良縁だって言うの?
--何を言っている。コウゼン殿ではない。もっと……
そこまで聞いたところで、範玲は頭がくらくらして来た。
「範玲様、顔色が悪くなって来ています。大丈夫ですか」
士信が心配そうに囁いた。
「うん……。大丈夫」
深呼吸をして動悸を落ち着かせて耳飾りを付け直し、額に浮いた汗を拭う。
ここで倒れてしまってはいけない。これまでにしておこう。
荀氏とあの大理寺の職員、コウゼン、と言っていたか、あの二人は何か隠している。
二人の言っていた"あの娘"とは、自分のことだろう。
となると、"嗅ぎ回っている"ことの心当たりといえば、楊仁仲と長古利のことくらいだ。
あの二人は古利の脱獄に加担しているのかもしれない。
兄上達に知らせないと。
範玲は心配する士信を伴に、皇城へと引き返した。
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