第一章 あまいきせらそ

 午前十時十五分。

 青い空に燦然と輝く太陽。

 照り返す緑の広葉樹。

 それから、揺れる木漏れ陽。

 社会人ならいざ知れず、典型的な夜型の大学生である僕には、まだ少し早いくらいの爽やかな朝だった。変わりはじめたばかりの春の匂いが、きつくない程度に鼻を刺激する。

 けれど、僕の心臓はそんな朝の雰囲気とは不似合に、場違いに、全速力で鼓動していた。錆びついた万力のように重くなったペダルを力いっぱいに踏み込む。

 僕の住む八王子という町は、『東京都』であることを強調するのが虚しくなるほど、田舎の匂いのする穏やかな土地だ。電車で一時間の圏内に『新宿』や『池袋』の都会が存在していることを疑ってしまうほど、豊かな緑に囲まれて背の低い街並みが続いている。正真正銘の田舎である新潟から出てきた僕としては馴染みやすく、また住みやすいところだった。

 ただし、物事いい面ばかりでないのも世の常だ。

「なんでこう、坂ばっかり、なんだ、よぉぉ」心の叫びが、力んだ両足に呼応する。

 ほんの二キロしかない大学までの道のりで、山を一つ越えなくてはいけないなんて僕の想像していた悠々自適学生ライフには存在していなかった事柄だった。しかも大学自体は別の山の上にある。

 高校まで家から500メートルの平坦な道を歩いて通い、ろくな運動もすることなく二十歳を迎えることになってしまった僕には、拷問のような日々だった。真面目に毎日学校に通っている自分をほめてあげたくなる。お前ほんとすごいよ。めちゃくちゃ偉い。

 実際、坂を自転車で上るという行為は地球の重力に抵抗することと同義だと思う。だってそうだろ? 今手足の力を抜いたら、僕はきっと真っ逆さまに坂の下まで転げ落ちていくのだから。そうなりたくはないから、必死に、それはもう必死に漕ぐ。

 何か大きな力に逆らうことを喜びととらえることのできた時期を、文字通りの中二で卒業してしまった僕には、やはりそれは少しも面白くない妄想だった。

 それでもなんとか自分を鼓舞し続け、長かった坂の頂上まで駆け上がる。

 そう、山なのだ。上りがあれば下りもある。二十メートルほどのほぼ平行なインターバルをゆっくり進むと、これまでとは反対に前輪が沈み込む。

 加速するのはあっという間だった。

 ペダルはもう漕がない。ブレーキに掛けた指にもぎりぎりまで力を入れない。体制維持に必要なバランスにだけ気をかけて、全身の力を抜く。意識をしなければ目もつぶってしまいそうだった。

 風とすれ違う感覚が気持ちいい。

 この瞬間が好きだった。この瞬間のためだけに、あのきつい坂を毎日毎日上っているのかもしれないな。なんてそんなことまで思う。

 ……そんなはずはないか。大学、行かなくちゃだもんな。

 最後の上り坂を気合いだけで上りきって、僕の好きな色の名前が付いた広大な駐輪場の中腹に自転車を置いた。籠に入れていた荷物を袈裟がけにして、今度は長い階段に足をかける。長い、おまけに急で狭い階段。

 辺りは緑が茂りすぎて景色を、空さえも覗くことのできない林だ。階段さえ整備されてなければ、けもの道と呼んでもまず誰も反論できないだろう。ここ、本当に『東京』でいいんだっけか?

「また、坂か……」具体的な言葉になったため息が口をついて出ていく。

 毎日のことなのに、と思って苦笑した。なんてことはない、思い返せば、毎日呟いている。

 なんだか、大学というフィールドが生活の場となって早二年。随分気持ちの上で老けた気がする。駅前で高校生なんて見るとあまりのぴちぴち感にびっくりするもんな。ミニスカートが眩しいぜ。

 うん、今のは歩波に黙っておこう。

 五二段目の段差を踏み越えると緑が途切れてぱっと視界が開ける。

 その先は、一面のピンクだった。桜並木に当てられたように足が止まる。つむじ風に巻かれた桜の花びらが灰色コンクリートの道に幾何学模様を描いては、今度はそれを塗りつぶすように花弁の波が押し寄せていく。

 S大学には実に千本以上の桜の木が植わっているらしい。もちろん数えたことはないけれど、そうと言われればそうなのだろう。疑いようのないくらい、この季節には学内のどこに行っても桜の花に迎えられる。

 僕が、この学校への進学を決めた理由の一つもそれだった。

 あの日オープンキャンパスで見た一面満開の桜を、僕はきっと忘れることはないだろう。それに比べれば今のこの景色はまだ少し物足りない。実際春本番はもう少し先だから、せいぜい八分咲きくらいのものなのだろう。

「葉桜も好きなんだけどね。……なんて、笑えないか」そんなことを嘯いて、また歩き出す。

 極力花弁を踏まないように気を付けながら。ありがたいことに時間にはまだ余裕があった。

 早起きもたまにはしてみるもんだな。僥倖、僥倖。

 つまり物語の始まりは、いつもより少し早いだけの、僕にとって普通の朝だった。



  九時には始まる一限目の授業を取らずに済ませることができるのは、大学を自由と呼ぶことができる唯一の要因だと僕は思う。

 本日最初の、大学としては二時間目の授業が行われる教室は、中央棟の二階230教室だった。

 最近できたばかりの中央棟の中でも比較的大きな教室で、一番後ろの席に座ると黒板がよく見えない。そんな時僕は、黒板に板書をする先生の薄くなった後ろ頭を凝視している。大した意味なんてないけれど、真面目に勉学に取り組める学生とは一線を画す僕が編み出した究極の暇つぶしだった。

 んー、一線を画すってこんな使い方をする言葉だったかな。後で調べてみようか。

 そんなことを考えながら教室の扉をくぐった僕の横を数人の学生たちがすり抜けてゆく。

 これから授業が始まる教室を、授業が始まる前に出る。もちろんだけど、彼らが戻ってきたりすることはないだろう。

 褒められたことではないけれど、この大学では日常的にみられる光景だった。『タッチアンドゴー』或いは『ピ逃げ』と呼ばれる、電子出欠システムの抜け穴を使った、要は新手のサボタージュだ。

 デジタル化の波は学問の最先端である大学にも当然押し寄せ、原始的に紙でとっていた授業の出席は数年前から学生証を磁気リーダーで読み取るだけで済ませられるようになった。

 読み取りが始まるのは、授業開始の十分前から。つまり学生証さえタッチすれば、教員に姿を見られることなく教室を出ることができる。ここのように大きな教室では一人の人間が受講生全員を把握することができるはずもなく、実際には教室内にいない人間の授業への出席が成立してしまうのだ。

 もちろん学校側もいくつかの対策を講じてはいるけれど、その努力が功を成すようには思えなかった。だって、システムは破られるためにあるのだから。

 そんなに勉強したくなければ僕のように、先生の後ろ頭でも見つめていればいいのにな。

 彼らは、自分が行っているサボタージュという行為がフランス語であることも知らないのだろう。きっと、間違いない。なぜならそれは、この授業の禿教授の口癖なのだから。

 徐々に埋まっていく特等席(最後部のことだ)を尻目に、僕は同じ授業をとっているはずの歩波を探す。

 えーと、歩波……歩波……んー、とー……歩波…………あー、れれれ?

 どうやら今日は、僕もタッチアンドゴーのようだった。

 

 


 勉強をするつもりの毛頭ない僕が、ではなぜ大学という勉学の殿堂に受験などという大苦難を乗り超えてやってきたのかと言えば、それは本が読みたかったからだった。

 学生という身分には、それなりの自由が伴う。もちろん最低限の責任は果たさなければいけないが、日夜事務仕事に勤しむことになるであろう、この先の未来とは比べるべくもない。いわゆるマージナルマンの延長に身を置くことで、ゆっくり本を読むための時間を確保したといってもいい。

 この先の安定した将来よりも、それは僕にとって重要なことだった。

 面白い物語を読むことが、僕のすべてと言ってもいい。

 そんな僕がこの大学で所属しているのが『金田一ミステリーサークル』という、所謂文芸部である。まぁ、所属しているというのは語弊があって、入学式の次の日に歩波に無、理、や、り、連れられ強、制、的、に入部させられてしまったというのが、実情なのだけれども。

 それでも、僕はこのクラブをそれなりに気に入っていた。

 部室があるのだ。しかも、入った当初は十数人いた部員も度重なる卒業(もちろん平穏無事にみんなそれぞれの進路に進んでいる)によって、今では僕と歩波の実質二人だけ。クラブの最低人数を満たすための残りの三人は、勝手に名前を拝借しているだけのダミーゴースト、幽霊部員なのだ。部室に顔を出したことなど一度もなかった。

 誰にも邪魔されずに静かに本を読める。それだけで、僕にとっては天国も同然だ。

 文学部棟を出て裏手に大きく回ると、古びた大きな二階建ての建物が見えてくる。第二クラブハウスの二階最奥。僕の天国はそこに存在していた。

 足取りも軽く、鉄製のドアノブに手をかける。ひんやりとした感覚が皮膚を伝わって、起きていたはずの頭がもう一度目を覚ます。

 扉には、『KMS』の看板。略称化の荒波はこんな小さな部室にも届いていた。

 ガチャ、という音が先だったと思う。もちろん僕が扉を開けた音だ。しかし、その扉が手前に半分ほど開いたところで、今度はバビョーンという間の抜けた音が脇から聞こえてくる。身構えることすらできなかった僕の額がバチンッ、と音を立てた。

「痛ってぇー」思わず声が出る。

「痛ってぇー」部屋の真ん中に設置されたソファーに座っている歩波が、飼いインコのように復唱した。きゃはははは、と笑い声も続く。

「真似すんなよ」ぞんざいにそう言いながら、僕は扉に設置された実行犯を探った。

 直接僕の頭にぶつかったのはプラスチックの物差しだ。それが、輪ゴムやコンパスや分度器などのありとあらゆる文房具と絡み合って、歩波お手製のブービートラップと化していた。

 どんなによく観察しても、僕にはその仕組みを理解できそうになかった。作りたいとも思わないけどな。

「ほんとこういうものつくるのはうまいよな、歩波」

「どれくらい痛かったのかなと思って」

 歩波のその言葉が、僕のひとつ前のセリフにかかっていることを理解するのに、数秒を要した。僕と歩波は時々頭の回転のリズムがずれる。

「それなら、自分で確かめてみたらいいだろ?」

「その仕組みは外から扉を開けないと意味がないの。仕掛けた後、じゃあ私はどうやって外に出たらいいのよ? もちろん扉を使ったら、三十分もかけた苦労がパーになっちゃう」

「どうやってって……」あれ、そういう問題なのか? なんだかうまくごまかされている気がしなくもない。それに、どうでもいいけどこれ三十分もかけてたのか。思った以上に力作だったようだ。

「あとね、これ私の身長に合わせて作り替えられないようになってるの。床と天井までシステムの一部だから、どんなに頑張っても身長172センチのまみ君にしかぶつからないんだよ。まみ君のためだけの特別製。そういうのってどうかな?」

「どうかなじゃないだろ。こっちは痛いだけだって」主に額が。

「愛って時として痛みを伴うものなのね」きゃははははとまた笑う。

「ところでまみ君、二時間目は日本文学論の授業だったと思うけど」

「それは歩波も一緒だろ」

「ふーん、授業すっぽかしてまで私に会いたかったんだ」歩波がにやにやした顔でこちらを覗いてくる。

 僕はそれを見ないふりして、歩波と向かいにあるもう一つのソファーに腰を落ち着けた。

「それもお互い様だろ? それに僕が来ることを確信してた。じゃなきゃ僕が来るまで自分が外に出られない仕組みなんて作るはずないもんな」

 この言葉で今まで余裕たっぷりだった歩波の表情が一転して、頬に赤みが増す。そ、そこまで頭が回らなかっただけだよ、なんて拙い反論まで飛び出した。今日はラッキーだ。

「僕は素直にうれしいよ」と追い打ちをかけながら、僕は歩波を見つめた。

 稲田歩波は、身長一五〇センチにも満たない小柄な女の子だ。かといって全体のバランスが悪いわけではなく、ショートパンツから伸びる足はすらりと長い。唯一、物足りないところがあるとすれば……少しスリムすぎるところだろうか。えと、まぁ、胸とか。

 贔屓目に見ても整った顔にはほんのり薄化粧がのり、短めの黒髪は肩口で切りそろえられていた。髪型は僕の好みだ。本人としては、もう少し伸ばしたいと去年の秋ごろに言っていたけれど、つまりそれは、意識してくれているということなのだろう。

 派手なものをそれほど好まない歩波にしては珍しく、最近マニキュアというものに凝っているらしい。とは言っても別に高級なものに手を出すことはなく、最低限のいくつかの色をそろえて爪に割とポピュラーなキャラクターを描いているだけなのだが……、厚手のハードカバーを抱える左手に青いロボットタヌキが量産されているさまはシュール以外の何物でもなかった。

「貧乳でわるかったですねー」歩波が突然、見透かしたように言う。「今そういうこと考えてたでしょ」んー、あっているような。そうでないような。やっぱりリズムが、少しずれている。

「今日は、何の本読んでるんだ?」逃れるように、僕は話を変えた。僕と同じで歩波も相当な本の虫だ。ただし、僕とは読む本の傾向が全く違っている。

「アガサ・クリスティーだよ。『ABC殺人事件』。再々再々再々再々再々再々再々読ちゅー」

「前回聞いた時より『再』が三つも減ってるぞ」

「もう何度目かなんてわからないってこと。『殺人をもう一度』も、『アクロイド殺し』も、もちろん『そして誰もいなくなった』もね」ちなみに僕は一つも読んでいない。

「よく、そんなにミステリーばっかり読めるよな。暗いし、切ないし、グロテスクな表現だっていっぱいあるだろ。そんなに人が死ぬのを読んで、面白いか?」

 自分ながら皮肉っぽい意地悪な聞き方だなと思った。

「面白いよ。当たり前じゃない」けれど、歩波は即答する。

「小説は娯楽、エンターテイメントだもの。面白くなくちゃ成立しないでしょ? それにまみ君は勘違いしてるよ」

 ぱたっと本を閉じて歩波は続ける。

「まみ君はミステリーの暗いところや切ないところやグロテスクな部分をまるで欠点みたいに言うけれど、それは違うよ。昔ね、推理小説にルールを設けた作家がアメリカにいたんだけれど彼はそこでこう断言しているの、『長編小説には必ず死体が必要だ』ってね。しかもそれは読者の興味を持続させるためだとしてる。ミステリーにはインパクトが不可欠なの。名探偵がいかに頭脳を働かせたとしても、三〇〇ページ使って他人の飼い猫を探す物語を読みたいと思う?」

 それが反語的な意味合いであることをわかっていても、一応想像してみる。む、むむむむ。いくら無類の本好きの僕といっても三ページめくったところで夢の国に旅立ってしまいそうだ。

「わかった?」歩波が促すように向けてくる視線を僕は曖昧に逸らしながら答えた。

「ああ、わかったよ。納得できないところもあるけどな。それより、ミステリーにルールがあることの方が興味深いかも」

「なんにだって、ルールはあるでしょ。ミステリーはそれが面白さの根幹に直接関わってくるから表に出てきやすいだけ。たとえば探偵役だと思っていた人物が実は犯人だったとか、密室だと思っていた部屋に隠し通路があったとか、そんなことになったら読者は拍子抜けじゃない。それこそ納得できない。けれど最近では、あえてこのミステリールールを逸脱することで面白い小説を作ろうとする傾向もあるんだけどね」

「なんだそりゃ。それじゃあ、ルールから外れても面白いものが書けるってことだろ? ルールの存在意義がなくなっちゃうじゃないか」

「あ、え、て、逸脱することと、単に外れることとは違うよ。ルールを意識しているからこそ、それと真逆に物語を進めたときに大きなインパクトとなって読者の印象に残るの。本当はいくつかタイトルをあげたいところだけれど、そんな肝心なネタバレしたらいざ読んだとき面白くないもんね」

 歩波はそういうけれど、僕がそんな小説に出会うことはきっとこれからもないんだろうなと、漠然と思う。ミステリーを読む前に、僕には読みたい小説がごまんとあるのだから。

「ほかには?」「ん?」「ミステリールール」読むことはないのだから、知識くらいはつけておいてもいいのかもしれない。

「ああ、そうだね。私が個人的に欠かせないと思ってるのは……、凶器かな」

「凶器が?」

「やっぱり、身の回りのもので殺さないとね」おいおい物騒だな。

 流そうとした視線が扉のところでとまる。あのブービートラップはそのための『何か』じゃないだろうな。

 嫌な想像を頭の隅に追いやって、僕は聞いた。「身の回りのものってなんだよ?」

「空気とか?」いや、身近すぎるだろ。

「空気でどうやって人を殺すんだよ」

「さぁーねー」

 それきり歩波は、興味をなくしたように本を開いて視線をまた落とした。

 こうなれば、読書家の彼女の顔を上げさせるのは不可能だ。僕が逆の立場でもやはり、声をかけられたくはないだろう。そのためのここは天国なのだ。

 僕も本を読もうとソファーから重い腰を上げる。部屋のいたるところに並べられた本棚には魅力的な蔵書が読んでほしそうにこちらを見つめていた。

 やっぱりファンタジーだよな。死体なんてなくたって面白い話はいくらでもあるのだから。

「ね、まみ君」

「ん?」

「また増えてたよ、桜の木」それがどういう意味なのか、もちろん歩波は知っている。

「そういう冗談は面白くないぞ」

「もし、まみ君が殺されたら。私が捕まえるよ、犯人」

「やめろって、そんな物騒な話」

 そうして僕らは本の世界に沈み込む。

 こうして何も語らずに歩波とひと時を過ごすのが、僕はたまらなく好きだった。




 僕らの天国に、軽やかなノックの音が響いたのはそれから一時間と四十分が経った頃だった。それまでページをめくる小さな音だけをとらえていた耳が大げさに反応し、僕は咄嗟に警戒する。

 この部室に、僕たち以外の部員が来ることはない。来るとすれば、クラブを取り締まる学生会の担当者か、他団体のライブアピールか。

 そういえば、ミステリーサークルという言葉に過剰反応した電波集団が勧誘に来たこともあったっけか。もちろん、金田一ミステリーサークルは田園に残された宇宙からのメッセージを読み取ろうとする勇猛果敢な団体ではない。

 初代部長が金田一さんではなく、歩波だったならその誤解はもっと大きな被害を生んだだろう。稲田ミステリーサークル、もはや否定する気力すら起きない。

 いずれにせよ、訪問者というのは好ましいものではなかった。少し考える。

「……どうぞ」

 きっかり二十秒悩んだ末に、僕は扉の向こうにいる人物に声をかけることにした。というよりも実際は躊躇しただけで、ほかの選択肢はなかったように思う。歩波は完全に無視を決め込むつもりのようだ。本から目線をあげるそぶりすら見せなかった。

 僕の時と同じように、ガチャっと音を立てて扉が開く。けれど、今度はバビョーンもバチンも続かない。使用済みのプラの定規がプラプラと虚空に揺れるだけだった。

 そんなものには目もくれず、黒いパンプスで底上げされた細い足が、静かに部屋に侵入する。もちろん足に目があるわけではないけれど。

 「失礼いたします」

 淵のないメガネ、皺ひとつない黒スーツに白いブラウス、手には小型のパソコンを抱えている、場違いなほどにフォーマルな姿をした女性だった。

 一瞬、着古したパーカーにジーンズの僕の方が場違いなんじゃないだろうかという錯覚すら覚える。

「こちらは、金田一ミステリーサークル様の部室でよろしいでしょうか?」

 女性は、かしこまった口調でそう言った。けど、誰に向かって話してるんだ?

「玉緒ちゃん、こっちこっち。そこに立ってるのは人じゃなくて本棚だよ」

 続けて入ってきた男が軽い口調でそう口にしながら、玉緒と呼ばれた女性の身体をこちらに向けた。少し体勢を崩しながらも、今度は正確にこちらを向く。

「大変失礼しました」

「ごめんよ、彼女よく見えてないんだ」

 目が、悪いのだろうか。確かに彼女のメガネは向こう側にあるはずの瞳の輪郭が失われてしまうほど強く歪んでいた。普通の人がかけたら頭が痛くなりそうだ。

 そんなメガネをかけてもうまく見えないということ。僕は無理にそのことに触れないことにした。

 男の方は、僕と同じくらいの年齢だろうか。一見かしこまったような服装を実にちゃらんぽらんに着崩していた。上下ともスーツだけれど、中のワイシャツはボタンを三つも外して中の真っ赤なシャツを見せ、ネクタイは紐のように細いものを首の太さの二倍の輪っかを作って下げていた。おまけに上着には腕を通していない。

 それでもどこか、上品そう……いや、偉そうに見えた。皮肉ではなく、ましてやいい意味でもなく、言葉通りの印象だ。

「わわわわ、ボインだよ。ボインとイケメンが一緒にやってきた!」

 下手な第一印象は先入観が固定化されるからよくないと,日頃から口にしている歩波とは思えない言葉が飛び出した。確かに、目を見張るものはあるけどな。歩波とは……以下自重。

「えーと、ここは確かに『KMS』の部室ですが、どちら様ですか?」怪訝な態度をあまり隠さず、僕はきいた。

「ほら、玉緒ちゃんが堅苦しい話し方するから向こうさんまで敬語になっちゃったじゃない。嫌いなんだよね、初対面の人間と敬語で話すの」

「初対面の相手に敬語を使わないで、誰に敬語を使うんですか。それに私はこれが仕事ですから。どうか気になさらないようにお願いします」

「どうしちゃったのさ、いつもは猫語で『にゃにか御用があったら、呼んでくださいにゃん。ご主人さま(はぁと)』とか言ってるくせにー」

「言ってません」

「『オムライスが美味しくなりますように。にゃにゃにゃにゃーん』とか」

「言ってません」

 おいおい、なんか完全に「置いてかれちゃってるね、まみ君」きゃはは、と歩波が笑う。

 その声で、ようやく男の方がこちらに視線をもどした。

「ああ、ごめんごめん。どうやら僕たちの世界に入ってしまっていたみたいだ。これは確かに失礼なことをしたかもしれない。まずは落ち着こうか。そこのソファに座ってくれ、別に堅苦しい話をするつもりはないよ。肩の力を抜いてくれていい」

 男は僕の脇をすり抜け、さっきまで僕が座っていたソファに腰を掛ける。玉緒もその横に続いた。

 ここ、僕らの部屋だよな?

 なんだか釈然としないまま、僕は歩波の隣の席に向かう。

 いつもより多い視線を一身に受けながら、僕は天国の平穏な日々が音を立てて壊れていくのを感じていた。


「葉桜真緑。へぇ、面白い名前だな」

 名前を紙に書いて寄越せというから、書いて渡したら男の口から出た感想はそんなものだった。

「リューイーソーか。ここまで綺麗にそろっているのも珍しい」リューイーソー? あぁ、緑一色か。なんでここで麻雀の役が出てくるんだろう。僕にはこの男の考えていることが読み切れない。

「それで、君たちは?」くすぶる苛立ちを声に乗せないように注意する。

「あぁ、遅くなってしまったね。玉緒ちゃん、名刺おーねがい」

 言葉を聞ききらないうちに、すかさず玉緒が小さな紙片をこちらに差し出してきた。スーと机の上を滑らせる。

 玉緒に免じて名刺を丁寧に受け取り、僕は真ん中に大きく書かれた四文字を読み上げた。

「東雲……銀色?」お前の名前の方が間違いなく変じゃないか。

「まみ君の考えてること、何となくわかるけど……、まぁ、どっこいどっこいだね」あーそうかい。

 ははっと、銀色が短く笑う。言葉は軽いのに、ニヒルに笑うやつだった。

「ところで、そこの彼女とは恋仲かい?」それに、無粋な奴だ。

「それは、ここに来た用件と関係が?」

「ないよ。ただの好奇心」あっけらかんと言う。「それから、お近づきのためのコミュニケーションさ」

「それならノーコメント。誰にでもする話じゃないだろ。そういう話が聞きたければ、も少し仲良くなってみせろよ」

「いいね。張り合いが出てきた」こちらは凄んでみたつもりだったのに、なんだか銀色は楽しそうだ。

「ねねね、ところでさ」歩波が割り込むように声をあげた。「そちらさんこそ、そっちのボイ……巨乳なお方は、彼女さん?」

 歩波は普段から本を読むときシャーペンを咥える癖がある。なんに使うでもないペンを口先でもてあそぶ、ただそれだけのことだ。もちろんさっきまで本を読んでいた彼女はシャーペンをその手に持っていて、だから『そっちの』を指す時に玉緒にそのペンを向けてしまったことは、マナーとしては褒められた話じゃないけれど別段不思議なことではなかった。

 けれど瞬間、そのシャーペンが宙を舞った。銀色がものすごいスピードで弾いたのだ。

「玉緒ちゃんにそんなものを向けるな!」

 怒号とはこういうことを言うんだな、と頭の端の冷静な部分が無意味に感動した。残りの部分が上手く反応できていないだけなのかもしれない。

 空気が凍りついたみたいだった。

 当の玉緒はよく見えていなかったようで、何が起こったのかを探るように辺りを見回している。

「あ、れ、そんなに悪いことしちゃったかな。そっか、ごめんね、玉緒ちゃん」

 数瞬経って、歩波が取り繕うように謝った。納得はできていなくても、場を治める方が大事だと思ったのだろう。そういうかじ取りが歩波はうまい。

 目をいからしていた銀色は、その目を閉じて自分の顔を両手で挟むように叩いた。大きく息を吐く。

「いや、今のは俺が悪かった。少し過剰反応だったかもしれない。謝るよ」

 一体なんだったのだろう。その疑問は言葉にできなかった。するべきでないのだろう。銀色の表情を見ればわかる。彼の顔には怒りとは違う、表現しようのない苦しみのようなものが浮かんでいた。

「本題に入ろう」銀色が気を取り直して話し出す。「あ、その前に……、質問に答えておこうか。彼女は宮野玉緒。玉緒ちゃんは俺の秘書だよ。清廉潔白なお仕事の関係。ただちょっと美人なだけさ」

 残念だったかい、なんておちゃらけて言う銀色に歩波は「ちょっとね」と答えた。

「秘書?」学生の僕らにはなかなか聞きなれない単語だ。

「そ、今日本の金融業界最奥手、東雲グループの代表取締役兼社長「次期ですが」である俺のね」

「ほぇー、すごいね」歩波が感心したような声をだす。

 ようやく、この二人の場違いな服装に合点がいった。つまり銀色は単に偉そうなのではなく実際偉かったのだ。変に崩れているが正真正銘の御曹司ということなのだろう。

「それで、その次期社長さんがなんでKMSに?」

「実は折り入って依頼があってね」依頼? 文芸部と言ってもここは機関紙一つ出してないんだけど。できることがあるとは思えない。

 銀色が続ける。

「金田一ミステリーサークル。もちろんこちらは、それを田畑に刻まれた宇宙人からのメッセージを探る会だなんて思っていないよ。そんなのは勘違いも甚だしい。要は探偵クラブだろ?」

「お前の勘違いもなかなか甚だしいな」

『金田一』でも十二分に誤解を招くわけか、切に改名したい。

「あれ、違ったの?」

 雰囲気を察して銀色が玉緒に問いかける。

「はい、違いますよ」

「なんで教えてくれなかったのさ。僕がここを探偵クラブだと思っていること、知ってたよね?」

「社長が嬉しそうだったので」

「わー、いろんな恥ずかしさがごちゃまぜになってむしろ気持ちよくなってきた」

 変態だね、変態だな、と歩波と確認し合う。そうか、変態でも御曹司になれるのか。

「つまり、つまりだぞ。ここはなんなんだ?」混乱したままの銀色が今度は僕に向けて聞いてきた。

「ここはただの、しかも読む方専門の文芸部だよ。内容はよくわからないけれど、きっとご要望にはお応えできないことはよくわかるだろ」そんなこと初めからわかりきってたけどな。

「文芸部……か。まぁいいや」いいわけあるか!

「ここが文芸部だろうが、茶道部だろうが、はたまた陸上部だろうが野球部だろうが、来てしまったことはしょうがない。こっちのメンツを立たせるためとでも思ってとりあえず聞いてみろよ。仮にもミステリーサークルを名乗ってるくらいなんだ、推理に興味くらいはあるだろ?」

 その言葉には問答無用の響きがあった。上に立つものの強さ、だろうか。それにそこまでして依頼したい内容、というのにも興味がある。しかも探偵クラブに対しての依頼。

 歩波は『推理』という言葉に食いついてしまっているし、これもやっぱり僕が躊躇しているだけなのかもしれない。


 運命がもう、進むべき方向に廻り始めているのだろうか……。


「話だけ、な」渋るように、僕は銀色を促した。

「そうこなくっちゃ。玉緒ちゃん、アレを」

「はい」と玉緒が今度は茶色い封筒を胸元から取り出して机の上に出す。

 僕は手に持ちっぱなしになっていた名刺を置いて、それを良く観察した。へぇ、と銀色が呟く。なんだこいつ。

「これは数日前、うちの事務所に届いたものだ。あて名には『東雲 銀色』、俺の名前があり、差出し人は書かれていない。怪しいだろ。ところで、君たちは二年前までこの学校で教鞭をとっていた『王 五飛』という教授を知っているだろうか?」

 僕には聞き覚えのない名前だった。歩波も横で首を左右に振っている。

「まぁ、いかにも文系な君たちでは関わることなどなかったかもしれないね。実は俺は、この学校では電子工学を専攻している。経営学の分野はわざわざ大学で学ぶ必要はないからね。それで、当時大学一年目だった僕のクラスを担当していたのが王教授だ。二年前、研究分野の大幅な転向に伴いこの学校を辞されてからも、懇意に連絡を取らせていただいている。一度も訪れたことはないが、今は専門の研究所を設立して、日夜研究に励まれているそうだ」

 本当にご苦労なことだよ、と銀色はゆっくりと息を吐くように続けた。懇意というのは、言葉通りの意味ではないのかもしれない。

「それでだ、今回王教授から正式にうちに研究協力の申し入れがあった。うち、というと語弊があるかもしれないな。向こうの目的は、会社ではなく俺個人なのだから。本来、社長「次期です」である俺は多忙を極めているわけなんだが、まぁ、ちょうど世界を一つ救って「○○○○クエストの話です」一段落ついたところだったから了承してしまったわけだ」

「で、その王教授は今何の研究をしてるんだよ?」

「それは、いいとして」あれ、今の僕の疑問は間違ってたか? 「つまり研究協力が決まった途端にうちの事務所にこいつが届いたわけだ」

 銀色が大げさな動きで封筒の中身を引き出した。三つ折りになっていた書面を僕たちに向けてゆっくりと開く。

「うわ、鳥肌もんだね。ぞわってきた」歩波が自分の肩を抱えた。悪寒が走るというのはこういうことを言うんだろうか。

 文字が敷き詰められていた。

 新聞紙か何かの切り抜きらしい無感情な文字がA4サイズの紙一面にびっしりと、大きさも方向もまばらにちりばめられている。遠くから見れば、塗りつぶされた黒い紙に見えたかもしれない。

「ここ、読めるか?」銀色が紙の中心辺りを囲うように指す。

 僕はちかちかする眼を限界まで細めて、その部分を見つめた。他との差異はすぐに見つかる。大きめに切り取られた文字が、ぎりぎり文章を成すように並んでいるのだ。

「えと、コ……タ……」

 ――コタビ 全テを あキらか二死に 参り マす――

 ひらがなもカタカナも漢字もごちゃまぜに、けれど確かにそう読める。

 ――此度、全てを明らかにしに参ります。――

 言葉だけなら、それだけだ。だけど、この異様な書面を鑑みれば、これは立派に脅迫文だった。

「興味、出てきたかい?」銀色が楽しそうに言う。

「この文章が、その王教授の研究と関係しているっていう明確な証拠はないのか? 時期が重なっただけなら、関連付けとしては弱いだろ。いや、それ以前にもしかしたらこれはただの悪質な――」

「悪戯かもしれない。もちろん俺たちもそれを疑ったさ。けれど、いくつか決定的なものがあった。一つはこれだ」銀色が今度は紙の右下の端を指す。

「この部分は一見雑多な文字の羅列に見えなくもないけれど、よく見るとね、ここ、『王心理学研究所』の文字が見える。解析させたところ、この文字は王教授の研究所が開設した当時の新聞や研究雑誌に載った記事から作られたものだということが分かった」

「解析なんてできちゃうんだ」歩波が目をキラキラさせて聞く。

「社長「次期ですが」だからね。……玉緒ちゃん、いちいち訂正しないの」

「お前ら、仲いいな」うらやましくはないけれど。

「このことを受けて、王研究所に問い合わせたところ『悪戯の可能性が高く、対処するまでに当たらない』という返答が返ってきた。想定されていた答えだが、それから研究所が不審な動きを見せ始めたんだ。もともと情報を外に出さないことで有名な研究所だったが、うちにまで一切の連絡を絶つようになった。一方的に寄越してくるのは今回の研究協力に関する最低限の情報だけだ」

 まるであちらの方が立場が上だと言わんばかりの対応だろ、と銀色は嘯く。確かに協力を申し込む態度じゃないな。

「怪しいことはわかったよ。この脅迫文らしい文章も、それから研究所の方も。だけど肝心なところがさっぱりだ。結局、お前らは僕たちに何をして欲しいんだ?」

「今週の終わり、土曜日の朝から三日間。俺の受けた研究協力についてきて欲しい」

「なんだそりゃ」

「そこで、何かがわかるようなら万々歳だが、何の成果もなかったとしてもそれならそれでいい。少なくとも東雲グループの息のかかった密偵は送ることができないからな。それは大人の事情だ。簡単に壊したくない関係というものもある。学内の友人という体ならば、向こうも無理を押してまで反対してくることはないだろうしな。本来、協力してやるのはこっちなんだ」

 忌々しそうに語る銀色を尻目に、僕は歩波の方を見た。

 正直なところ、僕の中で反対していた気持ちは好奇心に押され始めていた。きっと歩波の方が、それは強いと思う。

 けど、それでもだ。

「いってみようか」歩波は平然とそう言った。

「いいのか?」

「いーよ、水族館はいつでも行けるもんね。というか、いつでも連れてってくれるんでしょ?」

 にやにやと、笑う。久々に予定を立てた休日を、楽しみにしていたのは歩波の方だったのに。

「けど、三日間だろ? 週末はともかく、月曜日には授業があるんだぞ」

 当然の僕の躊躇いに、自信満々に銀色が答えた。

「任せとけよ。単位なんてお金で買ってやる」問題発言だ。

 まぁ、タッチアンドゴーという裏技のおかげで出席には多少の余裕もあるから大丈夫だと思うけど。いや、それ自体が大丈夫ではないのだけど。

 まずいなぁ、断れる理由がなくなってきた。

「決まりだな」銀色が立ち上がる。「詳細は今夜中にでも、君たちに伝えられるようにするよ。それから玉緒ちゃん、二人のゲストを王教授に通達しといて」

「ちょっと待て、一つだけ条件がある」変えられない流れを承知で僕は銀色を呼び止めた。

「よし、呑んだ」

「聞いてからにしろよ! 僕らは週末の予定も反故にして、しかも授業までサボってつまらない研究の手伝いに行くんだ。せめてとっておきに美味しいものを用意しておいてくれ」

「約束しよう。俺もそろそろ平凡な一流食材の組み合わせに飽き飽きしていたところだ。最高級のものを用意しよう」

 ははっと最後にニヒルに笑って、銀色は天国の扉をくぐった。続いた玉緒が一礼して外に出る。もちろんというかなんというか、その礼は本棚の方を向いていたわけだけど。

「面白い人たちだったね」と歩波が笑顔で言う。

 僕は曖昧な苦笑いで答えた。

 きっと僕らは何か大きな流れに巻き込まれてしまったのだろう。この先にあるそれが面白いものだとしたら、僕は今の歩波と同じように笑えるのかもしれない。


 僕には未来が見えないから、代わりに歩波を見つめ返した。


 静かになった部屋の中に外からの声が筒抜けで聞こえてくる。

「そういえば、玉緒ちゃん知ってたかい? サボタージュってフランス語なんだぜ」

 なかなかちゃんと授業に出てるじゃないか、御曹司。

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