第二章 てなねつえむわ

 午前九時四十分。

 僕はいつもより早い時間に、いつもより長い時間、いつもよりきつい坂を延々上り続けていた。もう最後のバス停から二時間近くは歩いている。

「まだ、つかないのか……」

「人里離れた研究所なんて、雰囲気でるよね」

 誰にともなく吐き出した独白に、歩波が余裕そうな笑みを浮かべて答えた。

 実際余裕なのだ。今でこそ文芸部で本を貪っているが、高校時代に歩波は剣道部でバリバリ運動していた。同じ学校にいても本を読むこと以外を共有しなかった僕はそこまで知らないけれど、なんでも恐れを知らない攻めで全国大会までいったとかどうとか。今でも時々、僕の知らないところで体を動かしているのだろう。運動嫌いな、僕の知らないところで。

 王心理学研究所はT県郊外の山間に、完全に町から独立する形で存在していた。最寄りの駅からバスを三つも乗り継いで、車も通れないような本物のけもの道をただただ歩き通したところにあるという。

 現代日本にここまで隔絶された地域があるということに僕は純粋に衝撃を受けた。僕が生まれ育った新潟も、日々恨み言を吐きながら通学する八王子も、ここに比べたら未来都市だ。

 枝葉をかき分けないと三メートル前を見通すこともできない。

「あぁ親愛なるセリヌンティウスよ。俺はもう走れない。それでも俺を許してくれるだろうか、友と呼んでくれるだろうか」背後から、銀色の情けない声が聞こえてくる。

 言うことは情けないが、誰も銀色を責めるようなことはしなかった。目の悪い玉緒は、走ることは愚かこの道を一人で歩くことすらままならないのだ。銀色は彼女の手を引いて、慎重に、丁寧にエスコートしている。

 正直言って僕は銀色を見直していた。

 ただ少し不可解なのはその背中に担がれたリュックが僕らの荷物の三倍くらいあることだが、御曹司の考えることを凡人の僕に理解できるとは思えなかったのでスルーを決め込むことにする。

 いや、下手に突っ込みを入れて荷物を肩代わりすることになるのが怖いというのも、一つの理由ではあるのだけれど。

「なあ、銀色。お前ならヘリコプターでもなんでも出して直接研究所に向かうことだってできたんじゃないのか?」僕は聞く。

「普段なら、ね」その声は相当くたびれていた。「あいにくこの空模様じゃ、ヘリもジェットも使えない。必要とあらば俺だって歩くさ。なにせ、社長だからね」

 次期ですが、といういつもの突っ込みは聞こえてこなかった。主を立てたのだろう。今の状況だけを見たら、どちらが仕えているのかわからなくなるけれど。

 ほんとこいつら仲いいよな。「うらやましい?」

 不意に、歩波がそんなことを聞いてきた。僕は首を小さく左右に振って、歩波の艶っぽいショートの髪を優しくなでる。「僕らだってそうだろ?」

 ヒュー、後ろからへたくそな口笛が聞こえてきたけれど無視した。無粋な奴なんだこいつは。

「そろそろ雨、降りそうですね」

 そう言ったのは、僕達一行の先頭を歩く白衣の女性だった。

 桂井佳乃さん。銀色から『案内人』と紹介されたこの女性は、王研究所の女性職員ということらしかった。

 せっかくなので、あとどのくらいで到着できるのか聞いてみる。

「佳乃さん、午前中の内には荒れ始めるって予報になってましたけど……」

「大丈夫ですよ。もうそんなに遠くないはずです。えと、多分……。景色が変わらないからよくわからないんですよね」

 佳乃さんの話し方は、少し幼さを感じるくらい頼りない印象があった。実際の年齢は、職業などを考えても三十歳はくだらないはずだと思うけど。

「まさかこんな時に台風が来るなんて、不運ですよね。大変な道を歩かせてしまって、申し訳ありません」

「いえ、仕方のないことですから。気にしないでください。それに……」僕は、横を窺う。

「それに?」佳乃さんは不思議そうに歩波の顔を眺めた。

 当の歩波はそんなことは気にせず、にやけ顔で空を眺めていた。今なら僕でも歩波の考えていることが手に取るように推理できる。言葉にするなら『くくく、ミステリーの予感』というところだろうか。

 確かに、舞台は整ってきている。人里離れた研究所。そして台風による交通機関のストップ。これに犯人と被害者が加われば、歩波の大好きなミステリーの完成だ。

 だけど、そんなものを望んでいるのは歩波だけだった。他の誰もが、何も起こらずにことが済むのを願っている。そしてそれを信じているはずだった。

 何も起こらないのが一番いい。死体なんかなくたって面白い話はいくらでもあるのだから。

「えいっ」こつんっと歩波の頭を軽く小突いた。

「何するのさー」膨れた頬が可愛い……、じゃなかった。

「歩波があんまり期待して、雨が降り出すのが早まったら困るだろ?」

「大丈夫だよ。このスポーツバッグは完全防水だもんねー」まてまて、頭がついていかないぞ。

「ふふふ、それなら大丈夫ですね」

 なぜか佳乃さんが歩波についてしまったので、完全に不利になった僕は黙ることにした。

 雲行きよりも、先行きの方がずっとずっと心配だ。



 研究所の独特な外観が見えてきたのは、それからほんの十五分ほど歩いたころだった。

「大変お待たせしました。こちらが私たちの仕事場、王心理学研究所です」

 佳乃さんにそう紹介されて、ようやく顔をあげた僕たちはきっと全員同じことを考えたと思う。なんというか、想像していたものと違う。

「これが、本当に研究所なのか?」銀色が聞いた。

 洋館、といったらいいのだろうか。連想するのは中世のヨーロッパだ。平たい二階建てのレンガ造りで、こじゃれた装飾の類がそこら中に配されている。全体のカラーリングは明るい赤茶だけれど、天気の悪さも相まって、印象はお化け屋敷のように暗かった。

 それから、異様に窓が少ない。

「王教授の趣味なんですよ、おかしいですよね。けれど安心してください。中は他の研究所とそんなに変わりません。立派な監獄ですよ」

 佳乃さんが最後に添えるように発した一言が僕らの不安を助長する。

「ここに、三日間ですか」そう言ったのは玉緒だった。初めて彼女の感情がこもった言葉を聞いた気がする。メガネもずれかかっているし、本当に見えているかどうかは疑わしいけれど。

「心配かい、玉緒ちゃん」けれど彼女は銀色の言葉に、そんなことはありませんと答えた。いつもの調子だ。

 むしろ調子が狂ってきているのは、僕の方かもしれなかった。胸騒ぎが、なかなか収まらない。妙な予感が、悪寒になって体中を這い回っていた。

 あの気持ち悪い脅迫文を思い出す。何も起こらないなんて、本当は誰も言えなかった。

「言ったじゃない、大丈夫だよ」歩波がそんな僕を見てとって、そんな言葉を投げかける。

 言ったじゃない。その意味を、記憶の中から探り出す。

 ――『もし、まみ君が殺されたら。私が捕まえるよ、犯人』

「それじゃ、どうにもならないじゃないか」諦めにも似た僕の呟きに、きゃはは、と歩波の笑い声が続いた。

「では、これ以上空が不機嫌になる前に所内に入りましょう。それぞれ、こちらのカードを受け取ってください」

 洋館中央の大きな扉の前で、佳乃さんは四枚の磁気カードをポケットから取り出した。青白いその見た目に、僕はS大学の学生証を連想する。

「これは、カードキーですか?」表面には『GEST』の文字と、一から四までの連番が印字されている。

「その通りです。所長がセキュリティに厳しい方でして、所内の部屋は全てこのカードを使うか指紋認証を行わなければ入れません。もちろん、玄関にあたるこの扉もそうです。一人につき一枚ずつ、一枚通すごとに一人ずつです。貸し借りは厳禁ですからね」

「面倒な仕組みだな、研究所ってどこもそうなのか?」銀色が言う。

「程度はさまざまですが、これくらいならそんなに珍しいものではないですよ。なにせ、研究施設というのは機密事項の宝庫ですから、情報ひとつ漏れただけでそれまで積み上げてきた研究がすべてパーになってしまうこともあります」

 信頼の拠り所と思ってお持ちください、と佳乃さんは締めて、自身のものらしきカードを扉の端にある溝に通した。

 ドアノブのついた大きな扉が横にスライドしていくのは、なんだか滑稽だった。

「ようこそ、王心理学研究所へ」

 僕らは順番に扉をくぐった。その都度扉は音を立てて開閉する。銀色、玉緒、歩波、そして僕。確かにこれは、僕らには面倒くさい仕組みだ。

 建物の中は、なるほど確かに研究所という雰囲気だった。白を基調とした壁・床・天井は病院と言われてもしっくりくる。長いこと暗天の下にいたために、蛍光灯の光が眩しかった。

「ここは、エントランスです。研究施設はこの先右手の階段を上った二階フロアになります。王教授はこの通路をまっすぐに行ったところにある私室にいますが、まずは長い道のりでお疲れでしょうし、荷物もありますから先にゲストルームを案内しますね」

 僕らは、佳乃さんの案内で通路を左に曲がる。その先は少し湾曲した丁字路になっていて、ずっと向こうまで円環状に通路がつながっているらしかった。男性は左、女性は右だ。想像はできていたことだけれど、この三日間僕は銀色と同じ部屋で寝泊まりすることになるのか。

「不満かい? なんなら、俺は歩波ちゃんと交代してあげてもいいけど」という銀色の申し出を僕は拒否した。そんなことをして、変な想像をされるのが嫌だったからだ。

 それに僕らがたとえ一つの部屋で二人きりになったところで、持ち寄った本を各々読みふけることになるだけだろう。こんなところまで来て、それはそれで寂しいものがある。ならば、変態御曹司と多少の友好を深めてみるのもいいかもしれない。歩波も、友達が多い方ではないし。

 僕らの部屋は、洋室だった。手前と奥にシングルベッドが一つずつ。中央にはソファがあって、向かいには大型のテレビがあった。ものは立派だけど、電波が心配だ。これちゃんと映るんだろうな?

「ふう、思ったより快適じゃないか」銀色はベッドで大の字になって寝転んでいる。

「それは意外だな。御曹司でも、このくらいの部屋で満足できるのか?」

「君は金持ちに対する偏見が強すぎるよ。僕だって、いつもいつもこの三倍はある自室にいたら落ち着かなかったりするんだ。たまには窮屈な空間に身を置いていたくもなるさ」

「へぇ」と小さく答えて、それ以上突っ込まないことにした。銀色の部屋の三分の一しかないこの部屋は僕の部屋の四倍はある。

「さてと、俺はとりあえず佳乃さんに届け物を済ませてくるが、まみ君はどうする?」

「お前がまみ君って呼ぶなよ」比喩ではなく、鳥肌が立った。「僕はそうだな、とりあえず歩波たちの様子を見てくるよ」

「じゃあ、十五分後にさっきのエントランスに集合だ。王教授へのあいさつは全員そろっていた方がいいしな。早く済ませて、俺はゆっくり休みたい。どうせ明日から俺は研究対象としてこき使われ続けるんだからな」

「結局、何の研究なんだよ?」そういえばそんなことも知らないままで、僕はこんな辺境の地にまでやってきてしまったのか。

 僕の問いに、銀色は「さぁな」と適当に反応して、けだるげに部屋を出た。扉は、追おうとする僕を阻むように素早く閉じる。どうせ一人ずつしか出られないのだから同じことなのだけれど。

 なんだか、すごいところに来ちゃったよな……。



 女性用のゲストルームは僕らの部屋とは正反対に、和室だった。

「こちらは、王教授の奥様の趣向なんですよ。ちょっとおかしいですよね」

 佳乃さんが顔に似合わず皮肉気に笑って見せる。きっと、洋館に和室が存在していることへの指摘だったのだろうけれど、そもそも研究所であるということを考えれば、僕にはすべてがちぐはぐに感じられた。

 部屋の広さは僕らの部屋と同じくらいだ。すなわち銀色の自室の三分の一で、僕の部屋の四倍の大きさ。床は畳だった。

「まみ君見てみて、鉄兜!」

 歩波がはしゃいだ子供のように僕を呼んだ。うーん、歩波の身長を考えると、これは比喩として成り立つのか怪しいところだけれど。

 僕は、そんな考えに苦笑しながら呼ばれた方に近づく。

 部屋の隅に一段高くなった場所があり、そこには大きな掛軸が下がっていた。

『酒池肉林』……僕にはちょっとわからないセンスだ。

 そのすぐ横には等身大の赤い鎧兜が静かに、そして厳かに鎮座していた。艶やかなその表面は鏡のように磨かれていて、こういったものに興味のない僕でさえ心を奪われそうになる。天を衝くようにそびえる鍬形の下は黒いマネキンで、何かを憎悪するように顔をゆがめていた。

 その脇には大小二本の日本刀が置かれている。

「これ、触ってみてもいいかな?」歩波がわくわくした表情で僕に聞いた。当たり前だけれどそんなことの裁量権は僕にはない。僕は歩波の視線を受け流すように佳乃さんを窺った。

「やめておいた方がいいですよ」僕の意図を感じ取った佳乃さんは優しい声音でそう言った。

「もしかして、本物なんですか?」

「薫子さんは、偽物なんて置きません。それに、お金に糸目をつけることもありませんから」

 どうやら『薫子さん』というのが、王夫人の名前らしい。彼女のことを語る佳乃さんの言葉には、ところどころ棘があった。もしかしたら、関係がそんなに良好ではないのかもしれない。

「本物なんだー」歩波のわくわく顔は、触らない方がいいと言われても少しも動じることがなかった。きっと、人目を盗んでその感触を確かめるつもりなのだろう。もしかしたら、元剣道部の血が騒いでいるのかも知れなかった。

 僕にはわからない感覚だ。

 この部屋のもう一人の住人となる玉緒はまるで存在感を消したように、荷物をまとめ終わって窓の外を遠目に眺めていた。目の悪い彼女の遠目にはどんな意味があるんだろうな。

 そういえば、この部屋には窓があるのか。僕らの部屋にはなかったような気がする。外からこの館全体を見たときにも確か窓は数えるほどもなかったから、もしかしたらこの部屋は所内の中でも貴重な部屋なのかもしれなかった。それも、薫子さんの意向だろうか。

「雨、降りはじめましたね」

 ふと、玉緒が小さな声でそう言って、僕もその事実に気が付く。窓に雨のしずくはついていないけれど、叩きつけるような雨音が僕らに台風の本格的な到来を知らせていた。

 こんなに大きな音なのに意識をするまで聞こえてこないというのは、二十年生きてみても解決しない人体の不思議だ。これが解明されれば、授業中に別のことを考えていても教授の話が自動的に頭に入力されるかもしれないのに。なんだか横着者みたいだな、僕。

「わわわ、すごいどしゃ降り」遠くから、歩波のそんな声が聞こえた。

 歩波は、僕と玉緒が見ていた窓とは別の、つまり右端の窓をよじ登るようにして外を眺めていた。窓ガラスは全開だ。

「おいおい、雨が入るだろ」僕は畳が濡れることを案じてそう言った。

「入らないよ」けれど、ひょうひょうと歩波はそう答える。「かなり長めに屋根が伸びてるからね。それに窓の位置が高いから、屋根と近くてそうとう横殴りじゃないと部屋は濡れないね」

 歩波はさらに乗り出そうとして、畳から足が浮き始めている。そのまま外に出れてしまえそうに見えたけれど、窓自体が小さくて、小柄な歩波といっても肩でつかえてしまいそうだ。

「落ちるなよ」それでも冗談で、そう言ってみる。

「そこまで小さくないもんね!」と予想通りの答えが返ってきて、僕はなかなか愉快だった。

「研究所内の窓は、全て四十センチ四方に収まる大きさで設計されているんですよ。あの窓はその上限ぎりぎりにできていますが、それでも景色を見るには寂しいですよね」

 佳乃さんが、誰に聞かれるともなくそう話した。景色なんて言っても樹木しかありませんけど、と続く。

「どうしてそんな風に作られてるんですか?」

「私も聞いたことはありませんけれど……」

 佳乃さんは意味深に一拍置いた。

「誰も、逃げられないようにしたんじゃないでしょうか」

 なにから、だろうか。

「そろそろ、行きましょうか」これまで全く気配を消していた玉緒が、突然立ち上がった。

「社長がお待ちに……」あれ、僕はまだその話をしていないと思っていたけれど。「なっているような気がします」お見逸れいたしました。

 本当に、銀色と玉緒の繋がりってなんなんだろうな。

「あと二分で銀色と待ち合わせの時間だよ。全員で王教授にあいさつにいくらしい。佳乃さん、王教授のお部屋まで案内していただけますか?」

「もちろんですよ。あの部屋には、所員が一緒でなければ入れませんからね」

 なぜか、佳乃さんがセリフに合わせてウインクをした。妙に様になっている。この人一体いくつなんだろう。ちょっと学び舎を離れると、世間は謎に満ちている。

「見とれちゃダメ!」いつの間にか横に来ていた歩波に両頬をつねられて、僕は改めて思い知らされる。

 確かに、愛というのは痛みを伴うものなのかもしれない。



 僕たち四人はエントランスで銀色と合流をして、そのまま王教授の私室へ向かった。

「十五分というのはいささか長すぎる時間設定だったな。壁とにらめっこしているうちに宇宙の始まりにまで思索が巡ってしまったよ」歩きながら、銀色がいう。

「何かしらの答えはでたのか?」あんまり、興味はないけれど。

「ああ、きっと神様が七日かけて創ったんだろう。いや、最終日は休んだんだったか」

「コメントしにくいな。生憎、僕は聖書を読みこんだことはないんでね」

「文芸部が聞いてあきれるな。聖書は世界で間違いなく一番読まれている大ベストセラーだぞ?」

「だからだよ。僕は、そういうミーハーな読み方はしない。それに『神様』ってのが好きじゃないんだ」

 そんな不毛な会話をぞんざいに交わしていると、通路の向こう側から人影が現れた。

 一七十センチはありそうな、長身の女性だ。モデル体型を絵にかいたような四肢を存分に露出し、必要な部分だけをノースリーブとかなり短めのスカートで隠している。

 年齢は佳乃さんと同じくらいに見えた。佳乃さん、年齢不詳だけど。長い髪の下の顔はきつめの化粧で覆われている。

 けれど、かなり綺麗な人だとわかっ……いたたた、歩波……いたたた。

「薫子さん」佳乃さんが女性に声をかけた。「こちら、研究に協力してくださり本日から研究所に滞在していただく東雲様とそのお友達です」

「あら、そう。噂のね」そういって、女性は上品にほほ笑む。

 この人が『薫子さん』か。この研究所の主、王教授の奥さん。

「ごきげんあそばせ。香成薫子と申します。数日間のお付き合いだけれど、仲良くなれたらうれしいわ。なかなかこの建物を離れることができないから、若い女の子たちとお話ししてみたいことがたくさんあるの」

「あれ、苗字が」歩波が呟いた。僕も、同じことを思ったところだ。

 佳乃さんが少し困った顔をして、薫子さんを窺う。薫子さんはそれを受けて小さくうなずいた。

「……王教授と奥様とは、正式に籍をいれてはいないんです。つまり内縁のご関係にあたるんですよ」

「大人の世界では、その方がいいこともあるのよ。愛だけで繋がれないこともある。まったく、嫌になってしまうわね」

 寂しそうな表情を僕らに隠すこともなく、薫子さんはそう言った。

 大人の事情か。銀色が時々使う言葉だ。僕には、その中身を想像することもできなかった。

「王のところへ、行くのでしょう? それなら引き止めるのも悪いから、私は退散させていただくわ。またお夕食の時に」

 僕らは最後にお辞儀をして、薫子さんを後ろに見送った。

「さて、行きましょうか」

 そのまままっすぐに進んで、僕らは突き当りにあるそれなりに大きな扉まで佳乃さんに案内してもらって立ち止まった。

「この部屋のセキュリティは指紋認証になります。カードキーでは入れません。認証されるのは王教授と所員それから薫子さんだけで、教授以外は教授からの許可がないと扉を開けることができません。ただし、一度許可さえ通れば扉は解放されるのでゲストの入室も可能になるわけです」

 佳乃さんはそう説明して、扉の脇にあるセンサーに掌を添えた。ピッという単調な電子音がして、扉の中央にあるランプが赤から黄色に変わる。けれどすぐに開く様子はなかった。

「桂井クンかな?」センサーの横にあるスピーカーから、しわがれた声が鮮明に聞こえる。マイクの感度がいいのか、息遣いまで聞こえそうだ。

「はい。本日から研究協力していただく東雲銀色様と秘書の宮野様、そしてご友人お二方をお連れいたしました」

 佳乃さんの言葉づかいから、今まであった幼さが消えていた。この研究所の主とこれから対面するということに、初めて現実味が加わって僕は少し体を硬くする。

 なんだか、やっぱり場違いなんじゃないだろうか。そんな僕の思いを知ってか知らずか、銀色が一歩前にでた。

「お久しぶりです、王教授。お元気そうで何よりです。立派な研究所も建てられて」

「東雲クンか、お世辞は君にはにあわんなぁ。はっはっは。とにかくまずは入ってくれたまえ。顔も合わせずにあいさつもないだろう」

 ピッともう一度電子音が鳴って、ランプが青に変わった。扉がスライドして部屋の中が明らかになる。いや、この表現は正確でなかったかもしれない。部屋の中は、人がいるとは思えないほど暗かった。一メートル先が見えない。

 佳乃さんに促されて僕たち四人は部屋の中へと進んだ。中では多数のモニターが暗闇の中で不気味に輝いていて、なんだかここにいるだけで目を悪くしてしまいそうだ。

「よく来たね。今回の要請がこうして叶ったこと、本当に感謝しているよ」

 声と同時に、辺りがぱっと明るくなった。急激な明暗の変化に瞳孔が追い付かない。それでもなんとか辺りを確認すると、これまでの施設内よりさらにいっそう一面真っ白な空間にいることが分かった。

 白、だ。机も椅子もモニターも、小物類まですべて白。それらが強めの蛍光灯に照らされて、浮き上がりそうなほどに照り返している。部屋の住人の、執拗なまでのこだわりが感じられた。

 研究者というのは極端な人間が多いというイメージがあったけれど、どうやら、上方修正が必要になりそうだ。現実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだと思う。

 王五飛教授は六十代前半くらいの凛々しい顔立ちの人だった。背筋もぴんと張って、いかにも学者然とした風貌で白衣を着こなしている。余談だけれど、生えそろった毛髪まで真っ白で、コンタクトなのか目の色までも白みがかっているように見えた。徹底してるよなー。

 銀色が大きく一礼した。

「こちらこそ、お呼びに預かり光栄です。緊急の友人参加までご了承いただけたこと、感謝いたします」

 佳乃さんにさえ敬語を使わなかった銀色が、王教授に対しては気持ち悪いくらいに丁寧な言葉を使っていた。丁寧すぎて、これでは完全に社交辞令だ。本人にもそのつもりはあるらしく、よく見ると口元が吊り上っていた。

 一体この二人はどんな関係なんだろう。

 僕の中の疑問とは関係なく、二人の会話は続く。

「何やら、私宛の不審な手紙が東雲君、君の所に届いたらしいね。まぁ、よくある悪戯だとは思うが……。そもそも、今回の件は他の研究機関等には内密に進めてきたつもりだったのだがね」

 王教授がおもむろに胸ポケットから煙草を取り出して慣れた手つきで火をつけた。ジッポーも白。かろうじて市販の銘柄の煙草の袋には青い線が数本入っていた。

「それについて、私たちの方から言えることは何もありませんよ。もちろん情報統制は行っていますし、彼ら」僕たちのことだ。「に同行の話を持ちかけたのも手紙を受け取った後のことです」

「はっはっは、君に友達がいるとは想像していなかったよ。荒みきった君の心に何か大きな変化があったのかな?」

「それも、研究対象ですか?」

「大きな枠で見れば、そうとも言える。個人的な興味もあるがね。君は私にモルモットのような扱いを受けているようなことを言うが、それは明確に間違いだと言えよう。私は君に深い愛情を抱いているのだから」

「えてしてそれらは両立するものですよ。愛らしい実験用ネズミに心奪われることなんてままあることです。それに、教授はなかなか屈折したご趣味をお持ちですから」

 なんだか険悪なムードになってきたんじゃないだろうか。正直、ここまで銀色が教授を嫌っているとは思わなかった。懇意とはよく言ったものだ。王教授の吐き出す苦い煙も相まって、僕はものすごく居心地が悪かった。

「東雲君は、白は嫌いかね? 混じりのない純粋な白、ホワイト、ブラン、ヴァイス、ビヤンコ、ウィットゥ、アルプス……」

 教授が羅列する言葉を遮るように、銀色が吐き捨てる。

「好きな色ではありませんね。どんな言語にしたところで、面白みのない虚無が広がるだけです」

「そこだよ。白は完結した色だ。たとえこの地球上に住む六〇億の人間がそれぞれの『白』を意味する言葉を聞いたとして、彼らの頭の中に浮かぶのは全く変わらない完全なる白。白は、白でしかない。他の色ではこうはいかないのだよ。赤といって思い浮かべる色は、ここにいる数人だけでもかなり認識が異なるだろう。濃かったり薄かったり、或いは微妙に他の色と交わっていたりするものだ。形而上学における図形の概念と似たものがある。白が正三角形ならば、他は二等辺三角形だ」

 教授はそこまで息せくように言って、自身を落ち着けるように煙草を咥えた。

 僕の後ろで、歩波が一つ咳をする。そういえば、歩波は煙草苦手なんだっけ。

「俺から見れば白なんて、何にもなれなかった未完成品だよ」

「社長!」ついにいつもと変わらない口調になった銀色に、玉緒が横から割って入った。

「そろそろ今後の予定を」

 はっはっは、と教授が豪快に笑って、机の上の灰皿に丁寧に灰を落とした。

「もっともだ。お互い、忙しい身の上だろう。積もる話がないこともないが、それは夕食の時にでもするとして、今は事務的な話だけ済ませるとしよう。研究の日程だが、今日は遠路はるばるこんな辺境の地にまでお越しいただいたのだから、一日ゆっくりくつろいでもらうことにして……、では明朝の十時からでどうだろうか?」

「いいでしょう。必要なものがあれば、準備しますが」

「いっただろう。私は君を愛している。君さえいれば十分だよ」

 それで二人の中では全て終わったようだった。

 なんだか、腑に落ちない。僕と歩波がここにいることが場違いなのはわかっているし、王教授からすれば招かれざる客なのだろうけれど、それでもここで取り残されたら、僕らの目的である何らかの謎への手がかりも見逃してしまうような気がしていた。

 僕は意を決して、そのもやもやを言葉にする。

「失礼ですが、教授は何の研究をなさっているのですか?」

「君は……」教授がきょとんとした顔で、僕の方を見つめた。その横で、銀色が少し恨めしい表情で同じように僕を見た。やってくれたな、という声にならない声が視線になって僕に突き刺さる。

「彼は私の友人の葉桜真緑と言います。その横にいるのが、同じく友人の稲田歩波。紹介が遅れて申し訳ありません。彼らは、S大学で心理学を学んでいます」

 銀色がとってつけたように僕らのことを紹介した。最後の一言は僕らが研究の見学をするにあたっての口実を作るために口裏を合わせていた設定だ。

 教授は怪訝な表情で僕たち二人を見回した。まるで、今やっと部屋の中に僕たちがいることに気付いたみたいな、そんな反応だった。

「心理学を学んでいる友人、か。その友人にも研究内容を話していない。はっはっは、君のシナスタジア嫌悪も大したものだな」

 教授の口から、聞きなれない言葉が飛び出して僕は思わず聞き返す。

「シナスタジア?」

「『共感覚』と言えば、或いは聞いたことくらいはあるだろうか。これは私の研究の中ではほんの一部にあたるが……。心理の学問に片足でも踏み込んでいるのならば『クオリア』の概念は理解しているだろう。客観的普遍的に存在しているものではなく、それを人間が感覚器で捉えたときに内側に生じる感覚そのもののことだ。赤い花を見たときに、像を結んで頭の中にイメージされる赤い感じ。あるいは壁に頭をぶつけた時の痛いという感じ。このクオリアは、個人の内面世界における話であるから、同じ外部刺激を受けた場合でも人によって異なるものが観測されている可能性がある。つまり物質世界は全ての人間に共有する同じものであったとしても、私たちの見ている事物、いや、見たことで想起される内部世界は全く違ったものであるかもしれないということだ。ここまではわかるね?」

 予想はしていたことだけれど、一気に話が専門的なところにまで及んで気圧される。心理学を学んでいる『設定』な僕にはもちろん共感覚もクオリアも、初めて耳にする言葉だった。

「えーと、」理解しようとはしてみるけれど、なかなかイメージしにくいものがあるんだよな。

 そんな僕を見てとって、歩波が付け加えるように言う。

「つまりね、クオリアっていうのは私の中の赤のことなんだよ。同じ赤い花を見てあれは赤いものだって思ったとするでしょ。でももしまみ君が、私が赤を見て感じた私の中の赤を見たら、それは緑に見えるかもしれない。きっと、そういうこと」

「なかなか聡明なお嬢さんだ。話を続けよう。このクオリアは個人の内部で完結した概念であるがために他者が観測することができないのだよ。だから私たちは違和感を持つことなく共に暮らすことができている。これはある個人に入力される実際の色と、出力するときに内部のクオリアから想起される色が全く同じものであるからだ」

「実際には、私の中の赤をまみ君が見ることはできないってことですよね」歩波、普通に理解できちゃってるんだな。

 教授が手元まで灰になった煙草を灰皿に押し付けた。

「ここまでは基本的な前提部分の話だ。私の研究ではこのクオリアをどのようにして客観的に観測するかが、大きな命題となる。それに革新的な進歩を与えてくれるのがシナスタジア、つまり『共感覚所有者』というわけだよ」

 教授の視線が一瞬銀色に移る。銀色はあえてそれにぶつからないように瞳を僕の方へ泳がせた。研究対象、共感覚の所持者。

「共感覚というのは、ある一つの外部刺激に対して複数の異なる種類の感覚を生じさせる知覚現象のことだ。クオリアが重複しているともいえる。例を挙げるならば、ある匂いを嗅いで頭の中に音楽が流れたり、何かものを食べて甘い辛いと同時にこの味は尖っていると発言する人もいる。前者は嗅覚と聴覚、後者は味覚と触覚が複合しているということだ。これらは比喩でもなんでもなく実際に本人たちが生々しく感じている感覚なのだよ。ある意味では彼らのクオリアは重複しているのではなく、我々とは違う世界を形作っているともいえる。素晴らしいとは思わないかね」

 共感覚そのものについては、理解できた気がする。一つの刺激から二つの感覚を受けるということ。ただ教授のいう素晴らしいという言葉の意味は、よく分からなかった。

 他人とは、別の世界が見えている。それはつまり、本質的には他人と共有できない世界に住んでいるということではないのだろうか。もしも、僕の見ている世界が歩波の見ている世界と全く違ったものだったとしたら。しかもそれが、相手に知られてしまったら。

 想像しただけで、僕は孤独に押しつぶされそうだった。

 僕が抱いた感情を肯定するような銀色の視線が、ふっと離れていく。けれど、銀色の言葉が僕に向いているのはすぐにわかった。

「俺が、その共感覚所持者だったら怖いかい?」

「そんなわけないだろ」それは本当のことだった。

 僕が感じたのは怯えとか恐怖とかそういう類のものではなくて、凍りついてしまいそうな、底知れない寂しさだったから。

「銀色君は、どういうタイプの共感覚なの?」そう言ったのは歩波だった。

 それに答えようとした銀色の口が音を発するよりも早く、教授の声が純白の部屋に響く。

「我々研究者の間では『書記素色覚』と呼んでいる。共感覚の中でも一番数の多い、オーソドックスなタイプと言っていい。東雲君の場合は多分にその範疇から漏れるがね」

「書記素……色覚?」

 今度こそ、銀色が答えた。

「簡単に言うと、文字に色がついて見えるんだ。ひらがなでも漢字でも、数字やアルファベットでもね。その文字自体が黒鉛筆で描いてあろうが赤いボールペンで描いてあろうが、それとは関係なく固有の色をもって視界に入る。例えば、そうだな。『へや』なら濃い紫と黄緑色。『研究』ならオレンジと水色だ。『紅白』なんて笑えないぞ。白は文字通りの白だが、紅も僕には白く見える。紅白対抗なんて言っても、僕には仲良しのじゃれ合いにしか映らないね」

 僕は銀色と出会った時のことを思い出していた。あの時はおかしなことを言う奴だとしか思わなかったけど。

「葉桜真緑って僕の名前を見て、お前が『緑一色』といったのはそういうことだったのか。僕はずっと、漢字の雰囲気だけでそう言ってるんだと思ってたよ」

「東雲君が言ったのなら、言葉通りの意味なのだろう。『桜』も、『真』という字も、彼には緑色に映っているんだよ」

 教授は、はっはっはと笑った。なぜだかその声が無性に耳についた。

「予備知識としてはこれくらいで十分だろう。明日からは本格的に実験も始まるのだから、今は部屋でゆっくり寛いでくれ」

 そうして、教授はモニターに向き直った。その瞬間にまるで僕らは取り残されたように、この部屋の意識から除外されているのを感じる。

「失礼します」銀色が一礼して振り返る。「佳乃さん、扉を」

 その声で、この部屋に入ってから一言も発することなく僕らの一番後ろに立っていた佳乃さんが、気が付いたようにセンサーに手をかざした。

 扉が開き、僕らは外に出る。

「驚いたかい?」銀色が僕にだけ聞こえるようにそう言った。

 僕は素直に、或いは愚直に思ったことを言うことしかできなかった。

「本が読みづらそうだなって、思っただけだよ」

 それからの時間を僕らはのんびりと、大した目的もないままに過ごした。

 各部屋で出された昼食をとって、長い時間歩き通した足をベッドに横になりながら休める。柔らかい羽毛布団に包まれると、意識がほんのりぼやけはじめるのを感じた。

 そもそも、僕と歩波は本当の意味でも目的なんてないような気がする。提起された一つの謎。何かわかれば僥倖で、何もなければその時はその時。そもそも一文芸部員に求められていることなんて、たかが知れているというものだ。

 曖昧な意識の中で、僕は必死にこの研究所に向けられた脅迫状を思い出そうとする。あれは誰が見たって、明らかに怪しい。けれど、僕らに今できることがあるとすれば完全に部外者顔をして話を聞き、情報を集めることくらいしかない。それすらもこの穏やかな洋室の中では大げさなことのような気がして、僕は動き出すことができなかった。

 そうこうしているうちに暇を持て余した歩波に呼ばれて、いびきをかいて熟睡していた銀色とパソコンを触って何か作業をしていた玉緒を交えて四人でトランプに興じた。『ばば抜き』、『神経衰弱』、『ポーカー』、『七並べ』、一通りをこなして最後は『大富豪』に落ち着く。

 『大富豪』。ルールに従って手札を減らしていき最初になくした人から順に大富豪、富豪、貧民、大貧民となるゲーム。大貧民は大富豪に、貧民は富豪に次のゲームの初めに強いカードを搾取されてしまうというまるで資本主義社会の縮図であるかのような恐ろしい遊びだ。

 何度か繰り返していると、ある程度周りの力量が見えてくる。このゲームを提案したのは歩波で、僕もルールを知っていた、なので僕らはある程度コツを知っていて拮抗している。驚いたのは玉緒だった。彼女はトランプの遊び方をほとんど知らず、もちろん大富豪も名前すら聞いたことがないと言っていたのだが、……彼女は相当要領がいいらしい。三回戦を終えたあたりから僕や歩波ですら太刀打ちできなくなっていた。現在、十二回連続で玉緒が大富豪だ。

「どーして、俺が大貧民なんだー」と虚しい負け犬の遠吠えが和室に響く。

 銀色に関しては今のところ、十五回全敗だった。なんというか、見ていてこっちが悲しくなってくる。

「俺は正真正銘の大富豪なのに、なぜこんなゲームで貧民呼ばわりされなくちゃいけないんだ」

「向いてないんじゃない、社長」歩波がきゃはははは、と笑いながら銀色をからかう。

「失礼な。僕はもうれっきとした社長「次期……候補ですが」なの! って玉緒ちゃーんのなかでまで俺のランクが下がってる!」

 心なしか、玉緒も笑っているようだった。銀色がやけになってトランプを手裏剣のように飛ばしだし、歩波が忍者のように素早く避ける。部屋の中はばらばらになったトランプと、逃げる途中で歩波が蹴っ飛ばしたお菓子で散らかり放題だ。

「お前らいい加減にしろよ」呆れた僕が二人を止めに入る。

「うるさいこの貧民がー」お前なんか大貧民じゃないか。

 よくも悪くもにぎやかだった。僕らはこのひと時、目的も、繋がりも、退屈も、不安さえも忘れて小学生のように遊びまわった。



 時計はいつの間にか、午後六時五十分を回った。

「夕食の準備が整いましたので、大広間までお越しください」

 ちょうど銀色の七十四度目の大貧民が決定したところで、佳乃さんに呼ばれた僕らは大きく伸びをして立ち上がった。

「なんだか、ものすごく無駄な時間を過ごしてしまった気がするよ。勝ち筋も色を伴って見えるようになるべきなんじゃないか?」銀色がそんなことを言いながらトランプを片付ける。慈愛に満ちた僕らからのささやかな罰ゲームだ。

 カードキーを通して廊下に出ると、もちろんだけれど先に出ていた佳乃さんが待っていた。穏やかな表情で、「休めましたか?」と聞いてくる。僕は曖昧な顔をしてやんわりと否定を示した。むしろ、精神の安定に必要な何かをものすごく消耗してしまったような気がする。おなか、すいたな。

「研究所の食事は、どなたが用意しているんですか?」

「普段は買い置きの既製品で済ませてしまうんですよ。所員の数は教授の意向で最低限にしていますし、研究に時間を割きたいので作る時間もありませんから。でも、今日はお客様がいらっしゃっていますからね。腕によりをかけさせていただきました」

「え、佳乃さんがですか?」聞き返してから、この質問は失礼だったなと反省した。

「不安……ですよね。こう見えても学生時代は大きなレストランのアルバイトで料理長補佐をしていたんですけど。こんな年になっても彼氏一人いない女に美味しい料理なんか作れないって、やっぱりそう思っちゃいますよね……」泣き出しそうな顔だ。

「え、あ、いやそういう意味では」予想以上の佳乃さんの反応に狼狽える。

 タイミングの悪いことに、背後で扉の開く音がした。

「わ、まみ君が大人の女性を泣かせてるー。いっけないんだー」

「はいはい、後で説明するからとりあえず広間に向かおうな」

 からかい半分嫉妬半分で僕を睨み付ける歩波の肩を押して、僕は歩き出した。全部に付き合っていたらいつまでたっても心が休まらない。

 一日目の半分を迎えたばかりなのに、僕はもう本に囲まれた天国が恋しくなっていた。三日間も、僕は正常な精神で生活していけるのだろうか。

「わ、佳乃さんもしかして真緑に泣かされたんですか! なんて奴だ、俺が懲らしめてやりましょう」黙れ、大貧民!

 大広間は、建物全体でみてゲストルームと対極に当たる位置にあった。

 中央に白いクロスのかかった長い机が設置され、囲うように豪奢な椅子が並べられている。机の上には煌びやかな食器類が整然と並べられていた。

 全体の雰囲気は洋館そのもので、ようやく建物の外見に釣り合う空間にであって僕は感動していた。なんだかお城みたいだ。人ひとりよりも大きなシャンデリアが、独特な雰囲気を醸し出している。

 机には名前の書かれたプレートが置かれていて、僕らはそれぞれ指定された席に座る。と言っても銀色、玉緒、僕、歩波で一列になっただけで、空席だらけの大きなテーブルはなんだか滑稽に僕には映った。

「なんだか、お城みたいだね」と歩波が、僕に向けて呟いた。僕はもちろん、この部屋に入った時点で同じことを思ったことは言わない。代わりに、「落ち着かないな」と返した。

 正直な今の感想だ。今だけは、こんなところでも堂々としていられる銀色をうらやましく思う。やっぱり貧民は僕らの方らしい。

 そのまま数分も待つと、扉が開いて背の高い女性が広間に入ってきた。鋭いピンヒールのパンプスが床を蹴る音が響いて、僕らの正面の席で立ち止まる。朝出くわした時よりも一枚多く上着を羽織っていた。柔らかそうな布地のピンクのブランケット。

「こちら、よろしいかしら?」

「もちろんですよ。薫子さん」銀色が答える。

 薫子さんはにっこり笑って、席に着いた。

 それからすぐに、奥で何か作業をしていた佳乃さんが蓋付きの大きな銀の皿をもってきて中央に置き、薫子さんと一つ席を空けて座る。この一席の間に、何とも言えない空気が漂っているように、僕には見えた。

 もう一度扉が開いたのは、間もなくのことだった。

「お待たせしてしまったようだね。失礼した」

 白衣、白髪、白スーツの王教授が細長い机の端、所謂上座に着席する。真っ白なテーブルクロスの延長であるかのようで、どこかその姿はおかしかった。

「本来ならば挨拶が先だろうが、私のせいでせっかくの料理が冷めてしまっては申し訳ない。いただこうか、佳乃くん」

 王教授がそう言って、佳乃さんが銀の蓋を持ち上げた。こもっていた蒸気がもわっと広がり、香ばしい匂いが鼻を刺激する。

 巨大な、肉の塊だった。表面は綺麗な焼き色がついて、脂っぽさを感じさせない肉汁がサラサラと流れている。周りは鮮やかないくつもの野菜に囲まれ、絶妙なコントラストを演出していた。意図せず唾液が口の中に溜まってくる。

「今夜のメインディッシュは、東雲様からお持ちいただいた松坂牛です。あまりに大きかったので、その姿をご覧いただけるように丸ごと調理させていただきました。お一人ずつ、取り分けさせていただきますね」

 佳乃さんが鉈のように大きな包丁を軽々と使って、一人一人の皿に料理を盛っていく。全員に行き渡ってもまだ余りあるその肉を眺めながら、僕は銀色に問いかけた。

「あんな大きな肉、事前にヘリコプターでも使って運んだのか?」

「君は、四時間も一緒に移動しながら俺が背負っていた荷物を見ていなかったのかい? 薄情な奴だ。俺は君の注文通りに最高級のものを用意したのに。ねぇ、玉緒ちゃん」

「手配したのは私、そして実際にご用意したのは現社長であられるお父様ですが」

「そういう細かい話はいいんだよ。僕の苦労が霞んじゃうだろ」ちょっとだけ、銀色が切なくなってきた。

 つまり、僕らのものより三倍も大きな荷物の中には調理される前の肉が丸々詰め込まれていたわけだ。あんなに簡単に条件を呑んでおいて、律儀な奴だ。

 全員に料理が行き渡って、佳乃さんがもう一度席に着いた。

「では、いただこう」王教授の号令で、全員が手を合わせる。いただきますという言葉に、僕はほんの少しだけ銀色への感謝の気持ちを込めた。ほんの少しだけだ。

「ままままま、まみ君! すごいよ、お肉が舌の上で溶けちゃう!」と叫ぶ歩波をよそに僕も料理に手を付けた。ナイフが何の抵抗もなく入り、フォークが数回肉を取り落す。それくらい柔らかいのだ。口に入れた瞬間、未知の食感と絶妙に素材を引き立てるソースの味がいっぱいに広がり、頬までとろけてしまいそうだった。

「社長! 社長!」玉緒が、初めて見せる少し興奮した様子で銀色を呼ぶ。

「こういう時は、素直にありがとうと言ってもいいんだよ。玉緒ちゃん」

「佳乃さん料理お上手なんですね」「ねぇ、玉緒ちゃん?」

 佳乃さんは、そんな二人を微笑ましそうに眺めて、最後に僕を見つめた。含みのある意味深な目だ。

「私なんかの料理でも、お口にあったでしょうか?」

「そういうつもりじゃなかったんですよ。勘弁してください。それにものすごく美味しいです。こんなに柔らかいお肉、初めて食べました」

「ふふふ、お肉は東雲様からのいただきものですから」

「あ、いや、そういうことじゃなくて」

 どんなに素材がよくたって、調理人の腕がなければこんなに美味しくなるはずがない。僕はそういうことが伝えたかったのに、佳乃さんは自虐的な解釈で僕の言葉をさらりと流した。

 それに、絶妙なフォローをいれてくれたのは驚いたことに薫子さんだった。

「純粋に褒めているのよ、彼。それに料理の腕を見染められてこの館に招かれたあなたの腕にケチをつけられるような人間は、そうはいないわ」薫子さんが優雅に料理を口に運ぶ。「美味しい」

 佳乃さんは、それに対して何も返さなかった。少し困ったように僕らに向けて笑いかけただけだ。

 辺りが一瞬静まり返る。ナイフとフォークの音だけがカチカチとなっていた。

 静寂を破ったのは、これまで沈黙を保っていた王教授だった。

「時に東雲君。君は食事という行為をどのように認識しているかね」

 その唐突な問いかけに、これまでとは百八十度態度を変えて銀色が答える。「研究は明日からなのでは?」

「厳しいことを言うものではないよ。それにこれは単なる話題作りだ。不思議だと思わないかね、我々は料理と言われて皿に載った肉を目の前に出されれば何のためらいもなくナイフを突き立てることができる。しかし事象のみを切り取るならば、それは牛の死骸に刃物を入れる行為に他ならないだろう。こうして言い換えたとき我々は何かぞっとしたものを感じる。なにかいけないことをしているのではないだろうかという感覚が、頭の片隅に浮かび上がるのではないだろうか。これは、ではさてなぜだろう」

 教授は言葉を区切って視線を自身の手元に落とした。料理をナイフで一口大に切り、フォークでそれを捉え、ゆっくりと口に運ぶ。銀色はそれを忌々しそうに見つめていた。僕だっていい気持ちはしない。

「無粋なテーマですね。食事中にする話ではないでしょう。教授は俺たちに、たった今動物の屍肉を食べているという意識を持てというのですか」

「それは学者というものに対する見識の欠如だよ、東雲君。学者は疑問を用いて皮肉るようなことはしない。我々が疑問を口にしたとき内にあるものは、純粋で無垢な知的好奇心だけだよ。それこそが文明を作り、人類を発達させてきた。君がこの問いを気に入らなかったのだとすれば謝ろう。悪意はないがね」

 教授は、ふっと笑って視線をなぜか僕に向けた。不意に目があって僕はしりごみをする。悪意がないという言葉をどこまで信じていいのかわからなくなる、人を不安にさせる目だった。

「葉桜君だったね。君は、どのように思うかね?」

「教授!」と銀色が静止に入った。それを教授はさらりと流す。

「せっかくの客人に、無言で食事をさせるわけにはいかないだろう。お近づきのための、レクリエーションだよ」

 なんだか既視感のあるセリフだ。銀色は肩をすくめている。

「ありきたりな答えですが、イメージの問題ではないでしょうか」僕はしぶしぶ、教授の質問にそう答えた。「食事は生きることの糧になるプラスのイメージがあります。でも、そこに死体という言葉が結び付くと生への冒涜、マイナスのイメージになります。もちろん同じ行為ですが、僕らは目的をどこかで尊重しているんじゃないでしょうか。生きるためという目的が行為を正当化させていて、それが食事という言葉に含まれている」

「なかなかいい意見だ。つまり、我々は目的観というメガネをかけて行為を知覚していることになる。面白いな、それを正しいとするならば、個々人でその目的が違っていた場合、行為自体は同じでも感じ方、或いは印象が変わるということだ。これはクオリアの相違の概念に相当近いと言える」

 教授は心底楽しそうに笑った。

「では、その目的に懐疑の目を向けてみることにしよう。動物を殺すということにはマイナスのイメージがある。それは葉桜君の言葉を借りるのであれば生への冒涜だからだ。つまり食事のための家畜の屠殺にはそれを覆すほどの大きな目的があるということになる。食事は生きるためのもの、今君はそう言ったね。生きるためならば仕方がない、そういえば動物を殺してもよいのだ。しかし、」

 大袈裟にフォークを肉に突き立てる。

「時代は飽食なのだよ。肉に頼らなくても生命を存続させることができるのはもはや自明だ。信仰で肉を食べない宗教者や、菜食主義者がそれを証明している。それ以前に、この国で毎日いったいどれほどの肉が食べられずに捨てられていることか」

 言葉を切って、教授は目を瞑った。内側で膨れ上がった巨大な感情を抑えつけているように見える。その目がゆっくりと開くのを見計らって、僕は言った。

「教授は、つまり現状が目的に即していないとおっしゃりたいのですか?」

「そうではない」ゆっくりと、噛みしめるように教授の口から言葉が漏れる。「目的が行為を正当化しているのではなく、行為を正当化させるために目的が存在していることを指摘しているのだ。生きるためというのは偽善ぶった人受けのいい看板だろう。食糧とはこの国では嗜好品なのだよ。肉もしかりだ。それを否定したいわけではない。むしろ、全てを認めるべきだと言いたいのだよ」

「全て、というのは?」銀色が聞いた。

「命を奪うのに、食事などという理由付けは必要ないということだ。もちろんこれは学術的な意味合いでだよ」

 テーブルがしん、と静まり返った。それぞれその言葉に何かを感じているのだろう。食事の手も、進んでいる様子はない。

「例えばそれは、人間も?」

 歩波だった。きっと誰もが想像だけはしていて、口に出さなかったことをあっけらかんと言い放つ。

 はっはっは、と教授は豪快に笑った。

「人間は人間のみを何かと例外にしたがるが、勇気のあるお嬢さんは違うらしい。それとも好奇心の勝る学者肌なのだろうか。私の答えはイエスだよ。もちろん人間も同じ土俵に持ち出すことができるだろう。世界には決して小さくない概念で『カニバリズム』というものが存在しているのも確かなのだから」

「かーにばる……お祭り?」素っ頓狂に歩波が聞き返す。

 それに銀色が、吐き捨てるように答えた。

「カニバリズム。つまり……食人行為のことだよ」

 ぞっと、寒気が走った。理性とか、道徳とか、常識とか、そういう頭で考えられるものの外側で嫌悪感が胸を圧迫する。

 食人。人が人を食べるということ。体の一部が食糧になるということ。手や足や、或いは胸や腹を千切り、口の中に入れ、咀嚼し、呑みこむという一連の所作を想像して吐き気が込み上げた。

「葉桜君、君は今明らかに嫌悪の色を示したね。それはなぜだろう。自分が牛肉を食べていることと同じ土台で、人間を論じてしまったからだろうか。それとも、自分が牛を食べていることにすらも疑問を抱いてしまったのだろうか」

 教授の言葉に、僕は何も答えなかった。答えたくなかったし、答えることができなかった。

「いずれにせよ。カニバリズムこそが、皮肉なことに食事が嗜好の行為であることを立証していると言えよう。日本では、それは狂気、或いは異常の行為とみられるが元来アジア周辺地域、特に中国などでは文化として根強く行われていたものだ。現代でも、表に出ることはないが存在が確認されている。人肉は万病に効く薬とされる場合もあるし、宗教的な教義の中で行われる場合もあるが、それこそ看板だ。人は食べたいから、人を食べるのだよ」

 教授は一息で、自分に酔いしれるかのように言い切った。そしてまるで演出の一つであるかのように、皿の上の肉を千切り、口の中に入れ、咀嚼し、呑みこむ。

 不意に、部屋の隅で機械音が場違いにピッと鳴った。間を開けずに扉が開く。

「教授!」慌てた様子で中に入ってきたのは、白衣を着た中年の男の人だ。黒いネクタイを結んでいて、短髪が妙に似合っている。

「龍磨くん、お客様の前よ」と薫子さんが嗜めるのを無視して、男性は王教授に駆け寄った。ひそめるように抑えた声は、それでも静かすぎる部屋のせいで僕の耳まではっきりと届いてきた。

「申し訳ありません。気を抜いた瞬間に、美角の奴に逃げられまして。建物から出られるはずはありませんが、薬の時間を過ぎていて急を要します。桂井をお借りしてもよろしいでしょうか?」

 教授は一瞬顔を歪めて、それから取り繕うように真顔を作って佳乃さんの方を向いた。

「ということだが、桂井クン動けるかね?」

「はい、もちろんです」そう言って立ち上がった佳乃さんは、僕がこれまで見た中で一番険しい顔をしていた。ミスミというのが誰のことだかは僕にはわからないけれど、その表情には何か特別な感情があるように見えた。

 龍磨と呼ばれた男と佳乃さんが颯爽と部屋を出る。

「ドタバタしてごめんなさいね。食事を続けましょう。せっかくのお料理が冷めてしまうわ」

 薫子さんに促されて、僕らは止まっていた手を再度動かし始めた。けれど不思議な違和感がその手を鈍らせていくのを感じる。

 目の前にあるのは間違いなく最高級の松坂牛なのに、僕にはその塊がもう別の何かのようにしか思えなかった。



 シャワー室から出たのは十時を回った頃だった。

 右腕にはめた機械式の腕時計から目を離し、生乾きの前髪に手を添える。大分伸びてきたな。歩波にはうざったいから切っちゃいなよと言われるけれど、正直僕は髪を切るのがあまり好きじゃなかった。痛みはなくても自分の身体にハサミを入れるなんて、と思うのだけれど、それは普通の感覚ではないらしい。

 そんなことを考えながら歩いていると、廊下の先で薫子さんが手招きしているのが見えた。

 振り返る。誰もいないということは……、つまり僕を呼んでいるってことだよな。

「お風呂上りかしら」近づくと薫子さんはそう言った。

「はい」実際はシャワーだったわけだけど、間違ってはいないだろう。「薫子さんもですか?」

「どうしてそう思ったのかしら?」

 どうしてって、「夕食の時とは服装が違うし、化粧も落としてらっしゃいますよね」

 馬鹿にしているのだろうかと思うほど、明らかなことを聞かれて少し困惑する。何か思惑があるのかと疑ってみたけれど、薫子さんは「名推理ね」とだけ言ってこの話題を流してしまった。つかみにくい人だな。

「葉桜君だったわね。お時間あるかしら、ちょうど晩酌の相手が欲しかったところなの。あの人は、明日の実験の準備で手が離せないみたいだから」

 あの人、というのはもちろん王教授のことだろう。夕食の話題を思い出しそうになって、僕はそれを必死に押し込めた。

「お酒、飲めるんでしょ?」

「まぁ、少しなら。でもそんなに強い方じゃありませんし、お風呂上がりですから」

「ふふ、若いんだから謙遜しないの」こっちよ、と薫子さんが扉に入っていく。一度閉まった扉には『KOUNARI』と表札が埋め込まれていた。薫子さんの自室か……。何となく気乗りがしないまま、それでもこのまま去るわけにもいかないので僕はカードを通した。

 大人の女性の部屋。この言葉には男の想像力をかきたてる引力があると思う。踏み入れた瞬間ねっとりとした甘い香りに鼻腔をくすぐられ、少しきつめのワインレッドが視界を覆う。そんな妄想を恥ずかしながら浮かべていた僕は部屋に入って、面食らうことになった。

 何もない。

 中央に机、それをはさむように二脚の椅子、あとはベッドと小さな冷蔵庫。かろうじて奥にクローゼットらしき扉が見えるけれど、他には何も見当たらなかった。本や娯楽の類はもちろん、生活に必要不可欠な小物類まで潔癖なまでに排除されている。

「いらっしゃい。かけて頂戴」薫子さんが片方の椅子を引いて、そのまま流れるような動きで冷蔵庫から瓶を二本取り出した。

「東雲くんのお肉にはかなわないけれど、これもなかなか高級なものなのよ」

 受け取った瓶のラベルには『VODKA』と大きく書かれていた。外国語の単位をC評価以上でもらったことのない僕でもかろうじて読める。「ウォッカですか」

「そう、パプリカの風味をほんのりつけたフレーバード・ウォッカ。ウォッカと言えば割ってカクテルにするイメージがあるかもしれないけれど。ウォッカの起源と言われるロシアではそんなことしないわ。スラブ系の言語では、『水』を意味する名詞から派生しているとも言われている。純粋で、純潔なお酒」

「詳しいんですね」

「惚れ込んでしまうと相手を知りたくなってしまうのが、オンナというものなの」

 薫子さんが不敵に笑って、僕らはこつんと互いの瓶をあてた。そのまま煽ろうとして、口に含んだ瞬間僕はむせ返る。なんだこれ、強いとかいう次元じゃないぞ。

「七二度よ。強いお酒はケーキをいただくように、一口ずつかみしめながら嗜むものよ」

 そんな風に言いながらも、すでに薫子さんの瓶は半分ほど空いていた。なんというか、大人の女性ってすごい。感心するべきところが、的外れな気がしなくもないけれど。

「それで、僕を呼んだ理由はなんですか?」頃合いを見計らって、僕は聞いた。

 一瞬怪訝そうな表情をして薫子さんは、それまで一度も手放さなかったウォッカの瓶を机に置く。

「理由がなければ、呼んではいけなかったかしら。言ったでしょう、晩酌の相手が欲しかったのよ」

「それは嘘ですね」少し不安要素を残しながらも、言い切った。「僕は大学で心理学を専攻しているんですよ。研究内容は情報心理、表情から相手の心をある程度読み取ることができます。先ほどの質問に答える時、薫子さんは目じりをほんの少し上げましたね。自覚はなかったかもしれませんがそれは隠し事があるときの反応です。また瓶を机に置いたのは、会話相手に対して慎重になった時の動きです。つまり、僕に対して嘘をついている。違いますか?」

 薫子さんは、ふっと表情を崩してウォッカに口をつけた。

「手厳しいのね。まさか、あなたがそんなに鋭いとは思わなかった。それに、大学生の心理学がそこまで、実用性に富んでいるなんてね」

「実は心理学の話はカマをかけただけなんですよ。熱心な学生でない僕に、専門分野なんてありません」威張れることじゃないけどな。「嘘だと思ったのは状況的なものです。僕がシャワー室からでたタイミングで、薫子さんが偶然廊下にいたこともできすぎているし。何より今朝言っていたじゃないですか、『若い女の子と話したいことがたくさんある』って」それなら、ここに招かれるべきなのは僕じゃなかったはずだ。

「大人をいじめてはだめよ。でもそうね、私があなたを呼んだことに目的があったのは事実だわ。そしてそれは、あなた自身にも利益のあることだと思う。今回の研究協力の要請の過程で、脅迫状まがいの封筒が送られてきたことは知っているのでしょう?」

 上目づかいで、こちらを窺う。もちろん銀色が見せてきた、あの切り抜きの文字群のことだろう。どう答えるべきか迷った。できるなら僕と歩波が調査を目的にこの研究所にいることは、話したい事柄ではない。今の問いかけを肯定してしまったら僕はそのことを暗に知らせてしまうのではないだろうか。

「…………」

「沈黙は時に饒舌よ。あなたが今回の研究要請とは別の関心をもってここにいることは、みんななんとなく気付いている。でもそれだけよ。私たちに嗅ぎまわられて困ることなんてないものね。だからいいわ、なんでも答えてあげる。ゲームをしましょう」

 薫子さんは、瓶をぐっと傾けて残っていたウォッカを一気に空にした。七二度のお酒を平然とだ。そのまま、冷蔵庫から新しい瓶を取り出す。

「どんな、ゲームですか?」僕はその瓶を見つめた。

「ふふふ、お互いの目的を達成するのにふさわしい大人のゲームよ。あなたが私に質問をする。私はそれに答える。もちろん嘘はつかないわ。そんなことをしたら面白くないものね。その答えを聞いたらあなたは瓶を三分の一空ける。けれどもし私が答えることのできない質問をすることができたなら、私がこの瓶をすべて空ける」

 つまり、僕は情報を引き出す代わりにこの劇薬に口をつけなければいけないわけだ。おのずと、質問できる回数も限られてくる。でも、これは間違いなく大きなチャンスだ。

「ゲームにのりましょう。でも、先に聞かせてください。薫子さんがこのゲームをするメリットはなんですか?」

「レディに何度も同じ質問をするものではないわ」薫子さんが一口お酒を含み咀嚼する。「さぁ、こちらの準備はいいわよ」

 薫子さんは顔色一つ変えていないけれど、もしかしてお酒を飲むことのデメリットは僕にしかないんじゃないだろうか。厳しい戦いだな。できるだけ少ない回数で核心に迫れる質問を選ばなければいけないわけだ。

 少し考えて、僕は慎重に口を開く。

「では、最初の質問です。二年前、王教授がS大学を辞任してこの場所に研究所を移したのはなぜですか?」

「研究の内容が変わったからよ。私立大学ではできることに限界があるもの。制限と言い換えてもいいわ。ある意味では彼の理想を、誰も理解できなかったのかもしれないわね」

 なんだか要領を得ない答え方だな。わざとだろうか。「具体的には、どんな研究をなさっていたんですか?」

「人工知能の知覚分野に関するものよ。ご存じだとは思うけれど、現代のAIはものすごく発達しているの。さまざまな分野の複合総体として注目されていることもあって、関心も大きいものね。遅れているのは、感情に関するものくらいかしら。王はその人工知能を使ってクオリアの研究をしていた。けれど、彼の関心は初めから人間にしかなかったのよ」

 薫子さんが胸元の際どい所からジッポーを取り出して、手元で弄ぶように火をつけた。自然と視線が、その青い炎に吸い込まれる。ぼんやりとした熱が、視覚から伝わってくるような気がした。

「つまり、今回の研究協力のように個人を対象とした実験は、大学においては認可されないということですか?」

 カシュン、と炎に蓋が被さる。

「いいえ。程度にもよるけれど、そのくらいなら許されたでしょう。実際に、東雲君とは大学内で幾度かの研究実験を経ているわ。共感覚の話は聞いたかしら?」

「はい」答えながら、今朝の話を頭の中で整理する。

 共感覚。一つの刺激で複数の感覚を受けるということ。

「共感覚は、元来人間全員に備わっているという説があるの。赤ちゃんの時には感覚が未分化で、周りの刺激を頭の中で混線させながら受け取っている。成人するとそれらは発達して、物事を一つ一つ分けて知覚することができるようになっていくの。つまり、子供の方が共感覚の保有率が高いのよ」

「子供……ですか?」

「そう、この上は孤児院になっているの。共感覚を持った特別な子供たちのね」

 人里離れた研究所で孤児を集めた教授か。確かに孤児を実験対象にした研究が大学で認められるとは思えないな。薫子さんは、嗅ぎまわられて困るものなどないと言ったけれど、僕の中では怪しさばかりが積もっていく感じだった。その向こうに何があるのかなんて、まだわからないけれど。

「ご希望には、添えたかしら?」薫子さんが含みをもった顔で、僕を見つめた。

 しぶしぶ、瓶を持ち直す。さっきはあんなふうに言ったけれど、僕はそこまでアルコールに弱いわけではない。相手が七二度のウォッカじゃなければ、きっとこの手は震えてないはずだ。

 ……死んだり、しないよな?

 決死の覚悟で、瓶を傾けた。冷たい液体がのどを焼く。もはや薬品そのもののような匂いに、むせ返りそうになるのを必死でこらえて、僕は一気に瓶を半分近く空けた。眉間に力が入る。

「なかなか豪快ね」僕は笑い返せない。

 早くも頭に痛みが走るのを感じて僕は次の質問に集中することにした。視界が歪み始めている。この分だと長くはもたなそうだ。

「二つ目の、質問です。脅迫状、について何か、心当たりは、ありませんか?」意図せず、言葉が途切れる。

「ないわ」薫子さんは即答した。早すぎるくらいに、早い答えだった。

 ジッポーからもう一度火が上がる。

「あんな人だから敵は多いけれどね、脅されるようなことは何もない。保護者を失ってしまった子供たちを引き取って、ほんの少し自分の研究を手伝ってもらっているだけよ。その中には意図して放棄された子たちもいて、誰かが手を差し伸べなければ生きていけなかったような子達もいる。見放されていたものを救った彼に、何か恨まれるようなことがあるかしら」

「薫子さんは、教授を、愛されているのですね」

 ただそういう印象をもったという、それだけのつもりだった。だけど、ぐるぐるとまわる視界の中で、薫子さんは瓶の中身を全てあおった。

「そういうルールだったわよね」

 意地悪な、けれど心の底から楽しそうな笑顔だった。


 そこで僕の視界は暗転する。何かをつかめたのか、そうでないのかもわからないまま、何も考えられなくなっていく自分を自覚して、僕は全身の力を抜いた。妙な気持ち良さがある。

 遠のいていく意識の中でかすかに「金田一……」という言葉が聞こえた気がしたけれど、あまりに脈略がなさ過ぎて、僕はそれを記憶の海の底に沈めることにした。

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