第6話

「あやちゃんが……」


 起きた事象への言葉が浮かばないのだろう、死確者はただそう言って口籠ってしまった。


「幸子さん」


 呼ばれるがままに死確者は顔を上げる。


「今回のことはあくまで偶然です。故意じゃない。だから、別に怒ったりしてません。しかし、事実を知ったこれからは違います」


 会話の主導権は完全に茉耶さんに移っていた。


「私の娘には二度と近づかないで下さい」


 短かくも、あまりに強過ぎる言葉を言い放つ。ぴしゃりと空気が鞭打たれたように静けさに包まれる。


「私はやっとこの幸せを手に入れたんです。あなたから貰えなかった幸せを、苦労して得たんです。お願いです、これ以上私に、私の家族を不幸にするようなことしないで下さい」


 茉耶さんは「こちらはお返しします」と、手袋をテーブルに滑らせるようにして、死確者に投げた。


「安心して下さい。私も二度と幸子さんに近づきませんから」


 茉耶さんは「では」と背もたれとの間に置いていたピンクのバッグを手にしながら席を立った。

 ヘルパーに体を向け、「夕食前に失礼しました」と一礼すると、死確者をもう見ることなく、食堂を後にする。


「あの娘の住所は」


 手袋をじっと見つめたまま、死確者は不意に口にした。


「「え?」」


 返事をしたのは私とヘルパー。ほぼ同時に死確者を見た。


「どこ住んでるか、すぐ分かるかって聞いてんだ」


 私は口をつぐむ。死確者の視線は、ヘルパーの方へと向いていたからだ。


「いや、そこまでは」


 ヘルパーが応えると、「あんたじゃない」と遮る。つまり、語りかけたのは私へ。


「いえ、すぐには無理です。個人情報に当たるため、色々と申請が必要……」


 言葉半ばで死確者は立ち上がる。そのまま、駆け出した。


「ちょ、矢矧さんっ」


 ヘルパーは唐突に走り出した死確者を呼び止める。だが、届いていないよう、走る足を止めない。ヘルパーは急いで後を追う。勿論、私も。


 食堂を出る。死確者は向かったのは、玄関の方。十メートル程の短い廊下を進み、突き当たりを右へ曲がった先にある。

 死確者はその突き当たりで立ち止まる。走っていたせいで、数歩余計に前へと出てしまう。


「待ってくれっ」


 そう声を張り上げた死確者の後ろに私たちは向かう。自動ドアの前で、茉耶さんは足を止めて振り返っていた。その目は鋭く睨んでいる。


「なんですか」


 茉耶さんに背を向けられた自動ドアは、途中まで閉じてまた開いてを繰り返す。


「お願いだ」


 息づかいを整えながら死確者は真っ直ぐ茉耶さんを見つめていた。


「もう一度だけあやちゃんに会わせてくれないか」


「はぁ?」


「さっきの今で、馬鹿げたことを言ってるってことは分かってる。ただの老害のワガママだってことも。けどどうしても、どうしても伝えたいことがあるんだ」


 茉耶さんは血相を変える。


「そんなの絶対許さない。孫だってことを明かすなんてこと」


「違う、そうじゃないっ」


 騒ぎを聞きつけた他のヘルパーや老人たちがやってきていた。


「アタシはさ、あなたに幸せをあげられなかった。ったく、名前負けもいいとこだよ」


 距離を詰めていく死確者。


「だからこそあの娘に、あの娘のためにどうしても伝えたいことがあるんだ」


 死確者は茉耶さんの手前で、膝を曲げ始める。腿に手をつき、正座の格好だ。


 これはまさか……


「他人として会う。肉親だなんてことは、誓って明かさない。だから頼む。一生に一度の、最後のお願いだ」


 頭を深く下げ、額を床につける。


「この通りですっ」


 やはり、土下座だった。


 野次馬は一瞬ざわついた。ヘルパーはどうしたらいいのか、分からず戸惑っていた。


 茉耶さんは返事せず、ただ静かに死確者を見ていた。


「最後、ですか」


 茉耶さんが口にするまで、ほんの五秒程だろう。だが、悠久のように感じた。


「なら、返事はこうです」


 茉耶さんは右の手を握る。爪が皮膚に食い込むほどの力。


「あなたは最後まで、自分勝手ですね」


 そう吐き捨てると、茉耶さんは出口へと歩き始めた。


 死確者が顔を上げた時にはもう、茉耶さんは自動ドアの向こうにいた。


「茉耶っ」


 呼び止めた声は哀しく切なかった。聞こえたのか、無視したのかは分からない。けれど、茉耶さんは立ち止まることはなかった。


 残酷にも自動ドアは二人を引き離すように、閉まりきった。それは、死確者にとっては、あまりにも大きな隔たりであった。




 死確者は窓から顔を出し、煙草を吸っていた。


 暗くなった空から雪が降り続いているのが部屋の中からでも見えた。だが、水気を多く含んでいる。雪というよりかは、ほぼ雨であった。


「昔、呑んだくれてたんだ」


 死確者自身の整理がついたのか、その一言で暫く訪れていた沈黙を破った。


「あの子が五歳の時に夫と別れてね、アタシは働きに出た。昼夜構わず働いていてね、まあストレスが溜まっていったのさ。そんなアタシの唯一の楽しみだったのがお酒。夜働いてたスナックで飲む酒、家に帰って呑む酒。これが何よりもの娯楽で、ストレス解消法だった」


 死確者は深く吸い込む。もう半分以上灰になって、姿を消した。


「今呑んでいないのは?」


 私がどこか小さくなった背中に声をかけると、死確者は脇腹の少し下辺りを数回叩いた。


「三十手前で肝臓やっちまったんだよ」


 そういえば、そんなことが資料に書いてあったっけな。


「だから」死確者は吸っていた煙草を見せてきた。「こっちに流れたんだ。どうやら肺は丈夫らしいんでね」


 そしてすぐさま、口元に戻して、吸い始める。


「そんで、飲み屋で会った男を家に連れ込んでた。毎晩毎晩取っ替え引っ替え。これでも割と美人な方でさ、なかなかに好かれていたんだよ」


 笑みを浮かべている。だが、それは自身を嘲るような、正真正銘の笑みではない。


「そんな生活を十年ちょっとかね、続けてた。仕事と男を変えながら。時が経つにつれ、あの子と会話する機会も言葉の量も減っていった。それであの日さ」


 死確者はおもむろに空を見上げた。


「忘れもしない。あれは、高校卒業したその日の晩だった。久しぶりに早く仕事が終わってね、奮発して美味いもん沢山買ってさ、家で食べようと帰ったら真っ暗で。寝てんのかと思って居間の電気つけると、二人がけのテーブルに一枚書き置きがあった。そこには短く一言。さよなら。そっから家に帰ってくることはなかった」


 家出……いや、そんな簡単なことでは無い。さっきまで顔を合わせることすらなかったのだから。


「逆勘当だね、子から親への」


 みぞれ雪に当たり、煙草の火が消える。死確者は先から伸びる小さな煙をまじまじと眺めると、指先で弾くように放り捨てた。


「ずっと嫌いだったんだろうね、アタシのことが。当たり前っちゃ当たり前さ。親らしいことなんて何もしなかったし、別れた夫からの養育費ちょろまかしたりもしたし。憎まれても仕方ない」


「ではそれから交流は一切……」


「いや」死確者は出していた腕を組むようにして、改めてもたれかかった。「一応、一度あった」


「あっ、そうなんですか」


「七、八年経ってからかな」首を傾げるようにして空を眺めた。「引っ越してたからアタシの住んでる場所を知らなかったんだろうね、親戚経由で手紙が来たんだよ」


「内容は?」


「大したもんじゃないよ。ただ生きていることの連絡だけ。心配も労いもなく、そうだね、手紙というよりかは生存報告さ。しかも、親を下の名前で、しかもさん付け。あなたは赤の他人です、ってこった。笑っちゃうだろう」


 死確者はそう言うと、静かに俯き、肩を窄める。体は一回り小さくなってしまったように思えた。


「残りの人生一日足らずって時に、孫に出会うなんてね……まったく、人生ってのはタイミングが悪くて、腹が立つよ」


 予感がした。「やっぱり、さっき呼び止めたのって……」


「悪いね」死確者は振り返った。「未練、できちまったみたいだ」

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