自習中は夢の中

 午後の授業開始ギリギリで教室に戻ると、チャイムは鳴り終わったというのにざわついた雰囲気が治まらない。俺は違和感を覚えたが、それは黒板に書かれた文字を見れば一目瞭然だった。


『中国雑技団の演目について』


 確か「数学Ⅱ」だったはずの五限目は、果たして文化祭の準備に代わっている。思わず弁当箱を落としそうになり、慌てて包みを強く握った――。


「ああ、有栖川君! もうすぐ打ち合わせ開始よ。早く席について」


 鍵山さんが満面の笑みで手招きしている。

 反射的に田中の席の方へ視線が行ってしまい、運の悪いことに田中もこっちをギロリと睨み返していた。

 俺は、慌てて俯くとそのまま席まで小走りに向かった。


「ではこれから、先日決まった文化祭の出し物『中国雑技団』について、詳細な演目を決めていきたいと思います。文化祭まであまり時間がないから先生に無理を言って授業を変更してもらったわ。みんな今日で各自の担当を決定してね」


 おいおい、委員長っていうのは時間割もそんな簡単に変えられるのか……?

 授業のペースだって決まっているだろうに、先生も苦労しないか? まあ、勉強あんまり好きじゃないから別にいいんだけど……。でも、今日に限ってはタイミングが悪い……。


「あ、ちなみに午後の授業が文化祭の準備になったぶん、五限目の「数学Ⅱ」と六限目の「日本史B」は自習扱いだから、テスト範囲は自分で勉強するように、って先生方から言伝を預かっているわ」


 鍵山さんのひとことに浮かれモードだった教室の雰囲気が一変、落胆の声に変わる。


「えー!」

「めんどくせえ……」

「自習とかどうやるんだよ」

「誰か日本史教えてよ!」

「白村江の戦いだろ?」

「数学とか将来なんの意味があるの?」

「関数とかベクトルとか絶対使わないよね」

「ベクトルは数Ⅱじゃないだろ」

「知らねー」


 思い思いに皆が口走りざわつく教室内。

 そんな恨み節を制したのは……まあ予想通りですよ。

「おいおい! お前らちゃんと委員長の言うこと聞けよな! 鍵山さんが困るだろ! 中国雑技団の演目さっさと決めようぜ!」


田中だ。


「「「……」」」


 一瞬、静まり返った教室内だったが、すぐにどっと沸いた。


「うぜー!」

「田中には言われたくないわー」

「たなかー! 委員長に好かれたいからって仕切るなよー」

「そうだそうだ! 田中が仕切れるほどみんな田中に心許してねえぞー」

「田中マヂあんたウケる」

「田中君、君はそんなに委員長にいいところ見せたいのかね」

「頑張れ田中!」

「いいぞ田中! もっとやれやれー! 委員長にいいところ見せてやれ!」

「そうだぞー、みんな田中の言うこと聞いてやれー」


 もはや冷やかされているのか愛されているのか分からん……。

 ただ、俺たちCグループに向けられるような、胸を刺すよな言葉でないことは確かだ。

 相変わらずというか、これがAグループ&Bグループのノリである。


「みんな静かにして。時間が勿体ないわ。田中君ありがとう」

 鍵山さんが手を叩いて皆を静かにさせた後、田中に満面の笑みを浮かべた。

 それを受けて田中のにやけ顔がまた気持ち悪い。完全に頬が緩み切って、真っ赤な顔はタコ入道だ。


「じゃあ、演目を決めていきたいと思います。皆さん何がいいかしら?」鍵山さんが音頭をとっていく。


「皿回しとか?」

「雑技団ってどんなことしてた?」

「龍とか?」

「龍!?」

「変な鈴みたいなやつとか剣持って踊ったり?」

「曲芸っていうのかな? ああいうのって、サーカスのイメージしかないから、雑技団って意外と何やってるか知らね―」


 やいのやいのと話していることを鍵山さんが黒板に書いていく。

 俺はというと、もちろん輪に入っていけるはずもなく、前に座る野々村君のつむじ事情を観察することにした。つむじ観察日記<野々村編>でも書こうかな……。500円大の鳴門海峡。ニ、三日やそこらでは当然生えてこないよね。


 ボーっとつむじを眺めていると、ぐるぐる吸い込まれていく――。


 吸い込まれる感覚は、スッと眠ってしまうような心地いいそれに似ていた。つむじの境界、黒色の毛髪と肌色の地肌が混ざり合っていき、不思議な色になっていく。不思議な色も虹色に変化していき、俺は虹色世界の中をふわふわ浮遊している。たぶんここは野々村君のつむじの中だ。


 つむじ観察日記<野々村編>二日目 

 野々村君のつむじが虹色になりました。僕はその中で浮遊していました。

 おわり。


 あれ? これは妄想? それとも夢? 弁当を食べた後だから夢かな? 夢の中にいながら夢と認識できるって最強じゃね?

 俺は、そのまま漂う。野々村君のつむじの中はカラフルで、外から見たようなみすぼらしい禿ではない。

 七色がぐるぐる回るのを見ていたら、そのうち目も回ってきた。あの目が回る感覚はボブと目を合わせた時のドロドロした感覚に近い……。


 おえー……、思い出したら余計に気持ち悪くなってきた。せっかく心地よかったのに……。これも全部ボブのせいだ。俺は目を閉じて浮遊感に身を任せることにした。脳をふわふわだけに集中させる。


 どのくらいの時間が経ったか分からないが、身体に何かがポコポコ当たる感覚があるので目を開くとそこにはこぶし大のキノコがいくつも身体に当たって通り過ぎていった。

 キノコ群に一瞬びっくりするが、これは夢なので俺はすぐに適応する。

 赤を基調とした傘に、白い斑点があるきのこはあまり美味しそうではない。だが、これは夢なので何でもありだ。キノコ群に手を伸ばし、ひとつ掴むと俺はそのまま傘の部分に鼻を近づけてにおいを嗅いでみた。


無臭ですね。夢ですから。


夢なので、そのままパクリといってみた。


無味ですね。夢ですから。


……。


…………。


 景色がぐるぐると回り始める。手に持つきのこがぐにゃぐにゃになっていく。

 ――だが、不思議と気持ち悪い感覚はない。

 ひとしきりぐるりと世界が一周すると、今度は目が冴えてきた。頭の中がすごくクリアな感覚で、いまなら「数学Ⅱ」だって「日本史B」だって一瞬で解けそうだ。全能感さえある。

 あれ? もしかして俺が食べたキノコって合法じゃないやつ的なキノコじゃね? でもこれは夢なのだ。どうでもいい――。


 そう、どうでもいいのだ。


 朝起こった田中とのいざこざや、昼休みにボブと話したドードー伯爵たちの話。

 俺にはどうだっていいことなんだ。


 …………。


 いや、どうでも良くない……。

 だって、現実に残るか、ワンダーランドに行くか決めなきゃいけないんだ。

 鍵山さんだったらどっちを選択するのだろう……。

 彼女ならきっと後者を選ぶだろうな。なんでそんな簡単に決められるのだろうか……。いや、まだ選んだわけではないけど……。選ぶ気がする。所詮妄想だけど……。


 そう、所詮妄想なのだ。夢なのだ。

 中国雑技団の演目も少しは出ただろうか。俺は現実に戻るため、夢から覚めることにした。

 なんとも都合がいいよね。


 …………。


 目を開けると、黒板には「皿回し」や「湾刀演舞」、「龍の舞」といった演目が書き出されており、鍵山さんを見れば、ああだこうだとクラスの皆と熱心に議論を交わしている。

ふと時計を見るとすでに6限目も中盤に突入していた――。


 ……え?


 俺、一時間以上も夢の中にいたの!? うたた寝とか妄想のレベルではない。

 さすがの俺も学校でこんなに長時間、妄想や夢の中にいたことなんかないんだけど……。

 疲れてるのかな……。


 まあ、疲れてるよね。昨日の今日だし。鍵山さんも疲れてるだろうに、元気だなあ……。

 頬杖をつきながら感心して鍵山さんを見ていると不意に目が合った。


「あら有栖川君、なにか意見でもあるのかしら?」教壇から声を掛けられた。


 返答できず思わず田中の方を見てしまった。

 相変わらずこっちを見ている。


「げっ……」意図せず漏れてしまう。

「おい有栖川、“げっ”とはなんだ“げっ”とは。なんか文句でもあんのかよ?」

 田中が立ち上がってこっちに向かってくる。

 立ち上がるもんだから皆の視線も田中と俺に注がれる。


「い、いや……、別に」

 別にじゃねえよ! “別に”じゃあ意味ありげな返答になっちゃってんじゃん!


「お前本当になんなんだよ。いままで陰キャだと思って無視してたけど、鍵山さんとなにやらあるみたいな空気出しやがってよ。俺の事バカにしてんだろ?」

 田中に凄まれる。なんでこんなんことになってんだよ……。


「田中アンタ弱い者いじめとかやめなよ。いちいち陰キャに突っかかってんじゃないよ」

 浦野さんが田中を制するが、弱いものいじめとか完全に見下されてるよね……。


「おいおい有栖川、穏やかじゃねえな。田中になんか言ったんか?」

 鈴村が茶化すもんだから、Aグループ介入となればいよいよBグループも含めたクラスの大半から集中砲火を受ける羽目になる。


「有栖川、田中に喧嘩売ったの?」

「なんでも、有栖川が委員長と付き合ってるってふれ回ってるらしいよ?」

「なにそれ、勘違いも甚だしい」

「きもっ」

「田中も大概だけど陰キャはただただキモイわ」

「勘違い野郎は田中と仲良く喧嘩でもしてろよ、ぶぶぶ」

「おい笑うなって、仲良くとかトムとジェリーかよ」

「はははそりゃいいわ」

「どっちがトムでどっちがジェリー?」

「おい! てめえら調子乗んじゃねえよ! 有栖川にマジでキレそうなんだけど……」田中は真顔だ。

「なあ、有栖川、お前ちょっと放課後ツラ貸せよ。朝の続きしようや」

「朝の続きとかキモすぎー」浦野さんが空気を読まない。


 田中に迫られてすでに半べそ状態の俺に鍵山さんが颯爽と間に割って入る。

「ねえ田中君、私に好意を抱いてくれるのはすごくうれしいんだけど、私の邪魔はしないでくれる? いまは文化祭の準備時間であって、誰かを貶めていい時間ではないのだけれど?」

「鍵山さん! だって……!」

「だって?」鍵山さんが逆に田中に詰め寄る。

「うっ……」田中はたじろぐしかない。

「田中さあ、アンタこのままだとドツボだよ? 委員長からしたら田中の印象どんどん悪くなるし、弱いものいじめしてるあんたって結構サイテーだと思うんだけど」

 浦野さんがド正論という拳で田中をぶん殴った。

「うぐっ……」田中がうめき声をあげて胸を抑える。なんだその動き……。

「そうだぞ田中、いまは耐え忍ぶときなんだ。試練だと思って我慢しろ、いつかきっと道は開ける!」

鈴村が後ろから田中の肩にポンと手を置いて言った。こちらから見える顔はニヤニヤしていた。明らかに面白がっているだけだ。

「鈴村……」

 そんな顔が見えない田中は「鍵山さんごめん、俺が大人げなかったよ」などと間抜けなことを言う。


「分かってくれればいいのよ」鍵山さんは田中に微笑すると教壇の方へ戻っていった。

 鍵山さん、無意識に魔性すぎ……。


 俺はというと、皆からの集中砲火を食らったせいでライフはほぼゼロ。加えて半べそ状態なので、精一杯の虚勢で“やれやれ空気”を出して、机に突っ伏した。顔を伏せるのが精一杯だった。気を緩めたら今にも泣きそうなんだもん。


 さすがの鍵山さんも何も言ってこない。

 突っ伏していたらそのうちチャイムが鳴った。


 同時に、俺の中でひとつの覚悟が決まった――。

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