第1章
『好き』ってなんだろう?
『愛』ってなんだろう?
『恋』をして初めて、そんなことを考え始めた。
九月三日 月曜日
十二時三十五分 昼休み
「ひーよりーん! はーやーいー! そんなに急ぐとウサギになっちゃうよー。首から懐中時計ぶら下げてさ、『大変だぁ、大変だぁ』って」
雪ちゃんの声を聞いて、並み以下の速度で歩いていたつもりでいた私は立ち止まった。普通校舎二階から三階に繋がる階段の中腹。五階にある家庭科準備室への道のりはまだまだ長い。
振り返ると雪ちゃんが踊り場でノートを床に置いて休んでいた。一冊じゃない。二年四組四十人全員分の夏休みの絵日記。高校生にもなって、夏休みの課題が絵日記というのはあまりに幼稚だという意見が大多数だったけど、結局みんな提出したようだ。なんたって簡単だしね。
「サン・テグ・ジュペリの星の王子様だっけ?」
「ルイス・キャロルの不思議の国のアリスだよ。ひよりんてば、頭いいのにどうしてそんなに文学作品にはにぶちんなのかな。時々びっくりしちゃうよ」
雪ちゃんは両手を挙げて『びっくり』のポーズをとった。
校則を無視した茶色いふわふわの長髪に、明るい水色のカチューシャ、整った顔立ちで小柄な雪ちゃん――白野雪は女の子の私から見てもかわいいと思う。容姿もそうだけど、そのしぐさや声音がたまらないのだ。なんだかもうぎゅーってしたくなる。
「痛いよ、ひよりん。あたたたた」
「あ、ごめん」
無意識に行動になっていたようだ。意識せずにここまで動いちゃうとなんだか自分の体を制御できてないみたい。たまにあるんだよね、こういうこと。ひとえに雪ちゃんのかわいさの魔力のせいかもしれないけれど。
ふあー、と一つ欠伸をして携帯を取り出す雪ちゃん。どうやらすぐに動き出す気はないみたいだった。
「ほら、早くしないとお昼休みが終わっちゃうよ」
「だーいじょーぶ。うさぴょんにこのノート持ってくだけだし、時間はできる限り最大限にのーんびり使わないとねー」
「それは雪ちゃんだけの話でしょ。私は宇佐木先生に個人的に呼ばれてるの。あの先生時間にルーズだから、早めにいかないと四限に食い込んじゃうよ」
宇佐木先生というのは私達二年四組の担任にして二学年唯一の女性教員のこと。でも、性格は『ざつ』『ずぼら』の二言であらわされ、生徒の間ではミス・テキト―と呼称される。家庭科の教員なのにその実、生活力のかけらもないという噂はなんとも信憑性のある話だ。親しみやすくて、いい先生なんだけどね。
「いいじゃない、公然と授業さぼれるんだからさ。てことで三十分キューケー」
「あと、三十分しかないんだってば。ほら、三分の一ぐらいノートもつから、はい立つ!」
「やったね。でも半分といわないところがひよりんらしいというかなんというか」
だって、私は日直じゃないもの。雪ちゃんはしぶしぶといった様子で立ち上がり、目の前に続く階段を一瞥してため息をついた。そんなに長い距離じゃないと思うけど、日直という仕事自体に気が進まないのだろう。
階段を上りきって、続くリノリウムの廊下を歩く。普通校舎から専門教室の並ぶ特別校舎へ。
渡り廊下には写真部の展示で『夏の怪談』をテーマにした大小明暗様々な写真が連なっていた。明らかに心霊写真といったものから、細かすぎてなんだかよくわからないものまで。これを本当に部員だけで撮ったのだろうか。撮影技術よりも運の良さを評価してあげたくなる内容だ。
「ま、これがみんな本物だったらね」
割と未確認生物とか宇宙人とか好きなんだけど、言葉として出たのは皮肉だった。ほら私ってば、天の邪鬼だから。
「ん、ひよりん何か言った?」
「なんでもなーい、お昼ごはんどうしようかなって」
「へー……、それでひよりんはなんでうさぴょんに呼ばれたのかな?」
お昼についての話は流されてしまった。基本的に自分の興味に忠実な子だからね。
「なんかね、ほら今回の夏休みの自由課題あったでしょ。あれで提出したレポートが先生たちに評価されたらしくて、学会に発表したいんだって」
「え、学会って……」
「日本数学会だって。今世紀最大の数学者として名前が載るぞーって数学の猪宮先生が張り切ってた」
自分の事じゃないのにね。でもあそこまで言われて、当事者の私があんまりノリノリじゃなかったのはちょっと失礼だったかも。雪ちゃんみたく、『やったね』ぐらいは言えばよかったのかな。
「それってすごいじゃん。いったいどんな大発見しちゃったわけ?」
「別に、すごくはないよ。発見ってわけでもないし」
角を曲がる。
一応、学会で発表するまではむやみに人に話さないようにと口止めされてはいたけれど、多分雪ちゃんなら大丈夫だよね。口は軽いけど、友達として信用しているのです。
「えっとね、まだ秘密なんだけど。昔、ほら小学校のはじめの頃に、足し算引き算を手の指を使ってやったりしてたでしょ? 指を折ったり開いたりして、三たす四は七、みたいな簡単な計算。あれって実はすごくわかりやすくてしかも早く計算できるわけ。難点は零から十までの計算しかできないってこと。これは致命的だけど、それだけでこの手算を使わないのってすごくもったいないと思ったわけね」
「ふむふむ、なるほどじゃあひよりんはそれと一緒に足の指も器用に使うことで二十までの計算ができるようにしたってこと?」
それはきっと小学生でも思いつくんじゃないかな。そして思いつくけど、結局やらない。
「忍者が昔使っていた『印』ってあるじゃない? あれってものすごい数のパターンの形が両手だけでつくれるの。だからその『印』を『手算』に応用して、高校で習う程度の関数計算が紙とペンなしでできるようにしたってわけ。最初は印を覚えるのに苦労するからちょっと難しいけど、慣れてしまえばセンター試験レベルの問題なら三十秒以内でできるようになるよ」
実際には大学初期で習う微分積分の応用までカバーしているけれど、そこまで説明しても微分の説明から入らなければいけなくなりそうなのでやめておいた。学校の授業では二次関数のちょっとした発展問題を解いている段階だもんね。
「つまりー……難しい問題も手を使って早くとけるっていうこと?」
「簡単に言えばそうだね」
「五八三二かける三四七は?」
「二〇二三七〇四」
雪ちゃんは器用にノートを片手で抱えてポケットから携帯を取り出した。目的は電卓かな。
「当たってる。でも今、手ぇ使わなかったじゃんかー」
「だって私、四桁までなら暗算でできるもん。それにそういう単純な計算に使うものじゃないし」
次元が違うよー、とうなだれる雪ちゃん。そうこうしているうちに家庭科準備室の扉が見えてきた。外から見ると至って平凡なんだけどな、この部屋。
「失礼しまーす。二の四の神楽日和です。宇佐木先生に用があってきました」
「同じく……、いや多分同じくなんかないんだ。きっと私がどんなに勉強したってこうはならないんだ天才はやっぱりいるんだ平凡な私なんて生きている価値ないんだってほんのさっき痛感した白野雪です。えーん、友達だって思ってたのにー」
「まって、雪ちゃん私達友達だよ! それは変わらないよ!」
なんだか話が飛躍している雪ちゃんはすぐに部屋の中に飛び込んで、何かにつまずいて転んだ。持っていたノートが宙に浮き、飛び散っていく。
それにしてもこの部屋、それを差し置いても汚い。汚すぎる。そこらじゅうにプリントというプリントが散乱して、ごみ箱が飽和して箱という境界を完全に超越している。この部屋全体がごみ箱そのものといっても過言じゃないんじゃないかな。よく見ると雪ちゃんが躓いたのも空になったコンビニ弁当の箱だし。中央にある何故か斜めになった机の上はものが置かれすぎてごみ山のようになっていた。奥にあるはずの窓が見えない。
ぴく、とそのごみ山の一角が動いた。
「なんだい、入ってきて早々漫才かまされても先生困っちゃうぞ。準備室には静かに入るように。あーあ、こんなに散らかしちゃって、たく」
あんたが言うかー、とは思ったけど口に出さなかった。整理整頓に関してこの人になにを言っても無駄なのはわかりきっているので、無言で適当なところにノートを置いた。
「あんたが言うかー」あ、雪ちゃんが言っちゃった。
宇佐木先生の視線がギロッと雪ちゃんにむく。
「これは芸術」「いや、それは無理が」「芸術」「そんな無茶な」「芸術」「オウツクシイデス、ミナラオウカシラ」
わー、雪ちゃんが洗脳されちゃうー。恐るべき家庭科教師、ミス・テキト―。このまま事の次第を見届けるのも面白そうだけど、こんな形で親友を一人失うのはイヤだ。イヤすぎる。
「宇佐木先生、自由課題の話なんですが」
「ん、ああ神楽か、えーと確かこの辺に……」
ようやく雪ちゃんから視線を離した宇佐木先生はごそごそとごみ山を掻き分けて何かを探し始めた。雪ちゃんはまだ『これはゲイジュツ』とつぶやき続けている。うーん、手遅れだったかな。
「あ、いやこっちだったかも……お、発見、発見。これ、サインしといて」
渡された紙には『学会提出における本人同意書』と書かれている。なんだか仰々しい注意書きが並べられていたけど、読み飛ばしてサインだけした。それにしてもこの書類、普段配られるわら半紙のプリントと違って俗に言うちょっといい紙だ。ごみ山から出てきたせいで所々傷んでいるけど大丈夫なのかな。私自身は学会とかそんなに興味がないから別にいいのだけれど。……だから別にいいか。
「これだけですか?」
「あ、もう書いた? いやー、猪宮のおやじの催促がうるさくてね。これで解放されるわけだ。あの禿げには気を付けなよ。まっとうなこと言いながら平然とした顔でセクハラかましてくる人間だからね。あったしなんかこないださー……」
本当にこの人が教師なのか不安になってきた。多分そういう体面とか気にしてないんだろうな。教師としても、女性としても。開けっぴらでありのまま。少しだけれど、うらやましい。
「こーら、聞いてる? 神楽。今授業より大切な話してるんだから一言一句聞き洩らさないように。っとに」
ま、あたしの生徒に手ぇ出したらただじゃおかないけどね、で宇佐木先生の熱弁は一段落する。基本的にはいい先生なんだよなー。今のところ、『基本的には』は欠かせないけど。単に私が天の邪鬼なだけかも。
チャイムが鳴った。携帯の液晶を見ると一時五分。昼休み終了五分前に鳴る予鈴だ。よかった、今からなら授業に間に合いそう。
「それじゃあ、先生。私達は教室に戻りますね。ほら、行くよ雪ちゃん」
「ゲイジュツゲイジュツ……、ん、ひよりん。私はいったいここで何を……」
想像以上に危ういところまで行っていた雪ちゃんの腕をとって準備室から出る。白い廊下が、なにもない空間がやけに懐かしい。
「待て」
そこで、なんだか無駄に鋭い宇佐木先生の声が響き渡った。振り向くと、にやついたようなたくらんでいるような笑顔。あれは、人を不安にさせる類の表情だ。
「神楽、お前にはもう一つ用事がある」
そういうことはもっと時間のあるうちに言うべきです。雪ちゃん、お願いだからうらやましそうな顔でこっちを見ないで。
「はぁ」
それが返事だったのか単にため息だったのかは、自分でもよくわからなかった。
一時二十分 四限
「どっこにいるかわかんないけどさ。あんたと幼馴染の春風夢理。あいつ見つけて授業出させてくれない。あの馬鹿、数学の成績壊滅的。小説ばっか読んでても大学にはいけねぇぞって、ケツひっぱたいてきてくんないかな? てか問答無用でよろしく」
という全く頼み込む姿勢のない宇佐木先生の依頼でわたしは授業中の校舎をてくてくすたすた歩いていた。第三図書館の脇を通って先ほどとは別の大きな螺旋階段へ。途中に張ってあったポスターに『育てよう会話力』とでかでかと書かれていて、少しドキッとした。苦手とは言わないけれど、ほら私ってば天の邪鬼だから。
客観的に見て、高校二年生の女の子たちが日々どんな会話に花を咲かせているかといえば、それは八割方恋愛についての話だと思う。誰々さんが誰々クンを好きだとか、誰々さんが誰々クンに告白したとか、そんな話。どんなに確証のない噂話でも、色恋沙汰とかかれば一時間二時間簡単につぶせる年頃だもんね。
雪ちゃんなんかはその筆頭で、どこから仕入れたのかよくわからない、でも確かに興味深げな話を毎日のようにしゃべり続けている。電池切れのないラジオのように。そういう意味では私なんかよりずっとずっと頭がまわるんじゃないかと思う。
ちなみに、私個人の場合はそういった話に全くといっていいほど興味がない。…………いや、興味がなかった、という方が的確なのかな。
もはや、否定しきることができないほどには自分の感情を自覚しているつもりだ。
特別校舎一階から地学実験室前の小さな冷たいネズミ色の扉を押し開ける。
中庭。公立高校にしては割と大きな敷地面積をもつその、中心にそびえる大きな噴水を目指して歩く。あいつがいるところなんてそれこそ手に取るようにわかるというものだ。
目的の人物は、案の定というのだろうか、片手で持ったハードカバーの小説をにらみつけながら噴水の淵に足を組んで座っていた。その脇にはこれまたハードカバーの書物が乱雑に積まれ、地べたに置かれた大型のスポーツバッグには用途を履き違えて所狭しと文庫本が詰め込まれている。
移動用個人図書館といったところだろうか。これが春風夢理にとっての標準にして最低限の装備。凄まじいのは毎日この全ての本が入れ替わるということだ。一日二四時間一四四〇分八六四〇〇秒の間に四〇冊を超える数の本を読みこなす。しかも決して流し読みではなく、聞けば全ての本の詳細がそれこそ流れるように口から出てくる。
自他共に認め、つけられた呼称が『物語喰らい』。もしも物語が消化、吸収されるタイプの消費アイテムだったなら、二・三年の内にこいつによって枯渇してしまうのではないのだろうか。小説なんて読まない私には大して関係ないけれど。
「こーんにーちわ」
「ん、あぁ、日和か。あれ? 今授業中だろ。いいのかサボっちゃってさ。不良少女が流行る時代じゃないだろ」
夢理はこちらに体を向けたけど、目が合うことはなかった。視線は手に持ったハードカバーに落ちたままだ。
「サボりじゃないの。私は宇佐木先生にあんたを授業に引っ張りだしてくるように言われて大好きな数学の授業を公欠中」
本当に迷惑な話。
「あ、そっかうさちゃんか……」
そう言って夢理は噴水の淵に寝転がった。授業に出る気はありません、って態度。まぁ、言って聞かせて簡単に治る程度のバカではないことはわかっていたことだ。
「で、なんで授業でないの?」
「んー、ほら」すっと、夢理の右手が真上に上がる。「空が青かったから」
いつの時代の詩人気取りだこいつは。っとに……、こういうレベルのバカなのだ。
「その理由だと年間の約半分は休暇になる計算になるんだけど」
「いや、雲が出てても休む時は休むし、雨なら雨で……そう考えてみると授業を休むのに理由なんて必要ない気がしてくるな。つまり気分ってやつだ」
すっごくわかりやすい開き直りだった。こういう人間は素直に留年して人一倍苦労した方が社会に出た時に役立つのではないだろうか。夢理の場合はそれで変化があるのかどうかが怪しいところではあるけれど。
掛けていたハンドバッグから、ここに来る前に立ち寄った購買で買ったパンを取り出す。授業時間が始まってから買ったので当然残り物と呼ばれる代物を掴まされたわけだけど、それを差し置いてもこのレパートリーはひどい。
「購買か? 今日のチャレンジ商品なんだった?」
ようやく視線を本から外した夢理が、けれど大した興味もなさそうに訪ねてくる。正直なところあんまり紹介したくないんだけどね。とりあえず持ち上げる。
「これがバナナキムチパン」持ち替え「これが納豆オクラクロワッサン」取り替え「それでこれがお味噌汁風味のメープルメロンパンデミグラスソース和え」
このパンの由来が、パン屋さん側のチャレンジなのか、これに手を出す客側のチャレンジなのかは未だに生徒たちの中で議論されている永遠の謎だったりする。
「なんでそんなに盛り込んじゃうんだろうな。絶対別々ならうまいぞ、あの購買のねーちゃん実は料理うまいからな。普通の総菜パンなんか絶品だぜ? 発想だけが欠点なんだよなー」
きれいな顔してるし、と夢理は最後に付け足す。むっ。なんだろうこの『むっ』は。
とりあえず躊躇っていてもお腹は膨れないので食べることにする。
ぐ~~。
「き、聞こえた?」
「何が?」セーフ、あ、危なかった。
はむ、「あんたさ」はむんむ「自分の成績わかってる? 高校二年生にして分数の足し算引き算ができないって、割と人間としてはっずかしーことなんだよ?」
先ほど、宇佐木先生から見せられた春風夢理特製夏休み課題『小学四年生計算ドリル』の分析結果から分かったことだった。正答率は驚異の二四パーセント。
「いんだよ、そういう意味では人間として生きていく気ないから。数学なんてのは好きな人間が好きなだけやってればいいんだって。三けたの足し算なんて社会に出たら全く使わないだろ?」
「流石に、使うでしょ!」
ほんとにもー。しかも見た目よりこのパン美味しいし。関係ないけど。
「夢理はさ、なんでそんなに数学嫌いなの?」
あんなに楽しいのに。むしろ、私には小難しい本を毎日毎日読み漁って何が面白いのか理解できない。
「はぁ~」なにその、そんなことも分かんないのかよって暗に示し過ぎなため息は。
「人が造ったものだからな」
「はい?」
「だから、数学ってのは人が造ったものなんだよ。一つ問いがあれば唯一不動の解があるのがその証拠。この世界で、本当に明確で明瞭で正確で的確な解答をもつのは一つも例外なく人の造ったものだ。俺は『人』って枠が嫌いなんだよ。ま、こういう言い方をすれば学校で習うものなんて全部そうだけどな。社会であれ、理科であれ、国語でさえも人が人のルールの中で造った問いと答えでしかない。ま、最たるものが数学だ。一たす一を二って決めて、それを刷り込む。まだ未解明の宇宙の始まりをビッグバンかもしれないからとりあえず覚えさせる。学ぶなんて綺麗事みたいな言葉使わなきゃいいんだ。初めから、学校は暗記をするところです、これを覚えておけば立派に人間になれますよ、だから必死こいて頭にぶち込みなさいって、そう言っときゃいいのに」
理不尽に憤慨する夢理の視線の先で噴水の水がぴしゃぴしゃ撥ねる。
「要するに、俺は『人間』って枠組みが嫌いなんだよ」
「でも、必要なことでしょ?」
「人間として生きてくならな」キミハナニモノナノカネ?
「大体、小説だって人の造ったものじゃない?」
「違う、小説は人が歩むものだよ。人は主体のようでその実は観測者にして記録者。物語は自然にして世界なんだよ。世界そのもの」
ん? なんだか会話が理解の範疇をはみ出してきた気がする。そもそも概念的な話は苦手なんだよね、普遍的に正しい答えがないものだから。私はだから数学が好きなんだな。夢理とは真逆で。それが良いことなのか悪いことかなんてわからないけど、ほんの少し寂しい。
「なんでもいいけど。授業に出なきゃ進級も卒業もできないんだから次からは出なさいよね」
今から出ろとはもう言わない。中途半端な時間だからというのもあるけれど、半分はこの時間をほんの少し特別に思う私のわがまま。悪い子なのかな私。いや、根本的に夢理の自己責任か。
「気が向いたらな。向かないと思うけど」
夢理は話は終わったとばかりに閉じかけていた本を開く。それが少し頭にきた私は食べ終わったパンの袋をわざとらしく音を立てて丸め、バッグにしまった。食べきってしまえば、デミグラスソース以外はそんなに悪くなかったな。うん、明日も挑戦してみよう。
…………。
…………。
沈黙。
よく考えたら、任務自体は失敗(戦意喪失というかそもそもどうでもいい)しているわけだから、もう私は授業にでてもいいんだよね。
沈黙。
…………。
こういう時、話を切り出すのって不思議と勇気がいる。むー、本に隠れて相手の顔が見えないとなおさら。ちなみに表紙には『白爪草』と書かれている。何かの別名だった気がするけど思い出せない。
「あのさ、くっだらない話をしてもいい?」
「本気でくだらない話ならしない方がいいだろ。ま、くだらないもんなんてそうそうないけどな」
そういわれるとこの話題、どうなのかな? 夢理は割と好きだと思うけど。
「幽霊とか、お化けとかって信じる?」
「まさかそうそう出会えない本物のくだらない話に出会うとはな。まず幽霊とお化けを同一視してる所から間違いだし、それから、『信じる?』って質問には何の意味もないぞ。俺が信じたら実在するのか?」
「そんなことはないけど。でも信じてたり信じてなかったりってあるでしょ? それによってその後の会話の展開が……いや、変わらない、かな」
「信じていることは実在の証明にはならない。信じていてもいないものはいないし、逆もしかり、いるときはいるんだ。だから俺が無理やりその質問に答えるなら、『いるかもしれないし、いないかもしれない』加えるなら『希望としてはいてほしい』。ま、これは架空といわれている存在全てにいえることだけど」
うむ、『いてほしい』か、まあそうだろう。近所の小学生がツチノコを見たというのを聞いて、三昼夜捜索に付き合わされたのは中学三年の夏。まだわりと新しい思い出だ。
それならばきっと、くだらないのはここまで。
「この学校あるんだってさ、七不思議」
「七不思議はどこにでもあるだろ、学校だからな」
「で、この新学期に入ってそれにまつわる怪現象の目撃者、というか体験者が三人。ま、雪ちゃんの話だからどこまで信憑性があるかなんてわかったもんじゃ……」
ぱさっ、と本が落ちた。しかし夢理の視線はそれを追うこともなく、今度はこちらに見開いた眼を向けている。
「本落ちたよ?」「いいんだよ、クローバーなんて」ああ、クローバーだったっけ白爪草。
「目撃者が……いるのか? つまり、起こったのか? なら信じるも何もないじゃねーか。この学校で、七不思議だぜ、怪談だぜ、奇譚だぜ、ホラーだぜ、非日常だよ、非現実だろ、非科学だよ、非普通だ。手が届く、目が届く、追うしかないじゃないか。現実の裏にある真実を、現実に現れた妄想を」
言いながら、くっくっくと堪え切れない笑いが漏れていた。
「調べて、知って、読んでやる」
夢理は立ち上がる。堂々と、まるで大きな複雑な屈強な何かに挑んでゆくように少し離れた校舎を睨みつける。そして言い放った。
「ここからは特筆すべき物語の時間だ」
夢理は嬉しそうに笑った。少年のように目をキラキラさせながら、最上級に楽しそうに、極めて幸せそうに笑む。
どうしようもないほどに自覚させられてしまう笑顔、苦しくなるほど再確認させられてしまう喜面。目を背けられない。眼を離せない。
私は、
――春風夢理のことが好きだ。これはきっと恋なのだと思う。
「じゃ、行くか」夢理が振り返る。
「え、授業に? あと十五分もないけど」まさか、あまりの衝撃で更生されてしまったのだろうか。
「そんなわけないだろ」そんなわけなかった。
夢理は荷物……というか本をバッグに纏め、入りきらない分を両手で抱えた。本の高さは本人の頭くらいまである。
「情報収集に決まってんだろ。俺には授業に出てる暇なんかないんだよ。不思議が俺を呼んでるんだからな」
「不思議云々はともかく、少なくとも授業は暇で受けるもんじゃないんだけどね」
重たそうな荷物を慎重にもって軽快に歩き出す夢理を、私はそんな軽口まがいで見送った。なんだか重いんだか軽いんだかよくわからないな、なんて思っているうちに夢理の姿は校舎の中に消えていく。
「なんで、あいつなのかな……」
誰にも聞こえないように吐いた呟きは、そもそも誰もいない中庭に静かに溶けていった。
静かに、静かに、噴水の音だけが、ぴしゃぴしゃと響き続けている。
私もそろそろ戻ろ――リロリロリーンリロリロリーン――うかと思っていたところで携帯電話が鳴る。Eメール、夢理からだ。
――ありがとな。
……べ、別にあんたが喜ぶと思って言ったわけじゃないんだからね。って思ったけど打ったりはしなかった。そんなことをしたらきっと私の中の雪ちゃんに一生笑われる。
――子供みたいなことばっかりじゃなくて、数学もしなさい。
思ってもない言葉だけは、簡単に素直にぽんと出るのだ。
「私のばーか…………あまのじゃく……」
今度の呟きも、やっぱり自然に溶けていった。
二時二十分 六限
「そもそも、七不思議ってのは一種の都市伝説なわけだ。つまり噂って媒体で広がる作り話なんだよ。それが本当に起こっていようが起こらなかろうが、なにか『種』があればそれを人が膨らませ脚色し修飾し大きくしながら伝えていく。だから大概は真実でないか、話を面白くしようとしただけのガセネタだったりするんだよな」
六時間目、国語の授業中の教室は、国語の授業中の教室でありながら賑やかで慌ただしい。クラスメイト達は学期初めで名簿順のままの座席を飛び出し、仲の良い友達とかたまって様々思い思いのことに興じているし、そもそもいなければいけないはずの教師の姿が存在していない。
黒板には『自習』の文字。
基本的には国語であろうが出席率の低い夢理も珍しいことに自分の席についていた。本人に聞いたところ理由は『一雨きそうだったから』だそうだ。まぁ、先ほどの言い分では雨でも休む時には休むらしいので、つまるところやっぱり気まぐれなのだと思う。実際、窓の外には怪しい雲が覆い始めていた。傘、持って来てたっけ? この学校はいわゆる山頂に建てられているため、天気の移り変わりが読めないのだ。まぁ、寮までそんなに距離があるわけでもないから大丈夫だろうとは思うけど。
「でも、今回は期待できるぞ」私の隣で――私の方から隣に来たのだけど――夢理が言う。
なんの話だったか……そうそう、七不思議だ。
「なんで? 今回も脚色された作り話かもしれないじゃない」
「目撃者がいたんだろ。そこの部分は日和の脚色か?」あ、そっか。確かにこの学校で、この学年で『見た』人がいるという話を聞いたから私は夢理に七不思議の話をしたのだった。噂は発生源が遠ければ遠いほど、そして時間が経てば経つほど不確かな偽物になっていく。裏返せば、近くで最近起こったと話されるものは信憑性が高いということになるのか。
……間に雪ちゃんを挟んでしまっていることに一抹の不安を感じなくもないけれど。
「しかも、七不思議だしな」
夢理が誇らしそうに言う。「どういうこと?」
「七不思議なんだよ。怪談じゃなくて七不思議。ってことは今回の件が起こる前から伝承といえば大げさだけど、まぁ噂みたいなものが存在してたってことだ。つまり、昔起こっていたかもしれないことが、また起きた。また、起きたんだ。信用してみる価値はあるだろ?」
どうだろうか。言ってしまえば七不思議なんてどこにでもあるものだから、それが本当に昔『ここ』で起きたかどうかはわからないんじゃないかとも思うけど。まぁ、そんなことは些事だよね。だって、七不思議なんて存在している可能性自体がものすごく小さくて、いうなれば百分率が1から2になるかどうかって話だし。それなら言わない方が賢明だろう。
だって夢理がすごく楽しそうだから。
「それで、情報収集ってのの結果は? 何かわかったの?」
「ああ、とりあえず『目撃者』の一人にアポ取ってきた。部活とかやってないらしいから今日の放課後には話聞けるってさ。だから今は噂の方からアプローチかけてるとこだ。日和、お前いくつ知ってる?」
いくつ。七つの不思議の内いくつ、か。
「雪ちゃんから聞いたのは三つ。その内二つが今回目撃されたっていうやつで、もう一つは昔からある噂の方のやつ。私が深く聞こうとしなかったのもあると思うけど、雪ちゃんも全部は知らないみたい」
「三つか、俺が四つだから数的には揃うけど、まあ被ってると見ていいだろうな。よし、順番に挙げるから、知っているのがあったら教えてくれ」
そう言って、夢理は制服の内ポケットから小型の手帳を取り出す。それに付属している黒ボールペンが授業に出席しない夢理の唯一の筆記用具。
「一つ目……噂では、不思議に数字が振ってあるみたいだな。うん、一つ目が『人魂』。七不思議としてはそうでもないけど、怪談としては割とポピュラーな話だ。宙に浮いた火の玉が襲ってくる、典型だな。特筆するべきなのは……その人魂、嗤うらしい」
「嗤う?」
「そ、詳しいところはよくわからないんだけどな。で、二つ目が『扉』。扉を開くと知らないどこかに繋がるって話」
これは雪ちゃんから聞いた話だ。「今回体験者が出た話だよね」
「だな、ついでにいえばアポが取れた方の話だ。詳しいとこはこれからだけど、簡単に言うと別の校舎の教室に扉が開いたらしい。不思議といえば不思議だけど、なんか地味だよな」
夢理の口調は何だかつまらなそうだった。多分、もっとわくわくするような派手な感じの不思議がよかったんだろうな。七つしかないのに、って。
「三つ目は調査中。四つ目が『合わせ鏡』だ。これに関しては完全に名前だけが独り歩きしていて実態が掴めないな。それから俺が知ってる最後五つ目、『幻想曲』って呼ばれてる。これも体験した生徒がいるな。曰くどこからともなく妙な音楽が流れてくるらしい。どう妙なのかってのがこの話の核になるんだろうけど、やっぱり直接本人に話を聞いてみないと何とも言えないよな」
夢理はそこまで話して少し考える風に手帳に目を落とした。
たった四つだけど、もう四つ。七不思議の話をしてからほんの一時間しかたっていないのにもうこれだけの情報を集めているのだ。好きなことに関してはものすごい行動力を発揮する。流石『物語喰らい』といったところか。関係なさそうだけど。
「それで、日和の方は?」
「私が聞いたのは、『扉』と『幻想曲』の他には『窓ガラス』の話。何番目とかは聞かなかったけど、えっと、確か夜に……」「夜に?」「どこかで……」「どこかで?」「ガラスが……」「ガラスが?」「どうにかなるって」「よくわからないならそう言え!」
だってなんだか悔しかったんだもん。
夢理は私のつたない説明からなんとか情報を抜きとって手帳に書き取っている。なんだか私の口から出た言葉よりたくさん書いているように見えるけどどういうこと?
「とりあえずこれで五つか、詳細はともかくある程度の方向性は見えてきたな」
夢理が楽しそうに手帳を閉じた。パタン。なんだか手帳も楽しそう。
「方向性って言うと?」
「七不思議ってのは大抵の場合七番目に秘密が隠されてるんだよ。一番ポピュラーなのは『欠番』ってやつな。誰も知らないってことなんだけど、他の六つを知ることができた人間だけが七番目の不思議に辿りつくことができる発展型のパターンも存在してる。その場合大抵はその人間か周囲に災いが降りかかるのがオチだな。あとは七つ知ると願いがかなうとか、六つの不思議を知った人間が七番目の不思議を創れるとかな」
七つで願いがかなう、そんな漫画があったような気がするけど思い出せない。猿が雲に乗って……、中国の話だっけ?
「で、この学校の場合だけど」
夢理が時計を確かめる。あ、企んでる顔。
「導いてるな」
どこに? と聞き返そうとしたところで、チャイムが鳴った。
自習という名目の休み時間をだらだらと満喫していた生徒の動きがいきなり機敏になって荷物をまとめにかかる。当然だよね。高校生の一日は放課後から始まるんだから。となりの夢理もきっと、調査にかかるために動き出しているはずだろうと振り返る。
立ちあがっていた、何故か机の上に。
「生徒諸君!」ばんっと机を靴でならして、クラスメイトの注目を夢理が集める。ざわついていた教室が一瞬でしんと静まった。足元にいる私はちょっと恥ずかしいのですが。
「最近、話題に上がっている七不思議について知っている人間はいないか? 噂、目撃情報、有力な推論、何でもいい。情報があれば教えてくれ!」
オペラ男優よろしくばっと大げさに両腕を広げて、夢理は意見を求める。それが人にものを聞く態度だろうかとも思うが、夢理はこういう場面で人の心を掴むのがうまい。旬な話題なことも手伝ってかすぐに人が集まりだした。わ、私逃げないと人波に呑まれそう。
「それ、C組の女子が見たって奴だろ」「実は八個あるって話聞いたことある」「確か三年前にも……」「春風君って彼女いるのー?」おいおい、それは違うでしょ。
なんとか教室の隅にまで避難すると、傍から眺めていたらしい雪ちゃんが近づいてきた。なんだか気持ちわるーいにやけ笑いですが大丈夫かな。
「ひーよりん、夢理クン大人気だね」
「みんな珍しモノ好きなんでしょ。めったに教室に来ないんだから」
雪ちゃんの言葉に耳を傾けながら、私も荷物の準備にかかる。自分の席が夢理から離れててよかったと思ったのはこれが初めてかも。
「人気あるんだよ、女の子に。知らなかった? 最近ファンクラブもできたのに」
な、なんですと! わ、言葉が変。
「なんであんな変態がモテるわけ?」
「え、だってカッコいいじゃん夢理クン」
「カッコ……わるくはないけど変態だよ?」本が主食の。
「変態だってカッコよければモテるよー。それに普通じゃないことは目を引くからね。なんかもうアイドルみたい」雪ちゃん目がキラキラ。しかもものすごい褒めよう。
あれ、もしかして雪ちゃんて……。
「ひよりんも、うかうかしてられないよ」
そうね、私もうかうか……どさっ。
「………………」
「………………」
えと、鞄拾わなきゃ。「なんの話?」
「気づいてないと思ってたでしょ? わかるよ、親友だもん。ひよりんの隠し事なんてなーんでもさっぱりわかってしまう雪ちゃんなのですよ」
「……さっぱりの使い方違う」よね、ワタシニホンゴクワシクナイ。
「そこじゃなーい、でしょ。つっこむところ。それともまだごまかすの?」
雪ちゃんの目がじっとこちらを見つめる。優しい眼差しなのに睨まれてるみたいに怖かった。なんでだろ。なんでなのかな。
「夢理クンのこと、好きなんでしょ?」
核心をついた問いかけ。
逃げるように、私は視線を雨粒のあたりだした窓の方に移した。三時にすらなっていない時間なのに外は雲が出ているので薄暗い。けど、あれ?
「もーひよりんてば!」
「雪ちゃんあれ、見える?」
「え、どれのこと?」
「ごめん。私、行かなきゃ」
自分の目に映ったものが信じられない。信じられないけど駆けだした。駆けださなきゃいけない気がした。
「ちょっと、ひよりん」
「ごめんね。それからあいつ、多分メンクイだから雪ちゃんみたいな子絶対好きだと思うよ。それじゃ、また明日ね」
廊下に出る。あの方向なら、特別棟か。
「ねぇー、自覚ないみたいだけどー」私を追って教室を出た雪ちゃんが声を張る。
「ひよりんだってちょーかわ――」
最後の方は角を曲がったせいで聞こえなかった。後でごめんねメール送らなきゃね。
雪ちゃんに悪いとは思いながらも、今の私は窓の向こうのそれを追いかけた。
十五時十五分 放課後
もっと配分を考えるべきだったと思う。
「こら、廊下は走るな!」「すいませーん」謝るけど、足は止まらない。
息が上がっている。体力はある方だと思っていたけど流石に全力で走れば五分と持たなかった。夢理を呼ばなくて正解だ。あいつは体力なんて欠片もないのだから。
なんども人とぶつかりそうになりながら、私は視界からそれが消えないように必死に追いかけた。
それ。雨の降りしきる校舎の外を『魚』が一匹泳いでいた。派手な黄色に青い筋の入った模様で、種類まではわからないけど多分熱帯魚なんだと思う。薄暗いのに色彩のせいか妙にはっきり浮かび上がっていて、まるで液晶に映るCGみたいに現実味のない光景だった。
現実味のない光景が当たり前のように目の前にある。
特別棟三階の端まで来て、ようやく立ち止まった。ここまで来ると周りに人の気配がなくなる。聞こえるのは雨音だけだ。見つけたの私だけ?
床から天井まである大窓に近づく。魚はそこからは逃げるわけでもなく、まるで水槽にいるときと変わらずにゆらゆらと泳いでいた。もうえらの細かな動きまで見える距離。
「キミはどこから来たのかな?」
窓に手を伸ばして聞いてみる。あれ、魚にキミって変? そもそも魚に問いかけてる私が変なのか。誰もいないから気にしないけどね。
返事の代わりに、魚がツンツンと窓をつつく。
「入りたいの?」
窓を開けた。もっと警戒するべきなのかもしれないけど、なんだろ、あんまり怖いとか危ないとかを喚起する状況じゃないんだよね。開いた先から雨粒が入ってきて床が少し濡れたけどこれぐらいなら大丈夫だと思う。
魚はひゅんと入ろうとして、けれどさっきと同じように窓際でツンツンしている。さっきよりは前に出てるけど。
「もしかして建物の中に入れな……じゃなくて雨から出られないのか」
水がなきゃだめってことなのかな。バケツ持ってこようか。
この状況なんなんだろ、びっくりして追いかけてきちゃったけど。少なくとも今目の前でツンツンしてる綺麗な魚は異常だよね。
もしかして、七不思議?
恐る恐るというわけでもないけど、そっと触れてみる。
「ふふ、キミかわいーね」
「ニャハハハハ」
何か聞こえたんですが! まさかキミじゃないよね。後ろの方から聞こえたし。不気味な、笑い声みたいだった。
振り向く。スッと何かが角を曲がった。何かはよく見えなかったけど赤くて、光ってて、まるで燃えてるみたいな。「ニャハハ」……笑った?
「人魂かな、やっぱり」
考えるより先に走り出していた。だから走り出してから考えた。
なんで私がこんなに頑張ってるんだろう。こういうのって本当は夢理の分野で、だからなんで私がこんなに走ってるのか理解できない。わからない。
けれどわくわくしている。この話をしたらきっとあいつは大よろこ「ってちがーう」そんなんじゃない。そんなことのためじゃないと信じたい。こんなものを認めてしまうくらいなら一生天の邪鬼でいいな私。
「だーもう」考えることを放棄して走ることに専念する。「ニャハハ」笑うな!
……。
「あれ?」
自分の体に急ブレーキをかけると、キュッと靴が音をたてた。湿気が多いせいかリノリウムの床が滑りやすくなってるみたい。でもそんなことはどうでもよくて、私は辺りを見渡す。
「人魂が、消えた……」見当たらない。
けれど代わりに雨音に混じって何かが聞こえてくる。何だろうこれ。ピアノみたいな、それでいて弦楽器のような打楽器のような。音は一つなのにいろんな楽器に聞こえる。時には声にも。
音楽室は五階だから、ここまで音が届くはずなんてないよね。なによりこれはもっと近くから流れている気がする。
耳を澄ますと目の前の部屋から聞こえてきていることが分かった。科学準備室。それにしても変な音。クラシックみたいになめらかなのにロックのように激しい気もする。不安定なのに心地いい。
がらっと扉を開けてみた。ん、音が……一度消えて、また聞こえだす。今度は向こうの第三資料室の方から。んー、これって。
先ほど夢理と話していたことが頭をよぎった。
「もしかして、導かれてる?」
もしそうだとしたら、一番の驚きは夢理の推理力なんじゃないだろうか。あの時点でこの状況を想像できていたのなら、もはや予知のレベルに近いと思う。本ばっかり読んでると未来のことまで読めるようになるのだろうか。
私も本、読んでみようかな。……無理か。苦手なんだよね。小説なんて読んだ日には高熱が出て寝込んじゃうかも。きっと、数学をとったら私って何も残らないんだろうなって思う。夢理から物語をとっても同じだろうけど。なんか両極端だよね、私達。
そんなことを考えながら、音を辿って何度目かの扉を開けた。
…………。
扉の向こうは廊下だった。一度閉める。えーっと、どうしよ……ここも廊下なんだけど。
繋がるはずのない空間が繋がっているということは七不思議がまた変わったのだろうか。『幻想曲』から『扉』へ。なんだか次から次へと変なことが起こっているのに、それに順応している自分にちょっとびっくりかもしれない。大丈夫かな、私まだニンゲン?
ここまできたら、もう進むしかないんじゃないかなって思う。前だけ見ていられるのは若者の特権だって誰かも言ってたし。あ、宇佐木先生だったかも。
開いた扉の、向こうにある扉をさらに開く。これが本当に正しいことなのかなんて疑問だけれど、できることはそれだけだ。それにしても、もう少し行き先を選べないものだろうか。
ここ、男子トイレなんだけど。
「もー、いい加減目的地に着けー」いくつもある個室の、その一つの扉を力いっぱい開いた。この現象がどこかに向かっているというのなら、どこかに私を導いているのなら、こんな廻りくどいことしてないで早く連れてってよね。
「わっ」強く開き過ぎて跳ね返ってきた扉にぶつかる。うー、痛い。
堪えながら頭をあげると扉があった。今までと変わらないけどこれは、見覚えがある。そりゃあ学校にあるのだから全部一度は見たことあるけれど、そんなもんじゃなく見慣れた扉。毎日毎日開く、開かされる扉。けれど今に限っては、きっと中庭には繋がっていないのだろう。
なんとなく、本当になんとなく、今までと違う気がした。次は何かが変わるような気がした。
ドアノブに手を掛ける。ひんやりと冷たくて、目が覚めるような感覚がする。それでもはっきり覚えているのだからやはりこれまでのことは夢でないらしい。
そっと回す。怖い? ううん、逆。わくわくしてる。これはずっとずっと、夢理が望んできたことだもん。それは同時に私も望んでた。そんな些細な繋がりがうれしいなんて笑っちゃうよね。でもそうなんだから仕方ない。
グッと押し開いて、
そして私は光に包まれた。
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