45【彼誰】五

 弐朗は一度は開いた口をそのまま閉じ、言葉を飲む。


 聞きたいことは山のようにある。

 言いたいこともその倍はある。

 根岸はきっと、聞いていないことまで答えるだろう。

 ただ、こんな状況で何を聞かされても、素直に受け入れることなんか出来はしないとも思う。


 空は刻一刻と明るくなっていく。

 あと三十分もすれば日の出る時間だ。

 境内に続く石段の下には広い道路、明るくなれば人が動き始める。


 この状況を長引かせるわけにはいかない。

 無駄話をしている暇はない。


 弐朗は握っていた俄雨を全て袖の中に落とし、両手を空にして顔の両側に上げながら「刺すならさっさと刺せ」と槍の切っ先を向ける根岸を見上げて言う。


「今度はその血刀の試し切りってか? 北沢さん刺すつもりか? だったら俺を刺せ。やれよホラ、やってみろ! そんで気が済んだら、さわらの暗示解いて、わわさん襲わせてる叫鬼止めろこのクソバカッ!」


 無味乾燥した目で見下ろしてくる根岸に、五条坂で一緒に食事をした時に感じた馴れ馴れしさや愛嬌は欠片もない。

 思えば、稲荷神社の山頂で遭遇した時から今に至るまで、根岸常彦という人物は一貫して得体が知れず掴みどころがなかった。

 見れば見るほど、弐朗は自分の目の前に立っているものが何なのかわからなくなってくる。

 ただ、これが誰だろうが何だろうが、今やるべきことは決まっている。

 根岸を捕まえ、叫鬼と童鬼を大人しくさせ、さわらの暗示を解く。

 さわらが根岸の暗示にかかり、北沢が昏倒している今、この場を収めることができるのは自分しかいない。


 弐朗は脳内で動きをシュミレートする。


 根岸が槍で突いてきたら。頭、首、胸、腹、足、どこだろうと基本的な動きは同じだ、致命傷になる場所は避けながら貫かせ、身体から引っこ抜かれる前に柄を掴んで槍を奪い取る。至近距離だが真っ直ぐな槍だ、軌道は読める。避けられない攻撃ではないが、自分の後ろには北沢が倒れている、根岸の攻撃を避けるわけにはいかない。大丈夫だ、いける。やれる。数分前に初めて槍を握ったばかりの根岸に腕力で負けてたまるか。

 

 根岸は両手を開いて無抵抗を示す弐朗の本心を探るように、槍先を向けたまま無言で視線を向けてくる。

 それは一分もない沈黙だったが、弐朗には無駄に長く感じられた。


 こないつもりならこっちからー…。

 一瞬でいい、根岸に隙が生じれば。


 ふと、根岸の視線が弐朗から外れ、弐朗の後方へ向けられる。


 弐朗はその瞬間に伸び上がり、向けられた槍の柄を両手で掴んで強く握る。

 それに気付いた根岸が思い切り槍を引けば、引っ掛かるところのない素槍は弐朗の手内で滑り、穂先が弐朗の手の平を裂いて抜け出ていく。

 予想外に滑った槍に弐朗は「なんで」「掴んだだろ」と自身の手の平を見詰め、そこに溢れる血を見て遅れて気付く。

 ほんの数分前に、北沢の背に俄雨を刺し、背中に触れた。

 穴だらけの顔を治療するため顔にも触れた。


 その時点で既に、弐朗の手は北沢の血で汚れていた。

 それが潤滑油となり槍を滑らせたのだ。


 掴んでいた槍が抜けた勢いで弐朗は北沢の背に倒れ込み、思い切り押し潰してしまうが、北沢からはやはり何の反応もない。

 胸内で北沢に謝罪しながら慌てて身を起こし、弐朗は根岸に向き直る。

 その頃には、根岸は数歩下がって弐朗が手を伸ばしても届かない場所まで距離をとっていた。視線は弐朗の背後に向いたまま、槍先は石畳へ下げられている。


 根岸が自分の背後に何を見ているのか、気にならないわけがない。

 ただ、目を離した隙に叫鬼を連れて逃げられてしまっては元も子もない。

 弐朗は低い体勢から根岸の足目掛けて飛び掛かるが、横から突っ込んできた鴉に邪魔され根岸を捕えるには至らない。


 その時、聞き慣れた声が境内に響き渡った。


「根岸クン! 逃げて、それでどうする気だ! 私と鬼壱クンはキミの気配を記憶している。まさか神社や寺の結界に隠れながらあちこち転々として回る気かい? 今は寺社に配慮して無理に視てはいないが、視れないわけじゃあないんだよ? 我々は索敵すればキミを見付け出せる。逃げても無駄だ!」


 背後から高らかに聞こえてきたのはヨズミの声だった。

 弐朗はまとわりついてくる鴉を掴んで地面に叩き付け、背後へ振り返る。


 弐朗の背後には神社の奥に続く大きな唐門があった。

 見事な彫刻の施された門は、今はびたりと固く閉ざされている。門の両側には薄い木の板が何百枚と連なってぶら下がっていた。

 ヨズミはその荘厳な門を背に、いつもの制服姿で片手を腰に当て、もう一方の手を根岸に差し伸べながらやたらと愉し気に話しかけている。心なしか顔が赤く、動きも大きい。

 どういうわけだか神社の入口ではなく奥から現れたヨズミに、弐朗は思考が追いつかない。しかしすぐに考えるのを諦め、あるがままを受け入れることにする。考えるだけ無駄だ。


「大人しく犯した罪を認め、反省し、十九を返上しよう。心の底から謝れば京都の人たちも出禁程度で許してくれるさ。キミよりやらかしたけど何とかなった人たちを知ってるよ。キミがそのよく回る口で鬼壱クンを説得できれば、御大に話を通してくれるかもしれないし。逃げ回るよりは余程楽だと思わないかい?」


 声を掛けながら、ヨズミは一歩、また一歩と弐朗の元へ近付いてくる。

 それを眺める根岸は、弐朗を挟んでヨズミと一直線上の位置に立っている。石畳の両側に立つ灯籠には全て鴉が乗り、時折羽ばたきながら体勢を整えている。

 境内の左奥、鳥居の前では、童鬼と叫鬼が拳と翼の肉弾戦を繰り広げており、さわらはそれを止めようとして三つ巴の乱闘に発展していた。


 根岸は乱闘騒ぎへ視線を向けたあと、片手に持つ赤塗りの鞘と刀身のない樺巻きの柄を眺め、ひょい、と軽い動作で弐朗に鞘を投げて寄越した。


 弐朗は無造作に投げられた鞘を両手で受け止め、根岸を見上げる。

 思わず「はァ?」と裏返った声が漏れた。


 弐朗の片側に立ったヨズミは倒れている北沢と十九大乱闘に一瞥をくれたあと、根岸に顔を向け、その手にある黒い槍を目を細めて見詰めている。


 根岸は口端を引き上げて笑いながら「だって、」と口先を尖らせる。


「それ持ってるといつまでも追いかけ回されそうだから。ヨズミセンパイの言う通り、心の底から反省してお返ししまァす。それに、もう俺にはこれがあるし」


 言いつつ根岸は黒槍の穂先を肩に乗せ、トン、と軽く叩いてみせる。


 北沢の血刀が何だというのか。

 弐朗には根岸の言わんとしていることがわからない。


 根岸が樺巻きの柄を持つ手を横に伸ばせば、最も近い灯籠に止まっていた鴉がその腕に留まり、根岸の手から柄を受け取って嘴に咥える。

 鴉は根岸の腕で大きく翼を広げ何度か羽ばたくと、そのままばさりと上空へ舞い上がった。

 鴉の嘴の先で、柄尻の赤い石が朝陽をちらりと跳ね返す。


 呆気に取られて見上げるばかりの弐朗の横で、ヨズミが「逃げられるぞ!」と声を上げる。

 顕現している叫鬼を納刀するためには柄と鞘が必要だ。

 鴉はその柄を持ち去ろうとし、根岸は身を翻して石段へ走り出している。


「弐朗クン、鴉を撃ち落とせ! 私は根岸クンを追う!」


 ヨズミに促され弐朗は袖の中に落としていた俄雨を滑らせて手元に戻すが、手の平から溢れる血で上手く握り込めず、鴉を狙った投擲も悉く外れ地面に落ちてしまう。

 落ちた俄雨を拾っている余裕はない。

 手持ちが無くなると同時に追加で抜刀した途端、弐朗は激しい吐き気と眩暈に襲われ、平衡感覚が保てなくなった。


 失念していた。

 輸血無しの連続三回抜刀に、怪我による出血で失った分もある。

 限界だ。


 弐朗はヨズミを呼んだ。

 呂律が回らず、しっかり言葉になっていたかどうかはわからない。

 これ使ってください、と差し出した俄雨八振りが受け取ってもらえたのかどうかもわからない。

 

 弐朗はそのまま卒倒した。


 路地裏で意識を失ってから実に十二時間ぶり、二度目の昏倒となった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る