第25話 全国大会 part4

 俺はステージ中央まで行き、一礼をする。

 観客の反応は様々だが、本選の時ほど騒しくなかった。

 どこかで俺のことを聞いたのだろう。


 しかし、次の俺の行動で場内の空気が変わる。


 俺は椅子に座らず、椅子を後ろに退けてピアノの前に立ちペダルの位置を確認する。


 観客は俺が何をしているのか分からず、呆気に取られているようであった。


 俺はそんな観客の反応を無視して、立ったまま弾き始める。


 観客は始めこそ、驚いた様子であったが、俺から発せられる音を聞いて、すぐに呑まれていってしまった。


 俺は最初の綺麗な和音を静かにそして柔らかく奏でいく。


 本来はこの部分はペダルのもう一つの方のソフトペダルも使い静かに弾くところだ。


 しかし、俺は立っているためペダルを二つ同時に踏むことは出来ない。

 だから、その静かさをペダル無しで表現していく。


 しかも立って弾くと、この弱く弾くことが難しい。


 だが、俺はそれを<立ち弾き>スキルのおかげで出来るようになっている。


 ゆっくりと優しい音の波がホール内をそっと包み込む。

 綺麗な音であるが、その音の端々には哀愁が感じ取れる。


 観客もうっとりしつつも、胸が痛くなるのを感じていた。



 低音が鳴り、ゆっくりと美しい形を形成していた曲調を変えて行く。


 曲が徐々に動き始め、和音の数も多くなり音に厚みが出てくる。


 観客の周りのゆったりとした雰囲気が崩れ、徐々に加速して行き、それに伴い音も壮大になり、観客の心を打ち鳴らす。


 観客はそこで初めて感じる。


 目の前には大きな月が存在し、そこから感じられる「静」の壮大なエネルギーを。


 会場は月明かりに照らされ、神秘的な空間となり、その圧倒的な美しさに観客の誰もが魅了される。


 曲は新たなパートに入る。


 俺は音を散らし、曲が優雅に歌い出す。


 ここは先ほどとは違い、動きを感じる。

 音の小さな粒がまるで宝石のような輝きを放ち、曲を豊かにする。


 ここはとても疾走感があり、でも美しさは失わないという、芸術的な組み合わせで出来ている。


 しかも、ここはとても自由に弾ける。


 俺は表現力を最大限に駆使して、自由にそして滑らかに演奏して行く。


 体、そして心から溢れる楽しさに身を任せ、全身を使い音を奏でる。


 ピアノは俺に呼応し、俺の思い通りの音を発していく。


 これほど楽しいことはないだろう。


 自分の思いのまま空間を音という装飾品で彩っていく。


 観客はそれを心の底から楽しんでいるようだ。


 ホール内は異様な一体感に包まれる。

 俺の織りなす音に観客は感嘆し感動し、皆同じ景色を見る。


 ドビュッシーがこの世に生み出した美しい音を俺が最大、最高出力で演奏していく。


 立って弾いてることで俺はいつもより音に力を込めることが出来る。


 それを利用し、美しさの中に荒々しい情熱を込めて音を送り出す。


 観客は普段聴いているこの曲との違いを感じつつも抗い難い興奮を覚える。


 最初は一般的でない演奏に嫌悪感を感じるが、どうしてだか、心が体が湧き立つ演奏なのだ。


 まさに心踊る演奏だ。


 俺は高速で指を動かし、月に向けて駆け上がっていく。


 俺の体は徐々に汗ばんできて、体温も上昇していく。

 そして、一番体が温まってきた時に曲の山場に突入した。


 全身から程良い具合に力が抜けて、ピアノを弾くのに最適で最高な力で音を打ち鳴らす。


 指は鍵盤の芯を的確に叩き、今までにないぐらいの快音をホールに響き渡らせる。


 観客が息を呑み、身動きが取れなくなる程の衝撃がピアノから生み出される。


 それはこの美しく優雅な曲に全く相応しくないほどのものであった。


 しかし、俺はその爆音までも手玉にとり、曲として成り立たせてしまう圧倒的な技術力を有していた。


 ホール全体を呑み込むほどの音が、自由自在に操られる。


 しかし、突如として、その音がホールから消失する。


 ホール内はぽっかりと空白ができ、静寂が支配する。


 観客は今まで感じていた圧倒的な音の圧力を感じなくなり、一瞬戸惑う。


 観客はその空白の空間を創り出したピアノと少年に痛いぐらい意識を吸い寄せられる。


 今まであったものが無くなった空からの空間にはその空を埋めるために吸引力が働く。


 それを利用したのだ。


 観客の意識が完全に集中したところで、とても静かで優しい音をゆっくりと奏でていく。


 それは痛いぐらい集中させられた意識には十分過ぎる音だった。


 誰もが、今まで感じたことのない快楽に打たれ、意識を手放しそうになる。


 しかし、それを演奏が引き止めていく。


 曲は再び疾走感を感じさせながら、最後に向かって駆けていく。


 俺の全身も段々と疲労の色が見えてきた。


 そして、最後は月明かりが薄れてゆくように美しく、柔らかな音色を立てて終わっていった。


 俺はやり切った達成感と終わってしまった寂しさを同時に感じつつ、ステージの中央でお辞儀をする。


 ホールは怖いくらいの静寂が支配していた。

 しかし、観客がそれを拍手と叫び声で打ち破った。

 観客は皆、総立ちだった。


 観客の顔は上気し、全身から溢れ出てくる興奮をどうにか表現しようと必死だった。


 俺はそれを見て嬉しいのと同時に恐怖を覚えて、そそくさと退散した。


 しかし、俺が退場してもそれは収まるどころか更に勢いを増すばかりであった。

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