手 嵐 怪談
「嵐が丘って作品がある。十九世紀に書かれた、イギリスの作品だ」
曇天は雨に変わろうとしている。春先の強風が枝を揺らして、校舎の窓をたたかせている。だから、この古びた研究室には時折金切り声のような、小鳥が鉄板の上を飛び跳ねるような、妙に気味の悪い音が響くのだ。
「なんだよレンジ、藪から棒に」
私がいる位置からは彼の表情はうかがい知れない。教授の私費で購入したらしいテレビは、今にもホワイトノイズを吐き出しそうだ。
「この作品はね、不徳と悪徳と、怪奇と狂気を混ぜ合わせたような作品なんだ。それにちょっとした曰くもある」
なんだかわかるか? エンジ。とも付け加える。気取っているつもりはないのだろうけど。聞いてる方からすればキザったらしいことに違いはない。もう少し時代を進めて、ホームズの話でもしたらどうだ?
「知ったこっちゃないね。そんな陰気な話に興味はない」
そう言って私はいそいそと、やはり教授の私費で購入されたケトルから熱湯を拝借して、インスタントコーヒーを作る。
「それは意外だ。俗なお前が、芸能人の色恋沙汰に興味がないとはな」
「なに————」
俗な、とは失礼甚だしいがそれ以外の内容のせいで気にはならなかった。
「嵐が丘にはね、ジンクスがあるんだ。この物語が終わったとき、ヒースクリフとキャサリンを演じた役者たちは、結ばれるんだよ」
有名な話だ、と私は思う。まったく気にもならなかった俳優と、絶世の美女が結婚する。それも、交際期間はほとんどないということ。
そういえば、その二人の競演した作品はイギリスの文学作品の舞台化だったと聞いたことがある。
外では、雨が降り始めている。きっと今日は、嵐になることだろう。
バラバラと、雨粒が窓を打つのに混じって、やはり木の枝も窓をたたいてる。
今日は帰れないかもしれないな、と思っているのはコイツも同じだろう。残念なことに、ここには着替えもシャワーもないから色っぽい展開になることはないけれど。
ふと、私は気になったことを口にしてみる。こいつの口ぶりと話の内容はよくよく考えると一貫していない。
「そういえば、なんだってお前はこんな話を振ってきたんだ?」
だってレンジ、お前、芸能人とかって興味ないだろ?
「それは、ホラ。もう少し時代を進めれば、ホームズが出てくるのがイギリスだろ? 彼よろしく、たまには知識をひけらかしたくなったんだよ」
私は頭を抱える。そうかよ、と言い捨ててそのあとは二人して各々の作業に取り掛かった。気が付けば、すでに夜は更けていた。いつの間にかレンジの姿はない。おおかた、他の研究室へと飲み物をくすねに行っているのだろう。
「今日は、疲れた」
古びた研究室の窓際。使われていないデスクを押しのけて、埃っぽいマットレスを敷く。眼を閉じれば、その先は夢の中だ。
コン、コンコン
キィ、キィキィ
何かを引っ掻き、ノックする音が聞こえる。私の左側にあるのは窓だけのはず。なのに、その音はどんどんと大きくなる。疲れのせいにして、私は寝返りを打つ。ちょうど、窓に背を向ける形だ。すると物音は止んで、当然に静寂が訪れる。
古びた蝶番が、耳障りな高音を出すのが聞こえた。
「エンジ?」
不夜城めいた研究棟の廊下を照らす光が差し込んでくる。それと同時に侵入してくる足音は、確かにレンジのものだ。
「ムゥ、んんんん……」
わざわざ言葉を交わす必要もない。どうせ私達は……。
あれ、どうせ、どうなるんだっけ?
「エンジ、迎えに来たよ。エンジ」
そう言って、レンジは私の身体を揺さぶる。
迎えに来た? どこから? これからどこに行こうっていうんだ。
そうしているうちに、レンジの指先が私の頬に触れる。けれど、それは酷く冷たくて私は思わず声をあげて、目を覚ましてしまったのだ。
「何やってんだ、エンジ」
相変わらず不愛想な声が聞こえる。
「ずぶ濡れじゃないか。どうせ、酔ったついでにここに泊ったんだろ。それにしても、窓くらいはちゃんと閉めればいいのに」
レンジは何事もなかったかのようにそんなことを言う。
「なに言ってんだ。お前、夜中にここに来てたろ?」
そう言うと、レンジは私に憐れみの視線を向ける。
「お前こそ何言ってんだ。俺は昨日まで実家に帰ってたんだぜ? この春からは今まで見たいに腐れ縁じみた関係じゃなくなるんだから」
せいせいする、とでも言いたげだ。
「なん、だって? 昨日、お前は嵐が丘の話をペラペラしゃべってたじゃないか」
私はそのときのことを事細かに話して聞かせてやった。それを聞いているうちに、レンジは何かに感づいて、ちょっと照れくさそうな顔をしていたような気がする。
けれど、アイツはたぶんそういう感情を隠してしまえる奴だから……。
「確かに、嵐が丘は確かにドロドロな人間関係を描いている。けれどね、それだけじゃないんだ」
卒業間際になってまで、コイツは研究室にあるケトルを我が物顔で使っている。
きっちりと、二人分のコーヒーを手際よくいれている。
「レファニュという没落貴族が、イギリスの古い怪談話をまとめている。その中に『迎えに来る』類の話がいくつかある」
「おい、嵐が丘の話じゃないのかよ。自慢じゃないが、私はそっちの方には疎いんだぞ」
レンジはまたしても、憐れみの視線を向けている。
「嵐が丘はね、ある意味ではホラーなんだ。死んだはずのキャサリンの手が窓をすり抜けてくる、そんな夢から覚めてみれば、木の枝が枕に近いところにある窓をたたいている。終盤、ヒースクリフは狂っていくのだけれど、そのときにはキャサリンの亡霊を見ていた。お前の話を聞いてるとどっちもそれに似ている気がしないでもないな」
もっとも、レンジの奴は死んではいない。
「まぁ、一つの終わりを迎えてもそのあとに続く場所でもいっしょにいられる、っているのはちょっとおもしろいけどな」
そう言っている奴の顔はちょっとだけ楽しそうだ。
「べ、別に私はお前のことなんて何とも思ってないからな」
そうかよ、とそれだけ言ってレンジは自分のデスクを片付け始める。
この二年ほどでたまりにたまった書類や空き缶を丁寧に処分していく。
コイツ、このあと一言も口をきかないつもりかもしれない。
けど、今はそれでいい。
だって、さっきの話をきいて私が連想したのは、目の前にいる不愛想で人を小ばかにしたような奴だったのだから。
そのはずなのに、私の頬を氷のように冷たい、けれど柔らかい何かが撫でるのだ。
私はぞってして、悲鳴をあげる暇もなく身体を起す。と、目の前にいたのはレンジだった。
どうせ、コイツがいたずらでもしたんだろ。確信して私はレンジにビンタを浴びせる。
「なんだ、夜這いか?」
思いもよらない反撃だったのか、レンジは尻餅をついて頬をさすっている。よく見れば、レンジはずぶ濡れだった。冷えた指先で首筋を撫でるとは、いい趣味をしてるじゃないか。
「そんな悪趣味はないよ、エンジ。ただ俺は、お前がうなされてるから起してやろうとしただけだ」
真面目な顔つきだが、言い訳としては苦しすぎる。
「本当だ。まったく、せっかく人が心配してたっていうのになんて酷い……」
そう言って顔を背けるコイツが奇妙に可愛らしいと思ってしまったから、私はコイツの手を引いてしまう。いいや、それはコイツが私の手を引いたのかもしれない。
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