第18話 本選 part2
俺はピアノの前、ステージの中央に行きお辞儀をする。
俺がステージに出た瞬間、会場がざわめく。
俺の事を知らない人は困惑し、知っている人は今度はどんな演奏をするのか期待しているように感じる。
俺はそんな会場の空気を感じながら、椅子に座る。
俺は程良い緊張感に包まれながら、ゾーンに入るため集中力を高めていく。
ゾーンのスキルを取得してから俺は、ゾーンへの入り方が自ずとわかった。
ゾーンに入る感じは瞑想する感じに似ている。
目を閉じ、自分の呼吸だけに意識を向ける。
最初は様々な雑念が浮かんで、意識をそちらに向けそうになる。
それを自分で律して、呼吸だけに集中する。
そうすると、ある時パッと雑念や雑音が消え、世界がクリアになる。
これがゾーンに入った合図だ。
俺はピアノに手を伸ばし、弾き始めた。
ピアノに触れた瞬間俺は、思わず笑みを浮かべてしまった。
全然違うのだ。
今まで、ベストだと思っていた演奏のその先があったのだ。
それをピアノに触れた瞬間、確信した。
音を発した瞬間その確信は現実となり、ホールを揺らした。
俺は今まで、味わたことのない感覚を存分に楽しんでいた。
ピアノと同化したようにピアノを手足の様に自由に弾くことができる。
音も全然違う。
今まで、囁くように歌っていたピアノがお腹から声を出して、オペラ歌手のように歌い始めたのだ。
それには弾いている俺ですら圧倒されるものがあった。
俺は快楽に従い、ピアノを弾き続けた。
自分の体の事など全く気にせず、目の前にある最高の一音を鳴らすため、俺は全力を超えた演奏を続けた。
そこは天国でもあり地獄でもあった。
決して、人が足を踏み入れては行けない領域だと俺は確信した。
しかし、それでも俺はピアノを弾くのを止めることはできなかった。
全身を痛みが蝕み始めた。
一音を鳴らすたびに、全身から滝のような汗が流れる。
それと同時に体力と意識をごっそりと持っていかれる。
しかし、今の俺にはそんなことが些細な問題としか思えないくらいの快楽をピアノから感じていた。
一音一音鳴らすたびに体の芯から振るえる。
今までの演奏とは比べものにならない。
音を鳴らす度に脳内に甘い汁が大量に溢れて出す。
俺はその快楽に酔った。
本来、脳は体に異常があると警告出す。
しかし、俺の体中の異常、悲鳴を伝えるはずの脳はもう既に壊れていた。
俺はただ、ひたすらに最高の演奏をしていく。
最高の音で、最高の表現を。
演奏はクライマックスに突入する。
激しく音が入り乱れ、指が鍵盤の上で踊る。
心と音の粒が踊り、全身の体温が上昇して行くのを感じる。
最大の山場を越えて、曲は次第に張り詰めた緊張をといていく。
空気は弛緩し、最後の音を軽やかに奏で曲は終わりを告げた。
俺は自分の演奏の出来栄えに満足して、興奮する気持ちをなんとか抑えて、椅子から立ち上がり、お辞儀をするためステージ中央に行こうする。
その時だった。
全身を激痛が襲っているに気が付いた。
それだけはない。
汗はシャツをびっしょりと濡らし、まるで土砂降りにあったような感じだった。
俺はなんとか痛む全身に鞭を打ちお辞儀をして、舞台袖にはけて行く。
そこで、俺の意識は朦朧し始め、なんとか舞台袖にたどり着いた時に意識が途切れた。
****
私、月城玲奈つきしろれいなはステージに登場した最後の演奏者を見て激しい怒りを覚えた。
「なんで、あんなチビがここにいるの!?」
私は思わず、声に出してしまった。
しかし、周囲の人たちがそれを責めることはなかった。
皆、同様のことを思っていたのだろう。
その証拠にステージに少年が現れた瞬間会場が騒ついた。
私は怒りが大きくなっていくのを感じながら、少年の演奏が始まるのを待った。
私は去年五年生にして、この東京大会の本選で入賞、つまり一位を取った。
そして、もちろん今年もそれを狙っているし、周りからも期待されている。
更に今年はこの大会の後の全国大会でもいい順位を取ることを目標にしている。
だから、この本選ではしっかり一位を取り、そのあとの全国大会へ良いスタートを切りたいと思っていた。
そんな私の耳に予選で審査員並びに観客の度肝を抜く演奏をする子がいたという情報が入った。
生憎私は予選の2日目で、その演奏した子は1日目だったらしい。
そして、本選に勝ち進んだことを聞いて、今日自分の演奏が終わった後に聴きに来たわけだ。
そうして、不安や期待など様々な感情が入り乱れながら、その子の登場を待っていた。
そして、出できたのが小学一年生ぐらいの美少年だった時には一瞬目を疑った。
次に出てきた感情は怒りだった。
私はこのコンクールを目指して死ぬ気で練習してきた。
生活の全てをピアノ優先にして、やっとこの舞台に立っている。
そんな私と一緒の舞台に立っているのがあんな小さな子供で、しかも噂される程の腕前ときている。
この事実に怒りを覚えずにはいられなかった。
そんな心持ちで少年、(佐藤蒼と言うらしい)を見つめた。
少年はピアノの椅子に座って暫く動かなくなった。
そして、急に目覚め開け、ピアノを弾く体勢に入って、微笑んだ。
その瞬間、私は髪の毛が逆立つのを感じた。
これから大変ことが起こるという漠然とした恐怖が私を支配した。
そして、ピアノが音を発したと同時に私は雷鳴を聞いた。
そうとしか表現できない音がホールを揺らした。
私は全身がガタガタと震えて、今までに無いくらいの恐怖を感じていた。
少年は悪魔だとその時私は思った。
今まで、感じていた怒りなどは何処へ消え失せ、私の体は恐怖に支配されていた。
悪魔のピアノだ。
全てを圧倒的な音の波で蹂躙し、人の心を簡単に操ってしまう。
誰もが演奏に圧倒され、魅了され聴き入ってしまう。
しかし、それは単なる観客だけの話だ。
私の様にピアノを真剣にやっている人たちには絶望しか与えない。
私の心は演奏によって強制的に動かされ、ボロボロにされた。
悪魔は私のこれまでのピアノを全否定した。
圧倒的までの演奏を盾に。
私は途中から耳を塞いでここから逃げ出したい衝動に駆られた。
しかし、それは出来なかった。
私も悪魔の演奏に魅了された一人だったからだ。
そんな生き地獄を味わっていた私の世界はある時を境に180度姿を変える。
突然、今まで絶望でしかなかった演奏が希望の光の様に感じた。
そして、あれほど悪魔と恐れていた少年はピアノの神が使わした天使に見えてきた。
私はこの変化に驚愕するも、そんなことを考える暇さえ天使は与えてくれなかった。
今まで、私に押し寄せていた圧倒的な音の波はその通った後に命を吹き込んでいく。
今までの演奏で蹂躙された心が癒され、息を吹き返す。
ホールは至福の空間になり、皆心から演奏を楽しんだ。
その心に絶望の色は無く、あるのは神々しいまでの希望の色だった。
私は降り注ぐ音に身を委ねる。
これほどまでに幸福な音に私は触れたことはなかった。
そんな天国と地獄を創り出した少年の僅か5分の演奏はひっそりとしかし、荘厳に終わっていた。
私はその日、ピアノの神の存在を知った。
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