第9話
病院の廊下、というのは、なんでこうも薄暗いのだろう。地下だから、だけではないはずだ。
等間隔に天井から照らしている光はなんとも力が無い。外の光を取り入れられない分、眩しいぐらいに強くすればよいのに、と常々思っているが、長いこと変わることはない。
もしや、電球が切れかかっているのだろうか、と考えたことがある。雰囲気のために敢えてそうしているのかもしれない、とも。
私としては後者だと思いたいのだが、実状については知る由もない。
そんな弱い光の空間に、茉耶さんとあやちゃんはいた。壁際に設けられた背もたれのないソファに腰かけている。二人いるのに、ぽつん、という表現がよく似合う空間だった。ちなみに、茉耶さんの旦那さんは、上の階で何か手続きをしているみたいだが、詳しくは知らない。
茉耶さんは壁に背をつけて爪をいじり、あやちゃんは浮いた足をバタつかせていた。落ち着きがないのは、気持ちのせいだろう。
あやちゃんの隣に少し空いたソファに座っている私は、再び霊安室の扉へと視線を向けた。
本来ならば私はこの場にいるはずがない。死確者から死者に変わった、つまり亡くなった人間を冥界まで安全に導く、
しかし、まだ顔すら見れていない。
勿論、異常事態。私は耳に指を入れて冥界と交信した。
そういえば、そう表現すると、非科学的というか超常的というか、大層なことのように聞こえると言っていた死確者がいたことを思い出す。
だが私にとっては、普通、当たり前である。人間の行動で例えるならば、そうだな、役所のホームページに載っている電話番号に問い合わせたぐらいのことなのだ。
結論としては、冥界では現在コンピュータトラブルが発生しており、来るのが遅れてしまっている、とのこと。
対応策として、死確者の未練解消の手伝いをする我々、
魂が現世で迷ってしまわないようにするためである。それゆえ、今回は長めにいるのだ。
ここ最近冥界でもようやく、働き方改革が推進されてきている。お上からのご命令とあらばこれは、サービスではない残業。正々堂々、胸を張って、残業代を請求しようじゃないか。
ふんっ!
鼻息を荒くし、何故か湧いてきた自信を不要に撒き散らしていると、不意に霊安室の扉が開いた。
中から男性二名が出てきた。髪をきっちりと七三分けで固めたベテラン感漂う人と、新人なのだろうなと思われる童顔で神妙な面持ちの人。
共通しているのは、整った髪と服装。全身黒を纏っているせいか、ワイシャツと手袋の白さがよく目立つ。
医師ではない。病院と提携している葬儀屋だ。
「ご用意できました。どうぞお入り下さい」
優しいながらもどこか重く低い声で二人を中へ促してきた。手を繋いで立ち上がる二人を横目に、私も立ち上がる。
ふと、誰にも見えない私は中にいてもよかったのではないか、と思う。同時に、今更ながらだけど、とも。
そんな時既に遅しなことを脳裏によぎらせながら、二人と共に霊安室の中に足を踏み入れた。
白い部屋。いや、空間というべきか。広い部屋の奥には、小さな祭壇と遺体安置台がT字になっている。天井からの光に照らされているが、この階で一番の明るさであった。
遺体は首元まで真っ白な布で覆われており、顔には正方形の小さな白い布がかけられている。
安置台のそばまで二人が寄ると、ベテランのほうは顔の布を頭からゆっくりとった。
死確者の顔は穏やかでどこか満足そうな笑みを浮かべていた。最初会った偏屈で頑固な老人ではなく、優しいおばあさんであった。
「なによ」口を開いたのは茉耶さん。「笑顔でくだばっちゃって」
蔑むような目をしていたが、あやちゃんと繋いでいない右手を強く握った途端、静かな怒りに変わった。
「ふざけんじゃないわよ。好き勝手に遊び歩いて、男連れ込んで。あれだけ私を苦しめてたのに、頭にくる」
そして、表情を緩ませる。
「けど、せいせいしたわ。ざまーみろっていうのよ」
あやちゃんは何の事か分からないという顔でじっと茉耶さんの横顔を見上げていた。
「あ、あの」
葬儀屋の若いほうが気まずそうに、怖気づきながら声をかける。茉耶さんは視線を移す。
「故人がこちらを握っておりまして」
両手で差し出される。掌には真っ赤な
「これ……」
受け取り、手元に寄せると、じっと眺めた。
櫛、くし、クシ……あっ!
前もってもらった資料に、死確者が幼い頃毎日娘の髪を赤い櫛で梳かしていたと書いてあったことを思い出す。
この櫛はその時使っていた楽しかった頃の、仲の良かった頃の、二人を繋ぐもの、なのだ。
「なんでよ、なんでもっと文句言わせてくれないのよ」
「も、申し訳……」
慌てて謝ろうとする葬儀屋の若手。だが、ベテランが口元に手を伸ばす。気づいた若手は視線を向けた。目が合うと、ベテランは首を左右に振った。
「頑張ってたの、知ってた。朝から夜まで働いてくれてたの、分かってた。けど、お父さんが生きてた時とはどんどん違う人になっていって、怖くなった。日に日にお父さんを忘れていってるみたいに見えて……だからもう、なんか、駄目になっちゃったんだよ。私の中で、もう無理だって思っちゃったんだよ。でも……でも、喋りたかった。本当にずっとずっと、大嫌いだった。なのに、会いたかった。会いたかったのに……」
感情の糸がはち切れたのだろう、茉耶さんは膝から崩れ落ちた。
隣で静かに佇んでいたあやちゃんが、突然茉耶さんに近づいた。そして、そっと抱きしめた。肩に顔を置き、頭を撫で始める。
「いい子いい子」
一瞬目を見開くと、茉耶さんの口元が小刻みに揺れ始める。
「お母さん……」
ぼそりと呟くと、あやちゃんを強く抱きしめ返す。
「お母さぁんっ」
茉耶さんはつっかえていたものが無くなったのか、それとも今までの想いが溢れ出したのか、人目を憚らず泣き始めた。
隠すことはない。徐々に嗚咽が大きく、滴る涙の雫が多く、呼吸が途切れ途切れになっていく。ただただ強く見えていた茉耶さんは今、子供のように、わぁんわぁんと泣いている。
今、この広い部屋に響いているのは、茉耶さんの声だけだった。
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