第三章 りめにみせをへ

 宇宙人に侵略された。

 手が三本ある黒い塊や、僕の二倍の身長で目が三つのやつ、毛むくじゃらで顔中口だらけなのとかわけのわからないモノが、僕の周りをぐるりと囲って、じっとこちらを見つめている。目がないやつも半分くらいいたけれど、『見つめている』ように僕には思えた。

 宇宙人。もしかしたら本当は地底人かもしれないし、異世界人かもしれないし、或いは幽霊みたいなものなのかもしれない。宇宙人と表現したのは、ただそれがしっくりきただけだ。

 僕は自分の身体を確かめようとして、左手を太陽にかざした。

 指が五本ある。親指は他より太くて短い。中指が一番長くて、その次が人差し指、小指が一番短かった。僕の知っている人間の特徴だ。薬指の付け根が陽の光をきらりと反射するのを見て安心する。これは僕が僕である証拠。

 指が五本あれば人間で、僕には指が五本あって、だから僕は人間だった。三段論法万々歳だ。

 僕は自分と同じ『人間』を探して辺りを見回した。

 見回したけれど、やっぱり宇宙人ばかりだ。赤いのとか、青いのとか、統一感のない異物の群れに辟易してくる。僕のほかに、指が五本あるやつはいなかった。

「まみ君」突然後ろから声がして、僕は振り返った。よく知っている顔がすぐ近くで、周りの宇宙人と同じようにこちらを見つめている。

「歩波」そう呼んだ。彼女の薬指には僕のと同じ、シルバーの指輪がはまっていた。大丈夫、これは間違いなく歩波。

「やー、やっちゃったよまみ君。あたたた」そう言って歩波は僕に、これまで右手で半分押さえていた左手の掌をこちらに向けた。「怪我しちゃった」

 親指と中指がどこかにいっていた。一応数えてみる。一、二、三……。裸になった白いカルシウムを含めても四本しかない。

 あれ、あれれれれ? 混乱する。

 指が五本あれば人間で、歩波には指が四本しかなくて、だから歩波は……。

 前提が違ったのかもしれない。

 きっと人間かどうかは髪の毛で決まるんだな。そうだ、頭から髪が生えているのが人間だった。こんな大事なことを忘れるなんて、僕はどうかしていたんじゃないだろうか。

 辺りを見回す。歩波は、頭から髪が生えていた。歩波は人間だ。ん、その横にいる奴も頭から髪が生えている。首から下は蛇だけど。その二つ隣のやつも頭には髪がある。というか頭しかないけれど。人間ってこんなのだったかな。

「何を探しているの?」歩波が不思議そうに、僕に聞く。

「何って、人間だよ。僕らの仲間を探してるんだ」

「たくさんいるじゃない。私たちの周りに」歩波が欠けた指で辺りを指す。

「いないだろ。宇宙人ばっかりだ」地底人とか、異世界人かも知れないけど。

「宇宙人? もしかして、この子たちのこと?」

「ほかに何がいるんだよ。こんなグロテスクな奴らが人間なはずないだろ」

「ふーん、まみ君には私たちと違うものが見えてるのかな」寂しいね、銀色君。と歩波が僕の後ろに向かって問いかける。

「面白いな。じゃあ俺たちのことはどんな風に見えてるんだ?」振り向くと、カエルがしゃべっていた。巨大なカエル。まだ成長しきれていないのか、尻の方にはオタマジャクシのような尾っぽが見えた。

「銀色、なのか?」

「難しい問いだな。俺が本当に俺なのかという命題について、解答する知恵を俺は持たないよ。むしろお前の方が専門なんじゃないか、文学部?」カエルが、いつもの銀色の調子で茶化すようにしゃべる。カエルだよな? あれ、もしかして人間って緑で口が大きくて、いやいや、あれは間違いなくカエルだ。指は三本だし、水かきもある。でもそれは関係、ないんだっけ。

「どうした、蛇に睨まれたカエルみたいな顔して」カエルに睨まれてるんだよ、僕は。

 見えている世界が……違う、のか。

 これが世界の本来の姿なのだとしたら、それなら僕の前にあったフィルターはどこにいったんだよ。

 同じだったはずの僕らのクオリアが……ずれて……歪んで……雪崩れて……壊れて……。

「私から見たら、まみ君の方が宇宙人だよ」

 ずれて……歪んで……雪崩れて……壊れて……。



 午前十時二十分。

「……という夢を見たんだ」まだ、頭が痛い。十中八九お酒のせいだ。

「ふーん」歩波は大した興味もなさそうにほい、と左手を僕の目の前に広げた。手の甲がこちらに向いている。近すぎて、ピントが合わない。

「何本に見える?」「菓子パン男が五人ほど」「ん、せいじょーせいじょー」

 歩波は、ガラスに向き直った。本当に、僕の夢には関心がないらしい。それもそうかと、僕も思う。厚いガラスの向こうでは、実験が始まるところだった。

『昨夜はよく眠れたかね』スピーカー越しに王教授のかすれ声が聞こえてくる。もちろんこちらに向けられた言葉ではなかった。四角い箱の中で交わされる会話に、僕らは耳を澄ませる。

『休ませていただきましたよ。これからは、そうもいかないでしょうから』皮肉交じりの銀色の返事もアンプを通して僕らに届いた。二人の首元には、指向性の小型マイクがつけられている。

『ふむ、では始めるとしようか。桂井クン』教授の号令に、佳乃さんが「はい」と答えた。佳乃さんはこちら側の部屋の中で、大きなコンピューターを触っている。どうやら、銀色の正面にある大きなスクリーンを佳乃さんが操るようだ。それに、記録係も兼ねているのかもしれない。

 一瞬、ガラス越しに銀色と目があったような気がした。そんなはずはないのだけれど。こちらからは透明なガラスでも、銀色にとっては自分の姿を反射する巨大な鏡のはずだ。すぐにまた目線は外れて、正面に戻る。

『赤』唐突に銀色がそう言った。

 スクリーンは僕たちからは見えないので、佳乃さんの操るモニターを横から覗いてみる。画面の中には大きく《あ》と入力されていた。フォントカラーは指定なし、つまりデフォルトである黒だ。誰が見ても変わらない純粋な黒。

 佳乃さんが文字を消して、同じように《い》を表示させる。

『黄色』スピーカーが答える。『ちょっと濃いめかな』

「少し飛ばしてみましょうか」佳乃さんが独りごとみたいにそう言って、キーボードを続けざまに叩いた。

 銀色の反応は早い。

『か、は暗い赤。き、は茶色混じりの緑。く、は黒に近い緑。け、は水色。こ、は……薄めたヤクルトみたいな……なんていうんだこれ、乳白色?』

『ふむ、桂井クン。カラーコード表を頼む』

 教授がそう言い終わる前にモニターの端に細分化された色彩表が表示された。向こうの部屋のスクリーンでも同じことが起こっているはずだ。

 僕は佳乃さんの仕事の速さに驚いた。それを感じ取ったのか、「コンピューターくらいしか、誇れることがありませんから」と自嘲気味に佳乃さんが笑う。もちろん謙遜だ。料理ができて、仕事ができて、さらに言えばこんなに綺麗で、胸もそこそこ……(横からの視線が痛いので以下自重)。

「……歩波、愛してる」

「急にどうしたのかな。取り繕っているみたいだよ。やましいことでもあるのかな。そうなのかな」冷や汗がつー、とこめかみ辺りを流れた。この部屋、空気悪くないか?

 その後も数回、文字に関する記録を取った。途中で、表示されるフォントの色が変わる。黒から、僕らにも見える黄色へ。それでも銀色は《あ》と表示されれば『赤』と答え、《こ》ならば『ヤクルト』とぞんざいに言った。それはその後、表示されるものが単語、文章になっても変わらず、使うフォントカラーが十二色を超えても同じだった。

 銀色の共感覚を信じてなかったわけじゃない。けれど、目の前の光景は不思議以外の何物でもなかった。銀色はあのスクリーンのなかに、間違いなく僕とは違うものを見ている。

 僕とは違うもの。夢の中で僕がそうであったように、銀色は周りの人間が宇宙人に見えたりするのだろうか。

 同じ作業の繰り返しにそろそろ銀色のこめかみがぴくぴくしてきたところで、これまでじっと眺めていた王教授が口を開いた。

『いいだろう。ここまでの結果は以前のものと寸分も狂いがない。色の呼称については多少変化しているがね。これは表現の問題だ。感覚の受容とは無関係とみることができる』満足そうな表情で続ける。『ここからが今回の実験の本題だ。そろそろ君も文字ばかりで飽きてきたことだろう』

 王教授がマジックミラー越しにこちらへ視線をおくる。すぐに佳乃さんがキーボードを操作して、モニターの中にいくつも枠が現れた。詳しくはわからないけれど、スクリーンに表示させないこれまでとは別の窓が用意されたらしい。一拍置いて佳乃さんが単発で強くキーを叩く。

『水色』隣の部屋で、銀色がそう言った。

 画面に表示されているのはアルファベットの《C》だ。けれどこの文字はスクリーンとリンクしているところではなく、先ほど作られた新しい窓に小さく存在しているだけだ。

「どういうことですか?」疑問はすぐに口をついて出た。

 佳乃さんがはっとした顔をする。「すいません。こちらの部屋で出力するのを忘れていましたね」といって、画面端のアイコンを操作してボリュームを上げた。

 別のキーが打たれる。

 今度は、部屋の中にピアノの鍵盤を押し込んだような音が鳴った。変化のない単調な音。モニターには《D》と表示されている。

『薄黄色』

「そっか、音階なんだ。ドイツ式の」

 歩波の言葉で僕にも合点がいった。日本で一般的に使われるドレミファソラシドの音の表記は、国際的にはドイツ式のCDEFGABを使われる場合が多い。初めて聞くと違和感があるけれど、そもそもドレミはイタリア式で日本は古来ハニホヘトイロを使っていたと日本文化史の授業で教授が話していたな。どんな文脈でそうなったのかは全く覚えていないけれど。

「ということは銀色は音も色つきで聞こえる、というか……見えるんですか?」

「共感覚の保持者の中には感覚の重複を複数持っている人も少なくありません。東雲さんのことを書記素色覚と呼ぶのは単にそれが一番強いからという理由だけなんです。正直なところ、我々もその全てを把握しきれていません。この実験はそれをモニターするためのものなんです」

 佳乃さんは話しながらも、順にキーを打っていく。決して音楽とは言えない耳障りな音が部屋に響いて、その都度銀色が見た色を答える。

『桃色』

「社長は、」ずっと存在感を消していた玉緒が不意に呟いた。「社長は人間もさまざまな色を伴って見えていたと言っていました。お母さんは黄色。お父さんは群青。けれど自分だけは普通の肌色が服を纏ったものにしか映らなかった。自分だけが違うということは社長にとって恐怖だったんです。緑になりたい、が社長の口癖でした」

 分厚いレンズとガラス越しに、玉緒はじっと銀色を見つめている。あくまで平坦な表情で。けれどその内側に秘めている想いは僕には想像できない。二人の繋がりが、まだ見えてこない。

「昔の話、なんだよね?」歩波が聞いた。「人間がいろんな色に見えるのって」

「そうですね」肯定がすぐに返ってきて、それに呼応するように部屋に単調な音が響く。

『真紅』銀色の声も平坦だ。

「今ではもう、全ての人間が真っ赤に染まって見えるそうです」



 十二時きっかりに、実験は休憩を迎えた。

 昼食は佳乃さんが用意してくれたサンドイッチを各自の部屋でとることになり、僕らゲスト四人は昨日のように和室に集まった。とはいっても銀色は終始不機嫌で、『実験』という言葉でも出そうものなら目から光線でも繰り出しそうなほど睨みつけてきたので、無難な世間話で時間はすぐに過ぎてしまった。外の嵐が研究所周辺の地域で停滞していること、歩波がマヨネーズのかかったスクランブルエッグを食べられないこと、銀色があれから密かにトランプの勝ち方を玉緒に尋ねていたこと。

 正直なところ聞いてみたいことはたくさんある。けれど、それらについて銀色に聞くことはしなかった。僕も、それから歩波も、したくなかった。きっと好奇心で触れていいものではないことを知っていたんだと思う。

「さて、そろそろ俺は実験室に戻るとするか」銀色が気だるそうに立ち上がった。

「社長様はやる気満々みたいだな」皮肉交じりで、僕が返事をする。

「お前のジョークは面白くないぞ。俺にとっては強制送還だよ。けど、時間には厳しいからな」

「へぇ、あの王教授がね。ちょっと意外だ」

「俺のことだよ」あーそーかい……、つくづく真面目な奴だ。

「君らはどうする? 俺の勇姿をのぞき見していくかい?」

「やめとくよ」興味はあるけどな。「ちょっと調べたいことがあるんだ。歩波も来るだろ?」

「ん、いーよ。面白ければ何でもね。たまちゃんは?」

「私は、社長についていきます。仕事ですから。……残念ながら」「玉緒ちゃん? ねぇ、玉緒ちゃん?」

 澄ました表情を崩さない玉緒の真意は、レンズに歪められて僕にははっきりわからなかった。銀色には、どうなんだろうな。

「本当に付き合ってないのかな、この二人。やっぱり怪しい」小さな声でそう言った歩波に、僕はそれより小さな声で返事をした。「いいんじゃないか。どっちでも」

 関係に名前なんて、本来あるべきものじゃないんだろうから。

「なぁ、銀色。ちょっと聞きたいことがある」扉にカードを通そうとしていた手が止まる。

「大事なことか?」気だるそうな声で銀色が返事をした。

「ああ」今の今まで忘れてたけどな。「昨日の夜、薫子さんと話したんだ。彼女は僕らがこの研究所を怪しんでいることを知っていた」

「そんな顔してたもんね」歩波がこともなさげに言う。そんな顔って、どんな顔のことだろう。きっと歩波もよくわかってないのだろう。

「まぁ、想定の範囲内だな。何か言ってたか?」

「嗅ぎまわられて困るものは何もないとさ」

「嗅ぎまわる許可を得たわけだ」まーそういう見方もある……のか? 素直な一般庶民の僕には想像もできなかった見解だ。普通の学生に、そこまで都合のいい受け取り方ができたら大問題だろうけど。

 ピッと電子音がして銀色が扉をくぐる。

「最後に一つ!」僕の声で振り向いた銀色は、自分の左腕に締めた腕時計を三回軽くたたいた。

 『じ・か・ん』か。わかってるよ。だから僕は手短に、本当ならその時計を製造モデルから内部構造まで事細かに描写したい気持ちを振り切って伝える。

「銀色お前、この研究所の関係者に『KMS』のことをほんの少しでも話したことがあるか?」



「さっきのアレ、どういうこと?」

 さて、この歩波の問いかけに僕はどうやって答えるべきだろうか。

 時間は二時を少し過ぎた頃。

 研究所内の廊下の壁はどこまで行っても平坦な白色で、それは今僕らが踏みしめているモノが階段であっても同じことだった。蛍光灯の光が多面的に細部を照らして遠近感を狂わせ、まるで地に足がついていないような錯覚が常に付きまとう。

 階段の横幅は広くて、こうして歩波と横に並んでいてもそれぞれが腕を広げることができそうなほどだ。距離は長い。きっと、この緩やかな段差のためだろう。うちの大学の駐輪場の階段もこうだったなら、僕はもう少し積極的に勉学に勤しめるのかもしれない。もちろん戯言だけど。

「今、全っ然違うこと考えてるでしょ?」歩波が睨みつけてくる。僕は防御が一段階下がった。そんな気がした。

「なんの、話だったっけ?」

「だーかーら、さっきのアレ」

「あー、それね。とぼけてるわけじゃ……ないんだけど」できれば話したくない話題だった。さっきがさっきでアレがアレなら、もちろん昨日のアレも話さなくてはいけなくなるのだから。

「まみくん、ストップ」ガシッと肩を掴まれて、僕が言葉に反応する前に体に急制動がかかる。慣性を完全に無視した無理のある動きだったと思う。具体的に言うとかなり痛い。

 歩波と目があった。比較的大きな瞳が磨き抜かれた宝石のような光を宿して僕を見つめている。

「今日も綺麗だよ、歩波」

「昨日はお風呂あがりに大人の女の人の部屋でお酒飲んで楽しくおしゃべりしてましたって顔してるよ。まみくん」

「顔を、顔を洗いにいかせてください!」器用すぎるだろ、僕の表情筋。

「で、何があったの?」

「な、なにもなかったよ」おい、僕! そこで動揺したら何かあったみたいじゃないか。

「ふーむ、まみくんもお年頃ってことかー」納得した風に、歩波はすたすた段をのぼる。けど、声音に反してオーラが怖い。ものすごく怖い。

 すでに隠すものなんてないけれど、これはちゃんと話しておいた方がいいな。

「通りがかりに、薫子さんに部屋へ招かれたんだ。七十度を超える強烈なお酒を飲まされて、僕はすぐに意識を失った。話自体もさっき銀色に言ったことでほぼ全てだよ。もちろん、それ以外は何もなかった」

 ふーん、と歩波が相槌を打つ。それだけ。

「それでさ。意識を失う直前に『金田一』って言葉を聞いた気がしたんだ。正直、本当に聞いたかどうかも自信がないけど。少なくとも、この研究所で僕らは『金田一ミステリーサークル』の名前を出したことはない。僕と歩波はただの心理学に関心のある学生で銀色の友人だからだ。それで銀色に聞いてみたんだ。この研究所の関係者に『KMS』のことを話したことがあるかって」

「だけど、答えはノーだった、ってことか……」歩波が今度はこちらを向いて反応を見せる。歩波の機嫌を直すのは簡単だった。ミステリーの匂いをほんの少しでも醸し出せれば、僕の勝ちだ。

「それって、つまり……まみくんの思い過ごしじゃなかったら、私たちがここへ来たのが偶然じゃないかもしれないわけだよね」

「決めつけるのは、ちょっと強引かもしれないけどな。金田一、なんてよくある名前だし」

「偶然を疑わずしてなにが探偵かね、ワトソンくん」歩波は探偵だったんだな。僕は医者じゃないけど。

 階段は終点を迎えていた。三メートル四方の踊り場で、僕らは足を止める。白い床と白い壁の延長に、ただただ白い扉がそびえていた。

「それで、この大きな扉はどこに繋がっているの?」歩波がきく。

「休日に二人だけでいられるこの空間が恋しい?」僕もきく。

 歩波は頬を赤らめることもなく「まぁ、ちょっとね」と答えた。「でも、いーよ。今はもっと大切な、運命みたいなものに導かれてるような気がする」

「運命か。詩的だな」僕との時間より大切か、少し複雑。別にかまわないけど。

 僕は扉を開けるためにカードキーを取り出した……けど、あれ? カードを通す溝が見当たらない。試しに唯一それらしいところにカードの端を押し当ててみたけれど、三ミリと入らずにメチッと嫌な音を立てただけだった。

「それはさすがに、ただの壁の継ぎ目だと思うよ。まみくん」わかったから、それ以上は言わないでください。恥ずかし!

 そんな風に僕が今世紀十五番目くらいの赤っ恥をかいているうちに、扉は向こう側から開かれることになった。当然僕の努力が報われたわけではなく、扉からひょっこりと顔を出した男性、昨夜の食事中に広間に入ってきたもう一人のこの研究所の所員、笹倉龍磨さんのおかげだった。

「やぁ、遅かったね。聞いていた時間に来ないから、所内で迷ったのかと思って出てみたんだ。君らが、『研究に興味のある学生さん』だろ?」

「遅れてすいません。カードリーダーが見当たらなくて」

「おや、説明されていなかったのかな。研究室側のこの扉は所長室と同じで指紋認証じゃないと開かないんだ。そこに認証盤があるだろ」龍磨さんが、親指でくいっと扉の脇を指す。

 小さなガラス窓の向こうに小型のカメラがうっすらと確認できる。もちろん初めから気付いてはいたけれど、リーダーを探していた僕はそれに目を留めることはなかった。先入観って恐ろしい。

「で、登録されていない人間の指紋が認証されると、中でインターホンが鳴るわけだ。君たちの表情を見ると佳乃くんが伝え忘れていたんだろうな。彼女らしいよ。学生時代、僕らのゼミでは彼女、おっちょこ佳乃って呼ばれてたんだぜ。あ、これ彼女には内緒な」

 龍磨さんは大柄な男性で年齢は四十代前半くらいに見えた。佳乃さんと同じ学生時代を過ごしたということは歳もそんなに変わらないのだろう。佳乃さん年齢不詳だけど。見た目釣り合ってないしな。

「佳乃さん、なんでもできる印象がありました」率直に思ったことを言ってみる。

「それはまだ、君たちが彼女のことをよく知らないからだよ。好きなことなら人の何倍も上手くできる人間だからな。でもそれだけだ。興味のないことはからっきし、そういうところは博士に似ているかもな」

「うーん、想像できない」歩波がうなった。僕も同感だ。

「ま、佳乃くんの話は本人にでも聞いてみなよ。見学にきたんだろ。案内するよ」

 龍磨さんに促されて、僕と歩波は扉をくぐる。

「ここは……?」

「孤児院」歩波の問いかけに龍磨さんが答えた。「共感覚をもった孤児を博士が集めてここで育てているんだ。教育もしている。僕と佳乃くんの仕事の半分はここの子供たちの世話係なんだよ」

 リノリウムの床と壁、木製の内装、少し暗めの蛍光灯。いったいこの建物の中にはいくつの建築様敷が取り入れられているのだろう。僕らが踏み入れた新たな区画はさながら小学校のような雰囲気の柔らかい空間だった。記憶の中の懐かしい感覚が呼びさまされる。

 ただ四方のどこにも窓がないことが異様で、息苦しいような圧迫感を覚えた。子供サイズの机やいすもそれらを助長しているのかもしれない。

「子供たちは今昼寝の時間なんだ。ここには下は四歳、上は十二歳までの子供がいるがこの時間は全員睡眠をとらせるようにしている。数少ない僕らの心休まる時間だよ」

「ここにいる子供は、みんな共感覚をもっているんですか?」

「程度にもよるけれど、そうだね。一番多いのは書記素色覚、珍しい子では幽霊が見えるという子もいる。単純に共感覚というと、その範疇に収まらない子もちらほらいるよ。感覚と言えば視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感だが、明らかにそれとは違う、ある種の第六感と呼ばれるものを持っているとしか思えない言動をする子たちもいる。まぁ、その謎を解明するっていうのが僕らの研究なんだ」

「研究対象として、子供たちを育てているんですね。……それって」

「かわいそうだと、思うかい?」歩波の言葉を龍磨さんは鋭く遮った。「けれど、彼らはここでしか生きていけなかった子供たちだ。利用価値を見出されたことは幸運なんだよ。それに失敗し、生まれてきたことを後悔しながら死んでいく子供たちもたくさんいる」

 それは、一つの真理なのかもしれない。生まれてきたことに意味を見つけるにはたくさんの時間が必要で、それまで人間は意味を他者から受け取っている。それができなければきっと生きてはいけないのだろう。環境が違えば、僕らだってそうだったのかもしれない。生まれてきたことを祝福してくれる誰かがどんな人間にだって必要なんだ。

「それに」龍磨さんが続ける。「さらに幸運なことに、僕も佳乃くんも子供たちのことを愛している。言葉には出さないけれど、多分博士だってそうさ」 

『博士』と『愛』。二つの言葉が、どんなに掻き混ぜても混じり合うことのない水と油のように不協和を醸し出す。親としての王教授を、僕は想像することができなかった。

「さ、研究室はこっちだ」

 龍磨さんが、いくつかある扉の一つを開く。この研究所に入って初めて見る、ドアノブをひねるだけで開く扉だった。きぃ、と小さな音がなぜか印象的に頭に響く。

「研究室?」歩波が先にそう言って、僕が続けた。「部屋を間違えてませんか?」

「いいや、そんなはずないだろう。僕が何年ここに勤めていると思ってるんだい? 正真正銘、ここが僕の研究室さ。確かに少しは、変わっていると思うけどね」

 部屋の中は小さな、極めて小さな遊園地のようだった。二十畳ほどの空間を囲う形でレールが走り、かろうじて子供が二人乗れるサイズのコースターがその上をゆっくり走っている。部屋の中心では天井からつるしたブランコがかすかに揺れ、その向こうには小型のジャングルジムまで見えた。壁という壁は世間を賑わす流行のキャラクターのポスターが張り巡らされている。

 龍磨さん曰く、これで少し。研究者の世界は僕らの想像をはるかに超えて奥ゆかしい。

「ん、おかしいな。窓のないこの部屋で、ブランコが揺れているってことは……、コラ、美角! まーた、勝手に潜り込みやがって」

「うわぁ、は、離せよ」

 龍磨さんがコースターの向こうに隠れていた少年を掴みあげた。どうやら、昼寝をサボってこの部屋に忍び込んでいたらしい。この部屋を見ていると、気持ちは分からなくもないけど。

「みすみ……くん?」歩波が反芻する。そういえば、昨日の夕食の時にも、聞いた名前だ。十歳くらいだろうか。

「篠原美角。うちの子供の中でも随一の悪ガキだよ「悪ガキっていうな!」黙れ、くそガキ!」

 こいつはすぐに抜け出すんだ、と呟きながら龍磨さんが手を離すと美角は扉に駆け寄る。けど開かない。扉の中央を歩波が押さえていた。「まだ、だーめ」

「ねえちゃん、あまのじゃくでしょ? 俺には見えてるよ」美角が言う。

 見えるっていうのは、どういう意味だろう。歩波のひねくれた部分を一目で判断したのなら大した観察眼だと思う。歩波の可愛いところだけど。

「で、そっちのにいちゃんは意気地なし」こんの、くそガキ!

「なんで勝手にこの部屋に忍び込んだんだ? お前は寝る間を惜しんで遊びたい、なんていうタマじゃないだろ」

 違うのだろうか。この部屋を見ててっきり僕は、ここの遊具に触れるために美角がここにいたのだと思っていた。というよりは、他の用途はないだろこの部屋。

「瑪瑙を返せよ」美角が年齢にそぐわない静かな声でそういった。

「あの子は、他の施設に異動したんだ。何度も説明しただろ、ここよりずっといいところだ。友達もすぐにできる。お前だってもう少しいい子にしていれば同じところに行けるかもしれないんだぞ」

「龍磨はウソツキだ」小さな口から発せられた『嘘つき』という言葉が、まるで自分に向けられているかのように冷たく僕の心を刺す。

「ここの大人たちは、みんなウソツキだ。全部知ってる。子供だからわからないと思ったら、大間違いだぞ。俺たちには見えてるんだからな」

 龍磨さんは何も返さない。ただ少し困ったような顔で、美角を見つめていた。

 小さな掌ががちゃがちゃと、ドアノブを鳴らす。「かわいいおねえちゃん、ここ開けてよ」

「ふーん、一丁前にお世辞も言えるんだ……。龍磨さん、この子ちょっと借りてもいいですか?」

 歩波の突然の申し出に動揺したのは僕だ。「どういうことだよ、歩波?」

「少しなら構わないけど、扱いにくい奴だから気を付けてくれよ」

 龍磨さんの忠告に、歩波は「任せてください」とだけ答えた。そのまま僕の方に向けて音もなく唇を動かす。『し・か・え・し』昨日の、ってことなのだろうか。

「ねえちゃんなに企んでるの?」という美角に、僕にもなかなか見せてくれない笑顔を返して歩波は部屋を出た。美角が続く。

「読めない子だな」残された部屋で、龍磨さんはそう言った。「考えが、というよりも……心の在り方そのものを人には見えないようにしまいこんでいるんじゃないかい」

「僕もそう思います」本心だった。どんなに同じ時間を過ごしてきても、どんなに長い時間をこれから歩めたとしても、僕に歩波の全てを理解できることはないのだろう。きっと、理解できたと感じることすらも、許してくれない。

「これはただの好奇心で聞くんですが、美角くんはどんな共感覚をもっているんですか? 確か、あまのじゃくとか嘘つきが見えるって……」

「美角はさっき話した例外の一人さ。正確にはつかめていないから正式な名称はないが、僕らでも理解しやすい言葉にすれば『オーラが見えている』ようだ。東雲君のようにモノや人自体が色を持つのではなく、そこから発する雰囲気や気配を色調として『視る』ことができる。これまでの研究結果では、かなりの精度であいつは他人の本質を一目で言い当ててるよ」

「それって……」あえて濁した言葉を、龍磨さんは意にも介さずにはっきりという。

「そう、僕は嘘つきだ。あいつにとっては特に、な。そして君はおそらく意気地なし」

「間違ってはないと思います」歩波といる時には特に、か。

「他人には見えないものが見える美角にも、見えないものはある。だから小っちゃい頭で精一杯考えて、ここで必死に手がかりを探してたんだろうな。まぁ、あいつの話はいいんだ。研究を見に来たんだろ? ここはただ単に子供たちを喜ばせるためにこんな造りにしているわけじゃないんだぜ」

 無精ひげを蓄えた龍磨さんの口元がぐにゃりと歪んだ。

 この後、僕はもう一度『研究者』というものに対する認識を改めることになる。



「瑪瑙ちゃんの……、その話は、龍磨くんから?」

「いえ、美角が一方的に」

 二日目の夕食はクリームシチューだった。

 定刻の七時に僕らゲスト四人が広間に入ると、王教授、薫子さん、龍磨さんがすでに席についていて、佳乃さんは盛り付けの最終段階をしていた。客人と職員がそろって食事をとるのは王教授の意向で、今回に限ったことではないらしい。ただ、佳乃さんと龍磨さんのどちらか一人は孤児院の子供たちから離れることができないため、一日交代で食卓に着くことになる。佳乃さんは全員の食事の準備を終えるとすぐに広間を離れて仕事に戻り、今ようやく龍磨さんと子守を交代して食事をとっているところだった。

 右腕にはめた時計の針は八時二十分を少し過ぎた頃。全体が解散してから、まだ十分ほどしか経っていない。

「無理に付き合ってくださらなくても、いいんですよ?」という佳乃さんの遠慮を丁寧に受け流して僕は向かい側の椅子に座った。

「その、瑪瑙という子はどういう子だったんですか?」

 昼間、孤児院で得た情報を別の角度からあたってみる、というのが一応の僕がここにいる理由だった。つまり、シチューをほおばる佳乃さんに癒されているのは副次的なものなので許してください、歩波さま。

 佳乃さんが銀の匙を上品に皿に置く。

「瑪瑙ちゃんは、ここの子供たちの中でもさらに特殊な子で、『未来が視える』と言われていました。全てではないけれど断片的に、いつもではないけれど定期的に、あの子はこれから起こることが正確に視えていたんです」

『未来が視える』という言葉の意味が僕の中でうまく像にならなかった。自分の未来なんて想像もできない。ただ漠然と明日も本が読めたらいいなと思うくらいの、僕にとって未来なんてそんなものだ。

 それが視えたら……。

「その子、瑪瑙が視ていた未来は避けることのできない確定した未来だったんですか?」

 僕の質問に、佳乃さんは慎重に、言葉を探すようにゆっくりと答えた。

「瑪瑙ちゃんがここの孤児院に入ってきたのはこの研究所が創設されてすぐのことです。彼女は六歳でした。彼女は、自身の二年後までの未来をぽつぽつと語り、それらは全て実際に起こったんです。誰々と誰々が明日喧嘩するとか、大きなものでは院の中でインフルエンザが蔓延することも具体的に彼女は予言しました。私たちが、それに対する対策を講じたにもかかわらずです。私たちは研究者ですから、彼女の視た未来をもとにある仮説を立てました。葉桜さんは、運命論というものをご存知でしょうか?」

 僕はなかなか使うことのない授業の記憶から知識を絞り出す。

「未来が全て『神』のような超越的存在によって全て決められていて、僕らが自由意思だと思っている判断や選択はすでに決められていたものであるという論理だったと思います。ただこれはあまりに宗教的で、現代科学とは相容れないと聞きましたが」

「それはとり方次第かもしれません。運命論は反証が不可能なんです。人物Aが『自分は右へ進む運命だったが、自分の意志の力で左に進んだのだ』と言ったとして、この『右と思わせて左』それ自体が運命だったと言われればそれまでです。まさに神のみぞ知るというところですね。その意味では確かに科学との相性はよくないかもしれません。しかし、この自由意思を否定する運命論に対する挑戦こそが現代的合理主義の原点とする見方もあります。つまり科学の始まり」

 佳乃さんがスープに手をかける。これだけ時間がたっても、粘性の強いホワイトソースからは湯気が立ち上っていた。湯気はやがて世界の広さに打ちのめされたかのように、空気に溶けて見えなくなっていく。

「私たちは、瑪瑙ちゃんが比較的近い未来しか視ることができなかったこと、そしてそれら全てが不動の決定稿であったことから、近未来と遠未来の二つの概念を想定しました。すなわち近未来については可能性の幅が少ないため、変えることができません。しかしその先の遠未来については、まだ創られておらず私たち自身の望む道に進むことができるのではないかと仮定したのです。これは、運命というものを実際に目にしてしまった私たちの悪あがき、最後の希望だったのかもしれません」

 確定された未来を瑪瑙は見ることができた。だから、瑪瑙に見えなかった未来はまだ決められていない、運命の軌道にまだ乗っていない未来。

 安直で、危うい、すがるような仮定だと思う。ただそう考えてしまうことは僕にもわかる気がした。逆らえない大きな存在に打ちのめされてしまわないための、逃げ道だったのだと思う。

 スプーンを握る細い指が、かすかに震えている。

「瑪瑙は、他の施設に異動になったと昼間、龍磨さんは美角に説明していました」そしてそれを、美角はウソツキだといった。

「龍磨くんはやさしいから、そう説明するしかなかったんです。例え美角くんに嘘が通じなかったとしても……。瑪瑙ちゃんが近い未来の事柄しか視えなかったということから導き出される仮定は、もう一つあったんです。私たちがずっと目を逸らそうとしていた、もう一方の絶望の仮定。そして、それはとてもシンプルな形で証明されました」

「もう一つの仮定?」

「亡くなったんです、瑪瑙ちゃん。博士との実験中に……原因不明の突然死でした。どんなに未来が視えても体は八歳の女の子ですから、このくらいの子供だと時々あるんですよ。予兆も何もなく本当に唐突に、心臓が止まってしまうんです。これが、第二の仮定の先にあった現実。つまり、瑪瑙ちゃんは自分が生きている間に起こる事柄だけが視えていたんです。彼女の視た最後の未来で記録に残っているものは、『二月三日の朝、美角くんと言い争いをしてしまう』というものです。その日の午後、息を引き取りました」

 食器の立てるカタッという音を皮切りに、広間が静寂に包まれる。まるで重力が倍になったように、なにかに縛られて体が動かせなくなった。

 未来を知ることができた少女は、自身の命の終わりもその目で視ていたのだろうか。

 そして変えることのできない運命を前に、何を思ったのだろうか。

 頭の中で『瑪瑙を返せよ』という美角の声が絶えず反響して、僕の胸を締め付ける。瑪瑙の苦しみ、美角の悲しみ、佳乃さんと龍磨さんの絶望が交互に駆け巡って、一瞬で僕の窮屈な心は飽和する。

「ありがとうございます」佳乃さんの言葉で僕は現実に引き戻された。「瑪瑙ちゃんのために、涙を流してくれて」

 想像もしていなかったことを指摘されて僕は混乱する。僕が、泣いていた?

「す、すいません。少し、いろいろなことを考えちゃって……」普段、人の死というものを紙に描かれた物語として受け取っている僕には、刺激が強かったのかもしれない。自分に向けて、そんな風に言い訳をした。

「いいんですよ。人の話で涙を流せるということは、葉桜さんがやさしいことの証明です。けれど、もう少し明るい話題の方がいいかもしれませんね」

 佳乃さんがつくった笑顔に、僕は救われたような気がする。

「大丈夫です。すいません、驚かせちゃって」乱暴に水分を拭き取って僕は平静を繕った。実際、落ち着きも取り戻しつつある。

「鳴ってますよ」唐突に、佳乃さんがそう言った。「携帯電話。気付いてないみたいだったので」

 はっとして、僕はポケットからスライド式の携帯を取り出す。マナーモードのせいでバイブレーションのみだったからとはいえ、向かいにいる佳乃さんより気付くのが遅れたのは、結構恥ずかしい。内容は……歩波からのメールだ。

 タイトルにも本文にも文章はなくて、ただの悪戯かと思ったところで画像ファイルが添付されているのを見つけた。ダウンロードに数秒かかって画像が開く。

「楽しそうですね」器用に画面を覗いていた佳乃さんがそう呟いた。まぁ、僕の感想も同じようなもんだ。

 写真の中では、歩波と薫子さんがグラスを高々と掲げ、端で玉緒がほほ笑んでいる。薫子さんは昨日の僕との晩酌だけでは満足できようはずもなく、今日こそはと女性陣を誘っていったわけだ。

『男の子はあんまり強くないみたいだから……』という空耳が頭の中で反響する。

 ちなみに歩波は、僕の何倍もお酒に強い。薫子さんも、今日はなかなか楽しめているんじゃないだろうか。

「野暮な質問だったらすいません」その声で顔をあげると、悪戯っぽい顔が僕を見つめていた。「歩波ちゃんとは、どういう関係なんですか?」

「どうって……」少し考える。関係という言葉にうまく反応できないのは、僕の欠点なのかもしれない。

「もとは幼馴染みたいなものだったんです。と言っても初めて会ったのは中学生くらいの時だったかな」あのころの歩波は長い髪をいつも二つに纏めていたのを覚えている。「歩波には家族がいないんです。両親は物心つくくらいにはもう亡くなっていて、年の離れたお姉さんに育てられたらしいです。と言っても僕が出会ったころには、すでにお姉さんも亡くなった後で、遠縁の親戚の家に住んでいました。仲は良くなかったみたいです」

 記憶の中の幼い歩波は、常に無表情だった。まるで感情を見失ったみたいに笑わなくて、隣にいた僕はずっと不安だった。

「どうして、二人は結ばれたんでしょう?」

「どうして?」佳乃さんの質問の意図がわからなくて聞き返す。

「こんなことを聞くのは違うのかもしれません。でも、きっと二人を引き合わせるものがあったんじゃないかなって、そう思ったんです。私は運命というものに縛られてしまった人間だけれど、そのすべてが偶然だとは思いません。葉桜くんと歩波ちゃんが出会い、そして恋人同士になったことには何か意味があったんじゃないかって、この二人じゃなきゃいけなかった意味が」

 恋人、という言葉に不思議な違和感がある。間違っていないはずなのに。これも僕の性質の問題か。

「それは、研究者としての質問ですか?」

「いいえ、乙女の疑問です」そう言われてしまったら、異論はないな。佳乃さんだし。

「答えとして、正確かどうかはわかりません。ただ僕から見た歩波は儚い人形だったんです。放っておけばいつの間にか消えてなくなってしまいそうで、でも触れたらそれだけで壊れてしまいそうな。だから、黙々と本を読んでいた歩波の横で、僕はただじっと同じように本を読み続けました。僕じゃなくちゃいけなかったかどうかはわかりません。でも、僕にとっては歩波じゃなくちゃいけなかったんだと思います。あの時間は、ものすごく幸せだったから。……今も、だけど」

 ふふふ、と佳乃さんが声を出して笑う。「なんだか私の方が照れてしまいます」

「恥ずかしいのは、絶対僕の方ですけど」意図せず顔が火照ってきた。

 あれからずっと、僕らは一緒に過ごしてきた。歩波がその小さな体で抱えている闇を、僕はそれでもきっと半分しか理解してあげられていない。けれどもしこれまでの時間に佳乃さんのいうような意味があったとしたら、素直にそれを喜んでもいいのかもしれないな。

 無意識に僕の右手が左手に重なる。

「ペアリング、ですよね? 憧れなんですよ。長い間、こんな辺鄙な研究所の中にこもりっきりなので、そういうロマンチックなものって別の世界の話なのかと思っていました」

「僕から贈ったんです。出会って、まだそんなに時間がたっていない頃に。初めてだったんですよ。形にしておかないと僕らの間にあるはずの何かが、いつの間にか初めからなかったことになりそうな、そんな気がして」あのころの僕は、それを何よりも怖がっていた。

「わかるような気がします。関係って、どんなに科学が発展しても目に見えないものだから」

 見える子はいるんですけどね、と佳乃さんが付け加える。それが幸せかどうかはわかりません、とも。

「このリング、外からはわからないんですけど、実は内側に……。内が……あれ?」抜けない。

 一瞬、自分がそんなに肉付きがよくなってしまったのかと焦ったけれど、よくよく考えたら中学生の時に作ったのだ。きっと、『成長』の範疇だと思う。

「二人が過ごした長い時間の、確かな証拠ですね」

 佳乃さんのきらめくような笑顔に、また一つ救われたような気がした。



 佳乃さんと広間で話し込んでいる内に、時間はいつの間にか十時十分を回っていた。

 時間を意識したその瞬間、僕の腕に嵌った名前も知らない機械式の時計は大きな音をたてはじめる。チッ、チッ、チッ、チッ……、規則的で無機質なその音が僕は嫌いじゃない。僕の中に漠然と存在している感情にすら満たない何かをどこか遠くへ押し流してくれるような、そんな気がした。

 どちらを向いても白い壁のこの廊下が、その感覚を助長しているのかもしれない。

「笑えよ」

 突然の声で、すぐそばに人がいることに気が付く。銀色がすぐ横で、にやにやとこちらを見つめていた。


 チッチッチッチッチッチッチッチ……。


「こんなところで、能面かぶったみたいな表情してると死人が歩いてるのかと思われるぞ」

 銀色がニヒルに笑う。こいつの考えていることは、僕には半分も理解できなかった。それは、見えている世界が違うこととは全く次元が違うと思う。

「なんで誰もいないのに、笑わなくちゃいけないんだよ」だから僕はぞんざいに答えた。

「なんだお前、いつも誰かに見せるために笑ってるのか?」かわいそーな奴、と銀色は続ける。「いつまでもそうだと信じられなくなっちゃうぞ」

「何をだよ?」

「自分」


 チッチッチッチッチッチッチッチ……。


「で、どうしてこんなとこにいるんだよ」僕らに割り当てられた部屋である洋室への道は反対側だ。

「まぁ、玉緒ちゃんに会いたくなってね。君も同じようなもんだろ?」

「僕は、歩波だよ」

「それは、君なりのジョークかい?」

 そんなつもりはなかったけれど、それでもいい気がした。

 和室の扉に、たどり着く。僕は自分のカードを取り出して、リーダーに向けて手を伸ばした。

 

 チッチッチッチッチッチッチッチ……。


「ノックが先ですよ」背後から別の声がする。

「玉緒ちゃん、お風呂上り?」

 初めて見る浴衣姿の玉緒は、銀色への答えを無視して僕の方を見ていた。「一応、女性の部屋ですから」

「デリカシーが足りないぜ、まみくん」

「お前には言われたくないよ、銀色。あと、まみくんて呼ぶな!」

 僕は何か焦っているのだろうか、少し呼吸を整える。思考も。

 遠近感を失わせる白い壁、湾曲した通路、カードがないと開かない扉、


 チッチッチッチッチッチッチッチ……。


 銀色、御曹司、感覚の重複、三日間の実験、人里離れた研究所、孤立させる大型の台風、偏屈な教授、玉緒、銀色の秘書、お風呂上り、花柄の浴衣、上げた黒髪、艶っぽいうなじ、浮き出た鎖骨。

「歩波に足りないのは、やっぱり色気だと思うんだよな」

「お前今かなりおかしなこと言ってるけど自覚はあるか?」

 銀色の言葉は無視して、扉を開けた。音も立てずに視界がひらく。

 もう一度時計を見た。時間は十時二八分三二秒、三三、三四……。

 チッチッチッチッチッチッチッチ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 チッチッチッチッチッチッチッチ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

チッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチッチ……。





 僕はそこで












 揺れる炎と粘つく赤黒い海の中で、





 

 

 

 

 

 

 君を見つけた。

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