第14話 二日目下午 養安殿 2
*
玄武門を抜けて養安殿に着くと、そこにも見張りがいた。中には理淑の見知った兵士もいる。彼らも左羽林の兵士で、三人をちらりとも振り向きもしなかったところを見ると、玄徽の指示がここにも行き届いているのがわかる。
養安殿の外回りには見張りがいたが、部屋の入口には誰も控えていなかった。
戸はぴっちり閉ざされている。
ただ、戸の隙間から酸いような独特な臭いが漏れ出していた。
「この匂いは……」
壮哲は急いで戸に手をかけたが、鍵がかかっているのか開かない。
剣の柄で
部屋には煙がたゆたい、異様な臭いが充満していた。
その部屋に縹公はいた。
「親父殿……」
縹公は寝台の上に横たわり、まるで息をしていないように見えた。
「入ってくるなよ。入口から離れて息を止めていろ」
壮哲は佑崔と理淑に言うと、素早く部屋に入り、意識のない縹公を担いで部屋から走り出て来た。
養安殿の外に出ると、一旦縹公を木の陰に下ろす。
「敬伯様」
理淑がおずおずと縹公の名前を呼び、腕に触れて揺すってみる。
しかし、反応がない。
「息はしておられます」
佑崔が縹公の呼吸を確認する。
「あの部屋には薬物が焚いてあった。あの独特の匂いは恐らく麻薬だ。過剰に摂取させることで体の自由を奪っていたのだろう」
壮哲の目に激しい怒りの色が揺れて見える。
縹公は元々武人であり、五十歳を過ぎた今も毎日の鍛錬を欠かさないため、見事な鍛えられた体をしている。その縹公が意識なく眠らされていた。父親のこのような姿に壮哲は少なからず衝撃を受けていた。
「担いで行く」
壮哲は佑崔に手伝わせ、再び大柄な縹公を背負った。意識のない体は重かったが、壮哲は物ともせず縹公をできるだけ揺らさないように担いで歩きはじめた。
佑崔が前、理淑が後ろを固め周囲を警戒し、養安殿を後にする。
玄武門に戻ってくると、やはり玄徽ら左羽林の兵士達は三人を見もしないでやり過ごしてくれた。
内苑を抜け、禁苑に入ると、理淑は不自然な木々のざわめきと、吹いて来た嫌な生ぬるい風に気付いた。
「壮哲様……」
理淑が声をかけると、壮哲が頷いた。
「ああ。何かいるな」
立ち止まると、壮哲は背負った縹公をそっと降ろし、木の根元に背をもたせかけて座らせた。
「理淑、悪いが親父殿を頼む」
そう言うと、壮哲が腰に佩いた剣をすらりと抜いた。佑崔も同じく剣を構える。
暗闇の中、ひたひたといくつもの足音が近づいてきた。
現れたのは数十匹の大きな黒い野犬の群れだった。目は血走り、だらしなく開いた口からは、よだれが滴っている。犬達は立ち止まると、低い唸り声で威嚇を始めた。
「ただの犬ではないな」
壮哲が呟く。
禁苑内に野犬がいること自体おかしなことだ。しかも明らかに壮哲たちを標的にし、凶暴化しているように見える。
ジリジリと間合いを詰めるように犬達は四人を囲み、一匹が地を蹴ったのを合図に、一斉に飛びかかってきた。
壮哲と佑崔が次々と襲いかかってくる野犬を叩き落とす。
しかし、叩き落とされたところで、また直ぐに立ち上がって狂ったように襲ってくる。
まるで何かに操られているようだ。
「キリがないな」
禁苑内で許可なく殺生をすることは避けたかったが、そうも言っていられないようだ。壮哲は野犬を斬って始末することにした。
剣を持ち直し、二人が刃を振るう。
野犬達の絶命の鳴き声が入り混じる中、理淑は動けずにいた。
壮哲と佑崔が見事な剣さばきで野犬を防いでくれているため、襲われる可能性は少ないが、自身の細身の剣を抜き、やってくる野犬に備える。
日々の鍛錬は欠かさず、腕には自信はある。しかし、実際にこのような修羅場に居合わせることは初めてである。
しっかりしろ。足手まといにならないと言ったのは自分だ。
理淑は自分を奮い立たせた。
そこへ。
「理淑!」
壮哲が叫んだ。
壮哲の脇を一匹すり抜け、縹公を守る理淑の元へ飛びかかってきた。
*
静かになった禁苑に生ぬるい風が吹く中、理淑は草むらに逆流してきた胃の中のものを吐いた。
あたりに累々と犬の屍が転がっている。襲ってきた野犬は全て始末した。
「大丈夫ですか?」
佑崔が近寄り、失礼しますね、と声をかけて理淑の背中をさする。
元々ほとんど入っていない胃の中のものを全て出してしまったようだ。けれどなおも吐き続けようと胃が痙攣する。
「……う……情けない……」
胃がひっくり返るような痛みと情けなさで涙まみれの理淑が呟く。
「実際に生きたものを斬ったのは初めてなんでしょう? 無理もないですよ」
佑崔の同情を含んだ声を聞いて、理淑は自分の不甲斐なさに余計に腹が立った。
理淑は禁軍の兵士が相手でも手合わせではほとんど負けたことがない。敵わないと思ったのは壮哲くらいだ。
だから自分は強いと思っていた。たとえ実戦でも役に立つ自信があった。
それなのに。
野犬を斬っただけでこのザマだ。
正直を言うと、怖かった。
生きているものを斬る感触が今も手のひらから離れない。斬られた野犬の断末魔が耳に残る。
手を見ると、まだ震えていた。
理淑は自分の甘さをひしひしと感じた。
「結局、私のやることなんて中途半端なお遊びってことだよね……。馬鹿みたい」
悔しくて更に涙が滲む。
「ちゃんと旦那様をお守りくださったじゃないですか」
佑崔が慰めの言葉をかける。
向かってきた野犬を、理淑はきっちり斬り捨ててみせた。腕としては見事であった。剣筋に不安な点はなかった。
とはいえ、理淑は実戦には慣れていない。
佑崔は涙目で打ちひしがれる理淑を窺い見た。
夏家の
そう決心する。
「でもこれからは無理をなさらず我々にお任せくだ……」
と、佑崔が言いかけたところで。
「決めた! もっと実戦で役に立つように訓練するわ!」
「ええっ!?」
佑崔は思わず声を上げてしまった。
理淑はすっくと立ち上がり、ぐいっと口元を袖口で雄々しく拭う。
何か、を吹っ切ってしまったようだ。
うわぁ……。
佑崔がしゃがんで宙に浮いた手をそのままに理淑を見上げる。
英賢様……申し訳ありません……。
佑崔は空いた手で頭を抱えた。
*
次の襲撃を警戒し、急ぎ禁苑を抜けると、城外に待たせていた車に縹公をのせて再び喜招堂に戻ってきた。
しかし縹公は未だに意識を取り戻さないままだ。
佑崔が連れて来た医者が、今のところ落ち着いてはいるが、脈が弱くなっているので注意が必要だ、と心配そうに言った。
できることといえば薬が体から抜けるのを待つことのみ。
寝台に横たわる縹公に付き添う壮哲たちは、もどかしい気持ちで見守るしかなかった。
**
「お屋敷には旦那様がご無事であることはお伝えして来ました」
忍んで周家へ行っていた佑崔が報告した。
「家の様子はどうだった?」
「梨泉様が宮城に乗り込もうとしておられるところでした」
梨泉というのは縹公の長女で壮哲の姉である。一度他家へ嫁いでいたが、その日のうちに出戻って来てしまい、結構な騒動を引き起こした猛者だ。その後は再び婚姻を結ぶことは選ばず、門下省で侍郎として働いている。
見かけは嫋やかで非常に美しい女性ではあるが、その外見にそぐわず勇ましく、壮哲も頭が上がらない存在である。
「……止めてくれただろうな」
頭を抱えながら壮哲が言う。
「奥方様が寝込んでいらしたので、杏湖様が何とか押しとどめておられました」
杏湖というのは壮哲の妹である。
壮哲は大きく息を吐き、苦労かけてすまない、と秦家の中で最も温厚な妹に心の中で詫びた。
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