ゆめはかわいて
私学生
第1話 (これのみです。)
乾きと水
いや、と考え直した。
やはり死ぬべきだったのでは?考えるだけの言葉ではあるのだ。けれど、ちょうど不快に、暖かい流動的なものを感じる。男は自分の肌と心の端の方が、段々としわがれていくと思った。
ぬるり、と湿ったのが右のほほに当たって、そのまま男の口の中を通りぎていった。舌の上では、風に置いて行かれる潮の味がして、しょっぱさと辛さが神経をひとつひとつ刺激していった。男はその味を、半永久的になめねばならない、と思い出す。
彼は水の上にいた。潮を含んでいるから、海の上といっていい。正確には、男のでこぼこの尻と、水の間には板があった。刺さるほどに荒く削られたような接続面で、時折その尻に細い一本の切れ端が刺さって。
時間の経過に比例して、力が男から空気へと対流し、吸い取られていく。もう男は考えることしかできなくなっていた。くしゃくしゃの紙みたいになって、横たわる姿勢へと傾き、その板と髪との間で、また海が、わーっと背伸びしては襲い掛かってくる。赤黒くなった口が今度は濡れて、また体に悪そうな潮辛さをなめる。
無論、男はこの板とこの状況全体に多数の不満を抱えていたが、その不満をぶつける人間がいなく、物にぶつけようにも、手の上から自然に垂れていく青い水と、自分を支える板しかないものだから発散は出来ない。男は相当に苛立っていた。
その数ある不満のうちひとつに、「小説がかけない」というものがある。この物乞いのような男は、三日前までは、風通しの悪い部屋の中で、机と向き合い筆をかじるような小説かであったから、とにかく自分の中で沸き立つ、創作意欲とも何もしないことへの恐怖、ともとれるような、それを持て余していた。
その名残として、ズボンの右のポケットには、青銅色に錆びた筆がある。この筆は元から「愛着」という建前により、数年間もこき使われ、圧力やらインクやらで先の方が茶黒にすり減っていたから、むしろ今の方が金属的な美しさを、その筆先から出していた。
それとは対照的に男の体は、汚いほうの乾き方をしている。目の表面からも潤いが消えて乾いているようで、その全体が出す黒が、この青一色の風景のどこから抽出されてきたのかは、想像力をうりにしていた男からもわからないほどであるらしい。男は広すぎる青を前にして、何も考えることができずに、そこに座っていた。
男の内面では、自分を包みこもうとする、汚れた渇きから逃げようとするものが盛んに働いていて、何かできないか、と男は考えるのだった。それはやがて、なぜこうなったか、という愚痴と後悔に変わっていき、鮮明にその出来事を頭の中で描き出した。
手をつないで歩いていき、男はとことんきざな言葉を女に向けていう。女は楽しいような悲しいような足どりで男と歩く。
それから、河の岸に歩みを進めて、途中に自分が珍しく、「寒い」と声にだしていったことまでも思い出した。抱きあった時のあのほら、黄色い感情と、その勢いに任せて泣きながら、大岩から飛び込んだこと。直前に「この大岩のように堅い」と信じていた、信仰と愛情と運命の重なりあいは、あっさりと本能的なものに打ち負かされてしまったようで、もがいてもがいて(ここら辺は記憶がない)、意識が戻った時にはしっかりと流木につかまっていた。そうしたらやはり罪の意識とかそういう後悔とかにさいなまれて、「寒い」と口に出してみて、また泣いてしまって、でもまた負けて、このいかだに似たものに乗り移ったというわけである。奇抜でありながらも、その中で見たら典型的な、心中の失敗例だった。
思い出すと喉に詰まった潮が空気とともに声になった。そのまま外側へとでてきて、目から流れる涙の水分と溶け合うと、「海水に戻れた!」と喜ぶかのごとく、消えていく。それを眺めながら、男はまた一つしわが増えてように感じた。
やはりこの乾きを止めなければと思って、男が始めたのは、ポケットの奥の方に入った、丸められた原稿用紙を取り出して、それに筆で文章を書くことだった。筆と紙が接するたびに、上品にすっとインクが吸い込まれる。何を書くか、など困らない。というのも、今の状況と原因とか、器から溢れ出そうになっている感情とかを書けばいい。誇張する必要もなかった。男が一連の文章を書き終えたころには、男は完全に濡れに濡れて、でもこころは渇き切っていて、変な感覚を覚えた。それで心が段々、ゆっくりと濡れ始めてきて、紙に水滴が乗るように、すぐに広がって。ひたひたになったときは、意識が消える。意識がまた目覚めたのは、
自宅の床であった。
状況を把握するそのまえに、足音が聞こえた。女が、見覚えのあるあの女が、音を立てにようにとひっそりやってきて、男の耳に口を寄せる。
「今日、今日という約束ではないですか…?」
体をごねるように、揺らす。しっかりと髪は束ねられていたが、何だがいつもと違う雰囲気を出していた。目の前の女も、自分と同じ小説家であった。ただもう少し上品なものを書く人間だったけれど。また女は口を開く。
「でも私、何かそう、死ねない気がするのです。」
ふと女の手の方に目が行くと、そこにはくしゃくしゃになった原稿用紙が握られていた。自分の物であったか?はたまた彼女自身が書いたものだったか。ともかく、その紙からは、濃い潮の匂いがしていた。なにも言葉を発しない男に、女は気まずそうな顔をする。その顔はやはり、私自身が惚れたおんなの、あの赤い顔であった。
「夢をみたのですよ。」それから女は語って、男はうなづいた。
ゆめはかわいて 私学生 @watashihagakusei
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