第5章 イルカの声 2
シャルの鳴き声がやかましい。
シーはぱっととびおきた。青と赤の夢が鮮明だ。髪にふれ、手を目で確かめ、ようやく自分があのイルカではなく、人間のシーであると確認した。
シーは急いで窓にかけよる。
「うっ、まぶしい」
視界が真っ白になるほどの光に、目を細める。まだチカチカするうちに目を開くと、空は雲一つない青空だった。海が嘘のように穏やかで、そこにある。
嵐は去った。
シーは足取りよろよろと、窓から離れた。部屋の陰のところに、倒れこむ。
「いたい」
ぼそりと呟き、頭を抱えこむ。ずきずきと、痛みではない塊が頭にうずいている。イルカの恐怖、腹と背中の痛みがまだ残っている。
シーはうつむく。体をぎゅっと縮こませて、顔をひざに押しつける。
トントンと、ドアが叩かれた。
「入って」
シーは鼻をすすり、顔をぬぐう。そしてまたうつむき、顔を隠す。
「おはようございます、シーさま」
ナギサが部屋に入ってきて、部屋の片隅に座りこむシーを見つける。
「シーさま! 大丈夫ですか」
不安げな声が、シーの頭上にかかる。
「大丈夫だから」
シーは何事もなかったようにふるまおうとする。が、立てない。全身から力が抜けている。
ナギサは黙ってシーの前に洗面台を置き、水を注いでいく。シーは膝を抱えこんで、その水をぼんやりと見つめる。十分に水がたまると、のろのろと水を両手ですくい、顔をすすぐ。
ぴちゃぴちゃと水がはねる。
「また、海の夢を見たんですか」
ナギサが聞いた。
「……うん。すべて奪われると思った。でも、助かった」
額からしずくがポタポタとたれる。
(どうせ、いつか私の心は海にとりこまれてしまいそうなのに。だったら……)
夢と現実の境目が曖昧になっている。いつかその夢に現実まで奪われてしまう。そんな確信がずっとシーの中に存在していた。
「よかったです。シーさまがご無事で」
ナギサがタオルをさしだす。無理に明るくはねたその声は、沈んでいる。シーはうけとり、顔を拭いた後、聞いた。
「ねえ、今日は外に出ていい? 外の空気を吸いたいの」
「ですが、パラリオ号であんな事件があったんですよ。出かけたらお父様も心配なされます。」
ナギサが不安そうな顔をする。
「ちがう。黙ってでるの。隠し通路から」
ええ……、とナギサの顔がさらに曇る。
「心配することないわ。どうせここに客人なんて来ない。おねがい」
シーが手を合わせ頼むと、ナギサはしょうがなくおれる。
「わかりましたよ。シーさまが帰ってくるまでの間、誰も部屋に入れないようにしておきます」
「ありがとう」
シーはぱっと顔を明るくさせた。
「海に行きたい!?」
シーの言葉をそっくりそのままカイはくりかえす。その大声は、村中に響いたことであろう。
シーが突然現れたこと、そして海に行こうとすること、どちらにも驚愕した様子だ。
カイはあまつさえ自分の声にさえ驚き、すばやく木柱の陰から外の様子をのぞく。さらには満ち潮にかけて満ちていく水浸しの床下をひざまずいてのぞきこんだ。
「海に、行きたい、のですか」
カイがやめてくれといわんばかりに、ゆっくりとシーの意志を確認する。
「ええ。今すぐ、どうしても。おねがいカイ」
シーは急いで手を合わせる。
「いやしかし。……外は危ないです。今すぐ帰りましょう」
カイは立ち上がりながら首をふり、いくどもあたりに目をやり、警戒する。今まではシーのぶっとんだ命令でも受け入れてくれたのに。どうやらお祭りの二度の事件で自信を喪失したらしい。
「危なくないわ。今から船にのるのよ。海にでるの。この世の海の上で一番最強なのはカイよ。この前だって十人以上の銛でぶったおしたじゃない」
カイには全てを話していた。待ち伏せしていた賊に襲われた時、そしてパラリオ号で出会った少年のことを。シーが握りこぶしを胸の前でかかげると、カイは目をつむってまた首をふる。
「あの時は、姫さまを守りきることができませんでした。あの少年が助けてくれたのでしょう? 俺では、姫をお守りするという役目がつとまりません」
「そんなことない。だって―」
さらに言いつのろうとした時、上から黒い影が落っこちてきた。
「姫さまっ!」
みしっと何かがひきちぎられる音がしたと思うと、カイが棒を手にして、シーをかばうように前に立つ。それが黒い影が着地したのと同時だった。
「カイさま!」
無邪気な子どもの声が聞こえる。シーにはカイの大きな背中しか見えなかったが、どうやらその声が、家の上から落ちてきた何か、いや誰かだと思われる。
「ヤドか」
どうやら知り合いらしい。カイはとたんに警戒をといて、武器を海に投げすてる。
ええ……と思ったが、シーが銛だと思ったのはただの木の棒だった。反対の方をふりかえると、家の一部に穴があいている。
カイの反射的な行動に感心してから、シーはひょこっとカイの背中から顔をだした。
そこにいたのは、小さな男の子だった。短い、銛をもっている。
(まるで小さなカイみたい)
カイの人気は、国の中でも高く、カイの長い銛と上半身には首飾り以外は何も身につけず、ズボンのみ、という格好は、村の子でよく見かける。その子もカイにあこがれ、まねをしているようだった。
シーがヤドという子をみると、その子もこちらを見た。目が合った瞬間、顔をしかめられた。
「誰だよそいつ」
不満そうな声。
「ヤド、失礼な態度をとるな。この方は、俺たちの国のお姫さまだ」
「お姫さま? こんなのが」
ヤドはうさんくさそうな目でシーを見た。
さすがにドレスを着て外にでるなんて、正体をばらすことはできない。海にでると予定していたこともあって、古着の上に上っ張りをひっかけていた。
こんなの、と言われてシーもいい気持ちがするはずがない。
「カイ、いいから行くわよ」
シーが強制する。こんな無愛想な男の子に時間をとられてもたまらない。
「おい、やめろ。カイさまは、俺に訓練をつけてくださる約束をしてるんだ。早くあっちいけ」
しっしっ、とヤドは手で払うすぐさをする。
シーとヤドの間で火花がばちばちととびちる。カイは困った様子で、二人を交互に見る。
「ヤド」カイが呼ぶ。
「はい!」
ヤドの笑顔は嬉しそうだ。勝ちを確信し、シーに向けていじわるく笑う。
「待って、カイ」
シーは不満をうったえるが、カイに手で制される。
カイは膝をまげてヤドの目線とあわせた。ヤドはほこらしげだったが、次の言葉にヤドの笑みが消えた。
「訓練をつけてやるのは、またでいいか。俺は姫さまを守るという大事な任務があるんだ」
「えっ……。なんでだよ」
ぎゅっと拳をにぎりうつむくヤドの、その頭にカイの大きな手がのせられる。
「すまない、ヤド」
シーはほっと安心した。今までカイがシーのことを無視したことなど、一度もない。だからカイがヤドを呼んだときは、裏切られた心地だった。今は態度の悪い子に勝てて、満足とさえ思っていた。
「行こう、カイ」
カイはヤドの頭からそっと手をはなす。
でも、なぜだろう。村をはなれる間、ヤドという男の子の、カイに名前を呼ばれたときの、あの嬉しそうな表情が頭の中から消えなかった。同時に、カイに謝られたときの、ひどく落胆した姿も、強く頭に残る。
それは、勝てたから、という思いからではなく、もっと全然違う感情からだった。
そして、ヤドが名前を呼ばれる時に見せた笑顔が、シーにちくちくとしたとげを残していった。
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