天使と老婆〜天使と〇〇番外編〜
片宮 椋楽
第1話
また来るとはな……
心の中で呟く。皮肉だとか嫌味だとかそういうのではない。ただ単純に、素直に思ったのである。
この呟きには二つの意味が込められている。
一つ目は、老人ホームという施設のこと。我々が仕事でよく訪れる施設の第二位である。ちなみに一位は、病院だ。
まあ当然ではあろう。我々が
二つ目は、ここ自体のこと。
“有料老人ホーム いきいきホーム桑原”
私はどこよりも、この老人ホームに訪れる。頻度としては一年に二、三度。まるで実家に帰省するかのような回数。そのせいか、施設の名前を見る度に懐かしさすら感じる。
最初に訪れたのは確か、死確者が大学の教授の時だったな……そんなことを思いながら、いつも通り、入口の自動ドアをひょいと跳ね、飛び越え、すり抜けるように中に入る。
自動で開かないのはいつものことで慣れっこだ。とはいえ、反応しないのが正解なので、製品が不良だとか、私が変だとかいうわけではない。
というより、もし反応してしまったら、不良扱いされるか、故障扱いされるか、怪奇現象扱いされる。最初と真ん中であればため息か愛想をつかれ、最後であれば怖がることだろう。死確者以外の人間に、私は見えないのだから。
今は昼前の明るい時間帯だからまだいい。夜、暗くなれば震え上がらせてしまう。だから、こうして日夜必死に仕事をしている者に申し訳なくなってくる。
ごくごくたまに反応してしまうこともあると聞くが、幸運なのか不幸なのか、私は未だ遭遇したことはない。
跳ねたことで少し斜めにずれた白いボーラーハットを綺麗に直し、廊下を進んでいく。建物の外観はかなり年季が入っているものの、中は新築のように綺麗だ。確か、二年ほど前だったか、リフォームをしたのは。
空室があったりと経営が難しい時期もあったが、すぐ隣に連携病院として新たに設立されたことで、ある程度まで改善されたと聞いた。何かあればそこの先生が診てくれるというのは、安心に思う人もいるからだろう。
今回の死確者は、
資料によると、娘とは不仲で、数十年以上顔どころか連絡さえ交わしていないらしい。そのため、この施設に入ったのは数年前、親戚に勧められたからとのこと。本人は最後まで抵抗していたらしいが、最後は折れたらしい。
あっ、ここだ。私は立ち止まり、確認する。うん、資料にあった109号室だし、壁にあるネームプレートにも矢矧とある。
私は引き戸を通り抜け、中に入る。人ひとりが住むには丁度いい大きさね、入ってすぐ左手にトイレがある以外は全てリビングの作りだ。
小さな冷蔵庫と木製のタンスと金属製のハンガーラックがそれぞれ隣同士に、真反対の位置には低いベットが。いずれも壁際に所狭しと置かれている。食事や入浴は共同スペースが別にあるため、部屋にキッチンや風呂場は無い。
死確者はちゃんちゃんこを羽織った背を入口へと向けていた。エアコンの暖房でも物足りないのか、小さな炬燵に下半身を入れ、テーブルの上に置かれたテレビをしかめ面で見つめていた。
タカテレビで放送されている、お昼の情報トーク番組。司会者以外は、小さな丸いテーブルの付いた椅子に座っている。今は大学運動部のパワハラ問題を扱っているからか、皆眉間にシワを寄せていた。
「相変わらず中身ないことばっか言ってるわね、この司会者」
少し甲高い声で、運動部の顧問やコーチを責め立てている司会者を画面越しに睨みながら、ひとり呟いている。
「中途半端に知ったかぶって、時事切ってんじゃないわよ」
時折口に放り込む蜜柑。中身のない皮の数が端にまとめられている。日本人は炬燵に入って蜜柑をよく食べるイメージがあるが、まさにそれだった。
「いい加減やめなさいよね、ヘタクソなんだから」
このままだと私に気付かぬまま、愚痴を聞くだけで終わりそうだ。
「あのぉ……」
そう声をかけながら恐る恐る近づくと、死確者はびくりと肩を動かし振り返る。肩まで伸びた癖っ毛の白髪が揺れる。
「な、なんだいあんた」目を見開いている死確者。
「す、すいません」敵意がないことを全身で醸しながら、私は慌てて言葉を繋ぐ。「驚かせるつもりはなかったのですが」
私の頭から足をじろじろと訝しげに一瞥してくる。顔の至るところにしわが寄っていたが、眉間にはより一層濃く出来ていた。
「見ない顔だね。新人かい?」
「いや、そこそこ年数は重ねています」
「年齢は聞いてない。不慣れな野郎か聞いているんだ」
不慣れ……
言葉に詰まっていると、「まあ、別にどっちでもいいよ」と、死確者は吐き捨てるように言い、またもテレビを眺め始めた。
「アタシはね、ノックもせずに入ってくる不躾な輩は嫌いだ。これっぽっちも信用できやしない。何をしようとしたのか知らないけど、諦めな」
最初の印象が大事であると聞いたことがある。だが残念にも、最悪から入ってしまった。けど、あとは上がるだけ。これ以上は下がらないだろう。
「そこにいても変わらないよ。さっさと、職員室に帰んな。ほら、しっし」
私を見ることなく、まるで誤って近づいてしまった虫を払うかのように、手を振ってくる。
「いえ、私は職員ではありません」
「じゃあ、問題だね」近くにあった固定電話の子機を手に取る。「このボタン押せば、すぐに職員が来るよ」
死確者は赤く光っているボタンに指をかけた。
「まあ、こんなところまで平気で通しちまう奴らだから、頼りないけどね。というか、仕事をしろってんだ」
愚痴混じりで言いながら、本題へと戻る。「とにかく、今なら見逃してやる。ほら。早く出てけ」
「危害は加える気はありません」
「黙って入ってきた奴が何言っても説得力はないよ。ちなみに、ここに入らせたクソ親戚に資産は握られちまったから、金はないよ。残念でした」
面識の無い相手にも容赦がない。かなり偏屈で頑固で口の悪い老婆だというのは、事前に貰った資料通りだった。
「お金を盗む気も、興味もありません」改めて口にする。
「だったら」死確者は子機を置く。「私を殺そうってか」
「そ、そんなわけ……」
おもむろにまた蜜柑を食べ始める死確者。
「どこで恨みを買ったか知らないけど、悪かった悪かった。あの時は迷惑かけて申し訳なかったね。ほら、謝ったんだから満足でしょ。さっさと出ていきな」
「少しだけでいいです。話を聞いてはくれませんか」
私は食い下がる。
「あいにく私は、頭と耳と口と人付き合いが悪くてね。他人の話を聞く気なんてこれっぽっちもないんだ。残念ながら」
「それなら問題ありません。私は人では無いので」
蜜柑を食べる手が止まる。死確者はようやく腰ごと曲げて、こちらを見てくれた。
「面白いこと言うね。それじゃあなんだい、死神かい?」
「惜しい。天使です」
「……ハッ」盛大に鼻で笑われた。「それ冗談のつもりかい? 全然面白くないよ。冗談言うならもっと考えな。ヘタクソ」
吐き捨てるように言うと、また姿勢はテレビに向かってしまった。
「あの、あと少しだけでいいので、話を……」
「しつこい奴だね、天使だろうが死神だろうが、たとえ神様だろうが、嫌いなモンは嫌いだよ。ほれ、分かったらとっとと帰りな」
はぁぁ……
思わず溜息が漏れる。ふと資料を渡してきた死神の一言が脳裏をよぎった。
「今回のは手こずるんじゃねえか。ま、頑張れや~」
まあいつもの軽口であったため、気にはしていなかった。が、今回ばかりは本当に言われた通りだ。
今頃、彼は有給消化中か……
旅行であることは聞いたが、場所については聞いていない。だが、「ハワイ~逆から読んだらワイハ~」などと、意気揚々にオリジナル鼻歌を奏でていたのだから、目的地がハワイであるというのは、ほぼほぼ確定である。
ああ、私もハワイで休みたい……今はそう、無性に思う。
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