魔女の計算式

碇屋ペンネ

プロローグ

 

 扉があった。そっと指先で触れてみる。

 大きな大きな扉だった。僕の身長が五倍になっても、何の苦も無く通れるんじゃないかと思う。それほど大きな、豪奢な扉。周りに比べられる建造物が存在しないのが、ほんの少し残念だった。

 何ということもなく見上げると、雨が降っていた。意識をしなければ濡れることもないので今まで気が付かなかったけれど、認識したその瞬間、軽快な水の跳ねる音が心地よく僕の聴覚を刺激する。

 雨は好きだった。雨は友達を連れてくる。

「何を考えているの?」何を考えているの? と、静かに彼女の声がこだまする。

「いつも通りだよ」いつも通り、そう答えた。「君に伝える言葉を探してた」

「そう、嬉しい」答える彼女は、小さな女の子の姿をしていた。首に巻いた赤いマフラーは僕があげたものだ。あげた、と言っても編んだわけじゃなくて、僕の温度をほんの少し分けた、ただそれだけのものだけれど。

 扉の方へ向き直る。また少し、それは大きくなったような気がした。

「少し、怖いんだ。この先へ進むことが。いや、この扉に触れている今この時でさえ、それが進むことなのかどうかがわからない。それが、怖いのかもしれない」

「泣いているの?」と彼女の言葉が僕の頬を撫でる。彼女はそこから一歩も動いていないのに、その手に触れているような温もりが僕を包んだ。

「涙は見せてないはずだけど」僕はいつも通り、強がってみせる。

「それならこの雨はなにかしら?」彼女はいつも通り、そんな僕を見透かしてみせた。

 楽しげに君は首をかしげる。幼げに、或いは妖艶に。

「僕はこの世界が好きだった」例え、それが必然以外の何物でもなくても「僕にとってそれは本当に幸せなことだったと思う」

「それはよかった。その言葉一つで、あなたのいないこの世界を魔女は愛してゆけるもの」

 彼女が笑って、僕も笑った。今この瞬間だけ、世界はそれが全てだった。

 扉が開く。

「さようなら。詩的で素敵な僕の魔女」

「さようなら。全知にして全能の、やさしいやさしい始まりの神」

 扉が閉まる。

 雨がやむ。


 扉はどこにも続かない。

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