第10話 清水久美子
私はふと、ここまでの5ヶ月のことを思い出していた。
私は住宅街でひっそりとピアノ教室の先生をしている清水久美子、35歳独身である。
ピアノ教室は私の母が始めたもので、つい最近私が後を継いだのだ。
ピアノ教室といっても親族経営でまだ二代だし、特に大きな実績もなく、近所の子が習い事の一つとしてやるのに丁度よいレベルである。
まあ、私の指導方針が子供がピアノを好きになってもらうことを第一に考えているからという事もある。
そんな感じで、生徒数人の小さなピアノ教室をやっている私の穏やかな日常が大きく変わり始めたのは、やはり、彼が入ってきた時からだろう。
彼とは言わずもがな分かっていると思うが、佐藤蒼くんのことである。
この子の異端なことと言ったら、まずはその容姿だ。
私は彼、蒼くんを初めて見た瞬間のことを今でも鮮明に覚えている。
あの衝撃と言ったら、この歳で初恋に落ちた少女のように心臓が高なってしまい、平然と接するのが大変だった。
あの透き通った肌に大きな瞳が薄茶色に輝き、鼻はすらっと美しい形を保ち、眉毛は優しい印象を与えいた。
そんな神に祝福された甘いマスクをした蒼くんの凄さはその容姿だけではなかった。
ピアノの才能も尋常ではなかった。
蒼くんは初めてピアノに触ったその日に中学生ぐらいの年齢でやる指の練習を完璧に弾いて見せた。
それだけで、驚愕であるがなんと、その一週間後には譜読みが完璧に出来るようになっていて、初見でコンクールの課題曲もさらっと弾いてしまった。
そんな才能溢れ過ぎる彼をみていると、どうしてもコンクールに挑戦して欲しいという思いが出てきてしまった。
しかし、これは私のポリシーに反することだったので、少し悩んだがコンクールに出る彼を見てみたいと言う欲に勝てず、蒼くんにコンクールへの参加を勧めてしまった。
蒼くんはこれを快く受けてくれた。
そして、このコンクールという明確な目標が出来たことで蒼くんのピアノに向かう姿勢は真剣なものになり、結果的には上達も異常な程早くなったので良かったのではないかと思う。
そして丁度一週間前、更に驚くべきことがあった。
コンクール一週間前という事もあり、私や蒼くんもピアノに対する熱が入ってくる。
そんな日のレッスンで、蒼くんが浮かない顔をしていた。
理由を聞いてみると、最近ピアノがあまり上達しなくなり、私が言っていた演奏に届かないと言うことだった。
確かに私は一度、蒼くんに一流のピアニストはピアノを通して、感情や想いを聴いてる人に伝えることができ、更に自分が見ている情景を聴いてる人に見せることができると言ったことがあった。
それから、蒼くんはその事を意識して練習する様になった。
実際、この頃には表現力も付いてきて、私が言った演奏に近づいて来たと思っていた。
だが、本人は完璧にその域まで達しないと納得が出来ないらしく、そこで悩んでいるようだった。
だから、私は少しでも力になれるよう、蒼くんに私の全力のピアノを聴いてもらうことにした。
私は蒼くんほどのピアノの才能はないが、それでもコンクールで入賞したことがあるので、ある程度の実力はある。
私の演奏で少しでも、何か掴めればいいと思ってやった事だが、結果は効果覿面こうかてきめんだった。
私が演奏し終わってからの蒼くんの演奏は今までのどの演奏よりも素晴らしいかった。
まるで、一皮剥けた様な演奏で、いい意味でもう手が付けられなくなった。
凄いものを目覚めさせてしまったのかも知れないという後悔と、それに勝る高揚感が私の胸の内にはふつふつと浮かんできた。
蒼くんはあまり自覚していない様だが、こんな演奏が出来るのはプロのピアニストでもほんの一握りしか居ない。
なのに、蒼くんは小学一年生という若過ぎる年齢にして、もうそれを習得してしまったのだ。
しかも、これから出るコンクールは国内のジュニアコンクールの中でも最もレベルが高い大会ではあるが、言ってしまえばジュニアである。
更に蒼くんが出るのは小学生の部である。
これが何を意味するかわかると思う。
プロのピアニストでも舌を巻く演奏をする子が小学生の部に出るのだ。
これははっきり言ってオーバーキルである。
周りの小学生はさながら、長篠の戦いで織田の鉄砲部隊を見た武田の騎馬兵のような気分になるだろう。
それまでは、みんな天才だと周囲から言われて、コンクールに出てみれば、同じ年齢で次元の違う演奏する子を目の当たりにするのだから。
その子達には少し同情するが、でも蒼くんもただの天才ではなく、努力が出来る天才だ。
だから、私は蒼くんのこの5ヶ月間の努力を全力をコンクールでぶつけて来て欲しいと思う。
それで周りがどんな反応をするかちょっと楽しみでもある。
私は明日に控えたコンクールのことを思いながら、正確には、コンクールで演奏する蒼くんの姿を想像しながら、少し早めの睡眠に入った。
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