第5章 イルカの声 1
「ねえねえ。パラリオ号事件の犯人、まだ捕まってないらしいよ」
外出を許されず、部屋にこもりっきりのシーに、召使いの話し声が聞こえてくる。
「怖いわ。犯人がつかまらないと、真っ昼間でも危なくってでかけられないじゃない」
くすくすと数人の、笑い声が聞こえる。
(よかった、まだ無事なんだ)
遠ざかる話し声に思考をめぐらせ、シーはふと気づく。
「名前、知らない。……聞けばよかったな」
あの赤き少年がふっとパラリオ号での記憶を呼び起こす。
(お前らが侵した罪、ってあの人は言ってた。いったい何なんだろう)
海、そして島に、夜の帳が下りていた。
その夜は、いつもとは違って騒々しい夜だった。島を、風がなぶり、波が削ろうとする。この島でびくともしていないのは、城ぐらいだった。窓がガタガタと震えるぐらいで、音は城内に侵入できない。
だけど、暗い中、ベッドで寝ているシーには聞こえていた。荒ぶる海と、風におし倒されていく島の家屋の音が。
手で耳をふさぐ。海の音は、際限なくまだ聞こえてくる。海の声は、心に響く海の叫び。どれだけ周りに壁を作ろうとも、海は黙ってくれない。シーは意識を遠ざけようとするが、こういう日に限って、自分の意識はあやつれない。逆にあばれだす。私の手から、離れてゆく。
波音が、どんどん近づいてくる。シーは何とかそれをせきとめようとする。
(だめだ。押しこめない)
海が目の前に現れた。シーは島にとどまろうと、両手を前に押し出す。でも意識で作り出した手はもがれそう。
あらがうのをあきらめ、ふっと意識の手綱をはなした。波がすぐそこまで迫る。シーの魂が濁流にのまれた。
海の中にいる。光の遮られた、冷たい色をした海に。
嵐が海面を荒立てている。魂だけの存在なのに、波に流されるのが怖くて、シーはさまよう。
水面を過ぎ少し潜ると、嵐に揺さぶられていた水たちは穏やかになる。真っ暗な海の様子が、手に取るようにわかる。
魚たちはのんきにゆうゆうと泳いでいる。水面の波は怒り狂うように暴れているというのに。まるで世界からこの海だけが切り離されているようだった。外の世界で何が起きようとも秩序が保たれてゆくさまは、平和というよりかは、悲しいと思った。
シーはぐるりと、この世界を見回す。
黒で塗りつぶされた視界。どこからか、海の様々な声が、水を伝ってシーの体に入りこむ。
ごぼごぼ、ぶくぶくと水の音が耳の奥ではじけ、魂に大きな波が、ざぶんとうちよせる。次にはもう、シーは自分の存在をすて、海にどっぷり入りこんでいた。
魚の群れが遠ざかる。岩が雪崩落ちていく。波がぐちゃぐちゃになる。雷がうたれる。穏やかな海が形を化け物にかえてゆく。
海の記憶が、はじける。川から海、過去から現在。それが、膨大な映像、音、思いとなってシーの一生分の記憶をうめつくす。そしてあふれだす。
こんな経験、初めてだった。美しい情景、怖い生物。そして、いつかの海の姿。どれも、シーにとっては驚きの光景だった。ばばさまの言う“すべて”に近づいている気がした。この海のかなたの先には、きっとそれが待っている。
でも、シーが探し求めているのは、ある一つの記憶だった。今ここで“すべて”を見ようとしたら、海に魂が奪われるのは確実だ。シーはその渦から一旦逃れ、ここ最近の記憶が渦巻く空間へと泳いでいった。
それにしても、記憶というものは膨大だ。あまたの記憶を心に流しこみながら、その一瞬で過ぎてゆく記憶から、あの少年の姿を探した。
なぜ急いで意識を城へと戻さないで、自分を海へと放り出したのか。よくわからぬまま、ただ自分の気持ちに正直になって、とにかく探した。赤い髪の少年を。
頭が割れそう。苦しい。海が自分の記憶をさらい、流しさってしまうような気がして、ぞっとする。けれど、もう止めることはできなかった。頭の片隅で止めようと思うけれど、何かが吹っ切れて意志がてこでも動かない。
そのときだった。ある一瞬の映像が通り過ぎてゆく。彼の存在をかすかに感じて、シーはそこで立ち止まった。
記憶をつかみとる。それはある海の上での出来事だった。
(イルカだ)
一片一片のとぎれた記憶が紡がれてゆく。
太陽の照りつく海の上。イルカがばしゃばしゃと波立て、疾走する。
不思議な光が凝縮して集まり、イルカとその周りのものを形作ってゆく。それが完成したとき、視点が一気に反転した。
びゅんと飛んでゆく、海面を走る景色に「はやい!」と思った。
(私、イルカになってる!)
水が空気に触れるようにやわらかく、波しぶきが気持ちいい。
久しぶりだ。生き物の記憶を受けったのは。
そんなイルカの感覚を感じたのも束の間、鋭い刺激がイルカの背を貫いた。
いたい、いたいと体が悲鳴をあげている。同時に全身をかっと熱くなった。あつくてあつくて、水の中に急いでもぐりこむ。
が、何かがイルカをひきとどまらせた。引っ張られた衝撃が来たあと、強い痛みが刺さった。意識が一気に飛ぶ。
その間に、イルカは上へと引き戻された。何者かによって。
チカチカと、光がはじけておぼろげな視界に、その何者かが映った。船だ。人間だ。
そして、ようやく自分の状況を知る。背に刺さった銛、そこに繋がるロープがイルカをひきとめている。イルカの抵抗の証が、痛々しげに体の深い傷に表れている。
それがわかっているはずなのに、イルカはとにかく暴れた。逃げろ逃げろと、その気持ちだけが高まっていく。
海に広がる青に、点々と赤のしみがにじんでいく。
そこへ、船が近づいてきた。ざーっとだんだん大きくなる音をイルカは待つことしかできない。
呼吸が荒くなる。怖い、怖いと恐怖が体の中でいっぱいになる。体が痛みで麻痺してしまった。
イルカの体が、ロープによって船へとひきよせられた。
漁師の船に似た、帆船が目の前にあった。そこの上に、人が立っている。そいつは、手に長い棒をもっていた。先端が、太陽の元で鋭く光る。
その光が、どんどん大きくなった。
何が起こったのだろう。どぼんという音と共に、それが海へとつきささる。頭では、何も考えられない。体だけが熱くなっていって、逃げろと、もう一つの自分がいった。
力まかせに体を動かす。なのに逃げれない。そいつが、また海に武器をふりかざし、何回も、何回も、襲ってくる。
イルカはその度に、一心にそれをかわす。何とかよけきれている。けど、体に突きささっているもう一つのとんがりもある。それがかすった時と、よけた時、どちらも同じくらい痛かった。
親友の顔を思い浮かべる。
「助けて、サン! 殺される。サン!」
鳴いて助けを呼ぶ。だが、今ここに友の助けはこないことは、わかっていた。わかっていても、来てほしい。だって、それが親友の証だろ。僕たちは一生親友だって、約束しただろ。
そいつは人を増やす。仲間がいた。一緒に武器を海につきたてる。
イルカはそれを避けようと、ロープを思いっきり体で引き、少し下に潜る。が、鋭い先端も、一緒に潜ってきた。
悲しい。
サン、どこだい?僕の最高の親友。優しくて、勇気のある、手のあったかい、世界で1番大切な僕の家族よ。
また海へととんがりがさしこまれた。強くかすった。そのままイルカを追いかけてくる。それをかいくぐり、イルカはまた地上へと泳いだ。猛スピードで。
そして海面へとついた瞬間、ジャンプをした。
イルカの体は太陽を目指すように大きく飛翔し、海へとまた落ちていく。しぶきが大きく飛び散った、その時、イルカはめいっぱい海の底を目指して水を蹴った。
肉がえぐれる衝撃とするっと抜ける感覚が一緒だった。
人間たちの怒った吠え声が聞こえる。
(やった! 僕は勝った。サン、僕は勝ったよ!)
イルカはとても誇らしかった。自信をつけて、人間たちの手の届かない場所まで泳いでいく。
イルカの去った道に、赤い線が引かれていった。
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