第2章

九月四日

 七時三十分 


 リリリリリリリーン、というけたたましい金属音で目が覚めた。真っ白な天井。いつも通りの寮の私の部屋だ。

「ふわ~~~~~あぁ」眠い。

 昨日はいろんな事があってうまく寝付けなかったからな。「ふあ」ベッドから降りて、目覚まし時計を止める。時計の上にベルが二つ付いた古式ゆかしいタイプのお気に入りだ。これがなかなかに賑やかなので私は授業に遅れたことがない。じょしこーせい頑張ってます。

 あれ、止めたのになにか鳴ってる……かばん、の隣の制服のポケットから。携帯だ、着信?

「もしも「日和か! 昨日七不思議見たって? 今行くすぐ行くから話きか」プチッ――ツーツ―ツ―。

 あ、うるさかったから切っちゃった。朝からそのテンションにはついていけません。こう見えても低血圧だからね。それにここは女子寮なので男子禁制、来ちゃだめだってば。

 窓の外は、まだどんよりと曇っていた。雨も降っているかもしれない。

 あれ、なんで夢理は昨日のこと知ってるんだろう。

 …………。

 そういえば昨日の内に一本メールを送っといたんだっけ。記憶があやふやで、やっぱりまだ頭がうまく働いてないみたい。朝ご飯はパンにしようかな。

 それにしても、

「いつも通りの朝」

 変わらない日常がまたやってきたことに少し、安心した。.

 


 十四時五十七分 六限目

 

「で、昨日は何があったの?」

 さて、雪ちゃんのこの質問にはどう答えたらいいんだろうね。

 コートの中では男子同士のチームがバスケットボールを追いかけ激しい攻防をしていた。今日最後の授業は体育で、ゆるーい先生だから女子は体を動かすこともなく集まっておしゃべりに興じている。まぁ、がんばって黄色い声援を送っているグループもあるから、ああいうのは評価してもいいんじゃないかなって思わなくもないかも。本人たちは単に喜んでるだけだけどね。

 ちなみに授業に出ないことに多大なる定評がある夢理はコートの中にいたりする。本人もいっていたけど、今年初めて受ける体育の授業。この授業に出ていることがすごいのか、今まで出ていなかったことがすごいのかクラスメイトの中に波紋を呼んでいるみたいだけど、何だか毎日ちゃんと授業に出ている私達がバカみたい。

――今日一日、全部の授業に出たらね。

 それが、私が昨日体験した全てを話すことの代わりに出した条件だった。宇佐木先生に頼まれていたっていうのももちろんあるけど、自分の中で昨日の出来事を整理する時間が欲しかったということの方が大きい。

 おかげで大分ストレスが溜まったらしく「ぬおーーーー」とか叫びながら必死で駆けまわっている……けど、根本的に体力が皆無だからね。他の男子に全く追いついていない。

「夢理クン、すっごいがんばってるね」

 雪ちゃんが言う。まーがんばってはいるかな。

「がんばってる男の子ってカッコイイよね」

「雪ちゃん、それだとまるで夢理がカッコイイみたいになっちゃうんだけど」三段論法で。

「もー、そう言ったんだよ」さいですか。

 どうだろうね。確かに見た目は悪くないし、授業には出ないけど頭はいい方かなと思う。でもやっぱり変態なのは間違いない。ちなみに雪ちゃんは今日もかわいいよ。うん。

「いいんだよ、ひよりん。大丈夫だよ」

「なんのこと?」あ、夢理がボールもった。けど振り上げた途端に後ろからとられてしまう。もう十センチ身長がないとバスケは厳しいかもね。

「ひよりんっていっつも夢理クンのこと、あいつはあれがだめだーとか、これが足りなーいとかそんな風に話すでしょ。だから表立ってスキって言えないのかなって……。夢理クンはさ、ほんとはいっぱいいっぱいいいところがあってカッコよくて、みんなが憧れる素敵な男の子だよ。だから胸張ろうよ。私はこの人に恋をしましたって」

「ストップ雪ちゃん、なんだかすっごく恥ずかしいんだけど」のどから手が、じゃなくて顔から火が出そう。

 昨日から雪ちゃんが夢理を褒めちぎっていたのはそういうことだったのか。私のために。私が自分の恋を認められるように。

 恥ずかしいけれど、うれしい。でもいや、やっぱり恥ずかしすぎる。

 見当違いなんだけどね。素直になれないのは、単に私が天の邪鬼なだけで。

 夢理のいいところは私が一番よく知っている。

 挙げれば、多分きりがない。

 いま目の前でカッコ悪くコートの中で転がりまわってる姿も、ほんとはそれなりに好きなのかもしれない。がんばってる男の子はかっこいいもんね。

 それなのに、なんだかな―。そういうのってちょっと癪。認めさせられちゃったら悔しい、みたいな。意地を張るところじゃないんだろうけどさ。

 いいのです、私は天の邪鬼で。

 あのね、と雪ちゃんが呟くようにいう。

「ひよりん。実はね、重大発表があったりなかったりします」はてさて、どっちなのでしょうか。

「どうしたの、あらたまって」

 窺ってみた雪ちゃんの表情は少し硬くなっていて、こっちにまで緊張が伝わってくる。この子がこんな顔をするなんて珍しいな。入学式の日に初めて出会った時以来かも。

「聞いたら、笑ってくれる?」

「楽しい話なら笑うと思うけど。あ、でも雪ちゃんの話はいつも楽しいよ」

「好きな人ができました」

「わっはっはっはっは………………え?」

 どこに笑う要素があったんだろう。もしかして完全に言葉のニュアンスを取り違えてたのかな私ってば。笑顔でその事を迎えてくれっていう意味だったのかも。だとしたら今の大笑いってすごく失礼だった気がする。

「そ、そうなんだ。よかったね」少しテンパっていて、必死に出した言葉だった。こら私、大分不自然だぞ。動揺してるのまるわかり。

 雪ちゃんはそっと笑顔をつくって「ありがとう」と返した。それはやっぱりつくった笑顔だったように思う。寂しさを隠したような、あー私のアホ!

 もしかして、私が夢理のことをなかなか話そうとしなかったから自分の話もバカにされるかもしれないと思って緊張してたのかな?

 弁解しようとしても言葉がまとまらない。まず謝って……って違う。素直に喜べばいいんだ。遠まわしに雪ちゃんが私にしてくれたみたいに。でもそれって、どんな風に伝えたらいいの?

 考えれば考えるほど思考がぐしゃぐしゃになって頭に浮かぶ文字の羅列が意味をなさなくなってくる。人の心が数学みたいに単純だったらいいのにね、今の私はどんな答えにも×をつけて返されそうな、そんな気分だった。だからなにも選べなくなっていく。声にならない。

 ピー、と試合終了の笛が鳴った。ほんの少し遅れて授業終わりの鐘が流れる。そしてそれが私にとっても時間切れだったらしい。

「私、これから用事があるから先に行くね。昨日のこととか、話してくれる気になってからでいいから」

「あ、雪ちゃん」

 それじゃね、と残して雪ちゃんはいってしまう。顔は見えなかった。怖くて、見れなかった。

「おめでとうって一言、言いたかったのに」どうして今まで出てこなかったのかな。

「ありがとうって返せばいいのか? まあ、いいや。どうだ、今日の授業全て出席したぞ。話せ、教えろ、七不思――痛っ。……なんで今俺殴られた?」

 デリカシーがないからです。

 雪ちゃんの好きな人。きっと素敵な人だと思う。だってあんなに素敵な雪ちゃんを、虜にしちゃうんだもんね。幸せになって欲しいな。

 絶対に、幸せに。

「夢理、あんたシュート何本決めた?」

「ん、シュートなんてできなかったぞ」

「そんなあんたでもカッコいいって言ってくれる人間がいるんだからさ、もっとクラスにいなさいよね」

「そっか、俺のカッコよさが伝わっちゃったか。ふむふむ。そのうちファンクラブなんてできちゃったりしてな」

「…………」

 こいつの自信はいったいどこから出てくるのかね。っとにしかも間違ってないところがむかつく。こういうやつだから自分の心に反発したくなるのかもね。

「日和!」なにそのポーズ?

「俺に惚れると火傷す――痛っ」

「調子に乗り過ぎ!」

 たく、本当にデリカシーがないんだから。

 

 

 十五時三十分 放課後

 

「かくかくしかじか」←要約するとね、こんな感じ。あれ、使い方間違ってる?

 体操着から着替えて鞄に荷物をまとめた後、特別校舎に向かう長い道のりの中で私は夢理に昨日の出来事を話した。語彙の少ない私の説明はかなり分かりにくかったと思うけど、そこは読解の達人である『物語喰らい』さん、うまく理解してくれたらしい。

 空を泳ぐかわいい熱帯魚に会ったこと。

 ニャハハと不気味に嗤う人魂に会ったこと。

 楽器もジャンルもわからない音楽に導かれたこと。

 いくつもの扉を開いて校舎内をぐるぐると回ったこと。

 自分で話していても馬鹿らしくなるような話の数々を、夢理は真剣な顔で聞いていた。

 きっと夢理じゃなければ、こんな風には話せないんだろうなと思う。私より早く七不思議を体験した二人の話だって面白がってみんな話題にするけれど、それを本当のことだと信じている人がどれだけいるか。

 多くはない。いないかもしれない。

 雪ちゃんはどうなんだろう。親友として信じてくれたかな。信じてくれたかもしれない。

 ごめんね。でもこの話はまず最初に夢理に話したかったから。

「それで、最後の扉の向こうでなにがあったんだよ」

 夢理が話の続きを促す。右手にはボールペン、左手には手帳を持って私の言葉と連動させながら絶えず動かし続けているようだけど、明らかに書いている分量の方が多い気がする。いったい夢理にはどこまで見えてるんだろうね。わかりたいとは思わないけれど。

 最後の扉。あの時の、中庭に続くぼろぼろの金属質な扉が、空間をバラバラに繋ぐ最後の扉だった。私は光に包まれて、そして、

「魔女に会った」

 何故か今までで一番突飛に聞こえるね。

「魔女……ってあの魔女か? 尖った帽子をかぶってて箒に乗って空を飛び、蝙蝠の牙とかトカゲのしっぽとかで怪しい薬をつくりだすっていうあの」わー、いかにも本で得た知識ですって感じのイメージ。

「全然そんな感じじゃなかったよ。格好なんて普通に制服だったし、箒も杖も持ってなかった。ただ自分で魔女って名乗ってて、でも名前は文月さんていうらしいんだけど。多分本当なんだと思う。あの人は本物の魔女。それは会えばわかるよ」

「会えばわかるって、もしかして会えるのか?」

「今私達、なんで歩いてると思ってたの?」

 長かった螺旋階段を降りきる。もう見えてくるはずだ。けど、本当にまたあそこに行けるかどうかはわからないんだよね。文月さんにも「多分また会えるよ」って言われたし。『多分』はどのぐらい確実なことを言うのでしょうか。

「そう言えば、昨日話したっていう人はどうだった?」確か『扉』を経験したっていう人から話が聞けるといっていたけど。

「今の日和の話以上の事は何も聞けなかったよ。あの子は普通教室から特別棟の物理準備室に飛んで、怖くなってすぐに引き返したらしい。だからか、その現象は一回きりだったみたいだな。まぁ、普通の反応だろうけど」

 それだと私の反応が普通じゃないみたいなんですが。というよりそう言いたいのかな夢理クン?

「でも七不思議の噂に関しては少し情報が聞けたぞ」

 夢理が手帳のページをすこし戻す。いつもは分厚いハードカバーとかを果てしなく読んでいるから、手帳を眺めている姿は今さらながらにちょっと新鮮だ。

「残りの二つ?」七不思議は昨日の放課後の時点で五つまでわかっていたはずだ。

「ああ、ほとんど名前だけだけどな。三つ目が『雨の中を泳ぐ魚』。おそらく昨日日和が体験したっていうやつだろう。噂では熱帯魚だけじゃなくてサケとかマグロみたいな大きい魚の話もあるみたいだな。それから六番目が『暴れ廊下』」

 暴れ廊下……「て?」

「全くわからん。もしかしたらそのうち遭遇するかもな」

 夢理が本当に楽しそうに笑う。名前からして危なそうなのにね。多分そんなこと気にも留めてないんだろうな。それがただ『日常』という枠組みの外にあるだけで、きっと夢理の心を震わせるには十分で、可能ならばなんのためらいもなく『物語のような世界』に移り住むことができるのだろう。それを、そればかりを望んでいたのだから。

「その時、私は連れて行ってくれるのかな」同じところに。夢理の理想の世界に『私』はいる?

「ん、どうした?」

 脈絡なく発した言葉に夢理が反応して振り返った。その時ってなんだ六番目の不思議に遭った時か? なんて言ってる夢理になんでもないと答えて、私は足をとめる。

 目的の扉に到着した。いつもと同じ扉に、いつもと違う目的で。

 扉についた小窓からは、雨の中にいつも通りの噴水が見える。この廊下とその向こうの中庭を分けているのは金属の板だけで、ほんの少しノブに力を入れればそんな隔たりなどなくなる。

 そのはずで、それが『日常』。

「この、扉……」

「そ、これが文月さんの、魔女のところに続く扉」多分だけど。

「普通に開けてもだめなんだろ? どうしたら繋がるんだ?」

 夢理はもう待ちきれないという風にドアノブを握りしめている。言葉だけでも冷静なのが不思議なくらい。心はもう走り出しているのだろう、顔はこちらに向けていながら本人の無意識に体が扉にどんどん近づいてゆく。ゴンっ。あ、ぶつかった。

「イメージするの。『扉』は境界。ココとドコカを繫ぐもの。ココはココ、目に見えている、触れている、今あるトコロ。ドコカはドコカ、想像することで、創造される、全てのトコロ。」

 昨日文月さんに教わった通りに伝える。

「簡単にいうと、行きたいところに繋がるっていうよりも、扉の向こうにその場所が今まさに創りあげられていくのをイメージするってことみたい。空間と空間の距離を埋めるんじゃなく、この空間の隣にすべての空間が存在していることを自覚する……とか、そんなこと言ってた」

 一度体験しているから、感覚としては何となくわかるんだけど、理屈で話されるとどうも理解が追いつかないんだよね。言葉が論理的なようでいて現実に即していないからか、一たす一が三になって当たり前みたいな、知識の中にある答えとそぐわない感覚。

 でも夢理にはそんなことは関係ないらしい。もともと一つの答えなんかに縛られたくない人間だもんね。

 目を閉じて集中している。幾千万の本を読み物語を喰らいつくさんという夢理の頭の中はおそらく今すごいことになっているはずだ。想像することに関して、私は夢理以上の人を知らないのだから。

「いくぞ」

 今にも口が裂けそうなほどの笑顔。グッとノブを握りこんで開ける。扉の向こうから光が漏れだした。成功……したみたい。向こう側はまだ見えないけれど、飛び込んだ夢理が扉から放たれる光に包まれてゆく。

「私も」続こうとした時だった。


「神楽、日和さんだね?」


 突然背後から声がして、焦った私は勢いに任せて扉を閉めた。金属同士ののぶつかる大きな音がして完全に光が見えなくなる。けど、どうかな。見られちゃった?

 夢理が消えて行った扉から目を離し、恐る恐る振り返ると長身の男の人がゆっくりとこちらに向かって歩いてくるところだった。当たり前だけれど学生服を着ていて、清潔そうな短髪がうっとうしくない程度に整った顔立ちをアピールしている。こういう人をカッコいいって言うんじゃないだろうか。よく見ると何か腕につけている。腕章、かな。

「日和さんだよね?」

「わ、どなどなどな、」いきなり名前を呼ばれて言葉が呪文みたいになっちゃった。「どな、たですか?」

 男の人は大股で三歩ほどはなれたところで立ち止まる。やはり背が高い。バスケ部のエースですとか言われたら嘘でも信じてしまいそう。夢理とは正反対だね。

「今在光っていいます。この学校の生徒会長をしているんだけど見たことないかな」

 ほら、っと腕章を指差す。それには太い緑の字で確かにそう書かれている。

「生徒会長?」って生徒会役員のトップに立って全校生徒の前でつらつらと長話を並べるあの生徒会長のことだろうか。そういえば、見たことがない。というより生徒会長なんて高校に入ってから意識をしたことがない。私だけ、だろうか。こんなにかっこいい人であれば、クラスで話題に挙がってもおかしくないと思うのだが。

「今在さん、ですか。どうして私の名前を?」

「生徒会長だからね。全校生徒の名前くらい完璧に把握してるよ……なんて言えたらかっこいいのだろうけどね。申し訳ないけれど僕はそこまで優秀じゃない。けれど、学校の中で活躍している生徒くらいはちゃんとチェックできているつもりだよ」

 夢理の無邪気な笑い方とは違う、大人っぽい涼しげな笑顔で今在さんは言葉を紡ぐ。安定感のあるきれいなアルトの声だった。なんだかこの人、モテそうな要素ばかりだけど大丈夫だろうか。ついでに一人で行かせてしまったが夢理も大丈夫だろうか。

「活躍って、私何もしてませんよ」

「謙遜することはないさ。今世紀最大の数学者さん」

 んー、猪宮先生か。あの人の話し方は誇張が入るから人に話をされるのは少し怖かったりする。というよりその肩書はとても恥ずかしいのですが。

「それだけじゃない。あの文学少年、『物語喰らい』の春風夢理と幼馴染にして大の仲良しだって言うじゃないか。春風君の唯一の交友関係としてもキミは有名人だよ」

「それはそれは、不名誉なことです」そんな形で有名になっているとは。うー、社会って狭すぎる。

「そんなことはないよ」今在さんが言う。「そんなことはない。彼はすごいよ。彼のような才能はこの世界が始まってからまだ一人も持ちえたことがない素晴らしいものだ。世界を変えうる脅威にどんどん近づいてゆくのを感じるよ。そして彼に選ばれたキミもね。彼とともに在るということは簡単なことではない。奇跡だよ。彼も、彼の才能も、キミも、キミの才能も、そしてキミたちの出会いもね」

 まくし立てているようだった。何かに魅せられているかのように言葉に感情がのっている。ほんの少しだけ、夢理と似ているかもしれないと思った。

「今在さんって、表現が大げさなんですね。まるでオペラみたい」

「そうかもしれないね。よく言われるよ」

 ははは、と軽く笑う生徒会長。この人なんでも画になるなー。

「それで、私になんの用だったんですか?」

「少し、話がしたかった」

「……………………」それだけ?

「今、それだけ? って思ったかい。その通り、それだけだよ。実はさっきの理由とは別で、キミのことはよく話を聞いていたんだ。あまりに楽しそうにキミのことを話すから。少し話がしてみたくなった」

 私のことをよく聞く……誰からだろうか。しかしその疑問は――タンターリーリラー――という今在さんの携帯の着信音に遮られてしまう。それにしても懐かしい曲。これ、童謡だったかな。

「すまない、呼び出しをもらってしまったよ。時間をとってしまったね。また機会があったら」

 そう言って、今在さんは廊下を速足で歩きだす。「そうそう」っと思ったら、いきなり振り向いた。

「彼によろしく」そしてまた歩き出す。

 はい、と答えてみたけど、夢理の事じゃなかったらどうしようか。

 なんとなく目で追っていた今在さんが角を曲がったところで女の子と合流する。ガラス越しでよくは見えないけど寄り添って歩いているようだ。彼女さんかな。生徒会長でも校則違反の茶色い髪の女の子に恋をしたりするのかー。ま、そう言うのって関係ないよね。…………って、なんだか見覚えがあるんですが!

「ひーよーりー!」

 今度は廊下の反対側、私の背後からドタドタドタと大人っぽさのかけらもない足音とともにあいつの声が聞こえてくる。ありゃ、文月さんのところにいったのでは?

「夢理、なんであんたがそっちから猛ダッシュしてくるのよ」しかも何か荷物が増えてるし。

「家庭科室に出た! これってあれだよな。七不思議の――」

「宇佐木先生のトコロ?」

 つまり、文月さんのところには繋がらなかった。もしかして、夢理の知識の中には『扉』の話の印象が大きかったから七不思議のランダムに飛ぶ『扉』の現象が起こってしまったのかな。

「すげーぞ、日和。校舎の端から端まで一瞬で運ばれた。これから行くのはもっとすごいんだろ? もー、ワクワクがとまらねぇ」

 本人は喜んでいるみたいだからいいけどね。

「で、それなに持ってるの?」

「数学の課題渡されちった」

 この状態の夢理にすかさず課題を持たせる宇佐木先生の手腕は実は相当なものなのかもしれない。実は私に頼んだのはめんどくさかっただけなのでは?

「ほら、早く行こうぜ。日和は一度そこに行ったことがあるんだから、きっと俺より確実にそこへの扉を開けるだろ」

「そうだけど、あんたちょっと落ち着きなさい。そんなんじゃこれからもたないよ」

 この先は、もっとすごい。私ですら少しわくわくするのだから。

 ノブに手を掛ける。夢理がそうしていたように目を閉じた。集中してイメージを固める。昨日の光景をそのままに、頭に思い浮かべる。

 俺も、といって私の手の上からノブを掴んできた。ちょっとまてーい。自分で開けたいのはわかるけど、集中できないのですが夢理さん。

「だー、もう。開けるよ」こうなったら一か八かだ。

 大丈夫、きっと開く。

 ドアノブを握った右手に、夢理の手に包まれた右手に、そっと力を入れる。

 

 そしてまた私は、光に包まれた。


 十六時〇〇分 放課後


 雨音が大きくなった。コンクリートに打ち付ける大粒の雨が撥ねて足元にかかる。

 ここはまだ屋根があるけれど三歩進めば直接打たれてしまう、そんな距離。

 昨日と同じ、屋上だった。

 雲がかかっていて薄暗いけれど、不思議とものははっきり見える。そう、全てはっきり見えていた。

「なぁ、日和」

 隣の夢理が、声を震わせている。ううん、体も震えているかも知れない。まさか、寒さのせいじゃないよね。

「魚が、飛んでる。いや、これは泳いでるのか?」

「ちょっと、そんなに前に出たら濡れちゃうよ」

 一応忠告してみるけど、きっと今はなにを言っても無駄だよね。予想通り夢理は、かまうもんか、といって駆けだした。気持ちが前に出過ぎて今にも転んでしまいそうなバランスの悪い走り方。


 幻想的な光景だった。

 

 魚が泳いでいる。

 雨の屋上を縦横無尽に。水族館の水中トンネルを思い起こさせるけれど、私達の周りに空間を隔てるガラスの壁は存在していない。

 熱帯魚のような小さなものだけではなく大型の回遊魚もいて、ものすごい速さで大空を行き来していた。マグロとか、ああいう魚ってエラ呼吸の関係で止まれないんじゃなかったかな。そんなに詳しい方ではないけれど。

 他にもぐにゃぐにゃした軟体の生物や貝類もそこらじゅうにいるけれど、何考えてるかわからないのであまり視線を合わせないことにしている。タコに視線って変? 骨がない生き物は苦手なんだよね。

 そしてイルカも、大きな体で踊っているかのように駆けまわっていた。

「ニャハハハハ」と声がして炎に包まれた球体が近づいてくる。

 一つではない。

 三つの人魂。

 名前も昨日の内に聞いていた。

「タマ、コロ、ミケ」呼ぶとすり寄ってくる。見ためよりも熱くはなくて、ほんのり暖かい程度。雨に打たれて消えてしまわないかが不安だったけれど、どうやらその心配はなさそうだ。ちなみに、「猫か!」というつっこみは昨日済ませたので省略。

「なあ、見ろすげーぞこれ」

 夢理はエイに乗っていた。ひし形に広がった体を優雅に動かして、そのうえで「ひゃっほー」とはしゃぎまわる夢理を落とさないようにしているかのようにゆっくりと進む。

 なんだかもう、ものすごく楽しそうだった。

「私も、もっと前に出てみようかな」でも濡れたら、制服透けちゃうよね。女の子って制限が多くて困っちゃうな。夢理だけだからいっか、が通じるのは小学生までですね。わはは「ニャハハ」え、心読まれてる?

 突然、びゅんと風が吹いた。瞬間、眼を閉じる。

 次に目を開けると、空中に白い筋ができていた。

「なに、これ、風の軌跡?」

 その筋を辿るように何かが飛んでくる。小さな白い紙飛行機だ。紙飛行機が風の道に誘導されるように進んで私の頭上で止まる。

 バッ「わぁぁ」びっくりした。

 突然開いたので驚いたけれど紙飛行機が形を変えて傘になっただけだった。いや、だけってことはなくて、小さかった紙飛行機が私が入ってもまだ余裕がありそうな大きさの傘になったのだから十分に不思議なんだけどね。

 何だか耐性がつきすぎて、物事に感動できなくなってるみたいですこし悲しいな。

「ひよりー、人魂が笑ってるぞ。口が見当たらないけどこれ、どっから声でてんだろ、にゃはは」あれぐらい反応できればね。

 ふと、思いあたって私は風の軌跡を目で辿った。あっち行ったりこっち行ったりしてるけど風ってこんなに複雑に吹くものかな。

 屋上の真ん中には建物の中と繋がる小さな小屋のようなものがあって、私はそこで雨宿りしているわけだけど、どうやら風はその裏側から続いているようだった。

「今日は向こう側にいるのか」

 せっかく傘をもらったので外に出てみる。もはや心配はしていなかったけれど、紙製の傘は雨をはじくのにしっかりと働いてくれているらしい。いい傘だな。素材が素材なだけにすごく軽そうだしね。

「ニャハハハハ」と傘と一緒に人魂がついてくる。これはタマとミケかな、コロは夢理とじゃれているらしい。どうやって見分けてるんだろうね私。

 小屋の裏手に回ると予想通りの人影があった。

 女性にしては高い身長に長い黒髪。モデル体型よりなお細い四肢を何故か冬用の制服に包んでいて、首元には映える真っ赤なマフラーが巻かれている。そしてその全てが、吹きさらしの雨にあたっていた。冬服は黒なので透けることはないけれど、ぴったりと体のラインが浮き上がってしまっている。それにしても体は細いのに出るべきところは出ているなんて、うらやましい。

 手元で何かをいじっているようだった。あれは、あやとりかな。

「文月さん」

 こちらに気づいていないようなので名前を呼んでみる。実を言うとこの名前、ものすごく苦労をして聞きだしたものなのだ。文月さんて、一人称が『魔女』だから。

 文月さんが顔を上げる。昨日も思ったけど、すごくきれいな人。雪ちゃんを『かわいい』に分類したら、この人は多分『美しい』に収まるんだと思う。それも、右に肩を並べる人がいないくらいに。

「あ、神楽さん。そしてそちらの彼が、神楽さんがここへ連れてきたいといっていた春風くんかな。こんにちは」

「「こんにちは」」

 私と同時に、いつの間にか私のすぐ横まで来ていた夢理が答えた。ちなみにまだふわふわとエイに乗っている。

「ふふふ、気に入ってもらえたみたいだね。みんなも喜んでるよ。ココにお客さんが来るのはそうあることじゃないから。うん、魔女もうれしいな」

 本当にうれしそうに文月さんが笑った。無邪気でいておしとやかな、人の気分を良くさせるような笑顔。同じ無邪気なのに子供みたいにしかならない夢理の笑い方とどうしてこうも違うのかね。

 ちょうど今そんな顔をしている夢理が口を開いた。

「あ、あのデスネ、その、アナタハ、魔女なのデスカ?」

「夢理、慣れない敬語なんか使うから日本語が片言になってるよ」

「え、本当デスカ?」

「なんで私にまで敬語なのよ。気持ち悪い」

 くすくすくす、と文月さんが笑った。

「いいよ。言葉なんて、伝われば同じことだもの。言葉の形は心の形とイコールじゃないのだから。大丈夫、キミの優しさは言葉なんて介さなくても伝わってくるよ。それに、魔女に敬語もおかしいものね」

「それなら遠慮なく」といって、夢理は敬語を諦めたようだった。そもそも敬語になるほど夢理が委縮するなんて珍しい。魔女の魔力かな?

「お前は、本当に魔女なのか? もしそうならお前のいう、自称している『魔女』はどういう存在なんだ? ここで起こっている現象は、いったいどうやって起きている? それから……」

「質問が多すぎるよ。ふふふ、聞きたいことがたくさんあるんだね。名前の通り、かな。きっとキミは、目の前でどんなことが起こってもそれを真正面から肯定することができるけれど、それがただそのものとして存在することは許せないんだね。例え夢であっても理由を求める春風夢理クン。うん、キミは正しいよ。この世界には理由のないことなんてないのだものね」

 文月さんの話し方はどこか詩的で、言い方を変えれば古典的。妙なリズム感があって、目を瞑ると言葉が五線譜で踊っているかのようだった。そう言えば、魔女は言葉で人を操るのだと聞いたことがある。覚えているのは多分数学の授業中だったからだ。数学の時間にどうして魔女の話になったのかは忘れたけど……魔法陣とかだったかも。とにかく聞き心地がよくて耳触りが良くて、気を抜くと頭の中が知らない世界へ行ってしまいそうだ。

 でもそれは、私だけなのかな。平気な顔で夢理は口を開く。

「確か名前は、『文月』だったかな。俺たちがここに来れたのはどうしてだ? それにももちろん、理由があるんだろ?」

「魔女は魔女だよ。名前は文月だけど、魔女は魔女。そうだね。キミたちがここに来たことにも、ここに来たのがキミたちだったことにもちゃんと理由があるけれど。それを話すのは今までキミが聞いた全ての質問に答えてからだね」

 そう言って文月さんはこちらに歩いてくる。その過程で、複雑な形をつくっていたあやとりはまるで空間が歪むさまを映し出すようにほどけて長い指に絡まった。文月さんは一瞬だけそれを寂しそうな目で見つめる。

「春風くん、物語は好き?」

「もちろん、三度の飯より好きだ!」

「ふふ、神楽さんは?」

「私は、ちょっと……」

「そうだよね。うん、でも大丈夫」

「ニャハハ」と人魂が笑った。私のこと?

 文月さんは雨を受け止めるように大きく手を広げて、楽しそうにほほ笑む。

「とってもとっても古い昔話をしてあげる。世界が始まって、形を変えてゆくお話。『今』に向けて進んでゆく創造のお話。そしてもう消えてしまった、神様のお話。……きっとその中に、キミたちの知りたい答えはあると思うよ」

 夢理が応える。

「聞かせてもらうよ、全ての物語は俺に読まれるためにあるんだからな」わ、なんてゆー傲慢な考え方。エイの背に立ち上がって腕まで組んでいるけれど、どうにも様になっていない。

「ふふふ、そうかもしれないね」

「そんなことありません。こいつすぐに調子に乗るんであんまり煽てないでください」

「でも、春風くんはすごいよ」

 まただ。あの生徒会長といいどうしてみんなそんなに夢理のことを評価しているのだろうか。まさかみんな、雪ちゃんと同じように私の恋を後押し……っていってて自分が恥ずかしい。言葉にはしていないけどね。そもそもそんなはずがない。少なくとも文月さんと雪ちゃんに面識があるはずがないのだから。

「少し長くなるよ」

 そう言って、文月さんの語る『昔話』は始まった。



「世界はね、物語なの。

 私達が立っているここも、いつも見ている風景も、そして話や映像でしか見たことがない別の大陸も、みんなみんな世界。

 それら全ての世界は物語で、同じように物語は世界そのもの。それはどうしようもなく前提で、確定的で、まぎれもない本当のこと。

 だってそうでしょ、世界は時間を伴わなければ知覚されないのだもの。知覚されなければ存在足りえないものね。そして時間は、認識されることで物語になる。説明をつけるならばそんな感じになるけれど、理解する必要なんかないの。

 『世界は物語』それだけがただ一つ、大事な事象なのだから。

 物語ってたくさんあるよね。それは小説や漫画なんかの本だったり、ミュージカルを介した音楽だったり、今はテレビやラジオもある。けれど、一番多い物語って何だと思う? 

 人生だよ。人が一人ひとり歩んでいる物語。同じものなんて一つもなくて、一つ一つがとっても大事なモノなんだよ。昔誰かが『世界は俺を中心に廻ってる』なんて言ったけれどそれは言葉の表の意味だけを抽出すれば間違いじゃないの。

 世界は、確かに一人ひとりを中心に廻っている。春風君も、神楽さんもね、世界をもってる。

 でもね。

 初め、世界はたった一つだった。

 たった一つの大きな物語だった。

 今のキミたちの言葉を使うのなら神話と呼ばれるものなのかもしれないね。

 始まりの物語、創造のお話。『彼』にそんなつもりがあったかどうかはわからないけれど、きっとなかったのだろうけれど、結果としてそれはそう呼ばれるに値するものになった。

 世界は誰かを中心に廻っている。だとしたら、そんな大きな物語の中心には誰がいると思う?

 ふふふ、こんな言葉を使うと、何だか突拍子のないことのように聞こえてしまうかもしれないね。でも彼を表す言葉は昔も今も変わらない。

『神様』だよ。

『彼』は『神様』だった」


 流れるように文月さんから紡がれる言葉。

 世界、物語、神様。

「えと、よくわかってないんだけど。神様って神様?」

「そうだな、この場合は創造主、もしくは造物主としての概念的な神様のこと。どっかの宗教で拝まれたり崇められてる類のものじゃないだろうから」

「夢理、この話が理解できるの?」

「なに言ってんだ。神様云々はともかく、前半は俺の考え方と全く一緒じゃねーか。昨日中庭で言ったろ、『物語は世界』だって」

「あー、うん、言ってた……かも」


「神は大きな世界をもっていた。

 ううん、というよりも世界の全ては神を中心に創られていたの。海も山も空も、雲や草や花もそう。魚や虫でさえも神のために存在していた。

 でもそれは、決して傲慢な意味ではないよ。彼にとっては全て寂しさを紛らわすための、いわば友達だったんだもの。

 彼は神だったけれど、王ではなかったから。

 優しい優しい神様。

 神の想う全てが世界の中で実際に創造された。世界に存在するものでそれに該当しないものはなにもなかった。

 だから彼は『全知』だった。

 神の行う全てのことが世界で望まれる全てだった。世界の全てがその形を受け入れ満足していた。

 だから彼は『全能』だった。

 彼は神であるがゆえに『全知全能』で、『全知全能』であるがゆえに神だったの。

 それが最初にして唯一だったころの世界の形。

 彼の世界、今の言葉で言うのならば『真実』と呼ばれる世界だよ。

 本当は名前なんて必要ないのだけれど、今の世界はあまりにもあの頃と変わってしまったからね。区別しなければいけなくなってしまったんだよ。

『真実』と『現実』をね」


 そういえば聞いたことがある。哲学用語では、現実という言葉を『そうあるべき理想との差異』として使うことがあるんだそうだ。

 

「つまりね。今この世界は『現実』であって『真実』じゃないの。

 それはまるで間違い探しのように。同じモノが別の意味を振りかざして隣り合わせに存在しているの。

 キミたちは、ここで空を飛ぶ魚たちを見て、この子たちを見てどう思った?

 ふしぎ? 夢みたい? 超常現象? そんな風に思ったかな。

 それは、『現実』の中では正解だけれども、『真実』においてはおかしな話だよ。

 だってそうでしょ。

『雨』は空に現れる海なんだよ。それは言葉どおりの意味で、海を魚が泳ぐのは当然のことだもの。

 魚たちは、雨が降りだすと喜ぶよ。それは『雨』本来の意味を知っているから。『現実』によって隠された、『真実』の意味をね。

 鳥もそう。

 風がその動きに合わせてレールを作り、空の旅を楽にしてくれることを知っている。

 炎もそう。

 自分のもつ熱が体温で、その揺らめきが鼓動によるものだということを知っている。

 みんなが知っているんだよ。自分を創った『神』が存在していたことをね。みんな覚えてる。

 知らないのは人間だけ。

 当たり前だよ。彼らはいつだって知っているふりをして、知ろうとしないもの。

 でも、それは仕方のないことでもあるの。そういう風に生まれたのだから」

 

 文月さんが一呼吸ついて、そばまで近寄ってきていたタマを撫でる。実態のないはずの炎の塊がくすぐったそうに身震いしたように見えた。

「少し、一度にたくさん話し過ぎちゃったかな」

 ふふふ、と笑って文月さんは魚たちを追いかけ始める。どうやら、昔話は一休みのようだ。

「要するに、ずーっと昔、初めは神様がいてその神様が創った世界でみんな仲良く暮らしてましたってこと?」かな、詩的過ぎてうまく理解できているのかどうかわからないんだよね。

 腕を組んで考える風にしていた夢理が答える。

「そうだな、それでその世界『真実』では、今のこの世界『現実』とはモノの意味が全く違っていた。『雨』は『海』だし『風』は『レール』、人魂だと思っていたアレは、単に『炎』が『生き物』だったってことか」

「ということは、『扉』や『幻想曲』も……」

「おそらく、真実における本質が現実に現れたんだろうな。大方『扉』は空間と空間を繫ぐものとか、空間の境界。『幻想曲』の方は道しるべとかそんなとこだろう」

「あれ、そういえば夢理が乗ってたエイは?」いつの間にかいなくなってるけど?

「話の途中で人魂に触れたらしく驚いて逃げた。まあ、触れるぎりぎりぐらいには熱いからなアレ」

「ニャハハハハ」ふむ、かわいい顔して罪な奴だね。顔はないけど。

 うーん、今こうして不思議な現象を体験して、雨の中を自由に泳ぎまわる魚や笑う火の玉を目の当たりにしていれば文月さんの話がただの昔話でないことはわかる。あまりに突飛過ぎて――神様とかね――信じがたい部分もあるけれど。

「神様がいた、か」なんとなく言葉に出してみる。なんだかおかしな響き。

 あれ? ……あれれれれ?

「どうした? まるで某ハンバーガ店の赤アフロみたいな顔して……痛っ」そんな顔には断じてなってない。なってないというかならないはず。

「神様がいたって、そう文月さん言ってた。ということは今この世界には神様はもういないっていうことじゃない?」

「そうだろ、最初からそういう話しぶりだったし」

「気づいてたの?」

「気づいてなかったのか?」

 読解とかっていうのはどうしてもうまくいかないんだよね。

「うぅ、いっそのこと全て数字で話してくれれば……」

「お前自分が何言ってるかわかってるか?」

「ふふふ、キミたちを見てると楽しいよ。きっと長い時間を一緒に過ごしてきたんだね。たくさんの経験を共有して、多くのことを語り合ったんだろうね」

 文月さんがイルカと一緒に宙を泳ぎながら帰ってきた。……けれど乗ってない。赤いマフラー越しに制服の襟元を咥えられてぶら下がっている状態だ。平気な顔をしているけど首は痛くないのだろうか?

「彼と魔女もそうだった。いつも一緒にいて、いろんな事を話したよ」

 なんだか、しゃべる首吊り死体みたいなすごい光景になっている。

「そろそろ、続きを話そうか」

「え、そのままでですか?」

「?」私の心配は全く届かないようで、なんのこと? というように文月さんが首をかしげた。

「?」夢理までその顔をするな! 

「キミたちが気になっていた彼の話からしようか」

 ふふふ、とほほ笑む文月さんの体を一陣の風が揺らした。

 ……大分シュールな光景なんですが。


「神はね、全ての始まりの存在だった。何もかもを創って、何もかもがその時始まった。彼自身が始まりの始まりだったとも言えるね。

 とにかく『真実』において彼が始まりでなかったものはないんだよ。そういう風に物語は廻ってた。

 けれどね。始まりだった彼は終わりではなかったんだよ。

 なぜなら、彼は途中で終わってしまったから。

 これはすごく不思議なこと。始まりの彼が消えてしまっても、彼を中心に廻っていたはずの『真実』が消えることはなかったし、彼がいなくなっても彼に創られた魔女は残った。

 ふふふ、それがいいことだったのかどうかは、わからないな。きっと彼にもわかっていなかったんだよ。そういうことに関心のない存在だったからね。

 魔女はね、神が自分の物語を世界として、存在として具現化するときに使う媒介みたいなものなの。だから彼は初めに魔女を創って、魔女を通して世界を創った。

 彼がいなくなっても、魔女は『真実』を映し続けてる。

 魔女がいる限り、彼の物語は消えることがないの。

 そんなことは彼が消えてみるまで、知る余地もなかったけれどね」

 文月さんの表情はどこか切なそうで。

「世界は……『真実』は彼が消えてから少しずつ形を変えていったの。

 どうしてだと思う?

 それはね、軸がぶれたからだよ。中心にいた『神』を失って、その周りを廻っていた物語がぶれたの。もちろんちょっとやそっと動いたくらいでは、彼の世界は変わらないよ。

 問題はそこから生まれたものだった。産まれたもの」

 

「人間か」

 夢理が答えた。楽しそうなのに、どこかそれとは真逆の感情も含んだような表情で。

「どういうこと?」

「最初に言ってただろ。人間は一人ひとり物語をもっている。『真実』は神だけを中心に廻ってたんだから、人間って存在が生まれるとしたら神がいなくなった時だ。要は世界の形が変わったっていうのは……」

「人間のもつ物語が彼の物語を侵し始めたんだよ」

 夢理の言葉を最後は文月さんが引き継いだ。

「キミたちが生まれて、暮らしてきて、それがすべてだと思っている『現実』はつまり人間の物語の集合体なの。一つ一つは小さいけれど、集まればそれなりのものになる。

 彼の物語をベースに人間はどんどん新しいものを生み出して、増殖することで『真実』を歪ませてきたの。だから誰も、人間は誰も彼の世界の本当の姿を知らないんだよ。

 それはとてもとてもかわいそうなことだね」

 だからね、と告げて文月さんが突きだすように腕を上げた。立てた人差し指が宙空を移動すると、その跡を白い光の線が残って形を造っていく。まるで空間に絵を描いているみたい。あまりに表現がそのまますぎて例えとして成り立っていないかもしれないけれど。

 円だった。機械で描いたかのように正確で大きな真円。その内側を、線をなぞるように崩れたアラビア数字のような記号が並んでいく。そしてもう一重の円が走り、また記号が描かれてゆく。

「魔女はこの世界に彼の物語を映しだすために、『現実』と『真実』の間にある差を埋めるの。今起こっていることと、本当のこととの違い。魔女は『真実』を知っていて、『現実』は目の前にある。この二つの要因からその差を埋めるための答えを導き出せるのは、そのために造られた魔女だけなんだよ。そしてこれはそのための計算式」

 二重の円の中で記号が回転を始める。外側の記号は時計回りに、内側はその逆に。羅列された記号が相互に干渉しあって内側に更なる記号を生み出し、中心に向けて円の中は複雑さを増してゆく。

 解を求める過程で、ノートが徐々に空白を失っていくように。

 けれどそれとは全く別に、この光景には既視感がある。

「魔法陣か……」夢理が呟いた。

「円形求心型方程式だよ。なんて呼んだところでこの子は怒らないと思うけれどね」

 ふふふ、と文月さんが笑ったところで光で造られた円が一際輝いた。中心にはローマ数字の七に近いようなよくわからない記号が据えられている。

「がんばったね。キミは偉いよ」

 文月さんは魔法陣に、まるで語りかけるようにそう呟いてからゆっくりと指先を触れさせる。光だけど実体があるのかな。文月さんが端をなぞると収束するように円陣は消えてゆく。

「『雷』は『祝福』。現実を生きてきたキミたちが神の世界に触れた証」

 カッと一瞬にして視界が白に染まった。目をつぶる間もなくて完全に視覚が機能しなくなる。それは夢理も同じだったらしく横から「うわっ」という声が聞こえた気がするけれどそれすらもすぐに轟音に塗りつぶされる。

 ズッ、一拍置いて、ドーン。

 言葉にすると幼稚だけどそんなものじゃない迫力の音。間近で爆発が起こったみたいに両耳を殴りつけられ、自分がどちらを向いているのかわからなくなる。うー、遊園地のコーヒーカップに目隠しで乗せられたときみたいな感覚。そんな経験はないけれど。

 しばらくすると目が慣れてきてぼやけた視界にカラフルな何かが映ってくる。

「はな、ふぶき……これ、どっから降ってきてんだよ」

「ふふふ、彼はおちゃめだったからね」

 花吹雪だった。それも本物の生花の。赤かったり青かったり白かったりする花は、チューリップだったり紫陽花だったり鈴蘭だったりして全く統一性がない。あえて言うならば鮮やかに魅せることだけに注目したかのような色彩。それらがはるか上空からひらひらと舞うように降りてくる。

 花は手に取ると、役割を終えたかのように光の粒子になって消えてしまう。床に落ちたものも同じだった。綺麗だけど、なんだか寂しい光景だよね。

 夢理はどうにかして花を形のあるまま拾おうとして、ねこじゃらしにじゃれる猫みたいになっていた。いや、かわいいとか思ってないって。いや、あまのじゃくとかではなくて。ってワタシハダレニベンカイシテイルノ?

 強引に思考を切り替える。

「祝福って、私達をですか?」

「そうだよ、おめでとう。それからようこそだね。キミたちが望んだ真実はキミたちを歓迎しているの。望んでいたのはお互い様だったんだもの。彼がいなくなって魔女はずっと独りきりだったけれど、キミたちは魔女のお友達になってくれるかな。それすらも望んでくれるかな」

「あったりまえだろ」

 文月さんが言葉を言い終えるのも聞かずに、夢理がそう返した。

「俺の物語に敵なんていらないんだよ。だからみーんな友達だ。全員が全員、例え嫌いでも苦手でも、それでもみんな友達なんだよ。楽しいだろ、そのほーが。悲しいだろ、そうじゃなかったら」

 なんだか、夢理の好きそうな少年漫画じゃ絶対成り立たない前提の話。もっといえば普通に生活している中でだって、すごく難しい……できるのなら誰もがそうしたいけれど、誰も実際にはうまくいかない、そういう類のまるで正義を語るような話。

「ふふふ、それが春風くんのスタイルなんだね。どうしてキミがここに辿りつけたのか合点がいったような気がするよ。魔女は彼じゃないからわからないことはたくさんあるけれど、また一つ知ることができて嬉しいな」

 そして文月さんは私の方を向く。……あ、そっか。

「私も、なんだろう……なるっていうかもうなってるっていうか」あらためて友達になってと言われるのは初めてで、困惑しちゃうね。

「だから、友達です。敬語ですけど」それはきっと文月さん独特の雰囲気のせいで。

「神楽さんはやっぱり似てるね」

「え、誰にですか?」

「ううん、これは魔女の独り言。ありがとうの前に話すことではなかったね。謝るよ、ごめんなさい」

 文月さんはぺこりと頭を下げて、戻した勢いのまま空を見上げた。

「今日はもう、家に戻った方がいいかもしれないね。もうじき、雨が強くなる」

「雨が……?」

 顔を上げてみたけれど、素人目には空に変化があるようには見えなかった。魔女って天気予報までできちゃうのかな。

「あ」よく見ると紙製の傘の端に少し水がしみてきていた。まだきっと大丈夫だけれど、このまま長居をすればもたなくなるかもしれない。それにやっぱり少し、寒いかな。

「夢理、帰るよ」「やだ」ガキか!

 夢理は人魂の……タマ(だと思う)を撫でながら、右足でタン、タンとリズムを刻んでいた。本人も気づいていないけれど、あれは夢理が考え事をする時の癖だ。こういう時は口で言って聞かせるのは不可能だと経験がいっています。もー。

「だいったい、あんたびしょ濡れじゃない」襟首を掴んで引きずることにする。

「俺はバカだから風邪ひかないんだよ」そういうことは自分で言っちゃだめだと思う。否定はしてあげないけど。

「ちょ、ちょっと待った。最後に一個、質問していいか?」

 それを聞いて、扉に向かっていた足を止める。

「いいよ、なにかな?」


「お前の目的はなんだ?」

「ふふふ、魔女の目的は一つだよ。彼の物語を甦らせること。あらゆる意味でね」


「そうか」夢理は満足そうな顔でそう答える。

 得心したところ悪いんだけど、足に力が入ってないようなのですが? まさかこのまま引きずれと? か弱い、私に?

「いいぞ、日和」「いいわけないでしょ!」「のわぁぁぁ」

 扉を開けはなって夢理を放り込んだ。どこに続いているかわからないけれど、閉めずに入ればまた同じところに出られるはずだ。

「それじゃあもういきます。文月さん、あんなの連れてきてすいませんでした」

「ううん、楽しかったよ。また明日」

 そう言って文月さんはたこと遊び始めた。独りになったって言っていたけれど、あれは友達じゃないのかな。

 扉をくぐる。

 また、明日か……。

 


 十八時四十分 放課後

 

 扉の先は元の地学準備室前だった。背後には暗闇だけが窺える中庭の小窓。幸運なことに辺りに人はいないらしい。雨の音を無視した硬質な静寂が廊下の先まではしっている。

 夢理は扉をくぐった勢いそのままに、仰向けで大の字になって床に転がっていた。ほんとに人気がなくてよかったよね、たく。

 その脇にしゃがみ込む。

「そんなかっこで冷たい床に触れてると風邪ひくよ。あ、バカだから風邪ひかないんだっけ」でもあれってバカは風邪をひいても気がつかないからとかってオチがついてた気がする。科学的に根拠のない噂なんてそんなものだ。きっと、本来なら七不思議だって。

「すごかった」

 夢理がそのままの体勢で言う。視線は天井に向けたまま。多分その先の、何か別のものが見えてるんじゃないかな。

「ね、言ったとおりでしょ」

「なに言ってんだ、それ以上だよ。俺の知らない世界が、こんなに近くに、ずっと前から。なんかもう信じらんないよな。隣にあるのに見つからなかったなんてさ。見つからなかったのに隣にあったなんて」

 信じられねー、ともう一度呟いてようやく起き上がる。でも夢理のいう通りだった。信じられなくたって、そこに存在しているものには何にも関係ない。ん?

「コロ」夢理の背後からひょっこり人魂が出てきた。私が文月さんと話している間についてきちゃったのかな。

「いや、日和。これはタマだ」「コロでしょ」「タマだって」「どっからどう見てもコロじゃない」「タマにしか見えないだろ」「コーロー」もう、夢理ってばどこを見て判断してるつもりになってるのかね。……私もだけど。

 コロ(のはず)は私達の不毛な言い争いを気にもとめることなく、夢理に寄り添うようにくるくると廻っている。か、かわいい。

「お持ち帰りしても大丈夫かな? あ、でもうちの寮ペット厳禁なんだっけ」

「そういう問題じゃないと思うぞ」そういう問題じゃないか。

「それで、コロはなんでついてきちゃったのかな」視線をコロの高さに合わせるために屈んでみる。二十センチ以上は離れているけれど。この距離にして結構な熱を感じた。さっきよりも熱い気がする。

「タマ、お前もしかして乾かしてくれてるのか?」「コロだって」「タマだ!」

 確かにコロの近づいたところから順に夢理の制服が乾いていく。なんだか便利。このためについてきたのかな。

 あち、あっち、と夢理が奇声をあげているうちに制服は全部乾いたようだった。

「ありがとな」

「ニャハハハ」会話成立、してるかも。

 コロは用が済んだとばかりに鉄の扉に近づいて、止まった。もし人間だったなら『呆然と立ち尽くす』という言葉がぴったり当てはまりそうな様子で宙を漂っている。開けられないのかな。なんというかあまりにも不憫で、ちょっと笑える。わ、私って嫌なやつ。

「はい」開けてあげた。扉の先はいつも通りの中庭だったけれど、それで充分だったみたい。一瞬振り向くような動作をして、けれどすぐに出て行ってしまった。次に会う時には球体の機微にもっと詳しくなっておこうかな。えと、動物図鑑とかで。

「行っちゃったな」あら、珍しく夢理が感傷的。

「せっかく七不思議って盛り上がってたのに、いきなりゴールが見えちゃって寂しい?」

 考えてみれば、昨日の今日なのだ。調査して辿りつこうとしていた不思議のほぼ全てがを文月さんに語られてしまった今、夢理にとっての『特筆すべき物語の時間』とやらは終わってしまうのではないだろうか。

「日和には、これがエンディングに見えたか?」

「うん」違うの?

「むしろ始まりなんだよ。いいか、物語で一番大事なのはなんだと思う? 豪奢な表紙か? かっこいいタイトルか? 整った文章か? 違う、行間だよ。知識と事実から推測しろ、推理しろ。あの魔女の言葉の裏になにがあった。魔女の目的は何で、それには何が伴う」

 どういうこと? 言葉の裏……目的……夢理の最後の質問……。

「夢理は、なにに気付いたの?」

 雨音が強くなった。文月さんのいっていた通りに空が荒れ始めたのかもしれない。それに気がつける程の間があった。

「今はいい。ごめんな、俺ももう少し整理ができてから話すよ。それよりさっき、あの魔法陣を見てた時、なにしてたんだ?」

「え、私なにかしてた?」また、無意識に動いていたのかな。体が私の心から自立しようとしてる?

「ずっと手を動かしてただろ。よくわかんないけど、なんかものすごい高速で」

 ……あれ、思い当たる節があるような。それなのに全く記憶にないのですが。

「ん、チャイムの音……」

 このタイミングで鳴るということは、今何時だっけ。

「完全下校時刻だろ。校内の生徒は十九時までに出なきゃいけないってどっかの本に書いてあったぞ」なんでそこが曖昧なのかわからないけど生徒手帳の事ですね。あと冷静すぎ、門閉まっちゃうじゃん。

「走るよ」なぜか動き出す気配のない夢理の手をとって廊下を駆けだす。なんだか最近、私走ってばっかりだ。やんなっちゃうね。

「走るのって、なんか青春っぽいよな」

「あんたは、走らなすぎなの。体育出なさい!」

 そんなことを言いながら右手に感じる温もりをできるだけ意識しないようにしている私は、ちょっと青春っぽいのかもって……ううん、思いません。思いませんよ。

 だって、天の邪鬼だもん。



 二十一時十七分


 ドライヤーって開発された当時は掃除機にくっついていたらしい。ほら、昔は小さなモーターがなかったからね。流用というか、付加機能として髪も乾かせちゃいますよーって。でも、なんだか掃除機から送られる風になかなか綺麗なイメージがもてないんだよね。この時代に生まれて本当によかった。お母さんとお父さんに感謝しなきゃ。そういえば最近、連絡取ってないんだよね。明日、電話してみようかな。

 ……というようなことを考えているうちに私の黒髪は乾きましたとさ。きゅーてぃくる復活。

 首に掛けたタオルでうっすらとかいた汗を拭う。視界の端には自動販売機が見えた。お風呂上がりの火照った身体がコーヒー牛乳を求めているけれど、今月は少し厳しいからねぇ。んー、我慢かなあ。

 鏡の中の自分と無理やり笑顔であいさつを交わして、何も買わずに部屋に戻ることにした。

 女子寮のお風呂場は、建物の何故か最上五階ど真ん中に位置している。その下は図書館、そのまた下は食堂と、寮生が共有する施設が中央に集中する仕組みになっているのだ。

 ちなみに女湯しかない。当たり前といえば当たり前のことだけれど、管理人である鈴木さんは男の方なのでいつもどこでお風呂に入っているのか少しだけ心配になったりするよね。あれ、ならない? 私だけ?

 全ての階をつなぐ寮で唯一の階段に到着して少し立ち止まる。えっと、右の階段を下りると二階の私の部屋に進みます。で、なぜか意識したことなかったけれど、左の上り階段はどこに繋がってるのかな。一年以上住んでいた建物なのに不思議に思ったことがなかったなんてびっくりだ。そもそも、こんな階段あったっけ?

 そー、と左側によって上を見上げてみたけれど、暗くてよく見えなかった。これは上ってみるべきかな。私的大冒険はもう落ち着いてたはずなんだけどね。

 一段目に足を――リンリロリロリロリーン――あら、誰かが私を呼んでいる。

 ポケットから取り出した携帯電話に目を落とす。目を落とすって表現、よく考えたらちょっと怖いよね。

「雪ちゃん?」

 Eメールだ。――ひよりん今、忙しい? 電話できるかな?

「なんだろう、急用かな」

 一歩だけ踏み出していた足を引っこめて、右の階段を下りながら返信を打つ。基本的にどちらの手でも打てるのだけれど、急ぐ時には両手にすると効率が良かったりするよね。

 ――今、お風呂あがったところだから部屋に戻ったら連絡するね。

 そーしん。

 雪ちゃんはこの学校では割と珍しい自宅生だから、この時間には会いに行けない。もどかし。

 階段を走るには、少し勇気が足りないので速足に自分の部屋を目指す。二○六号である私の部屋は階にさえ着いてしまえばすぐそこだった。

 案の定、返信してから五分もかからずに私はベッドに潜りこむことができた。あー、至福の時……………………じゃなかった。電話、電話。

 ぺ、ポ、パ、っと気分はそんな感じでボタンを押すと、親しみ深い数字が羅列された。数字はすぐに覚えられるのですよ。

 今日の事、謝らなくちゃね。

「もしもし、雪ちゃんお待たせしました」

「待ってないよー。この時間で一つ課題できちゃったし。やったね」

「あれ、課題なんてあったっけ? あ、もしかして前回私が出られなかった数学の?」夢理のせいでね。

「ちーがーうーよー。『ドノヨウニシタラ部屋ヲゲイジュツ的二散ラカセルカ』についてのレポート。必ず提出するようにうさぴょんに言われたじゃない」

「雪ちゃん、それ完全に洗脳されてるから! お願いだから、その議題に疑問をもって!」

 やっぱり手遅れだったか。宇佐木先生恐ろしや。

「ひーよりん変なのー」変なのは雪ちゃんだよ。「ところでね」

 ここまでいつも通りだった雪ちゃんが少し声音を変える。

「うん」

「その……ところで………………………………………………………………………………………………………………………………」これは「…………」どこまで「…………」伸びるのかな?

「話しにくいこと?」

「ううん、そうじゃないんだけど。ひよりん、今日こうクンと会ったって?」

 こうクン。こーうクン? 頭にイメージが湧かないのだけれど、そもそも今日出会った人間自体がそんなに多くはないからね。思い当たる節もあるし。けどそんな名前だったっけ。うーむ、それにしてもこうクンか……。

「あの生徒会長さんの事だよね。いきなり話しかけられたからびっくりしちゃったけど。あの人が?」

「近頃、仲良くさせていただいております」

「それはそれは、喜ばしや喜ばしや」いや、私。ナニイッテルカワカッテマスカ?

 つまり、雪ちゃんの好きな人ってことでいいんだよね。飛躍しすぎってことはないと思う。

 だって、「今日二人で歩いてたでしょ?」

「……ばれちゃってた?」

「わかるよ、親友だもん」

「それ、わーたーしーのセーリーフー」

 くすくすとお互いに笑いあう。なんでかちょっとこの感覚が懐かしい。

「雪ちゃん、ごめんね。昼間の事、本当はもっと早く伝えたかったんだけど。ほら、私不器用だから……は言い訳だけど。おめでとう」

「…………」

 顔の見えない電話口の向こうで、息を殺したような沈黙が流れる。よく聞くとすごく小さな砂嵐のようなものが聞こえてきて、そんなものに気付けるぐらい私は雪ちゃんの次の言葉に耳を澄ませているんだなって思った。なんだか他人事みたいだね。

「……ぷぷっ、なにそれー。まだ付きあってもないのに『おめでとう』ってひよりん気が早いのです。それに、気にしてないよ。そんなことで傷ついちゃうほどデリケートな雪ちゃんじゃないさー」

 見くびっちゃダメー、とつづけて一拍おく。

「でも、うん。ありがとう」

 なんかさ、やっぱり雪ちゃんには嘘つけないよ。自分にはつけても雪ちゃんには無理だよね。私がたった一つ正直になれるところなんだと思う。唯一だよ?

 そんな友人に生まれてたった十六年で出会えました。

 それは、きっと貴重で希少な奇跡みたいなものなんだと思う。

「笑わないで聞いてくれる?」

 ずるいけれどそう切り出す。

「私の時は大笑いしたのにね」

「ごめんなさい、すいません、忘れてください」

「うむ、よきにはからおう」

 わー、もはやノリだけだー。

「隠してたわけじゃないんだけど」

「うん」

「私ね」

「うん」

「やっぱり、夢理のこと好きだ」

「……うん」

「バカで変態で現実なんてちっとも見てないアホだけど、なんか興味のある事柄に出会うとね、目をキラっキラさせるの。まるで子供みたいに。自分の世界には楽しいことしかないんだって、そう言ってるみたいに笑うの」

「ふふふ、うん」

「いつから、気づいてた?」

「最初からだよ。ひよりんが自分の気持ちに気付くよりも、多分もっと最初」

「それって、気づいたって言えるのかな」

「言えるのです。だってひよりんは今、夢理クンのことがだ―い好きでしょ。それがすべてだよ」

「わー、恥ずかし! なんか恥ずかし!」

「私も」

「うん?」

「こうクンが好き」

「……………………うん」

「およよ、ひよりんその間はなんでしょーか?」

「ううん。なんだか雪ちゃんをとられちゃったみたいで、ほんのちょっとだけど、寂しかった」

「ひよりんがそれを言うかー」

「え?」

「おあいこでしょ」

「ん、あ、そっか。そだね」

 お互いにわかっていたことを、確認するように並べて伝えあう。いつの間にか絡まってしまっていた二本の毛糸を解くように、丁寧に繊細に。

 本来の姿に戻った糸の先はお互いの知らない別の糸と繋がっていたけれど、きっとね、それが大人になるってことなんだと思う。

 高校生。マージナルマン……だっけ? 思春期。青春。

 自覚なんてなくたって、私達は自然とそんな過程の中にいて、その先へ進もうとしている。

 人生は物語。物語は世界。文月さんと夢理に共通する公式。

 幸せだよね。こんなに小さな素朴な私なんかの物語の中で、雪ちゃんやたくさんの素敵な人たちに出会えたこと。

「それじゃあ、おやすみ。……それから」

 そしてそれを幸せと思えることもね。

「ありがとう」

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