6 僕と真野さんの秘密の飲み屋

 真野聡史と酒を酌み交わす場所は、いつも浅草のホッピー通りである。


 勝明は真野と気が合った。『趣味の歴史研究』の執筆陣の中で、真野が最も自分と歳が近いから……ではない。


 いくら歳が近いといっても、真野は勝明より5歳も上である。


 勝明が真野を好いている理由は、彼の持つ雰囲気に起因している。温厚で、物腰柔らかく、仕草のひとつひとつが丁寧というのも好材料だが、それよりも真野の「普通感」が勝明を唸らせている。


「平凡」や「凡庸」とはまた違う、「普通」という雰囲気。特に取っ掛かりのない人柄の中に、実は突出した能力と思慮を秘めている。だからこその「普通」である。


 もっとも、こんなことを多数派の日本人に言うと「だから普通が一番。目立ったことはしないほうがいい。綾部も彼を見習え」という方向に捉えられてしまうが、そうではない。少なくとも真野は、綾部勝明という偏屈物書きを受け入れ、ホッピー通りの飲み屋に誘ってくれる。マイノリティーの存在を無言で許容する心意気こそが、真野の「普通感」の源なのだ。


 *****


「お疲れさん、綾部くん。まずは乾杯」


 真野はハイボールのグラスを軽く掲げた。それに勝明の巨峰サワーも続く。


 ふたりの共通点、それはビールが好きではないということだ。痛風持ちというわけではない。より正確に表現すれば、真野も勝明も日本でポピュラーなラガービールの味を好んでいないのだ。真野の場合はイギリスのパブで見かけるようなビターを好む。


 しかし、日本ではビターはあまり飲まれていない。だから真野は居酒屋では、専らハイボールを注文するというわけだ。


 それにしても、このホッピー通りという場所は何回通っても飽きない。


 海外のリゾート地のように、夜になったらバンド演奏が始まるとか営業時間中はレゲエが流れているとか、そういう余興は一切ない。が、それと引き換えにいつまで経っても飽きが来ないのだ。


 勝明は飲み屋で酔っ払っている人の表情を見るのが好き、というわけではもちろんない。そもそもよく考えたら、勝明が自発的にホッピー通りへ出向いたことは一度もない。いずれも真野の誘いについてきた結果である。


 ということは、「ホッピー通りの蜜蜂」は勝明ではなく真野ということになる。もっとも、勝明だって蜜蜂からの誘いを断ったことは一度もないのだが。


「ここのところ、綾部くんは大変だね。この前もメアリーと取材行ってきたんでしょ?」


 真野の問いかけに勝明は、


「彼女と取材に行くと、いつも自分の物足りなさを実感しますよ。何しろ、持ってるカメラからして全然違うから」


「いや、カメラの性能なんか大した差ではないよ。綾部くんだっていい写真を撮るじゃないか」


「お世辞はいいですよ。真野さんは僕よりずっとレベルの高いカメラマンですし。それに、メアリーのカメラは別格です。だって、中判サイズのデジカメなんですよ? 僕のAPS-Cでどう太刀打ちしろって言うんですか、趣味歴の編集部は」


 すると真野は静かに笑いながら、


「やっぱり強いからね、ニューワールドは。写真1枚にも撮影者の魂が込められているというか、とにかく最初から最後まで作りが丁寧だ」


 と、ハイボールを一口。そしてこう続ける。


「日本の雑誌は、作りが同人誌並みのものだってあるくらいだからね。そんなレベルじゃ、とてもじゃないけど勝てないよ」


「“いい文章の記事を書けば読者がついてきてくれる”って勘違いしてますからね、日本の雑誌は。そのせいで写真や製本の質がどんどん疎かになっていってます」


「今のところ、ニューワールドに対抗できそうな日本の雑誌はなさそうだね」


 真野はそう溜め息をつき、もう一口ハイボールを飲む。それから数秒の間を置いて、勝明にこう語りかけた。


「……日本特集の話だけどさ」


「はい?」


「ニューワールドの日本特集のことだけど、実はさ……もしかしたらそういうことじゃないかっていう話を知ってるんだ。興味ある?」


 それに対し勝明は、


「ええ、少し」


 と、返してみる。


「なら、綾部くんの耳にも入れておこう。とはいっても、これは別に秘密事項でも何でもないことなんだけどね。……綾部くん、シンガポールに『MALS』って会社があるのは知ってるかな? AIシステムを開発してるスタートアップなんだけど」


「いえ、そっち方面はあまり」


「そうか。僕はこの前、シンガポールのテクノロジーイベントに取材しに行って、その時にMALSのブースも見て回ったんだけどね。創業から7年でユニコーンになっただけあるよ。いろんな大企業のAIシステムを開発してる」


 真野はどちらかと言えば、国外のスタートアップや新興ビジネスの話題に強みを持ったライターである。その片手間で日本の史跡紹介記事を『趣味の歴史研究』に卸している、と表現してもいいくらいだ。彼が大手経済誌で連載しているアジア各国のスタートアップ解説記事は、各企業の経営者から高く評価されている。


 真野は勝明の目をじっと見つめながら、こう続けた。


「そのMALSの取引実績なんだけど、ニューワールド・サイエンス社のAI開発も手掛けてるんだよね」


「ニューワールドのAI? あの会社がAIなんか導入して何をするんですか?」


「MALSのスタッフ曰く、ニューワールドを話題にしているSNSの投稿を調査する目的らしい。僕が聞いたのは、ここまでなんだけど」


「あの会社も、SNSでの評判を気にするようになったってことですか」


「それで、ここから先は僕の勝手な想像なんだけどね……」


 真野は一度深い溜め息をつき、


「恐らく、そのせいで発売1週間前のプレスリリースを続けられなくなったんだと思う」


 と、告げた。

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