3 これは誰の入れ知恵?
静岡市内に所在する臨済寺は、いわゆる修行寺である。
もともとは善得院と呼ばれていた寺院を、今川氏の家臣でもあった僧侶太原雪斎が中興し、その際に名を臨済寺とした。16世紀前半のことである。
修行寺ということは、一般人は本堂を始めとする建物に立ち入りができないということだ。しかし、臨済寺は年に2回特別公開を行っている。そのうちの1日が、今川義元の命日である5月19日だ。
緑輝く山を背にしたこけら葺きの本堂が、青天の日光に輝いている。滅多にない特別公開だから、多くの地元市民が見学ルートに列を成していた。勝明とメアリーもそれに従いつつ、一眼レフカメラのシャッターボタンを押し続ける。
メアリーは大興奮だ。例の中判カメラを軽々と操作し、同時に何度も溜め息をついている。これは感動の溜め息だということはすぐに分かる。
「来てよかったね、静岡」
勝明がそう言うと、
「これは誰の入れ知恵?」
メアリーは微笑みつつ返した。
「え?」
「だって、このお寺でこんなイベントがあるってことは昨日の夜まで一言も言わなかったから。アキも今まで知らなかった感じ」
そう言われた勝明は、
「ネットで知ったんだよ」
と、適当に返した。それと同時に、己の傍らにいる凪に目をやる。
メアリーと凪が同じ場所にいる。こういう場面は今までに何度もあったが、勝明は未だ慣れ切れていない。何しろ、自分と凪はメアリーを確認できるのに、メアリーは凪を確認できないのだ。不公平な気がする、というのは勝明の性格による発想か。
「助けてやったんだ。あとで供え物をよこせ」
凪が勝明にそう釘を刺す。それに対して苦笑で返すと、
「どうしたの、アキ?」
と、メアリーが声をかけた。
「いや、別に。……ごめん、誰かさんのせいで少し疲れてる」
「誰かさんって?」
「君以外で僕を常時悩ませる人、とだけ言っておく」
「リュウコさんのこと?」
「いや、ウチの流子さん以上に厄介な人というか……」
ふたりはそう会話を交わしつつ、本堂の廊下を進む。
臨済寺は今川義元を支えてきた寺院だ。この今川義元という人物、全国的なイメージは「織田信長に討ち取られた軟弱大名」というもので浸透してしまっているが、実際の今川氏は東海地方の覇者だった。今の静岡県内に居を置く豪族を次々と従え、あの武田信玄ですら義元存命時には今川領へ兵を進めることなどできなかった。それをやれば、北の上杉と南の今川とで挟撃される恐れがあったからだ。
勝明とメアリーは、今川氏輝と義元兄弟の人形が置かれた間へ足を踏み入れた。16世紀前半、室町幕府の弱体化で日本各地では守護大名同士の争いが頻発した。これは俗に「戦国時代」と呼ばれるが、日本の一般市民にとって馴染みの深い「戦国時代」は16世紀後半である。それ以前、織田信長が出現するまでの「戦国時代」は一般にはあまり浸透していない。
今川義元は16世紀前半の日本のトップランカーであり、臨済寺は今川の「頭脳」として機能していた。徳川家康も、幼少の頃にこの臨済寺で勉学を積んでいる。
「今川があったからこそ、徳川の世があったのだと私は思う」
凪が不意に、そう呟いた。
「権現様は今川の人質だったことを恥と思ってはおらなんだ。そうでなければ、この寺はずっと昔になくなっておるであろう」
勝明はメアリーが離れた隙を見計らい、凪に話し返す。
「……師匠って、何年生まれでしたっけ?」
「文政13年庚寅、西洋の暦では1830年だったかの」
「あと30年ほどあとに生まれていれば、存命中に文明開化を見ることができましたね」
「その話はするな。私は明治の世は好かん」
と、凪は勝明に背中を見せた。
それと入れ替わるように、メアリーが勝明の傍に戻ってきた。彼女はすこぶる上機嫌といった態度で、中判カメラを首にかけつつ勝明の腕に抱きついた。
「ネットにも感謝するべきだけど、まずは勝明に感謝するわ。ありがとう」
「どういたしまして」
そう返す勝明だが、同時に彼は凪に視線をやる。
未だこちらに背中を向けているが、どうやら本堂の外を眺めているようだ。青空と緑の葉を蓄えた木々、そして白い玉砂利。自分の目を疑ってしまうほど、この日はあらゆるものの発色が映えている。
「今日は晴れているせいか、物の色がよく映えるの」
どうやら、幽霊の眼球にも同じような色合いが表示されているらしい。
そんな凪の背中に向かって勝明は、
「師匠、今日はありがとうございました」
と、メアリーに聞こえないように告げた。恐らく、凪にも聞こえていないだろうが。
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