ハック 百合 スラム街
掃き溜めに鶴とはここのような場所を指すのだろう。
ここは電脳特区、現実と電脳の世界が入り乱れる境界があいまいな世界。
普段は浮浪者や、ジャンキーのたまり場のこの通り。ただ、月に一度ここはその装いを変える。
電脳であるということは、その構成は情報であるということ。情報であるということは、その改変が容易であるということ。
一方、現実であるということはその実在は精神的なものではなく、即物的な者であるということ。
ここ電脳特区にあるすべての外観は、そこから生まれるテクスチャまでも情報で構成されていながら限りなく(もしかしたら寸分の違いなく)現実のものなのだ。
故に、腐臭と嘔吐、ドラッグ、愛液、この世の堕落と悪徳に塗れたこのスラム街ですら。花と香水、香辛料といった、優美かつ上品な装いに代わることは容易いのである。
「ここは、本当にきれいなところね」
掃き溜めに鶴、とは彼女のような婦人を指すのだろう。
栗色の髪は長く、太陽の光をいっぱいに吸い込んだかのように潤んでいる。
衣装は白、彼女の貞操観念を象徴するかのように、身体を包んでいる。
電脳特区のスラム街を再構成した超高級レストラン、そこ振る舞われるフルコースに舌鼓を打ちながら、彼女は言う。
麗しいルージュの唇と、月の輝きのような白い肌。それらで構成される彼女の容貌が、向けられている先にはこの上品な女性よりも幾分幼い存在がいた。
その存在もまた、女だった。纏うイブニングドレスは華美でもなく露出が過多でもない。彼女の活発で健全な身体の造りを十分に際立たせている。
耳を覆うくらいに切りそろえられた黒髪と、そこから見え隠れするロングチェーンのピアスが揺れる。
「えぇ、本当にそうですわね」
二人はこの夜が初対面だった。
女は髪をスッと掬って、かきあげて。電脳胎児の肉を成形した料理たちをシルバーで丁寧に切り分ける。突き刺して、ソースが絡んだそれが、淡いピンクの唇に触れる。内心では、この程度の偽装かと落胆する。彼女は、ネイティブな電脳特区の人間で、腕利きのハッカーだった。
『リアルの人間は、電脳特区という場所の特異性にこそ魅かれれど、そこの実態にはなに一つ興味はない』というのが彼女の持論だ。
そんなことに辟易として、さらには最近の電脳特区で起きている密室殺人に性欲を刺激された彼女は、アウトサイドから来た婦人にその矛先を向ける。
「ねぇ、お姉様。こんばんは、私と一緒にこの特区を回ってみませんこと?」
下心を隠しもしない彼女の視線を知って、夫人は「それは、楽しそうね」と。
女は口元を下弦に歪める。そうして、切りそろえ、丁寧に、艶やかに整えた爪と指を婦人の耳元に寄せて、パチンと鳴らす。同時に、彼女はハックを開始した。
電脳視覚を展開する。赤く仄かなレストランの内装が、けばけばしい極彩色に代わる。その中から特区を訪れていた一団の意識と、彼らを招待した物好きの、その召使たちの認識を改変する。
並行して、目当ての婦人には
ハックの対象はすべて、この電脳特区を支配するビッグブラザーたちの電脳だ。もちろん、彼(ら)を欺けるハッカーは彼女をおいてほかにいない。いいや、彼女でさえ欺けているかどうかは定かではない。これは、危険すぎる火遊びに違いない。
婦人が目を覚ますと、そこは満天の星空の下にあるダンスホールだった。
「楽しい夢を見ていましたわ」
上気した笑みをこぼす婦人に、ハッカーの女は「それはよかった」とだけ返す。
「何度か来たことはあるけれど、こんなところは初めて。今夜は、何をしましょうか?」
婦人はそう言って、ハッカーの女の耳元に唇を寄せる。
かがんだとき、女の目の前には婦人の豊かすぎる胸元が。スリットは腰ほどにまで開いていて、やはり白い太ももが露わになっている。
「そうですね。まずは、私たちの出会いを祝して、ダンスから」
女がそう言った瞬間、セイレーンの歌声がホールに響き渡る。
唇を貪り合い、唾液の糸を切らさぬように、二人はワルツを踊り始める。
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