第8話
残り僅かな時間で死確者は半生を、いや全生を語る。
難しい言葉を使わないようにと、気を遣っている。無意識に使ってしまう時もあったが、その場合はあやちゃんから尋ねられていた。「ああ」とすぐさま噛み砕いた表現に変えて伝え直していたから、問題はないだろう。
自分はどんな人生を歩んできたのか、どんな生き方をしてきたのか。自分の娘と喧嘩して、身体を壊して……かい摘んで、しかし丁寧に説明していく。
何より違うのは、これまでの性悪な雰囲気など微塵も感じさせない、優しい口調だということ。
「それからはあってないの?」
あやちゃんは死確者と共に炬燵に入っていた。上のテーブルに置かれている、オレンジジュースの入った白いマグカップを両手で持っている。
「いや、つい昨日会ったよ」
それは言っていいのか……まあ、名前と関係性を出さなければ問題ないか。
「そうなの? よかったね」
あやちゃんの屈託のない笑顔を見て、打ち消さぬよう死確者も弱い笑みを浮かべた。
「けど、もう他人だって言われちまった。ずっと昔の、一緒に暮らしていた時みたいには戻れない」
「そうなんだ……」あやちゃんは視線を落とす。「かなしいね」
「まあね。けど、威勢張っていたアタシが悪いから仕方ないよ」
「いせい?」
「強いふりをするってこと。本当は弱いのに、大丈夫だって強がってたのよ、アタシは」
死確者は深いため息をつくと、オレンジジュースを飲んでいるあやちゃんをまじまじと見つめた。
「あやちゃん」
カップから口元を離す。「なに?」
「伝えたいことが三つある」死確者は人差し指から薬指までを立てた。「聞いてくれるかい?」
あやちゃんが「うん」と頷くのを確認すると、人差し指だけを残した。
「まず一つ目はね、家族は大切にするってことだ。今いる家族も、将来できる家族も。失ってからじゃもう遅い。後悔してもしきれない」
「わかった」
真っ直ぐな目をしている。うん、正直な子だ。
「二つ目。あやちゃんはこれから先、つらいことや大変なことがいっぱいある。しかも、嫌になるぐらい山ほどに。けど、安心していい。案外どうにかなる。たまにそうじゃない時もあるけどね、そしたら人に頼ればいい。いいかい、頼りたかったらすぐ頼っていい。気づいていないかもしれないけど、あやちゃんの味方は、あやちゃんのことを助けてくれる人は必ずいるんだからね」
そう語る死確者の目はどこか過去を映し出しているようだった。
「まあ多少は強がっても別にいい。やれるとこまでは一人でやってみるのも一つの方法だ。けど、頑張り過ぎは良くないよ」
ぼうっと視線を逸らすと、「私みたいに頼れなくなって、一人になっちまうからね」と続けた。
「ひとり……」
あやちゃんの呟いた一言で、死確者ははっと耽っていた思考を現実に戻すと、再びあやちゃんに視線を向けた。
「大丈夫だと思うけどね、あやちゃんは」
浮かべた笑みは少し自嘲的であった。
「うん」
「そうは言ってもね、頼るだけじゃダメなのがこの世の嫌なところだ。あやちゃんも頼られるようになるんだ。そして、頼られたらしっかり応えてやりなさい」
「どうやって?」
「色々あるからね。その時々で変わる。でもまあ、あやちゃんが使えそうなのは、例えば辛い人や泣いている人がいたら」
死確者は不意に身体を傾けると、「こうやって」とあやちゃんを優しく抱き寄せた。そして、頭を優しく撫で始めた。
「頭をさすって、それでこう声をかけるんだ。いい子いい子、って」
顔を離す。
「これが三つ目だ」死確者は上目遣いに、少し顔を近づけて下げた。「分かったかな?」
「うん」
「はぁーあ」死確者は深く息を吐いた。「ったく、説教は嫌いだったのに。歳は取りたくないもんだ」
「せっきょう?」あやちゃんの語尾が上がる。
「そうだねぇ」意味について問われているとすぐ理解した。「注意したり、怒ったりすることかな」
「おこってないよ」
「は?」
「だって、あやのためにいっぱいおはなししてくれた。さちこさん、おこってないよ。やさしいよ」
ふっと微笑むと、死確者はあやちゃんの頭を撫でた。
「……ありがとうねぇ」
ゆっくりと、しかし何度も動く手は、どこかあたたかかった。
あやちゃんの握っているコップに死確者はふと視線を向けた。「おかわり、いるかい?」
「うん」あやちゃんは底がうっすらと見えるコップを傾けてそう言った。
「おいよ」
死確者は立ち上がり、テレビ横に置かれた冷蔵庫へと向かう。
「ああ、でもオレンジジュースはさっきので終わっちまったみた……」
言葉が途切れる。まだ冷蔵庫には辿り着いていないのに、歩みも止まる。死確者は胸元に手をやり、服に皺を作るほど強く握った。顔が次第に険しく、苦しそうになっていく。
そうか……
「さちこ、さん?」
あやちゃんは恐る恐る声をかける。何か違和感のようなものを感じ取ったのだろう。
死確者は何も答えない。ただ反応はあった。そのまま真横に倒れたのだ。部屋に響き渡る床にぶつかる激しい音。それは抵抗する力の無い人が発する、甲高さと鈍さを混ぜ合わせた音であった。
「さ、さちこさんっ」
慌ててそばに寄るあやちゃん。胸を押さえている姿を見て、「いたいの? おむね、いたいの?」と心配そうに声をかける。
頷きもせず、両目を強く開いている。明らかに浅くなっている呼吸。酸素は殆ど肺に入ることなく、出ていく一方である。
異変と大変が入り混じった雰囲気。あやちゃんは、どうしようどうしよう、と慌てふためいている。
焦りは新たな焦りを生み、積み重なり、異常な空気と空間に飲み込まれそうになる。争いなのか、限界なのか、目尻には涙を浮かばせ、溜まり始めていた。
「お、お母、さん……呼んで」
「マ、ママ?」という問いかけに、死確者は小さく頷いた。
あやちゃんは次第に大きくなる頷きを繰り返しながら、立ち上がる。
「わかった、よんでくるっ」
あやちゃんはよろけながらも、足を止めることなく、部屋を駆け出ていった。
うぅ、と呻きながら、死確者は体ごと仰向けになる。
「じ……かん?」
目線を天井から私へ向けた。私は視線を落とし、縦に静かに深く頷いた。
「そう……」
死確者は目線を天に戻した。
「最後に、良い、夢、見れた」
途切れ途切れにこぼれ落ちる言葉。
「安心してください。夢じゃないです。紛れもなく、現実ですよ」
死確者は少し遅れて鼻で笑った。そのまま、静かにゆっくりと目を閉じた。そして、静かに呼吸をしなくなった。
ヘルパー数人とあやちゃんたちが部屋に飛び込んできたのは、ほんの僅か数秒後のことだった。
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