第五章 とほひつえよる

 午後四時十五分。

『こちら一班。想像以上の雨風だ。視界が悪すぎる、三メートル先も安定して見えないぞ。これじゃあ僕らの方が遭難しそうだぜ。どうぞ』

『こちらの二班も同様です。時々突風もあって、私ですら少し体が浮きあがるような感覚があります』

 佳乃さんの言葉は、否が応にも最悪の事態を連想させた。つけっぱなしにしているテレビの中では、生まれたばかりのパンダの話をするアナウンサーの後ろで風速計が秒速二五キロを示している。画面端に表示された気象図によると、こちらの地方は更に強いようだ。十歳の男の子がこの悪天候の中でどれだけ耐えられるだろうか。

 時間はあまりない。

『三班です。無線の感度は良好、ただGPSの方は少し乱れがあるようです。指示をしたら数分その場で待機をしてください』

『了解』

『わかりました』

 僕らは屋外に逃げた美角を見つけるため、三つの班に分かれた。研究所の南側、つまり僕らが建物に入った入り口側を捜索する龍磨さんが一班、裏手である北側を捜索する佳乃さんと銀色が二班、そして僕と玉緒の三班が、ゲストルームの洋室で情報集めと全体への指示を行う形だ。それぞれが風よけを施した無線通信機と、自身の位置を確認するためのGPSをもっている。

 美角が研究所のエントランスから外に出たのは、カードの履歴によると三十分ほど前のようだ。もちろん孤児院の子供である美角が自分のカードを持っているはずはなくて、履歴にはSTAFF2のカードが記録されていた。これは佳乃さんのカードだ。僕らが孤児院を出る寸前に、美角が飛び出してきたのを思い出す。あの時の意外なほどに子供らしい振る舞いは、油断を誘うためのものだったということだろうか。単に手癖が悪いでは済まされない、相当頭の切れるくそガキだ。

『まみくん、玉緒ちゃんの様子はどうだい?』小型のスピーカーが銀色の声でそう言った。

 僕は土台のついた設置型のマイクから体を離して、銀色のために用意されたベッドに腰掛けている玉緒の方を見る。あれから少し経って、どうやらパソコンと向き合える程度には回復したようだった。蒼白だった顔も、今では頬に赤みが差し始めている。

「悪くはなさそうだ。話すか?」

『いやいいよ。それより玉緒ちゃん、メガネがない方が美人だっただろ?』

 緊張感のない銀色の言葉に僕は辟易した。認めるけどな。

「いいから探せよ。冗談で笑える状況じゃないだろ?」

『ああまったくだ、もう人が死ぬなんてのはごめんだな』

 バツン、と耳障りの悪い音がして回線が切れた。

 訪れた静寂に身を委ねて、頭の中に散らばったパズルのピースを整理してみる。状況的密室、消えた容疑者、バラバラになった歩波の死体。それらを結ぶはずのいくつものピースが欠けていて、僕にはまだ絵の全体像が把握できなかった。ピースに描かれた地と図の境もぼやけていて、それはつまり事件を眺めている僕の目がゲシュタルト崩壊を起こしているのかもしれなかった。まだ、見えないものが多すぎる。

 歩波。

 そう、もし歩波がここにいたら、今目の前にある謎のいくつかは謎でなくなっていたのだろうか。

『こんなことも分からないなんて、まみくんは今まで何を読んできたのかな』笑いながら歩波がそう言って、僕は感心と呆れを同居させながら言い返す。『ファンタジーだよ。殺人なんてない平和な世界の物語』

 なんでこんなことになっちゃったんだろうな。この連休は、歩波と水族館に行く予定だったのに。佳乃さんの言うように、運命というものが決まっているとするならば、この事態は避けることのできないものだったのだろうか。僕らが水族館に行けないことは決まっていて、歩波があの瞬間あの場所で死ぬことも決められていたのか。

 或いは水族館で、歩波は他の死に方をしていたのかもしれない。考えてしまったけれど、それは考えたくもないことだった。

 僕らの辿る道筋がすでに決まっているのなら、未来の僕はこの事件に何らかの決着をつけることができているのだろうか。

 どちらにせよ、今の僕には不毛な考えだ。僕には未来は見えない。もちろん運命も見えない。

 僕は座っていた椅子から立ち上がり、玉緒のそばに寄った。僕が捜索班に入らずにこちらに残ったのは、調べたい事柄があったからだ。

「何を見ているんだ?」

 僕が声をかけると、玉緒はパソコンを半分こちらに向ける。

「王教授の部屋の前に設置したカメラに録画されていた映像をすべて確認しました。設置後、あの部屋に出入りしているのは教授と私たち五人だけです。事件直後に薫子さんを匿ったとしても、それからあの部屋を出た形跡はありませんし、私たちはあの部屋の中を確認していますから……」

「やっぱり薫子さんは消えたってことか」人が消える。そんなはずはないのに。

 隠し通路……は、ミステリールールの逸脱だったろうか。実際に事件を起こした犯人がそんなことを気にするとは思えないけどな。

「なぁ、玉緒。ケアセンターって何のことだ?」

 僕は本題に入った。調べたかったこと。僕にとって今唯一手掛かりになるかもしれない言葉。難解な事件の濁流にのまれた僕が必死につかんだ一本の藁だ。

 それが頑丈なものである事を、心の中で強く祈った。

「…………」

 玉緒はなにかを考えるように黙り込む。メガネの裏側で、視線がかすかにさまよっているように見えた。

 そういえば王教授の部屋での一件で初めて気づいたことだけれど、玉緒の瞳の色は鮮やかなライトブルーだった。銀色がいう『美人』には、そういう意味もあるのかもしれない。

「どこで、その言葉を?」

「王教授の部屋で玉緒がその……」「構いませんよ」「うん、まぁ、パニックを起こしたとき、王教授が呟いたんだ。こいつもケアセンターの子供か、って」

 もちろんそれがなんなのか、僕にはわからない。

「もし、それが僕の知らない銀色や玉緒と、王教授とのつながりであるなら教えてほしいんだ。今回の事件に関係していることかどうかは、なんともいえないけど」

 事件の全貌が見えてこない今、僕が切れるカードはこれだけだ。だけど、あながち的は外していないと思う。

 この事件の一番の謎は動機なのだから。

 なぜ巻き込まれただけの歩波が殺されたのか。

『面白そうな話をしているじゃないか』ノイズ交じりの声がもう一度スピーカーを震わせた。

 どうやらマイクのスイッチを切り忘れていたようだ。ボタンを押し続けないと発信できない捜索班の持つハンディの無線機とは違い、設置型のマイクには切り替え式の小さなレバーが付いている。それにしても、ちょっと感度良すぎるんじゃないか?

『話しちゃいなよ、玉緒ちゃん。それはある種、俺たちのトラウマを再起させる一番憎い言葉だけど、デリカシーのない真緑にはちょうどいいのかもしれないな』

 はは、と銀色はいつもの調子でニヒルに笑った。

「…………」

 玉緒はそれでも何かを躊躇するみたいに沈黙をしていたけど、それも長くは続かなかった。

 躊躇するのは、ぼくの専売特許みたいなもんだからな。

「ケアセンターというのは、正式名称を精神疾患児童トータルケアセンターといって、心に何らかの障害を抱える子供の治療を目的とした独立医療施設です。収容されていた子供たちの大半は幼年性の統合失調症の患者ですが、私のような強迫症や、通常では理解されない能力を有する人間も多数いました。治療というのは建前のようなもので、子供たちの親の目的は隔離だったのかもしれません」

 玉緒は話しながら、自身のパソコンを操作してインターネットのページを開いた。中央の窓に『精神疾患児童トータルケアセンター』と打ちこむと、すぐに大量の情報が羅列されていく。検索結果の一つをクリックすると緑色の自然林と太陽を背景とした、施設の紹介文が現れた。どうやら子供を施設に入れようと考える親に当てた案内のページのようだ。

 玉緒がゆっくりとスクロールしていくそれを、僕は必死に目で追った。


 ――精神の病というものは、自身のことを『普通の人間』或いは『健常』と考える人にとっては非常に理解しにくいものです。なぜなら、それが目に見えないものだから。

 信じなければ存在しないという点では幽霊や宇宙人と変わりません。そして、信じない人にはなぜそれを恐れるのかがわからないのです。当たり前のことですから、それを恥じたり、自身の力不足と嘆く必要はありません。むしろ、無理に理解しようとする行為は非常に危険な誤解を自身の心の中に生じさせる原因になります。これは、見えないものを見えたと思い込むのと同義なのです。

 例えば、あなたの前に重度の高所恐怖症の方がいるとしましょう。その方はあなたが見晴らしのいい展望台に上ろうと誘うと、激しい拒絶を示します。あなたはそれに共感をしようとします。或いは同情の眼差しを向けるのかもしれません。しかし、うまくはいかない。共感というのはその実、非常に主観的なものであり、あなたの想像力を超えるものを理解することはできないからです。あなたは、その高所恐怖症の方が感じているそれを、自身の感覚(高いところというのは、誰しも少しは恐怖を覚えます)に当てはめ、何十倍、何百倍にして想像し、「ああ、これは怖いな」と理解したつもりになる。けれど、あなたが理解したはずの相手はその心の中で、高いところに立つと衝動的に飛び降りたくなる強迫観念に怯え続けているのかもしれません。

 見えている世界が、違うのです。

 理解する必要はありません。お子さんがあなたの見えないものを見て怯えているのならば、何に怯えているのかではなく、怯えていること自体を理解し、そっと抱きしめればよいのです。

 もし、あなたがお子さんを受け止めきれなくなったとき、その時は当センターにご連絡をください。それもやはり、恥じる必要などありません。

 愛もまた、目に見えないものだから。

                                  センター長――


「ケアセンターは、何らかの理由で五年前に解体されたと聞いています。このページの更新も、最後は五年と八カ月前ですね」

「玉緒と銀色は、ここで出会ったのか?」

 僕の思考は、ケアセンターとここで起きたすべてのことを結びつけようとしていた。重度の先端恐怖症である玉緒、共感覚をもつ銀色、特殊な感覚を持つ子供たちを集めた孤児院。

「私がケアセンターに入所したのは、十年前のことです。社長も、ほとんど同じ時期だったと思います。社長は当時、自身の才能をまだうまく受け止めきれずにいました。そのコントロールをするために、二年間という期間を限定した形での入所を決めたのだとおっしゃっていました」

 玉緒が、銀色の共感覚を才能と表したのは意外だった。自分のことについては障害と言っていたはずだ。僕にはその違いが判らない。

「多くの子供たちは、自分がどれだけの間そこにいることになるのか知りません。また、出ることが叶わないまま、一生に幕を閉じた子供も少なくはありません。環境は整っていましたし、世話係の方たちもよくしてくれましたが、そこにいることこそが普通ではないという烙印であり、私たちにとって苦痛そのものだったのです。恵まれただけの、あれは監獄でした」

「玉緒に、家族はいないのか?」

 僕の問いに、玉緒は表情を変えずに答えた。

「私にとって、ケアセンターは四番目の孤児院だったんです。そして、それが最後でもありました。私は社長の目に留まり、こうして自由に生きることを許されています」

「自由?」

「ええ、私が社長の秘書をしているのは私の意志ですから。同時に、社長のおそばにいられることは社長のお心でもあります。それを自由と呼んでは、いけませんか?」

「いや、そういうつもりじゃないんだ。ごめん。……昔、自由という言葉について歩波と話したことがあってさ。大学に入ってすぐのころだったから、今想えば誰かの受け売りだったのかもしれないけど」

「どんな話ですか?」と玉緒が上目使いで促して、メガネの淵を外れて視線が重なった。少し安心する。どうやら僕は、自分が思うより尖ってはいないらしい。

 僕は答える。

「誰かのことを知りたいと思ったら、その人の考える自由について聞いてみたらいいっていう話。それが現在享受しているものであれ、手に入らずに求めているものであれね。それが、その人の生き方に通じている。だから……」

 歩波の言葉は、僕の心にはっきりと植えつけられている。

「だから、自由を知らない人はこの世にいても生まれてはいないし、自由を諦めた人はもう死んでいる。人生ってそういうことだって、歩波は言ってた」

 その時まで人生なんてものについて考えたこともなかった僕は終始呆けた顔をしていて、歩波の呆れたような笑顔でこの話は終わった。

 違う。

 あの時の僕は、苛烈な言葉をつかう歩波の意思の強さがどこに向かっているのかを考えていたんだ。結局僕にはわからないままだったけど。

「葉桜さんにとっての、自由とはなんですか?」玉緒が聞く。

 自嘲気味に僕は答えた。「僕にとっての自由は本を読めること、不自由は本を読めないことさ」

 それは、全てでもある。

『葉桜君』龍磨さんの声だった。『一班だ。さっきからこちらのGPSの調子が良くなくて、位置が把握できていない。そっちではどうだ?』

 僕は、握っていた小型の液晶に目を落とす。映っている情報は簡素で、自分の位置を示す三角形を中心に、緑色の円が放射状に広がって情報を更新していく。ここから三百メートルのところに二つの固まったドットが映っていて、それはつまり銀色と佳乃さんの二班のものだ。他にドットは見当たらない。

「三班です。龍磨さん、こちらでも確認できません」

『了解、この場で待機する。ま、なにもせずに棒立ちをするにはきついところだがな。反応があり次第、連絡をくれ』

 僕の返事を待たずに、通信が切れる。

 心配そうな面持ちで玉緒がこちらを見ていた。もちろん僕に対するものではなくて、おそらく龍磨さんへのものでもなくて、きっと銀色のことを考えているのだろう。液晶の中で、二つのドットは順調に僕らから離れているようだった。目的が捜索である以上、それが前進であるのかは疑問があるけれど。

 美角はなぜ、この嵐の中で研究所を抜け出したのだろうか。

 わざわざ台風の日を選んだのは追手に見つけにくくするため、というのは理解できるし、その効果は十二分に発揮されているけれど、同時にそれは自分自身をも危険にさらすことになっているはずだ。

 しかも対等じゃない。それなりの準備と体重のある銀色達と違い、着の身着のままで体も小さな美角にとって、これは自殺と同義だ。言いたくはないが、あれからそれほど時間の経っていない今ですら、まだ命がある保証はどこにもない。深い森の真ん中に立つこの建物の周りに、逃げ込める場所などありはしないのだから。

 誰が見たって明確な、愚かな行為だった。

 それでも、だ。

 僕の見立てでは美角は賢い。それだけじゃなくて、なにか計り知れない目的をもって行動をしているように僕には思えた。僕は美角じゃないからオーラは見えないけれど、どこかそう、歩波と似たなにかがあの子供にはある。

 その美角が、リスクを冒してでもこの場所から逃げる必要があったということ。

「恵まれただけの監獄、か」

 僕のちっぽけな想像力は、それをうまく教えてはくれなかった。

「葉桜さんは、」僕のつぶやきが届いたのか、玉緒が口を開く。「歩波さんの事件とケアセンターが何らかの形で結びついているとお考えなのですね」

「そうだ、と言いたいところだけど、正直にいうと他に糸口が見えていないだけなんだ。核心はない。例えば、なにかの形でケアセンターと王教授の繋がりが見えてきたりすれば……いや、それでもどこまでできるかは、わからないんだけど」

 バラバラになった歩波を見つけてから十二時間、気絶から目が覚めて八時間が経つけれど、何一つはっきりとしたものはない。自信をもって言えることは何もなかった。

 記憶の中の美角が僕を指さして笑う。意気地なし、か。本当によく見えてるよ。

「葉桜さんは、とても頑張っていると思います。きっと歩波さんも喜んでいるのではないでしょうか」それはどうだろうな。皮肉たっぷりに笑ってはいるかもしれないけど。「それに、もしかしたらここで何かわかるかもしれません」

 玉緒の指先がノートパソコンのタッチパネルの上を滑らかに移動した。連動している白い矢印が画面の中で、影を潜めるように存在している小さなアイコンを捉える。

 STAFF ONLY。

 関係者以外立ち入り禁止。

 つまり先ほどまでの一般公開されているページではなく、施設従業員が業務の中で使うページに侵入したらしい。案の定、パスワードを打ち込む無機質なウインドウが表示されて、僕らは拒絶を示される。この先は、機密や個人情報の宝庫なのだろう。もちろんこれ以上は進みようがない。

 …………ん?

「玉緒、なにをやってるんだ?」

「これは、;ks:hjwp:rhngkjfa:lpjbpojrtfojojergjohqpです。qlkjbhjrjopgjojflvjopgpja¥;hjbgなので、fhlskhvgpeqaghjorp;odfbvlkfnjvpifhvgfpojfということになります」

 断じていうけれど、これは文字化けじゃない。僕には本当に、そんな風に聞こえたんだ。

「まてまて、僕にもわかる言葉で説明できないか?」

「つまり、耳に馴染む言葉で言うならばハッキングです。パスを迂回して、リンク先のページに飛ぶためにシステムにアクセスを試みているのです」

 少なくとも僕の耳に、『ハッキング』なんて言葉は馴染まない。

 僕は次期社長の秘書というものを甘く見ていたようだ。確かにこの広い日本でトップを走る大企業が、まっとうなことだけをしてその地位を確立しているはずはないのだろう。

「そんな仕事もあるんだなー」「いえ……」

 否定された。少しだけ、玉緒のプライベートな部分が見えてきたような気がする。同時に僕は理解した。知らなくていいものというのはいつの時代のどの場所にも存在する。

「アクセスできました」

 ものの数分を要しただけで、ケアセンターの秘密を堅固に守るはずのセキュリティーはお飾りになってしまった。鍵を閉める人がいれば、開ける人がいて当然だ。

 それだけのこと……だよな?

 ふと、こんなことができるのならば僕らが今いるこの研究所の機密にもアクセスできるのではないだろうか、と思ったけれど、それは素人の浅い考えだったらしく、察したように玉緒は首を横に振る。

「私なんかのレベルでは、佳乃さんのプログラムは破れません」

「…………」少し考えて、僕はその言葉を華麗にスルーすることにした。「それで、何かわかりそうか?」

「当時の、つまり施設が解体される五年前の時点での職員名簿です。この中に、もし王教授の名前が見つかれば……」

 玉緒は細かな文字の並べられたページを、スクロールしていく。羅列されている名前の数は膨大で、ケアセンターの規模の大きさが窺いしれた。薫子さんを含めても四人しかいないこの研究所とは大違いだ。

「あ」その中で、僕の目は気になる名前を見つける。

「ありました。王 五飛……肩書は科学特別顧問になっていますね。二年前までの六年間はS大学で教鞭をとっていたわけですから、つまりそれと平行した非常勤での役職だったのでしょう」

「ごめん、玉緒。少し上に戻ってみてくれないか」

 この名簿の中に王教授の名前があったのは僥倖だった。だけど、それよりもだ。

 ずっと僕のそばにあった名前。だけど、この数日それとは全く違う響きで僕を迷宮に誘い込む名前が、他のどれとも混ざることなく圧倒的な存在感を放ちながらそこにあった。

 ありきたりな名前ではある。でも、これが偶然なら奇跡だ。

「金田一……正和」

 科学部門総監督、兼副センター長。

 と、まさにその時だった。

『こちら一班。人影を見つけた。あれは美角だ。追うぞ!』

 スピーカーがけたたましい音を上げて、龍磨さんのがなるような叫びを僕らに届けた。

 頭を必死に切り替えて、僕は手元の機械を確認する。中央の三角形以外にドットは二つ、龍磨さんのGPSはまだ映らない。

「了解です。ただ、GPSが回復していません! こちらで居場所を追うことができないので、注意してください」

『そんなこと』かまってられるか、という声が遠のいていく。

 その気持ちは痛いほどわかった。もしも大切なモノを奪われずに済むのなら……。いや、僕にはどうすることもできなかったけれど。

 僕はスイッチを切り替えて、二班にも指示を送る。

「こちら三班、たった今、龍磨さんから美角を発見したとの連絡がありました。GPSが龍磨さんの位置を見失っていて場所は特定できていません。二班は、ひとまず研究所へ戻ってください」

『見つかったのですね! よかった……』

 安堵した佳乃さんに続いて、力の抜けた銀色の声が聞こえてくる。

『すぐに戻るよ。もうこんなところはうんざりだね。玉緒ちゃん、いるかい?』

 僕は設置している土台ごと、マイクをベッドの玉緒へ向けた。「銀色からだ」

「はい」その場を動かずに、玉緒は答えた。

『玉緒ちゃん、調子はどうだい?』

「もう大丈夫です。先ほどは……申し訳ありませんでした」

『いいよ。それは仕方のないことだし、いいものも見れたしね』

「いいもの?」

『あれ、話したことなかったかな。玉緒ちゃんの悲鳴の音はE♯5。俺の一番好きなものと同じ、空色なんだぜ』

「空色?」それにきっと心当たりがなかったのだろう、玉緒はきょとんとした表情をして聞き返す。

 空色、僕には覚えがあった。本当に気障な奴だ。

『ま、すぐに戻るからホットコーヒーでも用意しておいてくれると嬉しいかもね。砂糖は二つ、それからミルクも二つ』

「社長、くれぐれもお気をつけて」

 スピーカーがははっとニヒルに笑って、通話が切りかわる。

『一班だ。無事に美角をつかま『離せよ! 離せって、龍磨のバカ、アホ、う○こ!』っだこら、黙れこんのくそガキ! ……とにかく、保護はできた。これから戻る、向こうの班にもそう伝えてくれ』

「はい、佳乃さん達ももうこちらに向かっています」GPSもようやく復活したようだ。ドットも僕らの位置からそんなに離れてはいない。「位置情報をこちらから再送するので、それを頼りに戻ってください」

『了解。それから、佳乃くんが先に研究所へ戻ったら伝えてほしいことがあるんだ。頼めるか?』

「それなら今繋ぐこともできますよ?」

『いや、せっかく帰路についているんだ。わざわざ足を止めるほどのことでもないさ。ただちょっと妙ではあるけどな』

「みょう?」頭の中で、すぐに漢字が変換できなかった。妙か、日常会話の中ではなかなか使わない言葉だ。「何か、おかしなことが?」

『ああ、どうやら美角の奴、研究所を出るときに使った佳乃くんのカードを持ってないんだ。だから佳乃くんが先に戻ったらゲストカードを用意しておいてもらおうと――』

 龍磨さんの言葉は最後まで僕の頭に入らなかった。

 美角がカードを持っていない。

 どういう……ことだ?      森の中で落とした、でも、

 それはおかしい。      いらなくなったから捨てた、だけど、

 何かが間違っている。      どこかに隠した、いや、

 そんなはずはない。      なぜ、美角は逃げ出したんだ、

 可能性はない。      どうして、嵐に飛び込んだんだ、

 誰もいない。      美角は何を求めている、

 求めてなんかいない。      探している、

 探してもいない。      なら、なにを、

 

 ――まみくん。

 

 はっとして、僕は頭を抱えた。

 目を瞑り、呼吸を止めて、耳を澄ませる。心臓の鼓動がやけにうるさい。指先を這う毛細血管までもが、僕に何かを語りかける。違う、違う、違う違うちがう、僕が捉えた音は、もっとずっとずっと遠くから聞こえてきたものだ。

 外から、語りかけてくる音だったはずだ。

 頭を振る。何かを振り払った。

 もう一度、耳に意識を集中する。

 世界に、意識を拡散する。

 

 ――まみくん。

 

「聞こえた」

 僕は扉に駆け寄って乱暴にカードを通した。二度失敗して、扉が開く。

「葉桜さん!」確かな声が聞こえた。玉緒には僕が何かおかしなものに駆られているように見えているのかもしれない。それは、正解でも不正解でもあった。真実であり幻想でもあった。

 僕は僕自身に駆られている。僕自身に突き動かされている。

 背後で扉が閉まった。

 壁に触れながら、湾曲した通路を伝うように歩く。

 廊下は白い。

 白くて、

 無機質で、

 空虚で、

 冷たい。

 その感触は無意識に、或いは確固たる悪意をもって僕にあるものを連想させた。

 そうだ。

 この無色の廊下は死体に似ている。

 体温を失い、呼吸を失い、鼓動を失い、言葉を失い、知識を失い、思考を失い、感情を失い、感動を失い、精神を失い、価値を失い、意味を失い、意義を失い、希望を失い、未来を失い、静寂のみを得た者。物。モノ。

 生物の残り香をもった静物。

 それはただひたすらに無害でありながら、漠然とした不安と不吉を僕の中にまき散らした。散るほどの容量を持たない僕の心はすでに飽和している。

 一度その感覚を覚えてしまうと、振り払うことはできなかった。

 あの、夕食と同じだ。

 まるで屍肉の上を歩くようであり、

 まるで死肉の中を進むようでもあった。

 それでも、あの声を聞いてしまった僕に足を止めることはできない。

 確かに、聞こえたはずなんだ。

 僕の名前を呼ぶ声が。

 それがたとえ存在してはならない『声』だったとしても、そのことを僕が頭の中ではっきりと理解していたとしても、足を止める理由には不十分だった。

 廊下のカーブが角度を増して、円環状につながった通路はやがて僕をもう一つのゲストルームに導く。

 あれから、

 ばらばらになった歩波を見つけてから、僕は一度もここを訪れてはいない。

 それは探偵として失格だろうか。

 あるいは恋人としてかもしれない。

 震える手で、カードを通した。音もなく扉が開く。

 あの時の、ままだ。

 銀色や佳乃さんがさんざん調査をした後だというのに、そこは僕の記憶の中にこびりついて離れない、あの景色そのままだった。

 歩波だったものの欠片があたり一面に散乱し、グロテスクな断面と焦げ跡を外気にさらしている。嵐のためか窓は閉まっていて、こもった空気すらも記憶と重なった。血の匂い、脂の匂い、微かなアルコールの匂い。

 部屋中にまき散らされている乾き始めた血液だけが、確かな時間の経過を教えてくれる。

 怖いというよりおぞましく、凄惨なそれは美しくも見えた。

「なぁ、歩波」声になる。「やっぱりミステリーなんてちっとも面白くない。人が死んだって、わくわくなんてしない。ドキドキなんてしない。歩波じゃなかったらなんて、思わないよ。例えば殺された人間が他の誰かだったとしても、僕は少しも楽しめなかっただろうから。少しは期待していたんだ。歩波がここに来るとき、本当に楽しそうな顔をしていたように、僕だって何かが起こることを心のどこかで願っていた。でも、僕も歩波も間違いだったんだ。面白い物語は偶然には起こらない。面白いということはどこまでも作為的なんだ。僕はそれに失敗した。こんなことに、なるはずじゃなかったんだ」

 返事はない。当然だ、ここには他に誰もいないのだから。

 僕を呼ぶ声も、ここにはない。

 では、僕は何を聞いたのだろうか。

 部屋を出る。

 歩き出した道はやがて二手に分かれ、エントランスに向かう大きな道に合流した。

「これは……」泥、だろうか? 真っ白な通路に反発するように、大量の水分を含んだ土や砂利が点々と床に付着していた。

 点々と、それは洋室の方に続いている。

 銀色や佳乃さんが帰ってきたにしては何かがおかしい。そのまま、部屋に戻ってきたのか? 体も拭かずに?

 いやな予感がした。

 それほど距離のない部屋までの道を走る。

 泥……足跡は扉の付近で動きを乱したように数を増やして、そして、


 開いた扉の先で、

 その胸を真っ赤に濡らしながら、

 

 宮野玉緒が静かに息絶えていた。

「あーあ、こんなに儚い姿になっちゃって……、それも見るのも嫌な刃物で刺されることになるとはね」

 それから――僕が玉緒の死体を見つけてからほんの十分とかからない間に、捜索に出ていた三人と引きずられるように連れ帰られた美角は、研究所の中に戻ってきていた。龍磨さんは「まずはこいつを縛り付けてくる」と言って美角を抱えて孤児院に向かい、佳乃さんは着替えとタオルを用意するためにそれに付き添った。

 洋室には僕と銀色だけが残り、その銀色は嵐の中から戻ったそのままの姿でベッドの脇の椅子に腰かけている。

 その目は、まだそこに玉緒がいるかのように玉緒の身体を見つめていた。胸元に力なく横たわる右腕を自分に寄せ、包み込むように両手で握る。

 慈しむようなその動作に、僕は銀色の気持ちを察しようとするのを諦めた。

 銀色の心は僕のものじゃない。

 僕の心が他の誰のものでもないことと同じように。

「玉緒ちゃんには迷惑ばかりかけたね。毎日毎日こき使ってばっかりで、俺は何一つとして返せなかった」その言葉を聞けば、玉緒はきっと反論するのだろう。けれど、玉緒の口は堅く閉ざされたままだ。

 聴き手のいない、言葉は続く。

「俺は玉緒ちゃんに未来を用意しているつもりだったんだ。もうそんなに遠くないはずだったんだぜ。見せたかったよ、俺が社長になるところ。『次期ですが』なんて馬鹿にされなくて済むくらい立派な社長にね。まさか君がいなくなって、自分が死ぬよりも後悔する日が来るとは思ってもみなかった。俺もどうしてまだまだ、何にも見えてはいないらしい」

 いらないものは山ほど見えるのになぁ、と。

「僕を責めないのか?」そう、言った。溢れたのかもしれない。胸の中にしまっておくにはそれは大きすぎたし、僕は狭すぎた。

 玉緒が死んだのは僕のせいだ。

 僕がこの場さえ離れていなければこんな結果は生まれなかったはずだ。第三班として残ったのはそのためでもあったはずなのに。

 僕は自分に突き動かされながら、自分を見失っていた。

 何も見えていなかったのは銀色じゃない僕の方なんだ。

 玉緒に対する罪悪感が膨れ上がる。僕自身に対する嫌悪感で吐き気さえもよおした。

 玉緒が死んだのは僕のせいだ。

 それは、僕が玉緒を殺したのと何も変わらない。

 僕が玉緒を殺した。 僕が玉緒を殺した。 僕が玉緒を殺した。 僕が、玉緒を殺した。

「やめてくれ」そんな僕に、銀色はそう言った。「お前を責めたら玉緒ちゃんは帰ってくるのかい? ありきたりだけどそう思うことで、今の俺は涙も怒りもこらえているんだ。野暮なこと言うなよ」

 銀色は立ち上がり、部屋の隅に備え付けられていたコーヒーメーカーに豆を入れた。確かサイフォン式というタイプのものだ。上下のフラスコが大きく膨らんでいて、中央がすぼんだ形をしている。まるで砂時計だ。僕は詳しくないけれど、コーヒー好きな歩波が部室においていたものが同じタイプのものだった。

 スイッチが入ると砂時計は微かな音を立てはじめる。

「コーヒーは俺より玉緒ちゃんが好きだったんだ。コーヒーを入れるときにはあの玉緒ちゃんが鼻歌を混じらせたりして、俺はそれを見ているのが好きだった。まったく、美人薄命というのはこの世で最も残酷な真理だよ」

 心の底からつまらなそうにつぶやく。憎しみよりも諦めの方が強いのかもしれない。

「で……、玉緒ちゃんはなんで殺されたんだ?」

 僕は少しだけ考えて、いや考えていたことをなぞって、そして答える。

「きっと、犯人を見たんだ。僕がこの部屋を飛び出して、そのあとを追って扉を出たところでこの場にいてはいけない誰かを見つけ、同時に相手にも見つかった」扉の外の足跡が、それを如実に物語っている。「玉緒は部屋の中に逃げ込んだんだ。だけど犯人も扉を開けて……、状況から推理するなら、そんなところだと思う」

「口封じか……、その結果がこれ、ね」銀色の視線の先にはぐしゃぐしゃに壊された玉緒のノートパソコンがあった。本来の形の面影がなくなるほどに破壊しつくされていて、佳乃さんに聞いたところ中身の復元は不可能らしい。その横には、真っ黒に汚れた毛布が丸まって落ちている。犯人はここで泥を落として、今度は足跡を残すことなく消えていった。

 ただ、わかったことがある。

「つまり、犯人はずっと研究所の外にいたんだ。どうやったのかはわからないけど、歩波を殺したあと、エントランスに痕跡を残すことなく外に出て、そして今、中に戻ってきた。凶器は玉緒の傷を見る限り、和室にあった脇差だ」ここに見当たらないことから察するに、今もまだ、犯人はそれをもっている。

 だけど、

 犯人はどうやって外に出たのだろうか。それをできた人間はこの研究所の中にはいなかったはずだ。カードの履歴は残っていなかった。エントランスは開いていない。

「例えば、犯人が薫子さんだったとして、だ」

 銀色の言葉を僕が引き継ぐ。

「薫子さんは和室から少なくとも一度廊下に出ているんだ。そこから……」

 もう少し、もう少しな気がする。何かを掴みかけていて、けれど、少しだけ何かが足りない。

 不揃いなパズルの絵は、確実に何かを僕らになげかけていた。

 もう、少しなんだ。

「お待たせしました」背後で扉が開く。タオルをもった佳乃さんだ。「これを使ってください」

「すいません、お借りします」銀色は手渡された大きなバスタオルを受け取って、なにかに気が付いたように続けた。「佳乃さん、タオルをもう一枚いただいてもいいですか?」

「はい、大丈夫ですよ。余分に用意してきましたから」

 それを聞くと銀色は立ち上がって、持っていたタオルを玉緒にかけた。その身体がつま先から首元まですっぽりと薄い布に収まる。そして、掛けっぱなしだった度の合わないメガネをはずして、大切に大切に胸元のポケットに入れた。

 そのままの動作で玉緒の頬をやさしくなでる。

 慈しむように。

 或いは、

 愛おしむように。


「……おやすみ」さよなら、と僕には聞こえたような気がした。


「俺は、シャワーを浴びてくることにするよ。正直言うと服の中までびしょびしょでね、気持ち悪くてたまらない。タオルは、せっかくなので向こうで使わせてもらいます」

 踵を返して、玉緒から離れる。

 きっと、銀色は泣くのだろう。それはちっとも恥ずかしいことじゃない。

 銀色は強いけれど、また正しいけれど、それだけなら幸せにはなれないのだから。

「帰ってこいよ」あの時の意趣返しのように僕がそう言うと、銀色は鼻で笑った。わかっている。僕だって心配はしていなかった。銀色は少なくとも、強くて正しいのだから。

「すぐに戻るさ。だからお前はこの事件に終止符を打て」いいながら僕の手に何かを掴ませた。「玉緒ちゃんの右手の中で見つけたものだ。硬く硬く握られていたよ。自分の身が危ないその瞬間に、命よりも優先して守りきった情報がこの中に入っているはずだ。俺にはわかるよ……そういう子だからな」

 黒いUSBメモリーだった。デザイン性の欠片もない簡素で無骨な、おそらくキャップ式であろう情報記録媒体。おそらく、とつけたのは本来ついているはずの蓋が存在していなかったからだ。精密な金属で構成された接続部が露出して、鈍く明かりを返していた。

「俺へのお別れの言葉じゃないのが、寂しくはあるけどね」嘯いて、銀色は扉のセンサーに鍵を通す。

「気をつけろよ。犯人は少なくとも今、この研究所の中にいるはずなんだ。鉢合わせになる可能性だって十分にある」

「その時は……、」

 言葉の途中で、銀色は扉の向こうへ吸い込まれるように消えていった。最後まで音にならなかったけれど、最後は音じゃなかったけれど、僕には銀色がなんと言ったのか理解できたような気がする。

 見えた、のだ。

 それは口の動きだったのかもしれない。

 もしかしたら、オーラのようなものだったのかもしれない。

 ――俺が殺す。

 やめてくれよな。

 もう人が死ぬのはこりごりだ。もう誰かが悲しむのはこりごりなんだ。

 もう、終わりにしよう。

「佳乃さん。これの中身を確かめることはできますか?」

 USBを差し出すと、佳乃さんは「もちろんです」と首を縦に振って手を腰のあたりに回した。一周するようにしてその手が戻ってくると、玉緒のものより一回り小さい――いや、二回りは小型のノートパソコンが握られていて……、

 ん、今どこから出てきたんだ? 小さいとはいえ、存在感は十分だ。僕には何もないところからいきなりあらわれたように見えた。まるで無から有を生み出したように。

「いつも、持ち歩いていたんですか?」僕が聞くと、

「能ある鷹は爪を隠すものですからね」佳乃さんは無邪気に笑った。

 その諺はこういう場面で使うものじゃないんですけどね。使うものじゃ……ないよな、後で辞書を引きなおしてみよう。

 佳乃さんは机の上にあった通信用の設置型マイクをどかして、できた空間にそっとノートパソコンを置いた。

「お預かりしますね、宮野さん」一度玉緒の方に視線をおくり、パソコンの側面にUSBの端子を差し込む。デバイスが認証されるまで少しの時間がかかって、やがて一つのファイルが開かれた。

 ファイルの中にはたった一つの画像が保存されている。

「精神疾患児童トータルケアセンター?」開かれた画像を見て、佳乃さんが首をかしげる。どうやら、こういった分野の人間ならだれでも知っているというほど知名度のあるものではないらしい。

 それはケアセンターに収容されていた児童名簿だった。

 職員名簿よりもさらに細かくさらに大量の名前の羅列が、一枚の大きな画像として保存されていたというわけだ。

 文字を読める程度まで拡大して、僕はその名前を上からなぞるように確認していく。

 玉緒はここで何かを見出したはずだ。何かを見つけた、そのはずなんだ。

 名簿は収容された年度順に並んでいる。五年前から始まって、六年前、七年前……、一年間の内にそれぞれ二十人くらいずつ、児童の名前は増えていく。

 もちろん数にはっきりとした規則性などあるはずがなく、九年前には四十人を超える子供たちがこの施設を訪れていた。

「この年は、確か大きな地震がありましたね……」佳乃さんが呟くのを聞いて、僕は思い至る。

 そうだ、あの時僕はまだ実家にいて、普段自分が絶対だと思っていた大地が揺れるのを感じて恐怖を覚えた。災害としての恐怖ではなく。信じていたものが揺らいでゆく恐怖。

 心的外傷ときいて、あれほど連想しやすいものはない。事実、僕はあれから地震が怖くてたまらないのだから。

 そして、十年前。

 東雲 銀色――素記素色覚その他、共感覚保持。

 宮野 玉緒――先端恐怖症、ランクD。

 二人の名前がそこにあった。確かな繋がりの記録。始まりの記録。

 でも、違う。これじゃないはずだ。僕はもう、この情報をもっている。

 さらに進む。佳乃さんの細い指が、キーを少しずつ叩いて画面はスクロールしていく。

 十一年前……、十二年前……、

 僕は息を呑んだ。これは、そうか。

 穴だらけだった絵に、ピースが収束していくようだった。

 隙間が埋まり、全貌が見え始める。形になったそれは、これまで見えていたものと全く違う様相を呈していて、僕は数秒間、呼吸をするのを忘れた。

 けれど思考は止まらない。

 脳は回転を続け、答えを導き、それでもまだ回転を続け、空転を続け、考えている。まるでせっかくたどり着いた結論を否定したいかのように。まるで、そんなはずはないのだと意地を張るように。傲慢に、狡猾に、答えを探し続けている。自分が望む答えを模索している。

 過去を変えようとしているようなものだ。それは神の奇跡にも、悪魔の悪戯にも似ていて、神にも悪魔にもなれない僕には不可能なことだった。

 結論は変わらない。

 結果が変わらないのだから。

 当然で、明瞭で、これ以外の可能性は存在しない。

 他の形では、二つの殺人は起こらない。

 起こり、えない。

 ゆっくりと脳は思考を止め、僕は大きく息を吐いた。

 ずいぶん、無駄なことをしたのかもしれない。

 結論を変えようとした僕の努力は無力で、その結論の正しさを決定付けることにしかならない。

 それでも、

 僕はそれを否定したくて、拒絶したくて、裏切りたくて、認めたくなくて、排して、廃して、遠ざけて、遠のけて、切って、斬って、伐って、破って、燃やして、砕いて、捨てて、忘れようとしたけれど、そのどれ一つとしてうまくいかずに僕は全てを諦めた。

 全てを諦めることにした。

 いつもそうなのだ。

 結局、僕が躊躇しているだけ。

 躊躇って留まることで、まるでそれに意味があるかのようにふるまっているだけなんだ。

 演じているだけ。

 運命というものがあるのなら、僕はそいつに抗えない。

 それほどの罪を、僕は贖えない。

 僕にできることなんて限られていて……、

 

 だから、

 僕は佳乃さんに伝えた。

「この研究所にいる全員をある場所に集めてください」

 これで終わる。

「犯人を捕まえましょう」

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