第12話 演奏

 俺は一礼を舞台中央でして、ピアノの椅子に腰をかけ一息ついた。


 そして、弾き始めようと手を鍵盤の上にのせようとして、腕がいつもより動かし難いことに気がついた。


 スーツであった。


 いつもは、こんな肩が窮屈な服を着ないので、失念していた。

 だが、弾く前に気が付いてよかった。

 弾き始めてからでは遅かった。


 俺は落ち着いてスーツの上着を脱いで横に置き、ベスト姿になって再び、ピアノに手を乗せた。


 そして、俺は肩と腕の力を抜き、お腹と背中で上半身を支え、深呼吸をして息を整えて、演奏を始めた。


 俺はピアノの音を鳴らした瞬間、つい笑みが出てしまった。


 思っていた以上に良い音が出る。


 全身を駆け巡る高揚感と満足感に俺は夢中で弾いた。

 今までこんな良いピアノに出会った事はなかった。


 しかも、俺が弾けば弾くほどピアノも俺に応えてくれた。

 音の粒がホールの中を駆け巡り、色んな物に衝突して行く。

 ホールにいる人や壁、あらゆるものが音の粒の行く手を遮る。

 それでも、その音の粒を止める事はできない。


 それはまるで、音の嵐のようであり、濁流のようでもあった。


 これは演奏ではない破壊だと俺は心の何処かで思ったが、止める事はできなかった。


 このピアノとならどんな世界も見えるという全能感が俺を酔わせていた。


 しかし、そんな俺の至福の時間は直ぐに終わりを告げた。

 一曲目が終わってしまったのだ。

 僅か1分半程度の演奏だった。


 俺は二曲目に入る前の少しの間に頭を冷やした。


 今の演奏は暴走だった。

 あまりに良いピアノで良い音がでるものだから、つい楽しくなって、無我夢中で鍵盤を叩いてしまった。


 そうしていると、コンクールという事をすっかり忘れてしまっていた。


 よし、次はしっかりとやろう。

 そう心に誓い演奏を始めた。


 二曲目の始めは、右手の華麗なスケールから始まった。

 綺麗な音符がピアノによって翼をもらい、外の世界へと流れ出て行く。

 そんな様子を祝福するような、綺麗でステップを踏みたくなるようなメロディーだ。


 この曲を作った人はさぞかし、楽しい気分だったのだろう。


 弾いている俺は心の中で、楽しく踊っている。

 そんな感情が聴いている人にも伝わってほしいと思いながら、盛大に軽やかに音を空間に置いて行く。


 さっきの演奏で疲れた人たちの心を労るように、そしてピアノとは楽しい物だと伝えるように。


 そうしていくとホールの中は嵐の後の晴れ空のような穏やかな空間へと変わっていた。


 それを全て1人の少年が創りあげているということに聴衆は驚きを隠せない。


 そして、二曲目が終わる。


 そして、今度は間髪入れずに三曲目に入る。


 右手と左手は一緒に鍵盤の上を縦横無尽に駆け回り、ホール全体を引っ掻き回す。


 音はとても速く空間には絶えず色んな音が行き来する。

 しかし、そんな中でも死んでいる音や疎かになっている音は一音もなくみな生き生きと空間に解き放たれ消えて行く。


 そんな高度な技術を披露しながら、俺はその一音一音に感情を込める。


 その音に触れた人がこの1分にも満たない演奏の中で喜怒哀楽全ての感情に浸れるように。


 そんな異質な空間も終わりを告げる。


 そして、少しの間を開けて四曲目に入る。

 四曲目は前の三曲とは打って変わってとてもゆっくりなテンポだ。

 曲調は切なくどこか別れを惜しむような印象を受ける。

 まさにラストにピッタリな曲である。

 意図して選んではないのだが。


 俺は一音一音を丁寧に空間に置いていく。

 その音はゆっくり流れをつくりながら、聴いている人の心を浄化し、そしてその心を哀愁の色に染めて行く。

 ピアノの曲調と出る音から、これで演奏が終わってしまうということが聴いている人全員に伝わって行く。


 ピアノから出る音はまるで、夕日のように淡い橙色をしていて、見る人の心を優しく包んで離そうとしないようだった。


 そんな誰もが思っていた終わるな、という願いは届かず、そっと静かに四曲目も終わっていた。


 俺は一つ息を吐き、椅子から立ち上がり、ピアノの前に出て行き一礼をして、舞台袖に戻っていった。


 その間拍手はなく、皆どこか心ここにあらずのようであった。


 俺が舞台袖に入って暫くすると、みな我に帰り万雷の拍手を送った。

 それは次の演奏者を告げるアナウンスまで続いた。


 俺はそれに少なからずの満足感を得て会場を後にした。

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