第13章 わだつみ 4
月が不吉に海の上に横たわる夜だった。
満月が煌々と海に陰を落とし、それが光の道を作りだしている。直線に引かれた光は、遠く彼方まで続いているかのようだった。しかし、道はこれしかない。二人はこの道を信じ、平らな海を泳ぎつづけた。
心臓の鼓動がやかましい。
ああ、もっと波が荒ぶっていたら、波がこんなにも静かでなければ、こんな思いは消せるのに、そうシーは思う。
あまりにも静かで、ぴんと張りつめた空気の中にいるようで、恐れを感じる。海に波紋を浮かばせるのは、二人だけだった。
しかし、海中は正反対だ。お祭りのように活気づいている。魚が海にあふれかえるほど、生命に満ちた海だった。まるで夢の中で見たように色がふんだんで、魚たちの声が海をとおして、不思議な音を奏でる。ひっちゃかめっちゃかに様々な生き物が音を発するのに、それが調和し、海が大合唱している。
シーは海から顔をだす。それでも海の音楽は耳に届いている。
足を、お腹を、魚たちがこしょぐっていく。でも、今のシーにそれはきかない。
ざわざわする恋心。
大切な人たちに、生きてと願う自分。
わだつみさまは現れるのだろうか。
島の民を救いたい。
思いがごちゃまぜになって、どれか一つでも放りだしてしまいたい。
けれど、そんなことできない。
どれも今のシーにとっては大事なもの。なくすなんて悲しい。
「どうした。怖いか?」
隣を泳ぐサンが、シーの顔をのぞきこみ伝った頬をぬぐう。
そうじゃない。違うよ。胸が苦しいの。
シーは泣きながら笑う。
あなたの優しさに触れて、ふざけた顔を知って、勇敢な面を見て、太陽の笑顔に勇気をもらって。
今、サンのことがいとおしい。それがどんな顔でも、かっこよくてかわいい。
ずっとずっと自分は気づけなかったけど、初めて会った時から好きだった。一緒に過ごすたびに惹かれていった。
何度も何度も、シーに勇気を与えてくれた。だから私は今ここにいる。サンと出会えなかったら、私は何もできないままで、後悔だけが残る夏を過ごしただろう。
全てはサンのおかげだった。
「サン、ありがとう。大好きだよ」
シーがほほえむと、サンはいつもの笑顔で笑った。
ついに、光の道が途切れた。
二人は両手をむすび、神々しく輝く一番星と共に、ゆっくりと海へと潜っていった。
沈むと同時に、一番星が閃いた。誰かに信号を送るように断続的に光り、そして輝きを失っていき、星はどこかへ逃げた。
そのまま二人は降りていき、生命の音楽に囲まれて、海のど真ん中に浮いた。ふわりと漂っていた体が落ちついて、地面に地をつけるかのように、足が水の上につく。
待ち続けると、やがて風が吹いた。二人の髪が波に揺らぐ。
「シー」
サンが遠くを指さした。シーも気づいていた。遠く遠く、海の底から、海の彼方から、何かがやってくる。多くの生をとりまいて。
現れたのは、あのシロナガスクジラだった。スピカ号の上で見た、世界の広大さを教えてくれた、大きな魚。
「だれが我を呼んだ」
シロナガスクジラがしゃべった。
「あなたがわだつみさま?」
シーは驚きを隠せなかった。
「うむ」
そう声がこだまする。
シーとサンは顔を見合わせ、うなずき合う。前の時と同じように、しかし、凛とした声でシーは願いを言った。
「お願いです。私たちシャルリーに住む人々、そして私たちと共に生活を歩んでいくサンを、魚たちのように、あなたさまのように、海に生きる体に変えてください」
響きわたる声に、海が騒然としたようだった。だが、わだつみさまは虚無の瞳でシーを見ている。
「……よかろう。真珠の光の願いは残っている。それで願いを聞こう」
「いいのですか」
シーは目を見張った。こんな無茶な願いを、わだつみさまは聞き入れてくださった。
「うむ。よく考えたものだな。そのかわり、お主らは完全に陸との交わりと断ち切れ。それでも、海で生きることを願うのか」
シーはサンと目を合わせた。
「はい」
二人の声がかさなる。
これが正解だったのか。いつか後悔するのではないか。
それでも、今みんなの命を救うにはこれしかない。先見えぬ道を進みながら、今サンと手をつなぐようにみんなで手を取りあって、進んでいきたい。
それはきっと、昔私たちの先祖が故郷を離れて、シャルリー島に移り住んだように、それと同じ事だと信じたい。ご先祖様がそれをできたのなら、私たちもそうして新しい場所で生きていけるような気がした。
「それと、もう一つ願いたい」
サンが言う。
「この島で死んだ俺の家族と、その仲間をの魂を、あなたに安らかな場所へと送ってほしい」
シーはカイから預かった首飾りをクジラの方へとかかげた。
三つ叉の銛型をした海輝石は、突如シーの手元から飛びだした。一直線にクジラへと向かう途中、たくさんの魚へと姿を変えていく。それらがクジラの体へ寄りそうように泳ぎだす。
「よかろう。その願いも受けいれよう」
「島の崖下に海輝石の輪を作ろう。夜が明ける前にその輪の中に飛びこむ者は、海の仲間として受け入れよう」
わだつみさまはそう言い残し、海の彼方へと魂たちと共に、ゆうゆうと泳ぎ去っていった。
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