第16話 三日目 御前会議 2


「秦将軍!」


 明らかな安堵の声と驚きの声が入り混じる。

 一瞬遅れたが、王の脇に戻っていた呂将軍が飛び出して来て、禁軍に命令を出した。


「捕らえろ!」


 命じられた兵士たちは、壮哲を取り囲む。

 しかし。


「お前たち、気の毒だったな。こんな茶番に付き合わされて」


 壮哲が言うと、逆に壮哲を守るように呂将軍に相対し、別の扉から入って来た左羽林の曹副将に率いられた兵士が呂将軍と陳丞相を囲んだ。


「陛下の命に逆らうか!」


 呂将軍が吠える。


「何が陛下の命だ。陛下のご意志を無視しているのはお前らだろうが。誓約書などというものを偽造するとはな」

「何を言うか。この文書が陛下のご意志だ。陛下の御璽もある」


 びらびらと御璽付きの文書を掲げる。

 すると、それまで黙って立っていた英賢が古利の手を払い、横から呂将軍の手にした文書を取り上げた。


「これは陛下や縹公、それに藍公らのご意志ではない」


 英賢が文書を掲げ、静かな声であるがはっきりと言った。

 先ほどまでの生気のない姿とはまるで別人のようだ。


「何故だ、どうして……!」


 手を払われた古利が狼狽えて声をあげた。


「悪いがそなたの術は効かなかった」


 美しい碧色の瞳に光を戻し、英賢が古利へ冷ややかな目を向ける。


「この文書は無効だ。正式な規則に則ったものではない」

「何を言うのですか。署名もあるし第一ご本人しか押すことのできない御璽の印影があるじゃないですか」


 文書を扱う中書省長官の賈氏が慌てたように言う。



 蒼国の王及び青公の印章は妖璽であると言われる。

 印を押す時の朱肉には持ち主自らの中指のほんの僅かな血を用いる。印章につけられた血は赤いにもかかわらず、押印すると青い印影が現れる。正当な持ち主が自身の左手の中指の血を用いないと影印は現れない。

 まるでそれ自体が意志を持っているように。

 それが妖璽と言われる所以だ。



「確かに印影はここに見られる。しかし蒼国の印を使用する際は、定められた規準があるのだが、それが守られていない。そなたが知らないのも無理はないが」


 英賢が無表情に言う。しかし尚も賈氏が抵抗を試みる。


「……しかし、そこに印影が現れているということは、それぞれ御自らが押されたということ。その規準とやらに則っている証拠ではないのですか」


 示された文書には、王、藍公、縹公の署名とそれぞれに印影があった。


「印章の正当な持ち主のそれぞれの血でもって押印されたのは間違いないだろう。しかし本人意識がなくとも、押させることだけは可能だ」


 英賢は青い印影を見つめると、言葉を続けた。


「もしこの文書の印が、藍公と縹公ご自身で押したものであったとしたら、押印の位置に藍公や縹公のご意志が見て取れる。しかし、この文書の印は正しい位置に押されていない。お二人はこの誓願書に賛成していなかった。だからこのようあえて誤った位置に捺印されたのだろう。正しい規準に則ったものでないと玉皇大帝にはお認めいただけない。この文書を持って蒼泰山へ登り玉皇大帝に奉じたところで、無駄だ。……試してみますか?」

「な……何ですと……?」


 賈氏が色を失う。

 文書作成を担う中書省の長官であっても、賈氏は王位継承のための作成の正式な作法自体があることを知らなかったのである。王位継承のための文書は、王と青公らによって作成され、作成されたものは全て玉皇大帝に奉じてしまうため、現物は残らない。だから目にする機会は極めて少ない。



 蒼国では、王位継承に関する文書への捺印には細かな規則がある。

 王と青公三名の印章は、菱形のもので、四つを合わせてさらに一つの菱形を形作るように押す。正しく捺印することによって、4つの印章を合わせた菱形の印影は、三つ足の鼎が王を支えている形が浮かび上がる。

 印を押す位置は決められており、菱形の頂点に当たる部分に王の璽を、その真下に王の氏である家の印、残り左側には大尉もしくは司徒、右側には司徒もしくは司空の印を当てるべきものとなっている。


 今回正しく捺印するのであれば、頂点の部分が王、その真下が周氏、左側が秦氏、右側が夏氏の印でなければならない。しかし、呂将軍が示した文書は、左の部分に周氏、右の部分に秦氏、王の真下の部分が空欄になっていた。

 これは明らかに藍公や縹公が正しい捺印の仕方を避けた、もしくは作法を知らない誰かが押させた結果である。いずれにせよ、とても二人が誓約書の内容に同意する意志で作成されたものではない。

 英賢は、捕縛され、この文書を見せられた時に、一目でこれが藍公らが望んで作成したものではないことを察した。


「この文書以前に、陛下の健康上の問題から、王位をお譲りいただく手はずを整えていた」


 壮哲が懐から、先日英賢から預かった文書を取り出した。


「畏れ多いことながら、ここに陛下への罷免の文書がすでにある」


 そして英賢の元へ歩み寄り、文書を渡す。


「ここには亡くなった藍公、縹公、碧公の署名と印が規準に則って現されている」


 英賢が罷免の文書を手に、静かに言った。



 罷免文書への捺印の方法についても独自の規則がある。

 この場合、使用する印章は青公三名のもののみである。王位継承の場合とは逆に、王の属する氏を持つ青公の印を、頂点に逆さの向きに押す。そして、王位継承の文書とは逆の位置、左側に司徒もしくは司空の印、右側に大尉もしくは司徒の印を押す。

 出来上がった印には、鼎を逆さにした形が浮き上がることになる。これにより青公らの罷免の意志を表す。



 英賢が示した文書にも鼎が逆さになった青い印影が現れていた。

 英賢は玉座の前に歩みを進めると、罷免の文書を捧げ持ち、頭を垂れて王に告げた。


「このような場で陳ずることをお赦しください。……畏れながら申し上げます。陛下におかれましては、どうぞご退位くださりますよう、伏してお願いいたします」


 厳かな英賢の言葉に、議場は水を打ったようになった。

 御簾の向こうの王からは一言も言葉はない。

 英賢は罷免の文書を壇に静かに置くと、振り返り言葉を継いだ。


「藍公が陛下の元を訪れたのは、自ら王位をお譲りいただくよう、最後の説得をするためだった」


 その際に悲劇が起きてしまったのだろう。


「何故藍公が亡くなられたのか、何故承健殿が殺害されたのか。呂将軍はご存知だろう。それは後ほど詳しく話してもらう」


 英賢は呂将軍に冷え冷えとした瞳を向ける。

 呂将軍は青ざめ、拳を握りしめていた。


「その誓約書に込められた藍公たちのご遺志は確かに受け取った。ご自身がどうなるかもしれない状況で、どれほどお覚悟がいったことか、察するに余りある。其方たち、王位継承の文書の偽造の罪を犯すということがどういうことかわかっているな。厳罰を逃れられないことは覚悟するように」


 英賢が言うと、壮哲の指示のもと禁軍が呂将軍、 中書省の長官の賈氏、都省右丞相の陳氏、そして呪禁師の長古利を捕らえた。

 議場が騒然とする中、禁軍の指示は副将の玄徽に任せ、壮哲は会議が始まってからずっと声を発しなかった王の元に急いだ。


「陛下……失礼いたします」 


 御簾を揚げて玉座に近寄ると、王は呆けたように座っていた。

 目の焦点があっていない。

 呼びかけても反応しない。

 侍医を呼びにやるように言うと、壮哲は王を抱えその私室に運んだ。

 慌ててやって来た侍医は、王の容体を細かに見ると、青ざめて首を振った。

 もう正気に戻ることはないかもしれない、と絞り出すような声で告げた。


「一体どうしてこのようなことに……」



 


 一年ほど前から王に異変はあった。

 ただそれはまだ物忘れ、といっても通じる程度のことであった。しかし、ふた月ほど前から明らかに常ならざる状態となっていた。突然怒り始めたり、呆けたように空を見つめていたり。

 長古利が宮城に現れたのもちょうどその頃だという。

 古利は怜花妃の元にいた呪禁師だ。

 大変残念なことだが、と言いながら、壮哲は怜花妃の元に拘束のため兵を遣った。


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