第26話 審査

 私は暫くの間、放心状態となった。


 私は彼、佐藤蒼の演奏に打ちのめされていた。

 しかし、それは私だけではない。

 隣で同じく審査をしていた西村くんも現状を受け入れられずにいるようだ。


 私、加藤和彦は予選から彼の演奏を聴いてきたが、彼はまた私たちの度肝を抜いてきた。


 今度は立って演奏をしたのだ。


 彼にできないことは無いのだろうか......


 まず、全国大会の舞台で立って弾いた者など聞いたことがない。


 前代未聞だ。


 しかも、それで他の演奏者を圧倒的に上回る演奏をしてしまったのだ。


 しかも、あんなに楽しそうに演奏をしてだ。


 演奏を聴いているこちらまで、楽しくさせる演奏だった。


 彼は正真正銘の化け物だと私は思った。


 彼は私たちの様な凡人では測ることができない域にいる。


 それはこれまでの演奏で明瞭に示されている。


 ここまでの化け物っぷりを見せつけられると逆に清々しい気分になる。


 私は彼の演奏に魅了され、虜になっていたが、心の何処かで彼を羨み、嫉妬する気持ちがあった。


 なぜ私は彼の様な才能がないのか。


 これはピアノを真剣にやった者だったら誰もが抱く当然の感情だろう。


 私は今でこそコンクールの審査員をやることが多いが一応名の知れたピアニストだ。


 だから、そんな感情は人一倍強かった。


 しかし、今日彼の演奏を聴いて自分がそんな感情を抱いていたのが恥ずかしくなった。


 何故なら、相手を羨んだり嫉妬したりする感情は自分と相手が同じ土俵にいるから生まれるのだ。


 相手と自分が同じ土俵に居るから悔しかったり、嫉妬したりするのだ。


 しかし、私と彼、佐藤蒼では同じ土俵にはいなかった。

 私は彼と同じ域には達していなかったことをようやく今日実感した。


 彼の出す音、一音一音が私との違いを雄弁に語っていた。


 しかし、私は不思議と嫌な気分にはならなかった。


 彼が雲の上の存在に思えると自分自身と彼を比べることがなくなる。


 そうすると彼の演奏を純粋に楽しむことが出来た。


 しかも、彼もただ自分の実力をひけらかすのでは無く、私たちにピアノの本来の楽しさを伝える様に演奏していた。


 そのおかげで、今はピアノを弾きたくてたまらない。


 こんな感情はいつぶりだろう。

 幼い頃はピアノを弾けることがただただ楽しくて、時間も忘れてピアノを弾くことに没頭していた。


 しかし、いつしかピアノを弾くことは義務になり、他者と競い合うようになってからは上手く弾く事だけに拘るようになっていった。


 その頃にはピアノを弾くことで喜びを感じることは無くなっていた様に感じる。


 それを今、46歳にもなってあんなに小さな子供に教えられるとは些か恥ずかしい。


 しかし、彼には感謝したい気持ちで一杯だ。


 彼はこれからどのように成長していくのだろう。

 彼の将来を考えると楽しみでしょうがない。


 

 そんなことを考えていると、隣から興奮した様子の西村くんが話しかけてきた。


 「今の演奏、凄すぎじゃないですか!」


 どうやら、西村くんもあの少年の虜になってしまったようだ。


 それから西村くんは私に彼の演奏の凄さを興奮して早口になりながら喋り続けた。


 私は彼の話に終始頷きながら、変な気分を味わっていた。


 こうやって、知らない人に彼が認められていくのはどこか誇らしかったが、同時に少し寂しくもあった。


 自分だけが彼の凄さを知っていたかったなどという、変な感情に自分自身でも戸惑っていた。


 

 そんな変な気分のまま、審査員会議が始まった。


 議題に上がったのはやはり、佐藤蒼であった。


 彼の圧倒的な演奏は審査員の誰もが認めていて、満場一致で彼が一位入賞となった。


 それ以外の全国大会出場者は入選という形になった。


 この大会は一位入賞以外は順位を基本的に付けないので、こういう形になっている。


 私は個人的には最後の方に演奏した月城玲奈の演奏が好きで、なんらかの賞を与えたい気持ちであった。


 可能性があるとすれば、公募により集まった横浜市民が選ぶ横浜市民賞だが、これも佐藤蒼に取られてしまうだろう。


 彼女にはまた次の機会に頑張って欲しい。

 彼女ならどんなコンクールでも上位に食い込んでくるだろう。


 彼女が演奏後に見せた笑顔がそう私に確信をさせる。


 彼女の演奏もまた、佐藤蒼の様な魅力がある。


 私はこんな才能溢れる若い原石の成長を期待せずにはいられなかった。


 

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