第四章 かなしやたされ
午前七時三十分。
目が覚める。というのは、それまでの自分が眠っていたことを自覚するということだ。開いた眼が薄い光を取り入れ、その微かな刺激でさえ眼球は涙で潤う。
起き上がろうとしたけれど、金縛りにあったかのように体が動かなかった。何かとてつもなく重たいものが、僕の胸の真ん中あたりに居座っているような、そんな感覚。
『どけよ』放ったつもりの言葉が、音にならない。
心だけを残して、体がマネキンにすり替わったみたいだ。
目は見える。匂いも分かる。すえた臭いと鉄臭さが混在して、二日酔いのような胸やけがあった。それでも体は反応しない。
全てが無駄なことを悟って僕は抵抗をやめた。
スべてガ、夢堕ナ、子とヲ、サ盗って、ボクハ、テイ香ヲ、病めタ。
「よ、起きたか」
目が覚める。見慣れはじめた洋室の天井が視界の中でぼやける。ひろいなぁ、と場違いにそんなことを思った。何が場違いなのかは、よくわからなかったけど。
「あの後、おまえ歩波ちゃんの腕を抱きしめたまま気を失ったんだ。まぁ、無理もないけどな」
銀色の声が、耳障りなくらいに頭の中で響いて、振り払うように起き上がった。脱力感がひどい。「身体が鉛みたいだ」
「それも、無理ないんだろうな」銀色が答える。無理もないって言葉、お前の中で流行ってるのか?
視界の隅で、銀色とは別の人影が動いた。歩波……と思ったけれど、歩波はこんなに背が高くないし、黒髪ロングでもないし、胸も大きくない。というか、胸が大きくない。
「目が覚めたらと思って、佳乃さんにミルクを用意していただいていたんです。飲みますか?」玉緒にそう聞かれて、僕は無言で頷いた。「きっと、落ち着きますよ」
まるで僕が落ち着いていないみたいだ。手渡されたミルクはホットとコールドの中間くらいで、前者よりに言えば生暖かく、後者よりに言えばぬるかった。人肌に触れるようなその感触が正直に言うと気持ち悪い。
それでもお礼は言う。「ありがとう」
玉緒がふっと、笑ったような気がした。気のせいかもな。
部屋の電気は半分落とされていて、僕の周りは苦にならない程度に暗い。
銀色は僕の座るベッドの横に椅子を置いて、向き合う形で座った。もちろん僕とだ。睨み付けるような目を一瞬向けて、今度は逸らすように天井を仰いだ。
僕はじっと、銀色が話し出すのを待つ。
長い時間が、かかったような気がした。何となくはっきりしないのは、心の感覚がまだ体に追いついていないからだろうか。
「びっくりしたよな」視線を合わせないまま、銀色が言い放つ。「シナスタジアの実験施設で、まさか実際に真っ赤になった人間を視ることになるとは思わなかったぜ」
「社長! それは失礼です。葉桜さんにも……、歩波さんにも」
玉緒は怒ったようにそう言ったけれど、僕は怒りなんてどこからも沸いてこなかった。ただ、あぁ本当にこいつには人間が赤く見えてるんだなって、頭の片隅でそんなことを思っただけだ。
「軽い冗談だよ。こういう時は少しくらいデリカシーがない方が気が楽だろ? そんなことより、とりあえずお前、シャワー浴びてこいよ」
銀色の指が僕のシャツを指して、ようやく僕は自分の状況を理解する。着ている服も、そこからはみ出した手も足も今まで眠っていた布団まで、まるでペンキをかぶったみたいに真っ赤だった。これが本当にペンキなら、きっと血を浴びたように、なんて比喩を使ったのかもしれない。
「寝てる間にどうにかしてやろうかとも思ったんだけどな。みんなそれどころじゃなかったんだ」
「いや、いいよ。ここまで運んでくれただけでも感謝してる」それに男に体をふかれるのはごめんだった。女性ならいいって、そういうことでもないけど。ん、なくないかもしれない。
立ち上がって、扉に向かう。
「帰ってこいよ」銀色の声だ。
一瞬その意味が分からなくて、足が止まる。止まった直後に、それがお前にできる最大限の気遣いなんだな、と理解した。理解して、それから困惑する。
僕は今、この扉を抜けてどこに向かおうとしてたんだ?
シャワーを浴びに?
そのはずだ。
本当に?
本当に、この足は風呂場に向かっていたのか?
ちっとも自分が汚いなんて思っていないのに、何を流すんだ?
僕の身体についた歩波を?
それとも、歩波にくっついた自分自身を?
そういえば、歩波はどこにいるんだっけ?
そうだ、
僕は眠る前、歩波に会いに行こうとしてたんだ。
それで、
そう扉を開けて、
それから歩波がいて、
でも歩波はいなくて、
あれ、だから歩波に会いに行こうとしてて、
僕は、
……僕は今どこに行こうとしてるんだっけ?
「稲田歩波は死んだ」
その声は僕らがいる部屋よりもずっとずっと小さな何かの中で、がむしゃらに反響した。
「俺たちが部屋に入った時には死んでいた。どっからどう見ても他殺だ。手も足も体も頭も何もかもがバラバラだったんだからな。でも今それはそんなに重要じゃない。大事なのは歩波ちゃんがもうどこにもいないってことだ。ちゃんとお前がそれを理解していたなら謝るよ。けどもしそうじゃないなら今、この場で認識してから部屋を出ろ」
何かの演出のような一拍。
「それでちゃんと帰ってこい」
僕は答える。
「ここに来る前……銀色達が僕らの部室に来る直前、歩波が言ったんだ。俺が殺されたら、歩波が犯人を捕まえてくれるって」
カードが手ごたえもなく滑って扉が開く。
扉をくぐるとき、吐き捨てるような声が聞こえた。
「お前の冗談は少しも面白くないな」
2
水が流れる。
僕が蛇口を捻ったからだ。
頭上に固定されたシャワーの先から大量の水が放出され、幾筋かの水流が僕の身体にあたり、肌を伝って、僕の大切なモノを伴いながら排水溝に滑り落ちていく。
抗おうとはしなかった。それが無駄なことは、今の僕の頭でもわかっていたからだ。
手で止めようとしても、指の隙間から零れ落ちていく。水を避けようにも、本当はそんなことに何の意味もないことを知ってしまっている頭は体を、都合よく動かしてはくれなかった。
僕が蛇口を捻ったからだ。
ザー、という無機質な音が頭の中を支配している。それはまるで電波を受信していないテレビを見ているみたいだった。
『ねねね、まみくん』
そんな雑音の中から、彼女の声を探す。
『例えば生まれてきたことに意味があるとして……』
――なんだよ例えばって、生まれてきた意味のない人間なんていないだろ?
『ふーん、まみくんはそれ、言い切れちゃうんだ』
――どういう意味だよ?
『幸せなんだなって』
――なんか、嫌味言われてるのか俺。
『うらやましいだけだよ。でね、そう、生まれてきたことに意味があるとして、じゃあその意味は誰がつくるの?』
――誰かがつくるものじゃないだろ。自分の生きる意味は自分で決める。誰だってそうじゃないか。
『それは、ここまで大きくなったまみくんにとってはそうだと思うよ。私も同じ。もう生きる意味を持っていて、そのために生きてる。でも私たちの持っている生きる意味って、ものすごく環境に依存していると思わない? 例えば、小学生にもなればプロ野球選手になりたいとか、アイドルになりたいとか夢をもったりするけれど、ほんとはそれって自分の中から出てきたものじゃなくて、脚光を浴びている職業に憧れてしまっているだけ』
――なんだよ。みんな人に認められたいだけで夢を持っているって言いたいのか?
『そういう側面もあるだろけど、そういう話じゃないんだよ。生きる意味が環境に依存しているとするなら、その環境に呑まれる前の赤ちゃんはどうして存在しているんだと思う?』
――そりゃあ、親が望んだんだろ。そうでなくちゃ子供は生まれないんだから。
『おやおや、まみくん矛盾してるよ。生きる意味は自分で決めるって言ったじゃない。それに望まれずに生まれてくる人なんていないっていう考え方は、やっぱり幸せ者の理想論だよ。そう思いたい気持ちはわかるけど』
――歩波は、自分がそうだって言いたいのか?
『どうかな、それはちょっとわかんない。わかんないけど半分くらいは、そんなことが言いたかったのかもね』
――歩波が生まれてきた意味は、確かに俺の中にあるよ。心配になったなら、そう思ってくれていい。
『ふふふ、また矛盾してる。それに残念。さっきも言ったでしょ、私の生きる意味はもう満席だよ。でも、そうだね。もし生まれ変われたら、その時はまみくんのために生きてあげるよ』
瞼の裏で歩波が笑う。開くのが怖かった。
そこに歩波がいないことを、僕はもうどうしようもなく理解してしまっている。
目の前に在る現実を、覆すことはできない。
「ほら見ろよ」口から出た。心からそう思った。
歩波がわくわくなんてするから、本当に人が死んじゃったじゃないか。
望んだとおりに、物語が始まった。
でも、だ。
探偵が真っ先に殺されるなんて間違ってる。
終わりを告げるはずの存在が、始まりと同時に消失するなんてありえない。
そんなの明白に、明確に、明瞭に、ミステリールールの逸脱だ。
お前が望んだ物語はこんなんじゃないだろ。
誰が終わらせればいいんだよ。
こんなに醜くて、野蛮で、卑猥で、低俗な物語を誰なら終わらせられるんだよ。
これはミステリーなんかじゃない。
とびっきりグロテスクで、惨たらしいほど歪なファンタジーだ。
蛇口を強く捻った。
―はもっと大きな水流に紛れた。
――は叩きつけるような水音にかき消された。
3
部屋に戻っても、銀色は同じ場所にいた。電気は半分消えていて、苦にならない程度に薄暗い。それも同じ。
今度は僕の方から向かい合うようにベッドに座る。
「どうする?」銀色の言葉は短かったけれど、それが今の僕に必要なすべてだった。
呼応するように答える。
「僕がやる。そんながらじゃないのはわかってるけど、歩波がやらないからな。警察は、こないんだろ?」これには確信があった。
「台風は今が一番勢力が強いらしい。どんな車両も航空機も、この嵐の中こんな辺鄙な場所には来れないそうだ、と教授は言っていたよ。けど、それが本当の理由ではないな」
「やっぱり、この研究所には何かあるってことか」教授はきっと、自身の身内が殺されたとしても、警察をこの館に招き入れるつもりはないんだろうな。そうまでして隠さなきゃいけないものがここにはある。根拠はまだないけど、それも一つ視野に入れておかなければいけない。
事件が、起きたのだから。
人が……、死んだのだから。
「わかっているとは思うが」銀色がじっとこちらを見つめる。「俺には事件を解決できるような才能はない。というよりも、事件を解決できない才能があると言った方が正しいかな。これは性質の問題だ。俺は君たちと情報量の違う世界で生きているからね、俺の内側で説明できることの半分は他のすべての人にとって根拠たり得ない。単純に共感覚保有者だからという話ではないよ。それが俺という存在なんだ。理解、できるかい?」
「お前のいうことは初めから理解なんて諦めてるよ。それに、探偵役を降りることにそんな大それた口実なんかいらない。いっただろ、それは僕がやる」
それでいいよな、歩波。
「そういうと思って、情報を集めておいたんだ。ま、例えお前が決断しなくたって押し付けるつもりだったけどな。もとよりまみくんはミステリーサークルの部員だし」
文芸部だよ僕は。読む方専門のな。あとまみくんやめろ。
「玉緒ちゃん」銀色が声をかけて、玉緒が脇に抱えていたノートパソコンを僕の方へ向けて開いた。
「事件現場の状況と事件以前の研究所内にいた方々の情報を入力してあります」
キーボードを叩く玉緒の手は、微かに震えているようだった。それはそうだよな。人の死んだ現場を調査したのだから。長いこと失神していた情けない僕に、笑える権利なんてどこにもない。
「遺体を発見したのは、私と歩波さんに割り当てられていた和室です。間取りは二四畳、床は畳で扉が一つと直接外につながる小さな窓が二か所設置されています。これは覚えていらっしゃいますよね?」
「当たり前だろ、何度も僕らはあそこに集まったんだから」そう答えてから、僕はようやく玉緒の真意に気が付く。当然のことを聞いたのは僕の記憶を確かめるためではなく、意識が正常に機能しているかを確認したのか。「大丈夫、今の僕は落ち着いてるよ」
「では、続けます。発見当時、遺体は部屋中に散らばっており、その上で各部位が燃え上がっていました。畳は燃えにくく、壁も内装は和式でしたがその裏は金属製の板で囲まれていたため、炎は部屋の中でのみ広がり、時間の経過とともに収まりました」玉緒の中指がタンッとキーをはじく。「こちらが各部位の詳細な配置です」
画面には間をおかずにモノクロの図が表示された。部屋の外縁を表す四角い枠の中に黒い斑点が散らばり、小さな文字で各部の名称が添えられている。その簡略化された図形でも、あの凄惨な現場を思い起こすには十分だった。思わず顔を背ける。
遺体という代名詞が、僕の中で歩波と直結したからなのかもしれない。
「お前が見れないなら、俺がすべて読み上げてやろうか?」
銀色に首を振って、もう一度視線を画面に向ける。「そろそろ慣れないと、これからやっていけないさ」
ばらばらに配置されたドットは全部で十個。僕の見つけた左腕を示す点は部屋の中央にある。記憶の通りだ。そして部屋を四つの区画に分けた場合、扉のある右手前のブロックには右手と二つに分かれた左足、左の手前にはこれまた二つに分かれた右足、左奥の窓際に胴体とその中身が広範囲にわたって散乱し、右奥には頭部らしき肉片が三つになってそれぞれ離れたところで見つかったということらしい。
「胴体には中央に、凶器とみられる日本刀が突き立っていました。状況から見て、間違いなく部屋の中にあった鎧兜と一緒にあったものです」
玉緒が補足を加える。
込み上げる吐き気を抑えるために、僕は情報を情報として慎重に脳内で処理した。高校の理科の実験で使った配線図を丸暗記したときのように、機械的にインプットを行う。そうだ、あの部屋には兜が飾ってあって、歩波が興味を示していた日本刀が添えられていた。確か長刀と脇差の二本だ。
「短い方の刀は、部屋の中からは見つかりませんでした。おそらく犯人が持ち出したものと思われます」
「この情報、どうやって集めたんだ? まさか玉緒が全部……」
「ほとんどは俺と、それから佳乃さんだ。入力処理は玉緒ちゃんに任せたが、バラバラになった遺体を数えたのも検分したのもほぼ佳乃さんだと言っていい、俺は雑務さ。ちなみに、頭部の損傷は特にひどかった。正直なところ誰なのか特定できなかったと言い換えてもいい……が、お前はどう思う?」
銀色のいいたいことはわかる。それは希望だ。のどから手が出るほど欲しい、すがりたい可能性。けれど、わかってるんだ。それはもう僕の手ではつかめない。
「あれは歩波だよ。俺が歩波の腕を間違えるはずがないだろ」そういえば、彼女のつけていた指輪は今はどこにあるのだろう? まだ回収されていないのだろうか。
「まぁ、そうだろうな。あの特徴的なマニキュアなら俺でも間違えない」
「残念ですが、概算で各部位を組み合わせた遺体の身長は推定約一五〇センチ弱、この館にいる人物でそれに見合うのは――」
「いいんだ、もうちゃんとわかってる」僕は玉緒の言葉を遮った。「あんまり僕をいじめてくれるなよ」
僕は持っていたカップに口を付ける。一度冷め始めたミルクは、氷のような冷たさで、僕の頭を覚醒させた。その様子を見て玉緒が続ける。
「各部はアルコールをかけられたうえで火をつけられていました。遺体表面が……完全に焼け爛れていたことから、火をつけてから時間がたっていたことがわかります」
「七二度のフレーバード・ウォッカか……」
「よく、ご存知でしたね」
「歩波からの最後のメールで薫子さんと飲んでいる写真が送られてきたからな。それに昨日、いやもう一昨日か、情けない話だけど僕はあれで意識をなくしてる」
つまりあれは薫子さんのお酒だってことだよな。そう可燃性の高い液体が転がっているはずはないし。
「細かく切られて、そのあと焼かれたわけだ。とすると……」含みのある口調で銀色が呟く。「理由はなんだ?」
ふっと、頭に一昨日の会話がフラッシュバックした。まさか食べるためでは、ないよな。
「そういえば、薫子さんはどうしてるんだ?」
「それは、」僕の質問に何かを言いかけた玉緒を遮るように銀色がパソコンに手を伸ばす。
「これは、佳乃さんからもらったコピーデータだ。外部のセキュリティー会社にまで問い合わせてくれたらしい」
ディスプレイに新たなウィンドウが表示される。まるで列車のダイヤのように時刻の羅列された、これまた無機質なデータだった。
「発見時間周辺の和室のカードキーの履歴、転じて入出記録になります。詳しくは聞きませんでしたが、佳乃さんによるとこのデータをごまかすことはできないそうです」
「俺たちが夕食を食べたのは、定刻の七時。それ以前はぴんぴんしている歩波ちゃんを俺たち全員が見ているわけだからそこまでを除外し、玉緒ちゃんと証言を組み合わせたのがこっちだ」
銀色がキーを叩いてタブを切り替える。今度は文系の僕にでも馴染みやすい文章ファイルだ。
・夕食後、八時二五分 歩波と玉緒が入室。
・八時三二分 薫子が大量のお酒を持ち込んで入室。
・八時四九分 玉緒がシャワールームへ向かうため退室。
・九時五二分 薫子が退出。
・十時二八分 真緑が死体発見。
「これだけ、なのか?」一瞬拍子抜けして、僕は銀色を問いただす。
「これだけ、だ。もっと複雑ならよかったのにと、俺でも思うよ」銀色の視線は画面に落ちたままだ。「それで、何がわかる?」
何がって、「それを、本当にきいてるのか?」
僕の頭は、無意識に論理学の授業を思い出していた。
容疑者が三人いて、それぞれをA・B・Cと呼ぶ。彼らの証言は食い違っていて、Aの言葉を信じれば他の二人が犯人だが、Bの言葉を信じればCは無実、そしてCは自分が犯人だと訴える。誰かが嘘をついていて、少なくとも一人は犯人だ。これらの条件を記号化し、関係性で結び、まるで計算式のように並び替えて犯人を割り出す。物語から物語性を奪う、僕にとっては退屈な授業だった。
「この表が本当なら」記号化も計算式も必要ない。「犯人になりえる人間は一人しかいない」
部屋に沈黙が落ちた。これまでのモノとは質の違う、思考を止めた停滞。
僕に言われるまでもない。銀色にも玉緒にも、この結論がわかっていたはずだ。その上で僕に犯人を捜せと言ったことが、どうにも腑に落ちなかった。
「言いたいことは俺にもわかる。だがここは慎重になろう」数瞬もの時間を殺して、銀色が口を開いた。「考えを聞かせてくれよ」
僕は苛立ちを覚えながら、それでも冷静であろうと努力をした。僕だって、本当に彼女が犯人だなんて信じたくはない。だけど、状況のすべてが僕にそう語りかけているようにしか思えなかった。
「まず、」ゆっくりと言葉を選ぶ。「犯行が行われたのは玉緒が退出し、僕らと一緒に死体を見つけた八時四九分から十時二八分までの間だ。その時間、部屋の中にいたのは歩波と、それから薫子さんだけ。そして薫子さんは九時五二分に部屋を出ている」
一拍置きながら、僕はあの畳の部屋を思い出す。凄惨な犯行現場になったあとではなく、僕らが初めて和室に入った時のことだ。
「あの部屋も、他の部屋と同じでカードを使わないと開閉できない扉が一つあるだけだ。この建物の中にしては珍しく二つもある窓も、人が通れる大きさじゃないし、位置も高い。だとすれば……」
ほんの少しだけ、躊躇した。
「つまり、九時五二分から十時二八分まで密室だったんだ。歩波はその前に殺されている。それができたのは、薫子さんだけだ。……もちろん、玉緒を信じるならだけど」
そう添えたのは、前提を確認するくらいの意味合いで、だからそんなに深く考えてなんてなかった。
「玉緒ちゃんが嘘をついていると思っているのかい?」
言葉だけなら、それはいつもどおりだった。だけど、銀色の両目はまっすぐに僕を捉えて逸らすのを許さない。
「そういうつもりじゃない、ただ――」
「玉緒ちゃんには無理だよ」僕の言葉はあまりにも簡単に遮られた。「例え、必要に迫られたとしてもね。玉緒ちゃんには不可能だ」
「やめてください!」矛先を向けられた玉緒が叫ぶ。「歩波さんは久しぶりにできた友人です。私のことは構いませんが、私たちの関係を侮辱しないでください。真緑さんも、社長も」
歩波を失って、苦しいのは僕だけじゃなかったことに気が付いて、僕は自分の言葉を恥じた。
僕らはもう、友達だったのか。僕の関係性への疎さは筋金入りらしい。
「ありがとう」玉緒にそう言うと、彼女は何も言わずに首を縦に振った。どう伝わったのかはわからなかったけれど、きっとどんな解釈をされても間違いじゃないと思う。
思考を、もとに戻す。
「とにかく、状況証拠から導き出せるのは、歩波を殺せたのが薫子さんだけだってことだ。薫子さんは、今どこにいるんだ?」
「どこにも」
「は?」銀色の答えは端的で、理解が追い付かなかった。
「どこにもいないんだ。あれから、建物内のどこを探しても見当たらない。カードの履歴もあの和室を出たのが最後だ。つまり、お前の推理に載せて考えるのなら、薫子さんは歩波ちゃんを殺害したあと、研究所の廊下に出てふわっと姿をくらました。カードを使わずに入れる孤児院の方は龍磨さんと佳乃さんにくまなく探してもらったよ」
「王教授の部屋は?」あそこなら、教授の承認があれば誰でも入れるはずだ。
「教授は否定しているよ。当然だな。肯定すれば共犯だ。念のために、俺と玉緒ちゃん以外の誰にも知らせずに、教授の部屋の前に小さな監視カメラを置いてきた。もし、あそこに入ったのだとすれば」銀色がキーボード端のコントロールキーを二回叩く。「部屋を出るとここに映る」
モノクロの映像だった。画像は粗いが、これなら通る人影が誰なのかくらいは特定できそうだ。上部には録画を表すRECの赤文字が点滅している。
「ただ俺は、ここに薫子さんはいないんじゃないかと思ってる」
「おいおい、言ってることが矛盾してるぞ。教授の部屋以外、どこにもいなかったんだろ?」
「いいや、俺はここも含めてどこにもいないと言ったんだ。事件後の、王教授の狼狽え方は尋常じゃなかった。特に薫子さんが行方不明と聞いてからはな。あれは、演技だとは思えなかった。あの人は、そんなに器用な人間じゃない」
「じゃあ、……薫子さんはどこにいったんだ?」
「さぁな、消えたんじゃないか?」
そんなはずはなかった。人は勝手に消えたりはしない。それは、人間が質量をもつ物体だからだ。たとえ死んでも、体は残る。歩波のように。
「真緑さんが目を覚ますまで、集まれる人間、つまり社長、私、王教授、佳乃さん、龍磨さんで一度、話をしたんです。意見は三つに分かれました。歩波さんを殺した薫子さんがこの研究所のどこかに潜伏しているというのが多数派で、それを否定する王教授と結論を急ぎたくない佳乃さんという構図です」
「もし、犯人が薫子さんだったら、こんなことを言うのもなんだが、大したことはないんだ。どこかに潜伏している薫子さんからうまく身を守ればいい。ただ、もし王教授の望みが真実だった場合……、厄介なことになる。さっき真緑が証明した通りさ、これは一転して不可解な密室殺人に早変わりだ」
どうだい、探偵君? と銀色は茶化すように続ける。それを、あえて僕は否定しなかった。やらなくてはいけないこととして、それは正論だったからだ。それに、世界と隔絶されたこの研究所で、もはや肩書きなんて何の意味も持たない。
考える。バラバラになった遺体。消えた容疑者。カードがなければ入れない現場。
正直なところ、まだなにもわからなかった。それは結局のところ、例え薫子さんが教授の部屋で見つかったとしても、同じことなのかもしれない。一番不可解なのは、どうして歩波が殺されたのかということだ。どうして歩波が殺されなければいけなかったのか。
「不確定なことが多すぎるな。今の段階で何かを決めつけるのは危険だと思う」
ははっといつもの調子で銀色が笑った。「案外、向いてるんじゃないか?」
「僕よりもっと、向いてる奴がいたんだよ」死んじゃったけど。
心の中の軽口で、僕は自分をごまかした。今は立ち止まれない。
歩波なら、これくらいの事件はさっと解決して見せたのだろうか。もしかしたら、魂だけの姿になっても、キラキラした目で事件を眺めているのかもしれない。魂という存在に僕は懐疑的だったけれど、今はそんな希薄な概念にすらも寄りかかっていたかった。
「とにかく、他の人の話も聞いてみよう。その前に、今手に入れられる情報はもうないか?」
「玉緒ちゃん」と銀色がいうと、玉緒は画面に新しいページを表示した。「これは、事件後の和室内にあった荷物リストだ。事件前にあったものまではさすがに把握しきれていないが、俺たちで発見したときに存在していたものはすべて記載している。これを作るのも大変だったんだぜ、なにせ部屋の中はそれこそ台風が通った後みたいにぐちゃぐちゃに散乱していたんだからな」
リストは三ページ分ぎっしりと埋められていた。スクロールしながら、ゆっくりと思いだす。あの部屋にはじめからあったもの。僕達が持ち込んだもの。思い起こせば、短いけれど楽しかった記憶が、確かにあの場所にはあった。
「俺たちが確認した中で、目立ってなくなっているのは凶器の脇差ぐらいだ。他のものは散らばってはいたが大きな変化は――」
「足りない」銀色の言葉を、今度は僕が遮った。足りないんだ。あるべきはずのもの。確かに、あの場所にあったもの。
「まさか歩波ちゃんのバッグの中身まで全部完璧に把握してたのか?」
「いや、バッグの中身は関係ないんだ。必要なものは全部あるように見えるし、そうでないものまでは、わかるはずがないしな」
僕はゆっくりと呼吸をしながら、ディスプレイから目を離す。
「ないのは歩波が持ってきていたスポーツバッグ、それ自体だよ」
4
時計の針が昼の二時を回るのを待って、僕ら三人は二階の孤児院に向かった。確かこの時間は、子供たちのお昼寝タイムだったはずだ。
真っ白な壁に設置された指紋センサーに触れる。インターホンで子供たちを起こしてしまうのではないかと心配したけれど、どうやらそれは杞憂だったらしい。
「わかりやすいように『鳴る』なんて言葉を使ったけれど、インターホンとは名ばかりでね。センサーが反応すると、中にいる僕か佳乃くんのカードに内蔵されたバイブレーションが作動するんだ。もちろんここから出ているときには反応しない。こんなことばかり、ハイテクなのもちょっとどうかと思うんだけどね」
扉をくぐると龍磨さんは自嘲気味にそう言って、奥の部屋を指し示した。
「この先が佳乃くんの部屋だ。僕の知る限りの情報は彼女に伝えてある。僕はまだ仕事が残っていて、ゆっくり話はできないんだ。わるいな。実験や研究ならいくらでも手を止められるが、子供たちの腹を空かせっぱなしにしておくわけにはいかないからな」
「ありがとうございます」
「意外と……、あ、いや、こんなことを言うのもなんだが、思ったよりも冷静だな」
呟くようにそう添えて、返事を待たずに、龍磨さんは別の部屋へと消えていった。
冷静、なのだろうか。僕には今の自分が抜け殻のように感じられていた。中にあったはずの感情を、どこか遠くに置き忘れてしまったような感覚だ。都合はよかった。ただ、言葉にならない焦燥感と不安が、空っぽの箱を埋めつくしていた。
銀色が、扉を三回叩く。
「どうぞ」と短く返事が聞こえて、僕らは部屋の中に入った。
佳乃さんの部屋は、女性の部屋のイメージには不釣り合いなほど大型のコンピューターが設置されていること以外は普通の部屋だった。いくつかの本棚と、中央には向かい合ったソファー、僕には親しみ深い部屋だ。ただ本棚の中身は研究書や論文ばかりで、僕の興味をそそる類のものはなさそうだった。
佳乃さんに促されて、ソファーに座る。僕たち三人と、佳乃さんが向かい合う形だ。
「私は平気だって言ったんですけど、龍磨くんが仕事は任せて休めってきかなくて、変なところで紳士なんですよ。おかげでちょっとした軟禁状態です」
佳乃さんは初めにそう口にして、力なく笑った。
「謙遜することはないですよ。佳乃さんがいなければ、俺たちは何もできなかったんですから」
銀色がいたずらに視線を僕に向ける。
それを無視して、僕は話を切り出した。
「あの部屋を調べてくれたのは、佳乃さんなんですよね?」もちろん、犯行現場になった和室のことだ。
「はい。あんな形で遺体を見るのは初めてだったけれど、昔、少しだけ司法解剖をお手伝いさせていただいていた時期があって、死体と向き合うことは多かったから」
「え、佳乃さんは医学を学んでいたんですか?」てっきり、教授と同じ工学関係の人だと思っていたけど。
「私も、それから龍磨くんも、もとは医学部生だったんです。コンピューターはほとんど趣味の範疇で、一昨日薫子さんもおっしゃっていましたけど、私がここに選ばれたのは料理の腕を見染められたようなものなんです。でも博士にとって都合はよかったんですよ。必要だったのは調理係と孤児院の世話係で、ある程度の医学知識と情報処理の力がある私たちは適任だったのだと思います」
つまり、佳乃さんや龍磨さんは王教授の専門分野とは違うところから集められてきた人たちなのか。佳乃さんの言葉には説得力があるけれど、何かが引っかかるような気がした。だって、料理やコンピューターの腕なら、同じ分野の人間でも探そうと思えばできたはずだ。
王教授は、研究を最初から最後まで一人でするつもりだったのだろうか。
「教授に、研究の上での協力者はいないんですか? その、作業の部分でなくて」
「いますよ」佳乃さんの顔が不意に曇った。「薫子さんはそういった意味でも、教授のパートナーなんです。今は、どこにいるのかわかりませんけど」
ふと思い立って、僕は玉緒を覗いた。すぐに反応が返ってきて、僕はため息をついた。教授の部屋に、まだ動きはない。
だから、僕は話を戻すことにした。子供たちが起きるまで、そんなに時間は長くないはずだ。
「佳乃さんを疑っているわけではないんです。そもそも、歩波が殺された時間には、僕と一緒にいましたからね。ただ、犯行時刻の皆さんの行動を把握しておきたいんです。あの後、食堂で僕と別れてから、佳乃さんはどこにいたんですか?」
「あの後は、すぐにお風呂に行きました。入れ違いに宮野さんと会って、少しお話をしました」
「あの時にお話したのは、」と切り出した玉緒を、佳乃さんが片手で制した。
「乙女と乙女の秘密ですよ」だそうだ。この二人の秘密か。普段なら興味深いけど、今は深く尋ねる気にはならなかった。十中八九関係ないしな。
「それから、お風呂場を出て、ここに帰ってくる途中で、事件の知らせを聞いてすぐにゲストルームに向かいました」
僕と別れてからすぐにお風呂場に行ったのなら、佳乃さんはあの和室に一切近づけなかったことになる。もちろん人を殺す時間も、それをバラバラにする時間もない。
わかっていたことだけれど、佳乃さんはこの事件に関係はない。だからこそ、聞けることはあるはずだ。頭の中の情報を整理しながら、めぐらせる。
「カードキーについて、外部のセキュリティー会社と連絡を取ってくれたと聞いたんですが」
僕は一度言葉を切って、胸ポケットの中に入れていたカードを取り出す。表面にはGUESTの文字と数字の4が大きく刻まれている。歩波のカードは3だ。玉緒の作ってくれたリストの中に並んでいたから、カードはきっとあの部屋の中にあるのだろう。
「このカードの警報システムについて、聞いてもいいですか?」
「それはいなくなってしまった薫子さんの居場所を特定するために、ですか? それとも……」
「両方です。今の段階では、何らかのトリックによる密室殺人の可能性も視野に入れています。ただ、聞いたところで、僕なんかがそれを見破れるかどうかはわかりませんけど」
少し考えるようにして、佳乃さんは渋るように口を開いた。
「一応、他の人には教えないようにと言われているんですけど、こうなってしまっては話さないわけにはいきませんよね。それに近いうちにシステムそのものを入れ替えることになると思うので……、というのは、このセキュリティーが非常に脆弱なものだったからです」
秘密にしてくださいね、と一度僕ら三人を見回して、佳乃さんが説明を始める。
「まず、前提としてこの研究所に入る人間には必ずこのカードが渡されます。つまり、所内にいる人間はみんなカードを所持しているのです。例外はこの孤児院の子供たちだけですが、あの子たちはこの孤児院から出ることができません。例え出れたとしても、今度はカードがないと開かない扉に阻まれることになります。そしてこの扉ですが、カードを通すと開き、開いている間にその扉の中を二枚のカードが通ると警報が鳴ります。これで、中に入った人間を常に把握しておくことができる、ということなのですが、」
「ということは、カードを持たずに通れば警報は鳴らないということじゃないか?」割り込むように銀色が質問をした。
確かにその通りだ。セキュリティーがカードの方に反応するのなら、カードをもっていない人間なら、誰かが開けた扉を簡単に素通りすることができる。
「そうなんです。一度知ってしまうと、本当にシンプルで弱いシステムなんです。ただ、このことを知っていた人はこの研究所の中には私も含めて一人もいなかったはずです。それに警報が鳴ったことはこの研究所が設立されたときから、一度もありません」
つまり、このセキュリティーシステムは人間の心理の穴をついた設計になっていたわけだ。カードがなければ開かない扉と言われれば、カードを持たずに移動することはまずない。そして仮に誰かが抜けた扉をカードなしにくぐることができても、システムの仕組みを知らない人間には、それで警報が鳴らない保証はどこにもないわけだ。カードは信頼、という言葉を借りるならその一回が失敗に終われば、ここから追放される。誰にも試せなかったはずだ。
「結果として、このセキュリティーは機能していたということですよね。そうすると佳乃さんは、今薫子さんはどこにいると考えていますか?」
「それは……、わかりません。本当に消えてしまったようにしか思えないんです」
「ふわっとな」銀色がおどけるように付け足した。
「すいません。お役に立てなくて」済まなそうに告げる佳乃さんに僕はやんわりと否定を示したけれど、結局何もつかめていないことは自覚していた。
わからないということが、わかっただけだ。
いくつものピースが、僕の手元には足りていなかった。
「あの、今回のことに関係があるのかどうかは、わからないんですけど」次の手を考えて無言になっていた僕に、佳乃さんが自信なさそうに話し始めた。
「噂話を耳にしたことがあるんです。知り合いの研究者からなんですけど、この研究所は恨みを買っていて、いつか殺人鬼がやってくるって。その人も又聞きだったみたいで、詳しくは聞けなかったんですけど。突拍子もない話ですから、ずっと気に留めていませんでした。ただ暗黙の了解みたいなものがあって、この話は薫子さんの前ですることがタブーになっていました」
「殺人鬼、ですか」大げさな言い回しも、今の状況では少しも笑えない。
記憶の中であの気持ちの悪い脅迫状が呼び起こされる。
「ええ。名前が、」嫌な予感がした。「確か……金田一、と呼ばれていました」
運命の歯車がかみ合う音が、僕の耳元で微かに響いた。
5
「今の教授の状態では、私が一緒でも部屋に入れてはもらえないかもしれませんが……」
佳乃さんはそういうけれど、僕らが王教授に会うには彼女に頼るしかなかった。教授の状態という言葉が不安をあおる。けれど、今の僕らにできることは王教授の話を聞くこと、そして薫子さんの所在を掴むことだけだ。
結果はどうあれ、うまくいけばそれらは一度に達成される。
佳乃さんの部屋を出ると、小さな影が横切って佳乃さんに飛びついた。
「おい、こら!」と遅れて龍磨さんが駆け寄ってきて、僕らを見たとたん脱力したように呟いた。「こんの、くそガキが」
「よしのー、助けて。龍磨がいじめる」
佳乃さんの腰のあたりに抱きつくようにしているその後姿には見覚えがあった。
「美角くん、お薬の時間でしょ? 龍磨くんも、あんまり怖がらせないでください」
「いやいや、僕は何にもしてないだろ。何が怖いってんだ」
「……ちゅーしゃき」
「玉緒ちゃん、俺たちは先に出ていようか」「わ、社長」
佳乃さんの前では子供っぽい様子をみせる美角もそうだけど、逃げるように玉緒の手を引いて孤児院を出ようとする銀色が意外だった。なんだこいつ、まさか注射が嫌いなのか? 銀色の雰囲気だと、もしかしたら子供が苦手なのかもしれないけど。
扉だけ開けてもらい、美角の薬の投与だけ済ませてくるという佳乃さんを残して僕らは孤児院を出た。
僕と銀色と玉緒。こうして三人でいることに、今更ながらに違和感がある。まるで大切な何かの居場所をつくるように、僕らでできた三角形は歪で不安定だった。
誰もが誰とも目を合わせることなく、色の薄い世界に身をゆだねている。
「もしも、だ」銀色が沈黙を破った。「これから行く教授の部屋で、薫子さんに会えたらどうする?」
それは僕の頭の中にある、確かなもやもやとぴったり重なった。合わない視線の先で、僕らは同じものを見ていたのかもしれない。それがいいことなのかどうかは、わからないけど。
「歩波ならどうするかってずっと考えてたんだ。まだ、答えは出ない」
玉緒は何も言わずに、よく見えていない瞳を僕に向けていた。
「お待たせしました。では、行きましょうか」
心なしか重い足取りの佳乃さんについて、教授の部屋へ向かう。その間に玉緒のパソコンで確認をしてみたけれど、様子に変化はなかった。小型のディスプレイは相変わらず真っ白な廊下を映し出している。やがて、カメラが四人の人影を捉えたところで、僕らは立ち止まった。
扉の様子は二日前と何も変わらない。
一呼吸を置いて、佳乃さんが扉の脇にあるセンサーに掌を添えた。ピッという単調な音がして、扉の中央にあるランプが赤から黄色に変わる。
『何をしにきた』
スピーカーから発せられるしわがれた声は一言でそれとわかるほど敵意に満ちていて、先頭に立っていた佳乃さんの肩がびくっと震えた。他者から向けられる怒りは、理不尽であればあるほど怖い。それは、知ることを武器とする人間だからこそのものなのかもしれないと、ふと思った。
「桂井です。事件についての話を聞きたいという要望がありましたので、東雲様、宮野様、葉桜様をお連れしました」
『そうか、しかし私は君たちに用がない。こんなことになっては実験をしている場合でもないだろう。そして用もないのにこの部屋に人を入れる義理もない。みすみす殺人鬼を入れてしまうことになりかねんからな』
王教授の声は、僕が想像していたよりも落ち着いている。でもそれだけだ。むき出しの悪意は内にある不安と怯えを象徴しているように僕には思えた。
「ですが……」
『帰りたまえ』佳乃さんの言葉をぴしゃりとはねのける。
短い言葉は頑なで、短いからこそ隙がない。だけど、ここですごすご帰るわけにはいかなかった。それに、教授のこの反応は想定の範囲内だ。
「僕たちは」扉に向けて声を張る。「今回の事件の犯人を薫子さんだと断定しています」
もちろんはったりだけど、勝算はあった。答えはすぐに返ってくる。『そんなはずがない』
それを聞いて、今度は銀色が一気に責め立てた。
「では、部屋に入れていただきましょう。まずは、教授が事件に関係ないことを証明してください」
『…………』
「できませんか? 薫子さんを匿っているから」
少しの間があって、無音でランプの色が青に変わった。ゆっくりと扉が開いて、深淵のような暗闇が姿を見せる。失礼します、と形だけのあいさつを経て、僕らは部屋の中央にぼんやりと浮かぶモニターの明かりをたよりに中に入った。
「そこまでだ」教授の声が響いて、部屋がぱっと明るくなる。異様に白いその空間は、汚れた僕たちに対する、教授の敵意そのもののようだ。
「それ以上近づけば、こちらにも考えがある」僕らは扉から数歩のところでとまる。
モニターに囲まれた教授の手には小さなナイフが握られていた。自己防衛、のつもりなのかもしれないが、これだけの人数を相手に、その細く短い刃物は心もとなく映った。
「どうやら、この部屋に薫子さんはいないようですね」銀色が言う。
「当たり前だ。昨晩もそう言ったと思うがね。それに、薫子は犯人ではない」
教授はじっとこちらを見据えていた。どこか確信的で、裏の読めない表情だ。
「教授は昨夜の食事のあと、この部屋で俺と実験に関する話し合いをしましたね。ここを出てから現場までのルートは実質一本で、俺が遺体を発見するまでの五分の間に教授が部屋を出た様子はありませんでした。つまり、あの犯行を行ったのが教授でないことはわかっています。しかしその一連の流れがアリバイ作りであり、実際に歩波ちゃんを殺した薫子さんを教授が何らかの形で匿っているのならば話は別です」
「ばかばかしい。私があんな小娘一人を殺したところで何の得があるというのかね?」
「それは、俺たちに窺い知ることはできないでしょう。しかし、想像するくらいならできます。よほど許せないことがあったか、なにかの障害になってしまったか、或いは……知られてはいけないことを、知られてしまったか」
明らかにかまをかける銀色の物言いに、教授の表情はさらに厳しくなっていった。だけど、想像していたような焦りの色は見えない。あるのは抑えた言葉の裏に隠した激しい憤りだけだ。
王教授も事件に関係がない、のだろうか。
「東雲君が何を求めてそのような陳腐な探りを入れてくるのかは理解しようとも思わんが、私に知られてはいけないようなことなどありはしない」
「では、薫子さんにはあるのですか?」
「いいかげんにしたまえ!」怒声が響いた。「君たちはどうしても薫子を犯人にしたいようだがそんなはずはない。絶対にありえない!」
教授はダンっと机を叩いて僕らを威嚇する。銀色から聞いたとおりだった。教授に何かを隠しているような様子はない。薫子さんが犯人でないと信じきっているように、僕にも見えた。
「根拠はあるんですか?」それでも銀色はまだ煽る。怒りにまかせた言動で、何かぼろが出るかもしれないし、何も出なかったとすれば教授が薫子さんの居場所を知らないことへの信憑性が高まるだけだ。
「根拠? 根拠だと?」
「ええ、薫子さんの居場所は教授も知らないのでしょう。それでは薫子さんが犯行を行っていないなどと誰にも言えないはずです。しかし、教授は大層自信をお持ちだ。それには理由があるのではないですか?」
「ふざけるな! お前には薫子が、人を殺しバラバラに引き裂いて燃やす殺人鬼に見えるとでもいうのか!」
それは答えとしては本当に拙い、支離滅裂なものだった。論理学のテストなら赤点だ。だけど、そう言い切れる言葉の奥には、薫子さんとの深いつながりが見えるような気がした。信頼と言い換えてもいいのかもしれない。
「科学者としては三流のお答えですね。それとも、教授には犯人の目星がついているのでしょうか?」
「もちろんだ」一切の間をおかずに教授はそう言った。「私は初めからそこのメガネが怪しいと思っている」
睨むような視線を向けられた玉緒が肩を強張らせた。それでも歪んだレンズの先で、まっすぐに教授を見つめている。
「死体が見つかる前、最後に和室を出たのは薫子のようだが薫子は犯人ではない。だとすれば必然的にその前に出入りしていたそのメガネが怪しいではないか」
教授が言葉を区切って、今度は僕を見た。
「葉桜君、君は一度も考えなかったのか? 君の愛するものを殺したのも、斬ったのも、焼いたのもすぐそばにいるお嬢さんじゃないか。なぜ疑わない。なぜ信じる。どうして安心してともに行動をしていられるのだろう。犯人はそいつだ。もう一度聞こう、君は、考えなかったのか?」
「玉緒ちゃんにそんなことはできないよ」その言葉は僕が何かを発するよりも、或いは何かを考えるよりも早かった。「玉緒ちゃんには絶対に無理だ」
「ほら見ろ! お前のいうことにこそ何の根拠もないではないか!」
銀色の言葉に激高した教授が、玉緒に向けて詰め寄った。庇おうとして前に出た銀色の頬を振り回されたナイフが浅くかすめる。一瞬反応が遅れた事でそれを免れた僕は、ナイフを持つ右手だけに狙いを定めて掴みあげた。教授の手を離れて落下する刃物を見たその時、僕は油断していたのかもしれない。教授が力任せに僕と銀色を振り払って、玉緒を突き飛ばした。
「薫子をどこにやったんだ! 今すぐに返せ、この殺人鬼が!」
倒れた玉緒に罵声を浴びせている教授を、僕は今度こそがっちりと捕まえる。何度かの抵抗を試みて、教授は暴れるのをやめた。インドア派の僕でも、さすがに六十代の老人に力で負けたりはしない。
年をとったから強いわけじゃない。年をとったから偉いわけでもない。
勘違いしている人は多いけど。
力や権威をひけらかす人間は、年をとっていればとっているほど醜く映る。
僕は跳ね飛ばされた玉緒の様子を確認しようと視線をあげて、この場に起こっている異変に気が付いた。
「あ……あ、うあ……あぁ……うぅ、んぁ」
まるで嗚咽のような、言葉にならない声をあげて玉緒が震えていた。暴力によるショックとは違う。異常とも取れるくらいに顔をひきつらせて怯えている。
「う……あぐ…………あ、うぅ……」
玉緒の右手は、落したメガネを探すように床の上をさまよっていた。やがてその視線が教授が落としたナイフを捉えて、そして固まる。
「あ……、いや……、あ……、きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
玉緒の口から、つんざくような叫び声が溢れだした。大型のアンプがハウリングを起こしたような甲高い音が空間を塗りつぶす。
何が起こっているのかわからなかった。僕も、教授も、一人難を逃れた佳乃さんでさえ動き出すことができない。その異様な空間の中で、ようやく起き上った銀色が落ちていたメガネを拾って玉緒に近づいた。両肩を掴むようにして、玉緒の顔を自分に向ける。
「玉緒ちゃん、俺の目を見るんだ。ほらよく見て、ここに二つある。焦らなくていいよ。意識をして呼吸をするんだ」
「あっ、あぁぁ、う、うあぁ……」
「そう、じっと見つめて。うん、それじゃあゆっくりと、瞼を落とすんだ。ゆっくりでいい」
玉緒が少しずつ、落ち着きを取り戻しているのがわかった。震える体を自分で抑えるように両手を交差して肩に回した。その手は銀色と重なっている。
「ゆっくり息を吐いて……、はい」ひょんと、拾っていたメガネを銀色が玉緒の耳にかけた。「ちょっと休んでなよ」
だれもが呆気にとられて、なにも発することができないまま事態を見守っていた。これは、なんだ?
「驚かせちゃったね」と銀色は、いつもの調子でそう言った。「玉緒ちゃんは先端恐怖症なんだ。それも、度の合わないメガネで常に視界をぼかしていないと立っていられないほど重度のね」
玉緒の肩はまだ小刻みに揺れていた。
先端恐怖症。さすがにそれくらいは、僕の浅い知識でもわかる。先の尖ったものを視界に入れることでパニック状態を引きおこす、世界的にも数の多いポピュラーな障害の一つだ。それでも、その症状を目の当たりにするのは初めてだった。
僕の頭の中で、二人と初めて出会った日の記憶がフラッシュバックする。何気なく歩波が玉緒に向けたシャーペンを、銀色が思い切り弾いたのは、僕らにとってはなんでもないその切っ先が容易に精神的動揺の引き金になるからだったのか。役に立たないメガネも、実際は通常の視力をもつ瞳に入る景色を歪ませるためのものだった。
「びっくりしたかい?」銀色が僕に近づいてそう言った。
「ああ、ちょっとな」
「精神的な障害の感覚を、障害を持たない人間が共有することは難しいよ。まぁ、そういう意味では俺の共感覚と同じさ。玉緒ちゃんの言葉を借りるなら、先端恐怖症になると何か尖ったものを見た瞬間頭の中に、あるイメージが喚起されるらしい。イメージの中でその物体は自分の眼球に押し付けられ、タンパク質でできた薄い球体は容易に破れて中身をぶちまけることになる。想像することはできるけど。それを感覚として知ることは俺にも不可能だ」
「感覚として?」
「そ。障害の程度にもよるけれど、玉緒ちゃんの場合には頭に映像が流れるわけじゃなく、実際に自分の身体がその感覚を喚起して体験させるんだ。発作が起きると、肉の膜に冷たい金属が割って入る感覚が何度も何度もリピートされる。それを知ってしまうと、実際に何かが目を貫いてしまうだけの方がよっぽど楽に聞こえるよ」
銀色は床に横たわるナイフを拾って、力いっぱい壁に突き立てた。
「わかったかい? 玉緒ちゃんにあんな殺し方はできない。なにせ、日本刀を持つことすらできないんだからな」
誰も、否定することができなかった。否定の余地などあるはずもなかった。ついさっきまで喚き散らしていた教授も、今は放心したように虚空を見つめて微かに何かを呟いている。
教授が無意識に発している言葉に、耳を傾けていたそのときだった。部屋の端に無色のまま置かれていたランプが黄色く点灯し、真っ白な壁を淡く色づける。
『教授、失礼いたします。佳乃くん緊急事態だ! 美角が逃げた』
龍磨さんの焦りが、スピーカー越しに伝わった。
『それも、どうやら今回は研究所の外まで出たみたいなんだ』
意識の外側から、叩きつけるような雨音が聞こえたような気がした。
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