第13話 審査員、加藤和彦

私は珍しく興奮して、審査員会議を行っている。


 ここは東京オペラシティビルの中にある会議室だ。

 東京オペラシティビルは地下三階、地上五十階からなる超高層ビルである。


 地下にはコンサートホールやリサイタルホールがあり、地上には飲食店や企業のオフィスが多数入っている。

 そのため、こういったコンクールの審査員会議を行うのに適した会議室も完備されている。


 私は机の上の一枚の申し込み用紙を眺めている。


 そこには端正な顔立ちでまだ幼さが残る美少年の写真があった。

 彼の顔を見るとまた先日、彼がした凄まじい演奏が脳内で流れ始め、体の芯が震えるのを感じる。


 こんな感情をコンテスタントに抱くのは初めてであった。


 私 、加藤和彦かとうかずひこは今年で46歳になるピアニストである。


 40歳を超えてからは今までのキャリアから大学の非常勤講師や今回のようなコンクールの審査員として招かれることが増えてきた。


 そんな私は今、年甲斐もなく興奮していた。

 いや、私だけではない。 

 ここの会議室にいるコンクールの審査員は皆興奮していた。

 その原因はあの小さな美少年がコンクールで見せた演奏であった。


****


 私、加藤和彦は少し憂鬱になる気分を堪えながら、超高層ビルの地下のリサイタルホールに向かった。


 今日はここで全日本音楽コンクール、通称「毎コン」のピアノ小学生の部の予選が行われる。


 毎年、80人以上の子が予選に参加する。

 だから、予選は二日間に分けて行われる。


 今日はその初日で、私は審査員として招かれていた。


          

               

                



 「はぁ......」


 私は今日何度目かになるため息を吐いた。


 今、演奏が終わって、今日の演奏の半分が終わった。

 しかし、私はもう精神的に疲れてしまっていた。

 毎回のことながら、審査はとても疲れる。


 しかも、この毎コンのような高レベルのコンクールは特にそうだ。

 参加者のレベルが高くミスタッチなどは滅多にしない。

 なので、優劣を付け難く、結局は自分の直感で感じるもの、個性がある子を選ぶことになる。


 しかし、感じるものや個性という抽象的なことなので、どうしても迷ったり、考えたりしてしまう。


 しかも、コンクールでの演奏はみんな同じような演奏ばかりでその中から選ばなくてはならないので、とても大変だし、退屈だ。


 その時だった。

 会場にアナウンスが流れ、次の演奏が舞台に現れた。


 私はその姿を見た時、内心辟易した。

 それもそのはずだ、その男の子は身長や顔に残る幼さから、まだ小学一年生程だろう。


 明らかにこのコンクールでは場違いだった。


 「おいおい、勘弁してくれよ。」

 私はそう周りには聞こえないくらいの小さな声でひとりごちる。


 しかし、そんな私の不満は彼がピアノを弾き始めた瞬間に音と共にどこか遠くに消え失せた。


 彼のピアノを聴いた瞬間、私は全身を雷に打たれた衝撃に襲われた。


 これは比喩ではない。


 彼の出すピアノの爆音が私を容赦なく打ちつけるのだ。

 私は必死に意識を止める努力をした。

 そうしていないと、私はすぐさま意識を手放してしまいそうだった。


 それでも、彼のピアノは止まることなく走り続ける。

 彼のピアノの音は嵐のように私たちの中をふき荒らし、川の濁流のように押し流す。


 彼のピアノの前にただ私は何もなす術なく、立ち尽くすしか出来なかった。


 しかし、心はどうしようもなく沸き立ち、興奮の渦が全身を熱くしていた。


 彼のピアノはまるで、大自然のように人智を超えた域のものだった。


 時には、災害で私たちを失意のどん底に叩き込み自然に対する無力感を感じさせる。


 しかし、自然は私たちに恐怖以外も恵んでくれる。

 それは雄大な大地の自然美などで、それを見るだけで私たちは幸せな気分になる。 


 「凄い......」

 私はこんな演奏を未だかつて見たことがない。


 こんな壮絶なピアノ演奏を前にして、凄いとしか言えない陳腐な語彙力に辟易しながら、彼の演奏を全身で感じていた。


 しかし、そんな演奏は突如として終わりを告げた。


 彼のピアノから出る音の波の圧倒的な圧力が終息して、やっと私は息をすることができた。


今の1分間私は息をすることが出来ずにいたらしい。


 そして、十分に呼吸を整えて、次の曲に備えた。


 しかし、二曲目は先程とは打って変わり、穏やかにそして、楽しげに始まった。


 それは彼が純粋にピアノを弾くことを楽しんでいる様子が聴いてるこちらまで伝わってきた。


 そうだ、ピアノは本来楽しいものなんだと私は彼のピアノによって再確認させられた。


 コンクールの演奏とはどこか堅苦しく、弾いてる本人も表情は険しく、楽しいそうではない。


 そんな人たちを多く見る中で私は知らず知らずのうちにピアノの楽しさを忘れていた。


 彼のピアノを聴いていると私も今すぐピアノを弾きたい衝動に駆られた。


 私は気づいたら、彼のピアノの虜になっていた。


 そんな終始楽しい気分にさせてくれた二曲目は終わり、すぐさま三曲目に突入した。


 三曲目は彼のピアノ技術を遺憾無く発揮した。

 まず、両手がピアノを高速で左右に動く。


 しかし、その音の一音一音が粒となってはっきり聞こえてくる。


 更にその一音一音はそれぞれに感情が込められていて、音の粒を感じるたびに聴いてる人はころころと自分の感情が変化するのに驚き、開いた口が塞がらなかった。


 かくいう私もその中の一人で、自分の感情が全くコントロールできず、全てピアノを弾いている彼によってコントロールされるという驚愕の体験していた。


 そん終始驚きの連続の三曲目は終わりを告げた。


 そして、最後の4曲目に入る。

 すると四曲目は今までとは打って変わって、とても緩やかに始まり、情緒的な演奏だった。


 私は胸が一杯になるのを感じた。


 演奏は終始ゆっくりなのだが、そのゆっくりとした音が空間に長く留まり、私の心を哀愁の色に染めあげる。

 私の体と心はもう許容範囲を超えていた。


 目の奥から溢れ出る熱い涙を止める術は私にはなかった。

 私はいい歳して、涙を流したことが恥ずかしく、周りを確認すると、皆私と同じように涙を流していた。


 しかし、目は彼から離されることは決してなく、どんな小さな変化でも見逃すまいと、目と耳は彼に傾けられていた。


 それほどの魅力が彼にはあった。


 そして、最後は雪が地面に舞い落ちる様に静かにそっと終わった。


 私が気が付いた時には舞台には彼の姿がなくやっと自分の状況を理解し、精一杯の拍手を送った。


 それにつられるように他の観客たちも感極まったように拍手をしていた。

 万雷の拍手とはこのことを言うのだろう。


 中には日本人に珍しいスタンディングオベーションをしている者までいた。


 私はこの後の演奏者の演奏はほとんど耳に入らなかった。

 頭の中ではずっとあの小さな彼の演奏が響いていた。

 その彼の名を佐藤蒼と言う。

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