竜宮之葉の独白②
次の日、隆司君とお付き合いをすることになったこと。
その証として真っ青になったお腹を見せたときの霧子の表情は複雑だった。
形の良い眉と長い睫毛をしぱたたせながら、それでもわずかに黙った後に「そう、よかったわね」とだけ言ってくれた。
私の『私』という部分を理解はしてくれないけれど、親友である彼女のその言葉は何よりも嬉しい。
これからの彼との思い出をどうやって作っていこうかと話す私に「あまり無理させちゃだめよ」とだけ窘めてくれる彼女の優しさも本当に嬉しかった。
「わかってるよ~、これで霧子の趣味に少しは役立てるしね」
「それは…楽しみね」
私の宣言に霧子はうっすらと微笑む。
霧子には霧子なりの趣味があって、それは私には理解できない代物ではあるけれど、そういう互いの心の底を見せ合うことの出来る親友がいることが私にとってはある種の心の支えでもあったのだ。
そして今は異性である理解者が出来たことに感謝している。
でも結論から言えば私は霧子の忠告を守れはしなかった。
私は本当の意味で、私と『私』が大好きになった彼への熱望を止めることが出来なかったのだ。
今までの恋愛で満たされることのなかった気持ちを初めて全力でぶつけた。
かつて付き合った人にさえ、言えなかった願望を叶えてくれるし、彼自身もまたそうしてくれるように努力をし続けてくれる。
正直に言えば、何度も「飛ばしすぎだ」「少しは抑えなきゃ」と思ってはいても彼と一緒にいると止めることが出来ない自身の欲求に「フラレたらどうしよう」と一人で悩むこともあった。
たしかに霧子の忠告は正しいとは思う。
けれど彼はそんな親友が思っているよりも、私が自分勝手に期待していたよりも凄い人だった。
隆司君はとても誠実で優しい人だ。 私が予想した以上に私を色々と考えてくれている。
900秒ルールだって私にはとても思いつかなかった。
私だけで考えていたら際限なく、やり続けてすぐに彼の心はボロボロになっていただろう。
それを時間を区切ることで彼はどうにか自身を切り替えて、どうしようもない私と全力で向き合ってくれる。
痛めつけられたい、でも愛されたい。
という両立不可能だとも思えたそんな願望でさえ、900秒ルールであっさりと覆された。
『私』と私の願いを何の不足も無く満足させてくれる彼に自身がどうしようもなく溺れていっている自覚はあってそれを怖いとも思う。
けれどそれを止められない。 だって好きになってしまったら止められないのが女の子なんだもん。
そして薄々は自覚していたが、私はとんでもなくワガママで欲深い人間だったようだ。
ブレーキの壊れた私の欲求はますますエスカレートしていき、その度に隆司君に困らせた顔をさせてしまう。
そして今回、私のねだった誕生日プレゼントはその最たるものだった。
「もうすぐ誕生日だね。何かほしいものはある?」
彼の問いかけは当たり前で、普通に恋人らしいとも言える答えを考えていたはず。
「ねえ、それじゃ私の指を折ってくれる?」
そのときに見せた表情は付き合ってから最も困惑に満ちていた。
もちろん私だって彼がそんなことを言われるなんて考えてもおらず、もっと物質的なものを予想していたことはわかっている。
たとえば指輪とか。 でも私は彼のその表情が大好きなのだ。
だからあえてそんなことを言い出した。
物質的なもので互いに繋がりあう喜びというものは私だって理解出来る。
もちろん嫌いじゃない。
でもそんなモノよりも私はもっと刻み込まれるようなことがほしい。
さすがに私のことを理解したつもりであった隆司君も難色を示していた。
それでも私はそれを強く欲する。 渇望してしまう。
気づかないフリで私は心からニッコリと笑い、瞳を輝かせてその願いを捲くし立てるの。
そうすれば彼が惚れた弱みで何もいえないことを知っていて、重圧をかけるように何度も念を押して…。
「これ、今回の分ね」
すっかりと慣れきった親友の部屋。 ベッドの上、お互いに横になりながら手渡す。
「はい、ご苦労様」
受け取って霧子は『それ』をテーブルの上に置く。 そのあとにため息を一つ着いた。
「なにかあるの?」
それは私だけが知っている彼女の癖だ。
出会ってから何年も付き合いのある親友同士だからわかってしまう何気ない行動を正確に理解して問いかける。
「今回は随分とワガママなことをねだったのね」
「え~、だって好きなんだもん」
何を言っているかは言うまでも無い。 私が恋人に頼んだプレゼントのことだ。
「あまり気持ちが強すぎるとまた逃げられるわよ」
呆れ気味な言い方。 でもそれは彼女が本当に心配していることを表している。
これもまた私しか理解できない彼女の仕草。
「本当に嫌だったら私も諦めるよ?」
「嫌だって言わせないようにしてるの間違いでしょ?」
「エヘヘ、バレちゃってた~」
横になっていることで少し眠くなってきているせいか口調が幾分子供っぽくなってるな~。
「女と男のことだから私がどうこう言うつもりは無いけど、彼…本当に困ってたわよ?」
「え~、どうしようかな~?」
きっと隆司君に相談されたのだろう。 この調子ではさすがの彼も本当に困り果てているのかも?
弱りきった様子で霧子に相談している彼の姿を想像してなんだか嬉しくなってしまう。
「…まあいいわ、私が言ってどうにかなることでもないしね」
「霧子のそういうスッパリしたとこ大好きだよ」
「それはどうも…まあ上手くいくことを祈ってるわよ」
「霧子のためにもがんばるね」
私の言葉に霧子が苦笑で返す。
よく整っていて冷たい印象を受けるであろう霧子のそんな表情を見られるのが嬉しいと思っているのはさすがに秘密だ。
隆司君が私のことを相談するのは霧子しかいない。 私の『私』である部分を知っているのは彼女だけなのだからそれは当然だろう。
けれどこれも当然の成り行きで、彼女の相談を彼女の親友にしたのならそのままその話が私のところに来るのも当たり前なんだけどね。
彼のそういう純粋なところを可愛いと思えて、ますます好きになってしまう。
もっとも霧子は隆司君のことも多少は気をかけてくれていることを彼は理解しているだろうか?
霧子自身もそれを認めないだろうけれど、彼女は意外に情が厚い。
そして彼女もまた私と同じようにどうしようもない『私』というものを抱えている。
女の友情は儚いとは言う。
けれどそこに一本だけ頑なな『何か』が入ればそれはとても強固になることを男は知らない。
だからこそやっぱり私と彼女は親友でいられるのだ。
同じ『自分の度し難さ』を持っているもの同士であるがゆえに。
誕生日デートの当日。 隆司君は落ち着きがなかった。
それは映画を見てるときも、夕食を食べているときでも…だ。
彼はそれを悟られまいと努力はしていたようだけれど、私から見れば全然隠せてはいない。
結局のところ彼からは誕生日プレゼントについてのことはまったく話が無かった。
霧子越しには色々と葛藤があったのは知っているけれど、それを直接言って断るような勇気がやはり私の愛しい人にはなかったようだ。
もっともそんなことが出来る人なら私達は恋人同士ではいられなかっただろうことは当たり前なのだけれど。
夕食の後、ワインを飲んで酔ったフリをしながら彼を観察してみる。
この後のことをどうにか回避しようとマゴマゴしている姿がまるで子供が照れて何も言えないでモジモジしているようでやはり可愛らしかった。
けれどさすがにここまで来たところで「やっぱり今日は帰ろう」と言われるのは私だって悶々としている手前、それは避けなければならない。
「だって血の色みたいじゃない…流れてるのを見るのも好きだけど、叩かれたりしたときに鼓動と同じ感覚で痛むあの痛みで…ああ私、生きてるって感じるの…だから今日は凄く楽しかったし、このあとも楽しみ…フフッ」
これは私の本当の言葉。
私はそういうことでしか生を実感できない。 そしてそれを味わうためには相手がいる。
自ら痛めつけたところで、血を流したところで、それはただの痛みでしか消費できないのだから。
「だから私にはあなたしか居ないんだよ?」と言外に意味を込めてもいるのだけれど、きっと彼はそこまでは察してくれないだろう。
飲みかけのワイングラスのふち。
冷たくて硬くも丸みを帯びた感触を指で味わいながらそっと『告白』をする。
「…そうなんだね」
隆司君はそう返すことしか出来ないようで、やはりそういうところが私にはとても好ましく思える。
ホテルの薄暗い部屋。 隆司君はお風呂に入っている。
少し塗れた髪先と火照った身体に息を一つだけ漏らして私は見つめている。
擦りガラスの向こう側で、彼がどうしようと狼狽している様を楽しみながら、私はぬくもりの残るシーツに手のひらを置いてじっと待つ。
先程までに彼が居た場所。 寸分違わず同じ場所に座り、彼の残したぬくもりを味わう。
それは焦らされているようで、これから先にどうなるかを想像しながら待つという幸せな一時。
少し長いけれど、それが彼が、迷い、悩んでいることをあらわしていて、凄く嬉しくなってしまう。
「ごめんね…」
謝罪の言葉が一つ漏れた。
彼がオロオロとしている様に喜びを見出している自分自身の悪辣さを自覚してはいるのだけれど…。
きっと彼はまだ諦めていないだろう。
私の指を折ることを。
そうすることで彼が味わう痛みを想像して悲しくなってしまう。
なんてひどい恋人なのだろう。 私がもし他人ならばそう感じると思う。
でも悲しいことにやりきれないことにこれは私自身のことなのだ。
だからこそ一言だけ謝る。
心から、本心から…。
そしてそれを彼に聞かせないという卑怯さにも…また。
擦りガラスの向こうで彼が立ち上がる。
そして扉の開く音が聞こえた。
オズオズと言わんばかりに彼がその姿をあらわす。
そして私は謝罪は済んだと一人で勝手に納得して彼を誘うのだ。 決して帰ることの出来ない道の上で手を引くように…。
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