7 ロンドンのショーティー・ジョン
ニューワールド・サイエンス社の「本社」と呼ばれる建物は、当然ながらロンドンに所在する。
だがメアリーはロンドンに住んでいるわけではなく、何か用がある時はカンタベリーから自家用車、母方の祖父の形見である74年式ジェンセン・ヒーレーを走らせる。普段はリモートワークだから、わざわざロンドンに家を借りる必要などない。
この日は先頃の日本取材に関して、総編集長のジョン・“ショーティー”・アトキンソンと打ち合わせをする。記者の間では「ショーティー・ジョン」と呼ばれているこの中年男は、その呼び名の通り150cmにも満たない体躯の持ち主である。
だが、ニューワールド・サイエンスにとっては「改革者」でもある。
父親はウェールズの炭鉱町の労働者、母親は大陸由来のユダヤ系で、母方の親戚には第二次世界大戦の頃のホロコーストで犠牲になった者が複数人いる。苦学の末にようやく大学を卒業し、新聞社に入社。そこでジャーナリスト人生の第一歩を踏み出したという経歴の持ち主だ。ニューワールド・サイエンスの総編集長に就任したのは、今から1年半前である。
「メアリー、君の書いた記事と写真を見せてもらったよ。まあ、今回も特に修正する部分はなさそうだ」
ショーティー・ジョンはわざわざ紙出力したメアリーの写真を机に置き、
「やはり日本についての記事を書かせると、君に並ぶものはいないな。ネイティブの日本人が見落としてしまう部分を丁寧に書いてくれる。頼むから、君の恋人が所属するメディアに浮気だけはしないでくれ」
「それは今後の待遇次第ですわ」
メアリーは意地の悪い笑みを浮かべ、
「女というのは、不安になったら浮気をするものですわ。今後も私が満足できる仕事と報酬が確保できるのなら、浮気の必要もないのですけれど」
と、告げる。
「ほう、君は今の待遇に不満かね?」
「今のところは、まあ満足してあげているという感じですわ」
「正直なのはいいことだな、メアリー。だが、去年君がシリアへの取材を志願した時は、さすがに狼狽せざるを得なかったがね。なぜ君が戦場での取材をしたがっていたのか、今でも察することができない」
「あら、そんな野暮なことを気にしてらっしゃるの?」
「確かに、そんなことを口にしたらジャーナリストとしては自己否定になってしまうがね。しかし君は、仮にも海軍中将の娘だ。その経歴がテロリストに知られたら、君は真っ先に狙われる」
「だからあの時、私を選考から外したのですか? それとも父に何か言われたから?」
「そうじゃない。たまたまクルド語を話せる人材をよそから引き抜くことに成功したからだ。……この話はもういいだろう」
ショーティー・ジョンは不意に椅子から立ち上がり、
「それよりも、君の本来の専門分野について話したい。例のPeople Of Japanについての読者の反応を、Rickがまとめてくれた」
「ミスター・アトキンソンも最新テクノロジーには逆らえないのですのね」
「悔しくないと言えば嘘になるが、人がやりたがらない単調なデータ整理をやってくれるからね、Rickは」
ショーティー・ジョンはスマートフォンを取り出し、画面をメアリーに見せる。
映っているのは、日本のアニメのキャラクターだ。
「日本に対するステレオタイプと言えば、昔はサムライとゲイシャとカミカゼだったかもしれん。だが今では、アニメとロボットとクルマで大体統一されている」
「訪日経験のない大衆が日本に抱くイメージと言ったら、確かにこのあたりですわね」
「ただ、ここに興味深い分析結果もある。日本=アニメという内容の投稿をしていて、なおかつ自分の足で日本に行ったことのないSNSユーザーは、同時に日本の地方都市に関する投稿を頻繁にシェアしているんだ。トウキョウやオオサカではなく、場合によっては数万人規模の人口の小都市について積極的に検索しているようだね」
ショーティー・ジョンは軽く溜め息をつき、
「これはなぜか分かるかね?」
と、メアリーに質問した。彼女は即座に、
「地方の小都市を舞台にしたアニメが頻繁に制作されるようになったから、ですわね」
そう返答した。
「さすがだ。まさにその通りだよ。SNSで日本について言及するユーザーは、日本の中小都市に関心の目を向け始めていると言うべきかな」
「日本のアニメ=アキハバラというステレオタイプが古くなりつつある、というのは私も実感していますわ」
「そこでだ……」
ショーティー・ジョンはメアリーと目を合わせ、
「現状、例の特集のために集まっている素材はメガシティのものばかりだ。君がこの前取材したシズオカシティの話題を別にしたら、あとはトウキョウ、オオサカ、フクオカ......要は経済圏の中心都市ばかりだね。日本の中小都市に精通している記者があまりいない、というのが正直な話だ」
「つまり、アニメの舞台になっている日本の中小都市について取り上げたいと?」
「アニメのことは忘れてもらって構わない。Rickによると、アニメはあくまでもSNSユーザーにきっかけを与えているに過ぎない。それ以上の知的好奇心を掻き立ててやるのが、我々の仕事だ」
そう告げると、ショーティー・ジョンは椅子に座り直してさらに言い放った。
「高い金を出してAIを導入したんだ。存分に活用しなければ元が取れんよ。それに、Rickの導入は我々の長年の思案を払拭させてくれるかもしれない」
「長年の懸念?」
「君もよく心得ているだろうが、ジャーナリストという仕事は浅はか者には務まらない仕事でね……。こちらに悪意はなくとも、誰かを傷つける可能性がある。だが我々も人間である以上、“無邪気な鉤爪”を見落としてしまうこともあるのだよ。AIはそれを見つけてくれる」
*****
「MALSは出版社向けの『Rick』というAIを開発して、ニューワールドにもカスタマイズ版を納入してるんだけどね」
30分前よりもすっかり賑やかになった浅草ホッピー通りの光景を背に、真野は勝明に対して説明を続ける。
「このAIは、SNSに投稿されている特定の出版物への評判を総括してくれるんだけど、ニューワールドがそれを導入したとしたら確かに1週間前のギリギリ発表は続けられないと思うんだ。つまり......」
「次号の特集の内容を発表した後に、AIを使って読者の声を拾うことができるから......ですか?」
「そうだね。そもそもRickは、軒並み不振の出版業界をどうにかするために作られたものだから。実際にRickを導入したら業績がV字回復したっていう出版社も結構あるんだよ。とりあえず出版予定の本の概要だけを発表して、そこから読者の反応をRickで集積する。記事を書くのは、それからでもいい」
「確かに、そのほうがハズレの少ない内容になりますもんね。想定外の炎上だって避けられます」
「現にニューワールドは炎上したしね」
「そうなんですか?」
「ニューワールドが1850年に発行した号の中に、サミュエル・モートンの頭蓋骨容積測定をプラス評価する記事があってね。それが今になって発掘されて、SNSで拡散したんだよ」
「ああ......納得です」
勝明は頷きながら、引き続き巨峰サワーを口にする。
19世紀前半のアメリカ人研究者サミュエル・モートン。この人物の「業績」は、各人種の頭蓋骨に散弾銃の弾を詰めて容積を測定したことだ。ここでモートンは「頭蓋骨の容積が大きい」という理由で白人が最も優れた人種であることを学会に発表した。
当然ながら、この学説は現代では科学的根拠のないトンデモとして扱われている。しかしかつてのニューワールド・サイエンスは、モートンの学説を絶賛していたのだ。
これがSNSで火事を起こした。そしてこの炎上を鎮火させ、過去の人種差別的内容の記事に関する謝罪を発表したのは、当時総編集長に就任したばかりのショーティー・ジョンである。
すると今度は、一転してニューワールド・サイエンスに対する絶賛が相次いだ。ウェストミンスターからも保守党と労働党の重鎮議員がニューワールド・サイエンス、というよりもショーティー・ジョンの判断を肯定的に評価する声明を出した。さらにはアメリカの上院議員も彼を褒め称えた。
ショーティー・ジョンは、ニューワールド・サイエンスの歴史の中で初めての非イングランド人、ワーキングクラス出身、ユダヤ系の血筋、そして過去の人種差別問題に向き合う姿勢を持った総編集長なのだ。
「そういう事情を抱えてるニューワールドが、情報漏洩という形で実は故意に特集内容をリークさせた……というのは突飛かな? でも、整合性はあると思うんだ」
「堂々と事前発表に踏み切らないんですね」
「前の総編集長の時に1週間ルールをやめようって動きがあったんだけど、読者に猛反発されてね。イギリスの国会議員まで、伝統あるニューワールドのルールを死守しようと言い出した。そんな状態だから、誰かが情報を漏らしたという段階を踏まえないと変えられないんだろうね」
「ああ、確かに......。歴史の長い雑誌は、そういう煩わしさを抱えてますね」
「AIを導入するのだって、結構反対もあったはずだよ。それを考えると、あの編集長は相当なやり手だと思う。……ジョン・アトキンソン編集長は、お母さんの親戚が何人もナチスの絶滅収容所に送られてるんだよ。ユダヤ系だからね」
「過去の清算のために、敢えてそういう経歴の人を添えたということですかね?」
「いや、そこに他意はないとは思うけど……。それでもアトキンソン編集長は昔から人権派ジャーナリストで有名だ。人権問題に接触するような部分のファクトチェックについて首相に提言したこともあるからね。たとえ記事の書き手に悪意がなかったとしても、結果的に人権を侵害してしまう内容になってしまうことがある。アトキンソン編集長はそれを……そう、確か“無邪気な鉤爪”と言ったんだ」
「あまり上手い表現じゃないですね」
「まあでも、そのあたりの意向もAI導入と関わってるんじゃないのかな」
「……AI、ねぇ」
そうか、だから彼女は僕にあの表紙を見せたのか。勝明は真野に悟られないよう苦笑した。
もっとも、以上の流れはあくまでも真野の推理であるから、それを振りかざしてメアリーを問い詰めるわけにもいかない。
そんなメアリーとは、明日都内で会う約束をしている。
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