第2話

 まるで龍が天に登るかのような寝癖の死確者は、テレビ台の引き出しをおもむろに開いた。そして、奥に手を突っ込む。

 再び見えた手には、マイルドセブンと書かれた煙草と百円ライターが握りしめられていた。この施設は全面禁煙だ。もちろん、ここの部屋も。

 定位置なのだろうか、窓際に向かい、網戸も一緒に窓を開けた。冬の寒い風が吹き込んでくるが、そんなことお構いなしに、死確者はサッシにもたれた。


 時刻は十一時。朝と呼ぶには少々遅かったが、これが目覚めの一服。朝に男性のヘルパーが起こしにきたけれど、布団の中から頑なに出なかった。多少声をかけて揺すったりしたが、いつものことだと言わんばかりに、諦めて部屋を出て行った。

 死確者は去った喜びで綻ばせながら、煙草を一本、口の端へと運んだ。続けざま、ライターを先端に近づける。慣れた手つきで覆い、手を風よけにして、火をつけた。

 さぞ旨いのだろう。目を細めて遠くを眺める。深く深く吸い込み、じっくりと味わっていた。嗜んでいた、とでも表現したほうが合っているかもしれない。

 すぐに二口目。今度は短く一気に吸い込むと、鼻から吐きながら、すぐ離した。そして、サッシに煙草を持った手をつける。煙草は指先で立っていた。


「頑固だねぇ、あんたも」


 背中を向けられてはいるが、あんたの指すものが私だというのは分かった。


「丸一日なんて、諦めの悪いストーカーか、しつこいおっかけね」


 結局、日付は変わってしまった。昨日一日は片耳さえ貸すことなく、ひたすらに無視され続けた。


「仕事をしないといけないので、ここに居座っているだけです。頑固というわけではありません」


 今回の死確者が亡くなるまで三日を切ったというのに、何一つ前に進めていない。


「どっちでもいいだろう。結果は変わらない」


「まあそうですね、はい」


 不思議と会話が続いた。先程まで会話などなく、まるで空気が殺されたかのように静まり返っていたのに、今は大学の食堂のよう。会話が止まらない、止まらない。


「というか、天使だというのは信じてくれるのですね」


 死確者は煙草を叩き、外へ灰を捨てる。


「どうやら他のあんちゃんや小娘達には見えてないようだからね」


「幽霊って可能性もあるじゃないですか」


 経験上、その方が多く言われた。天使だとは信じてもらえず、結果幽霊ということで通した死確者もいる。


「幽霊にしちゃ、格好が無駄に派手だし、くっちゃべってる。こんなにお喋りな小煩い幽霊がいたら、たまったもんじゃない」


 左奥歯を立て、出来た口元の隙間から、勢いよく煙を吐く。


「だから、あんたが天使だってことは信じる」


 一番手こずりそうであったところは、案外すんなりといったことに少し驚きつつ、私は新たに出た懸念点を別の言葉に変えて繰り返す。


「なら、何故取り合っていただけないのでしょうか」


「そりゃ決まってるだろう。単に気に食わないだけだ」


 決まっているのか。というより、そちらの方が面倒になっているように思えてならない。


「ひとつ伺ってもよろしいですか」


「物分かりの悪い奴だねぇ」呆れた口調の死確者。「まあ、内容によるかね」


 臆せず、尋ねる。私はこの程度では食い下がらなくなってきた。慣れというものかな。


「なぜ、新しい物を使わないのですか」


「新しく?」


「いや、この部屋に来た時に今らしくないと思ったんです。テレビも冷蔵庫もどの電化製品も、どこか古めかしいものばかりで。ほら、今は、AIが搭載されたものにしたりとかばかりです。それが主流です。それに、お年を召していれば、そちらの方が便利ではないかなと……」


「はっ」余計なお世話だと言わんばかりに、死確者は鼻で激しく笑った。「あのね、そんな考え、無粋な奴のするこった。いいかい。なんでもかんでも新しくして便利にすりゃいいってもんじゃないんだ。第一、便利が何も全て上回っているわけじゃないし、不便がいけないってわけでもない。時にはね、不便な中に発見や感動があったりするんだ。覚えときな」


「わ、かりました」


「ふん」と鼻を鳴らし、死確者は深く煙草の煙を吸い込んだ。


「もうひとつだけ伺っても?」


「質問好きな奴だね」片方の口角をあげる死確者。「特別だよ」


「ありがとうございます」では気持ちが変わらないうちに。「何故、隠れて吸っているんです?」


 全面禁煙とはいえ、公共スペースと個人利用の部屋では、という条件はついている。一応、喫煙室はあるのだ。しかもこの部屋を出て十歩もないぐらいの距離に。


「面倒だからですか?」


「いいや違うね」


「では、何です?」


 死確者は煙草を叩いて灰を風に乗せると、「自由じゃないから」と続けた。


「なんで自分の部屋なのに、好きに吸えないんだ? 私が金払って買っているのに、何故そこに自由はないんだ? おかしいじゃないか」


 眉間に寄った皺やトーンの下がった声は、本当に抱いている不満だと証明してくれた。


「それにさ、バレないように隠れて吸うとこれが抜群に旨くなるんだなぁ」


「はぁ……」


 死確者は不敵に微笑んでいるが、私にはよく分からないことであった。


「善行の権化みたいなあんたにゃ分からないだろうけどね、背徳感ってのは蜜の味なんだ。一度やったら、これがもう、止まらない。やめらんなくなっちまうよ」


「はぁ……」私の口から同じ言葉が漏れる。


「ほれ、最近よく芸能人がお盛んだろ?」


 盛ん?「何がです??」


「不倫だよ。不倫。暇さえあれば不倫しているだろう」


 唐突な話題転換に私は一瞬思考が止まり、戸惑う。だが、会話を途絶えさせないようにという思いが先行し、さほど知らないのに、「は、はい」などと知ったかぶった返事をしてしまった。今のところは相手の調子に合わせられるけれど、これ以上詳細を突っ込まれたらまずいぞ。


「あれはね、背徳を味わいたいからさ。人間はやっちゃいけないって言われたことをしたくなる厄介な性格の生き物だ。これをしてしまえば、世間から非難を受けるだろう、家庭が崩壊するだろう。それで何人もの人間が表舞台から去ったのを目の当たりにしてるのに、夜の快感に浸りたいがために、不倫に走るのさ」


「カイカン?」海辺の岸のことか?


「ババアに皆まで言わすのかい。悪趣味だね」


 鼻で一笑する死確者。煙も一緒に出てきた。


「そっちの種族の中にも、経験豊富な奴ぐらいいるだろ? そいつに教えてもらいな」


 そうか。とりあえず、死神が旅行から帰ってきたら、尋ねてみるとしよう。

 ガラガラと引き戸の開く音が聞こえる。ガラ、ぐらいの時に死確者は腕を窓の外へと垂れ下げて、煙草を隠す。同時に、風が勢いよく吹き込む。


「また窓開けてるんですね、風邪ひいちゃいますよ」


 振り返ると、若い女性のヘルパーが顔を覗かせていた。今朝と同じ、胸元に淡い緑の線が入っている柄の白い服を着ている。


「あっ、起きてますね。良かった」


 部屋に入ってきながら、優しく微笑んでくる。おそらく死確者の性格を知ってはいるのだろうけど、分け隔てなく接している。


「そろそろお時間なので、食堂へご移動お願いします」


 ヘルパーはハンガーからぼとりと落ちていたカーディガンを拾うと、軽くはたいて、シワを伸ばし、かけ直した。


「昼飯だろ。支度して向かうよ」煙草のことを隠すためか、死確者はどこか素直に見えた。


 ヘルパーは続けて、部屋にある小さな洗面台へ向かう。


「あっ、それもそうなんですけど」


 倒れた歯磨き粉を直したり、しわが酷く寄ったタオルを整えたりしていた。


「例の、ふれあい交流会についてのお話もあるので」


 死確者は軽く顔を傾けた。「何だいそりゃ?」


「前に話したじゃないですかぁ。ほら、すぐそこの胡桃ヶ丘幼稚園の年中の子達が来るんです。明日と明後日と来週の月曜の三日間。で、一緒に童謡歌ったり、あやとりや折紙で遊んだりして遊ぶんです」


 突如として返事をしなくなる死確者。数秒沈黙が流れる。


「アタシは遠慮しとくよ」


「いや、そんなこと言わないで、ほら、一緒に行きましょ、支度手伝いますから」


「いいってば」


「ほらほら。早くしないと、子供たち来ちゃいますよ?」


「あぁ?」


 おっと。死確者の声色が変わる。明らかに怒りが込められていた。


「ふざけんじゃない。アタシの意見は無視ってかい。あんたらの点数稼ぎに駆り出そうとすんじゃないよ」


「て、点数稼ぎだなんて、誤解です。少しでも幸子さんに楽しんでもら……」


 途端、死確者は荒く振り返った。


「下の名前で呼ばないでっ」


 死確者の熱を帯びた口調で、空気は完全に冷え切った。


「あっ、それ……」


 私が声をかけると、死確者は「えぇっ?」と視線を向けてきた。見ているのが少し下、指先。だから死確者も目線を落とした。指の間に挟まれた煙草だ。火はまだついている。


「あっ」


 死確者が声を漏らすと、赤い火元を失った先端の灰が、部屋の床へと落ちた。そして、弱々しく次第に消えていった。

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